花束を抱えた千春はどきどきしながら、インターホンのベルを鳴らした。ピンポーンという音が鳴ってしばらくすると扉が開いた。
「いらっしゃい、久住さん」
そう言いながら彼女を出迎えたのは、バイト先の所員であり、千春の恩人である葛西瑞生だった。彼は彼女の姿を認めると、口許を綻ばせた。
大きく扉を開けると言う。
「どうぞ」
お邪魔しますと口にして、千春は彼の家の中に足を一歩踏み出した。玄関の三和土の隅っこに自分の履物を置いて、床に足を下ろした。
所在なげに立つ彼女を、彼はリビングへと案内した。そこはまるでモデル部屋のようで、整頓されたすっきりとした部屋だ。必要最低限の家具しかなく、その他は何もない。
部屋を見た千春は別の意味で目を瞠った。不躾とは思いながらも、部屋の中を見回す。この部屋には家主の生活がわかりそうなものは何一つ置いていなかった。敢えて、そうしているのか、そうではないのか。
「最近、帰っていなかったもので、散らかってますけど……」
千春の様子に気づいてか、そう言う彼に、彼女は微笑んで返した。
「充分に片付いてますよ! これで散らかってるなんて言われちゃ、わたしの家なんてゴミ屋敷になっちゃいます」
欲しいなと思った瞬間に買ってしまう悪癖のせいで、千春の部屋の中はもので溢れ返っている。この様を、世間の人は『ゴミ屋敷』というのだろう。そう言われても過言ではないほど散らかっているのだ。
そう、だからこそ千春はこの花束をここに持ってきたのだった。
バイト先のお客さんに貰った紫陽花の花束。落ち着いたペールブルーの花を基調に、濃い青、藤色、黄緑色などの多種多様な紫陽花がまとめられている。せっかくだし挿し木をしたいなと思っていたところ、彼が場所を貸そうかと申し出てくれたのだ。
彼が花瓶を持ってきた。それに花を入れると、千春は彼を見つめた。
「本当にいいんですか? ここに置いてもらって」
ええ、と彼は頷いた。
「挿し穂作って、しばらくしたら鉢植えにしたいと思っているんですけど……」
「どうぞ。部屋は余っていますから」
即答で快諾する彼に若干気が引けながらも、千春はおずおずと言った。
「頻繁にお邪魔することになると思いますけど……」
彼はくすりと笑った。
「久住さんなら構いませんよ」そう言うと、彼はポケットに手を突っ込んで鍵を取り出すと、千春に手渡した。「好きに使ってください」
深夜、拠点に戻ってきたコンラートが宿舎へ向かう最中に図書室の前を通りがかったとき、そこにはまだ灯りがついていた。誰かがいる可能性もあれば、最後の使用者がランプを消し忘れた可能性もある。念のため、中を覗いた彼は、ランプをつけて机に向かう後ろ姿に目を剥いた。
「お、おい、シルヴィア! こんな時間にここで何してんだ!」
人影がその声に反応して振り向いた。人参のような色をした赤毛が動きに合わせて揺れる。
彼女はコンラートの姿を認めて、大きく目を見開いた。
「ぼ、坊ちゃん。ど、どうしてこんなところに?」
そう言いながら、彼女は机の上に広げていた本を閉じると、そそくさと片づけ始めた。
「俺が訊きたいよ。何してたんだ?」
彼女は顔を赤くすると恥ずかしそうに口を開いた。
「その……会議をされる際に、いつも同席させていただいておりますけれど、恥ずかしながら坊ちゃんたちが仰っていることがよくわからなくって……」ぼそぼそと言うと、はにかんだ。「いけませんね。同じ学院にも通わせていただいていたのに……」
コンラートは彼女をまじまじと見た。自分を追い回してくるときと違って、恐縮したように小さくなっている姿を見ると、本当に恥じ入っているのだということがわかる。
彼はふっと口許を緩めた。
「お前、俺に似ず、本っ当、真面目な奴だよなあ」
しみじみとした調子で言うと、彼女の頭をわしゃわしゃと撫で回した。
「ぼ、坊ちゃん?」
困惑したように彼女は小首を傾げた。
「言ってくれたら、それぐらいいつでも教えてやるよ」
「でも……夕方くらいから深夜ぐらいの間の時間って、坊ちゃんが一倍お忙しい時間帯でしょう? お邪魔したくはありません」
彼女の言葉にコンラートの顔が引き攣った。溜息をつくと、あのなあ、と彼女の額を指でついた。
「ひとの厚意は素直に受け取っとけって」
でも、と彼女は目を伏せた。彼の従者として、彼の遊び好きなところには辟易としているが、それが彼の息抜きであるのならば、その邪魔をしたくはない。
「お前が俺に色々と尽くしてくれるように、俺もお前に何かしてやりたいんだよ」
そう言うとコンラートは彼女の頭を再び撫でた。
「ありがとうございます……コンラート坊ちゃん」
彼女は花のような笑顔を彼に向けた。できればこの顔をずっと見ていたい。そんなことを思いながら、コンラートはしばらく彼女の頭を撫で続けていた。
あのときが、人生の岐路だったのだと思う。朝日が降り注ぐ中、玄関前を箒で掃きながら、千春はしみじみとそう思った。
(良い道を選べてよかった……)
その日、千春はどうしても家に帰りたくなくて、ふらふらと夜の街を歩いていた。ぴろんぴろんとひっきりなしにケータイが鳴っていたが、鬱陶しいので電源を切った。
この辺りはバイト先に近いので、ある程度馴染みはあったが、日が落ちてから出歩くのは初めてだ。夕方にはまだシャッターが下りていた店が、あちこち開いて明々としている。
物珍しく周囲を見回すうちに、夜はますます深くなっていく。深夜を越えた頃、雨が降り始めた。しとしとと雨は辺りを濡らしていく。千春は急いで一番近くの軒下に避難した。
ここは何かの事務所のようだ。民家ではなく、シャッターも閉まっているので、しばらくいても邪魔にはならないだろう。あと数時間、始発が出るまでは、雨宿りも兼ねてここで過ごさせてもらおう。彼女はシャッターにもたれて蹲った。
少しもしないうちに雨足が強くなった。地面に打ち付けられた水滴が飛沫となって足元を濡らした。
濡れた体はすっかり冷えた。寒さに震えながら、千春は眠気と戦っていた。何度も振り払っていたが、いつの間にかうたた寝していたらしい。誰かに肩を揺すぶられて、ようやく我に返った。
激しかった雨音が、すぐ近くで雨が何かに遮られているような音に変わっていた。
「――大丈夫ですか?」
はっとなって千春が顔を上げると、見知らぬ男性がしゃがんで心配そうに自分を見つめている。彼は己が濡れるのも構わずに、自分に向かって傘を差し掛けていた。
「一体、いつからここに……」そう呟くと、彼は目が覚めた千春に傘を持たせると立ち上がった。「とにかくここでは何ですから、事務所の中へどうぞ」
「ありがとうございます……」
シャッターを開ける彼の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、千春は言った。男性の後に続いて中に入る。彼は千春にシャワーと着替えを貸してくれ、更には話まで聞いてくれた。
千春がどうしても家に帰りたくなかったのは、束縛が酷くて殴ってくるようになった彼氏に別れ話を持ち出したら、家の前で待ち伏せされ身の危険を感じるようになったからだった。彼は穏便に別れる方法を考えてくれるという。
「その代わり――と言っては何ですが、よかったらうちでバイトしませんか? 丁度、事務員を募集していたと思うんです」
願ってもない提案だ。千春は一も二もなく頷いた。後日改めて面接を受け、晴れて採用された。
今、本当に毎日が楽しい。
潮の狭い1DKの部屋で、沙依はひたすら課題用の指定図書を読んでいた。小さな文字がページにぎっしりと詰められているその本を読み進めるのは、普段本を読まない沙依にとってはかなりの苦行で、先ほどから視線が同じ行を行ったり来たりしている。
一時間ほど費やして進んだページはたったの数ページ。嫌気が差してきた彼女は、とうとう本を閉じた。その横で静かに資格取得を目指して問題集を解いていた潮は、その様子を横目で見やると鼻で嗤った。
「投げ出すのが早いな」
だって、と唇を尖らせて、沙依は言った。
「難しいから読んでてつまんないんだもん」
「大学の参考書なんてみんなそんなモンだろ。課題用の指定図書なんて特に」
「うーくんはもうレポート書いた?」
沙依は潮を見つめると小首を傾げた。彼は眉をひそめると呆れたように溜息をつく。
「もう出したよ。締切いつだと思ってんだ」
明日、と彼女は照れたように頬を掻いた。
「あーあ」そう言いながら沙依はごろりと床に寝転んだ。「明日世界が終わったらなあ。そしたらレポートなんて書かなくていいのに」
「しょうもない奴だな」
「もし、明日で世界が終わるとしたら、うーくんはどうする?」
頭をごろりと動かして、彼女は潮を見上げた。彼は彼女を冷たい目で見下げると、心底呆れたとでも言いたげに肩を竦めた。
「……お前、そんなしょうもねえことを喋ってる余裕があるなら、課題をさっさと進めろよ」
「ねえ、どうする? 気になって、課題が手につかないの」
深々と潮は溜息つくと広げていた問題集を閉じた。机の上に頬杖をつくと、遠くを見やる。
「わたしだったら、うーたんと一緒にいたいなあ」沙依はそう言うと目を閉じてうっとりとした表情を浮かべた。「最後まで好きなひとと一緒にいたい」
「俺は別にどうもしねえ。いつも通りの時間に起きて、飯食って、大学行って、バイト行って、帰ってきたら寝る。ただそれだけ」
「えー! わたしと一緒にいてくれないのぉ?」
残念そうに言う彼女に、ふっと潮は笑った。
「お前はここにいるつもりだろ? だから最後はここに帰ってくるよ」
最悪だ。こいつの提案に乗ったのは間違いだったかもしれない。
ローダは苛々しながら、いつ終わるとも知れない廊下を突き進んでいた。複雑な魔術によって構成されているこの空間は、見た目よりもずっと長く、先は暗闇に呑まれて果てが見えない。
「あんまり先々進まないでよ~、ローダちゃん」
へらへらとした声が後ろから追いかけてくる。元はと言えば、こいつがこのダンジョンを案内するからと言うから、渡りに船だと思ったが、入口をくぐって以降、自分の前を歩くことがない。時折、後ろから右だ左だと指示されるだけ。
(それって案内って言わなくない?)
しかもそれでいて行き止まりに当たることもあって、段々と腹が立ってきた。振り切ってやろうと、下手すれば息が上がりそうなほど足早に歩いているというのに、彼は事もなげに着いて来る。
「ローダちゃん、待ってよ~」
ローダは立ち止まると振り返った。ローダより数歩後ろを歩いていた彼も止まった。
「あのね、あなた、案内するつもりないんだったら、黙っててよ」
彼女がぴしゃりとそう言うと、彼は不満げに唇を尖らせたが、すぐにへらりと笑った。そのへらへらした顔にまた腸が煮えくり返ってきたローダは、ふんとそっぽを向くと、再び歩き始めた。
今度は足音が追ってこない。
(せいせいしたわ)
何を聞いてものらりくらり。時折言う道筋も嘘ばっかり。こんなことなら、自力で探索した方がまだましだというもの。このダンジョンには魔物がいないみたいだから。
そう思いながら、ローダが先をずんずんと進んでいたときだ。
急に目の前に骸骨の魔物が現れた。手には長物と盾を持っている。対するローダは、ほぼ丸腰だった。元々戦闘が得意でないのに加えて、あいつが魔物は出ないと言い切っていたから、携行もしていなかった。
どうしようと体を強張らせた一瞬の隙に、骸骨はローダに向かって長物を振り下ろした。しまったと思ったが、体はどうにも動かない。せめてもの抵抗とばかりに腕で顔を覆ったが、この長物の前では何の役にも立たないだろう。
死ぬ――その二文字が脳裏に浮かんだその瞬間、背後の方から飛んできた何かで、骸骨は吹き飛ばされた。目を白黒させるローダの肩を誰かが掴んだ。ひっと息を呑む彼女の耳元で、
「オレの手の届かないところに行かないでよ~、ローダちゃん。護れなくなっちゃうからさ」
彼がいつもの調子とは打って変わって真面目な声音で囁いた。
ローダは振り向いた。彼は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「なるべく快適に進んでほしいなって思ってたんだけど、苦労する方がお好みかな?」
「……先回りして魔物を倒していたっていうこと……?」
「オレの手が届く範囲でね~」
彼女の問いにそう事もなげに返す彼を、初めてローダは見直した。
「……ありがとう、ウェルナー」
気まり悪くて彼女は俯いた。
「どういたしまして。お役に立てなのなら嬉しいよ、ローダちゃん」
彼はそう言うと、俯く彼女の頭を優しく撫でた。