隊員たちの詰所の台所でせっせと洗い物をしていたフランチェスカの耳に、周囲の雑談が入ってきた。フっただの、フラれただの、がやがやと大声で喋っている。
手を動かしながら、つい彼女は回想した。自分の失恋を自覚したのは、勤め初めてから半年くらい経った頃だったろうか。
貧民街育ちのフランチェスカは、たまたま街に出た際、身なりのいい少女を馬車から庇ったことがあった。その少女は領主の娘イザベラで、変わり者で有名だった。
イザベラは自分を庇って怪我をしたフランチェスカを屋敷まで連れ帰り、手当てをすると共に、そのまま自分の世話係として傍に置いた。屋敷の人間から猛反対を受けていたが、それでも彼女は強硬した。
余所の令嬢のご多分に漏れず、我が侭なところがあり、理不尽なことを言って、フランチェスカを困らせたり振り回したりすることもあったが、顧みると概ね悪いひとではなかった。
イザベラの傍には、フランチェスカの他にも一人、家庭教師がいた。家庭教師ながらも、彼女の傍に常にいる様は、どちらかというと執事を思わせた。彼は分け隔てのないひとで、朗らかな人柄だった。フランチェスカにも親切で、イザベラの我が侭に困るフランチェスカをよく助けてくれた。
周囲はみんな敵だという環境で生きてきたフランチェスカにとって、何の含みもない素直な親切は初めてのことで戸惑った。戸惑いはやがて彼への好意に変わり、そして恋心となっていたらしい。今、振り返ってみれば、だが。
イザベラの世話係になって、半年ぐらいが経った頃。いつものように彼と談笑していたとき、イザベラは自分の母親を伴って、二人の元にやってきた。フランチェスカはそのとき初めて、イザベラの母親——要は領主の奥方を見た。
若く綺麗な女性だった。その美貌を望まれて、領主の後妻となったというのも頷ける。彼女は二人に常日頃の献身に対する謝意を述べると、そのまますぐにイザベラと共に去っていった。
自分と違って、彼は何度も見たことがあるだろう。綺麗なひとだねと彼に話しかけようとして、フランチェスカが横を向いたとき、彼は熱い眼差しを遠くに向けていた。その視線を辿った先にいたのは、領主の奥方だ。
それを見たときに、フランチェスカは、彼が使用人という身分では許されぬ想いを秘めていることをすぐに悟った。そして、そのとき覚えた痛切な喪失の痛みによって、初めて、自分が彼に恋をしていたことを知ったのだ。
(……まあ、全てはもう、遠い思い出のようなものだけど)
ようやく迎えた土曜日。
おやつ時になって、二階の自分の部屋から降りてきた夢花は、うきうきと台所の冷蔵庫を開けた。そこには週末の楽しみにしようと買っておいた、とっておきのプリンがあったはずだ。スーパーで買うものより、ちょっとお高いコンビニのプリン。
(……あれ?)
そう。冷蔵庫を開けると、鮮やかな桜色をした期間限定品のいちごミルクプリンが鎮座しているはずだった。
(ないんだけど)
小首を傾げた夢花は、そんなはずはないと、棚の中を掻き分けだした。きっと、他の物に押されて、冷蔵庫の奥の方に行ってしまっているのだろう。だから、ここから見えないんだ。
棚の手前にあったジャムやらの瓶を横に移動させて、奥の方をまさぐったが、ついこないだまではあったはずのプリンはどこにもなかった。
夢花は眉根をぎゅっと寄せると、冷蔵庫の扉を勢いよく閉めた。悔しそうに唇を噛んで踵を返すと、彼の部屋に向かって一目散に廊下を走り出した。
彼の部屋は台所からほぼ対角線上にあるといってもいい場所にある畳敷きの部屋だ。襖を勢いよく開けながら、夢花は大声を出した。
「松緒さん!」
彼女の声に部屋の奥で文机の前に座っていた人物が振り向いた。彼は夢花の姿を認めると、彼女の剣幕とは打って変わって穏やかな笑顔を浮かべた。
「夢花ちゃん、どうかしたの?」
そう言いながら小首を傾げる彼に、夢花は眦を吊り上げた。
「どうかしたの、じゃないよっ! わたしが楽しみにしてたプリン、勝手に食べたでしょっ!」
えっ、と洩らした彼は、思い出そうと目をつむった。早朝に目を覚まして、顔を洗ってから、仕事をしていたが――小腹が空いたので少し何かをつまむことにした。いつもはパンを焼いているが、今日はそれすら億劫で、たまたま冷蔵庫の中にあったものを食べたんだっけ。
彼の脳裏に一つの像が浮かび上がった。済まなそうに眉を八の字にすると、彼は口を開く。
「ごめんね、夢花ちゃん。確かに僕が食べてしまったよ」
むうと彼女は頬を膨らませた。
「今度打ち合わせの帰りに、駅地下で何か買ってくるから許してくれるかい?」
はあと夢花は溜息をつく。
「正直だったから、許してあげる」彼女は一旦口を噤むと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。「ちゃんと二つ分買ってきてね」
目をしばたたかせる彼に、
「どうせなら、松緒さんと一緒に食べたいもん」
そう言うと、彼女ははにかんだ。
長雨の季節になった。ベランダで鉢植えの手入れをしていたステラは、ふと目に入った自分の髪が湿気でうねっているのを見て、溜息をついた。元々癖っ毛で、あちこち髪の毛が跳ねてしまうが、髪を伸ばすことでそれを目立たなくさせていた。それでも、このような雨が降りしきる日には、その苦肉の策も意味を為さない。
彼女はせめてもの抵抗とばかりに、髪を一つに結わえた。動くたびに尻尾が首筋を撫でて、若干くすぐったい。
(髪を結うのも久しぶりだわ)
ステラは少しだけ口許を綻ばせると、ポプリを作るために、ラベンダーの花を摘み始めた。他にもローズマリーを摘むつもりだ。
充分な量を摘み終えた頃だ。
「ステラ」
すぐ傍で声をかけられて、思わず彼女は持っていた鋏を落としそうになった。細く長くゆっくりと深呼吸をして、早鐘を打つ心臓を何とか宥めようとする。ぎこちない動作でステラは声を方へと振り向いた。
「……ラインハルト」
背後に佇んでいた人物の姿を認めて、彼女は溜息をついた。じろりと睨みつけると、彼はにこりと微笑んだ。
「いつからそこにいたの?」
彼女の言葉に、彼は微笑んだまま、小首を傾げると口を開いた。
「あなたが髪を結う辺りから」
ステラは再び深々と溜息をついた。
「ほぼ最初からいたってことじゃない……」
「珍しいですね。あなたが髪を結うなんて」
自分の憎まれ口をあっさりと流され、彼女は頬を膨らませて、そっぽを向いた。
「雨の日だと、髪がうねっちゃうの」
「どんな髪型でもお似合いですよ」
彼はそう言いながら、彼女の毛束を手に取った。
「そういうことじゃないのよね……」
全く乙女心のわからない人だこと。ステラは肩を竦めると、振り向いた。艶のあるさらさらとした彼女の髪が、するりと彼の手から逃げていく。
「好きな人の前ではいつだって自分の一番可愛い姿を見てもらいたいものでしょ」
彼女の言葉に、ラインハルトは目を見開くとしばたたかせた。すぐに破顔すると、彼女を抱きしめた。ちょっと、危ないでしょ。そんなことをもごもごと言う彼女に向かって、彼は囁いた。
「あなたはいついかなるときでも、可愛らしいですよ」
「……ほんと、そういうことじゃないんだってば……」
そういう彼女の顔は耳の先まで赤く染まっていた。
穏やかな昼下がり、ステラとラインハルトは並んで座り、お茶をしていた。お茶請けは彼女が作ったザッハトルテだ。
「ねえ、もうすぐ、あなたのお誕生日なのよね?」
彼女の問いに、紅茶を啜っていた彼は驚いて噎せ込んだ。
「え、ええ。その通りですよ」
咳き込む彼の背中をさすってやりながら、彼女は笑みを浮かべると彼の顔を覗き込んだ。
「何か欲しいものはある? あまり高価なものは用意できないけれど」
「いえ、そんな、大したことではありませんし……普段通りで結構ですよ」
苦笑して彼は言った。
「それに、もう祝うような歳でもありませんし……」
その言葉に、あのね、とステラは彼をじろりとねめつけた。
「あなた、どこから聞きつけてきたのか、わたしですら忘れかけていたわたしの誕生日を、毎度盛大に祝っておいてその言い草はないでしょ」肩を竦めて彼女は続ける。「祝うような歳ではないって、そっくりそのままお返ししたいわ」
「あれは、あなたが生まれた日ですから」しれっと彼は返した。「私にとっては特別な日です」
ふんと彼女は鼻を鳴らした。
「でも、わたしにとっては、ただ生まれただけの日よ」
ステラはつんと冷淡に言い放ったが、すぐに笑い出すとラインハルトをぽかりと叩く。
「もう! 御託はいいから素直に祝われてなさい。大体何で教えてくれなかったのよ」
「……私にとってはただ生まれただけの日ですし」
照れ隠しなのか、むすっとして反駁する彼を無視して彼女は続けた。
「だから、何か欲しいものとかしてほしいこととか、ないかしら?」
しばらく彼は黙っていたが、それでしたら、と彼は口を開いた。
「一日、私の傍にいてくださいませんか?」
「そんなことでいいの? そんなの、別にいつだって、言ってくれればいるけど」
困惑したように眉根を寄せて、ステラは小首を傾げた。
「幼い頃、あなたに一度お会いして以来、ずっとお慕いしていました」彼ははにかんだ。「ですから、今、共に過ごせることが何より幸せなんです。これ以上のことは望みませんよ」
無欲ねえ、と彼女は笑った。
「聖人君子ってあなたみたいな人を言うのでしょうね」
まさか、と彼は軽い笑い声を上げた。
「聖人君子はあなたを手籠めにしたりしませんよ」
「確かにそうね」思い出して彼女は顔を顰めた。あれよあれよと言う間に籠絡されてしまった。「あれはあなたにしては下劣な手だったわね」
でもまあ、終わったことだ。あれを含めて、彼のことを受け入れると決めたのは自分なのだから。
彼の落ち着いた深い青色の瞳には、後悔の色が沈んでいる。彼女は安心させようと口元に笑みを浮かべた。
「もう怒ってないから、安心しなさい」
「……それに、これ以上、欲を出すとあなたを雁字搦めにしてしまう」
おや、とステラは片眉を上げた。何だか雲行きが怪しくなってきた。
「例えば?」
深い青色は深海のように暗い色を湛えている。
「あなたを屋敷から出したくないし、本当はあなたの世話を誰かにさせたくもない。何なら、あなたを籠に入れておきたい……」
あははと彼女は笑い声を上げた。とんとんと彼の背中を叩く。
「重症ね」
でも、と彼は続ける。ぎゅっと彼女を抱きしめると、誓うように囁いた。
「それよりも何よりも、あなたのやりたいことを邪魔したくない」
ステラは目をぱちくりとさせた。まさかそこに帰結するとは。
「……あなたって、本当にわたしのことが好きなのね」
思わずといった調子で彼女はつぶやいた。己の望みを吐露してもなお、自分を優先させようとする彼のその姿に、少し罪悪感を覚える。今まで、自分は魔術のみを追い求め、それ以外のものをあまり顧みてこなかった。
彼は彼女から体を離すと穏やかに微笑んだ。先ほどの暗い色はもう影も形もない。
「そうだよ、僕の可愛い奥さん。好きだけでは足りない。あなたを愛しているよ」
直截な彼の言葉に、ステラの顔が見る見るうちに赤くなっていく。
ようやく街を占拠していた軍が退いたと聞いて、久方ぶりにフィオとシーファは地上に出てきていた。
二人がねぐらにしていた地下の大廃墟まで、報せに来てくれた友人の話によると、二人が地下に避難してから――つまりは姿を消してから、かれこれ三週間ほどが経っているらしい。感覚としては、もう一年くらいいるような気分だ。
洞窟の入口でフィオは大きく伸びをした。洞窟の中から見える外は、明るい光で満ちている。外の時間は朝か昼なのだろう。
彼女は外へ足を一歩踏み出した。暗がりに慣れ切った目には、太陽の陽射しは眩しすぎる。目をぎゅっとつむってから薄目を開け、徐々に明るさに慣れさせていく。
「おい、何突っ立ってんだよ」シーファの声が後方から傍を通り抜け、前の方へと流れていく。「置いていくからな」
えっ、と声を上げながら、ぱちっとフィオは目を開ける。言葉の通り、彼はさっさと先に進んでしまっていた。
「ちょっと待ってよぉ!」
フィオはそう叫びながら、慌てて彼の後を追った。彼は立ち止まることもしなければ、歩みを遅くすることもしなかった。
街までの道のりをシーファは足早に進んで行く。街の姿が見えたとき、ようやく彼は立ち止まった。脇目も振らずに彼の背中を追いかけていたフィオが、急に立ち止まった彼に反応できずに、諸にその背中に激突した。
眉をひそめて、痛ってえな、とぼやきながらも、彼は目を細めて注意深く街の様子を窺う。
ぶつけた額をさすりながら、フィオは声をかけた。
「しーちゃん、ぶつかってごめん……」ぶつけた額をさすりながらフィオは言った。彼女は彼が微動だにしないので、彼の前に回り込むと彼の顔を見上げた。「どうかしたの?」
「神殿の奴らがいないか確認してんだよ」
「退いたってニェナ姉言ってたよ?」
「鎧を脱いだらただの信徒に見えるからな。信徒の振りをしながら、じいさんの家の周りで張ってるかもしれないだろ」
言い終わらぬうちに、目当ての場所に誰もいないことが確認できたので、シーファは歩き出した。
彼が見ていた方向には、フィオの育ての親が住んでいた庵があった。そこは街を占拠した軍によって焼き払われていて、今や焼け跡が残るのみ。彼が庵の方へ向かおうとしているのがわかったので、フィオは大人しくその後ろを着いて行く。
道中、どこかで花束でも買っていこうかなと思いながら。