ようやく街を占拠していた軍が退いたと聞いて、久方ぶりにフィオとシーファは地上に出てきていた。
二人がねぐらにしていた地下の大廃墟まで、報せに来てくれた友人の話によると、二人が地下に避難してから――つまりは姿を消してから、かれこれ三週間ほどが経っているらしい。感覚としては、もう一年くらいいるような気分だ。
洞窟の入口でフィオは大きく伸びをした。洞窟の中から見える外は、明るい光で満ちている。外の時間は朝か昼なのだろう。
彼女は外へ足を一歩踏み出した。暗がりに慣れ切った目には、太陽の陽射しは眩しすぎる。目をぎゅっとつむってから薄目を開け、徐々に明るさに慣れさせていく。
「おい、何突っ立ってんだよ」シーファの声が後方から傍を通り抜け、前の方へと流れていく。「置いていくからな」
えっ、と声を上げながら、ぱちっとフィオは目を開ける。言葉の通り、彼はさっさと先に進んでしまっていた。
「ちょっと待ってよぉ!」
フィオはそう叫びながら、慌てて彼の後を追った。彼は立ち止まることもしなければ、歩みを遅くすることもしなかった。
街までの道のりをシーファは足早に進んで行く。街の姿が見えたとき、ようやく彼は立ち止まった。脇目も振らずに彼の背中を追いかけていたフィオが、急に立ち止まった彼に反応できずに、諸にその背中に激突した。
眉をひそめて、痛ってえな、とぼやきながらも、彼は目を細めて注意深く街の様子を窺う。
ぶつけた額をさすりながら、フィオは声をかけた。
「しーちゃん、ぶつかってごめん……」ぶつけた額をさすりながらフィオは言った。彼女は彼が微動だにしないので、彼の前に回り込むと彼の顔を見上げた。「どうかしたの?」
「神殿の奴らがいないか確認してんだよ」
「退いたってニェナ姉言ってたよ?」
「鎧を脱いだらただの信徒に見えるからな。信徒の振りをしながら、じいさんの家の周りで張ってるかもしれないだろ」
言い終わらぬうちに、目当ての場所に誰もいないことが確認できたので、シーファは歩き出した。
彼が見ていた方向には、フィオの育ての親が住んでいた庵があった。そこは街を占拠した軍によって焼き払われていて、今や焼け跡が残るのみ。彼が庵の方へ向かおうとしているのがわかったので、フィオは大人しくその後ろを着いて行く。
道中、どこかで花束でも買っていこうかなと思いながら。
彼の背後に剣を振り上げた敵兵がいて、思わず彼の名を叫びながら、彼を突き飛ばした瞬間、振り下ろされたそれを自分が受けてしまった。
意識が暗転するその瞬間に目に入ったのは、泣き出しそうなほど顔を歪めた彼の顔だ。気にしないでと口にしたはずだが、果たしてそれが届いていたかどうか。
小鳥のさえずりでエスメラルダはゆるゆると目を覚ました。ゆっくりと体を起こして大きく伸びをする。変な体勢で寝ていたらしい。あちこちからぽきぽきと音がする。
サイドテーブルの暦を確認すると、もうかれこれ三日が経っていた。昏倒して丸一日は寝ており、その翌日は痛みで動けなかったが、痛み止めが効いてきたので今日は元気いっぱいだ。
ずっと寝ていたせいで体力が有り余っている。訓練などの激しい運動はするなと言われているが、雑事ぐらいならしても構わないだろう。彼女はそう思って、医務室から出たそのときだった。
廊下の向こうから、彼がこちらに向かってやってくるのが見えてしまった。彼は彼女の姿を認めて、これ以上ないくらい険しい顔をする。ひっと彼女は思わず小さな悲鳴を上げたが、へらりとした笑顔を浮かべて、彼が来るのを待った。
「おはよう、フェリちゃん。……もう、こんにちはかしら?」
彼はそれを無視して、医務室の扉を開けると、彼女を中に押し込んだ。そして、腕を掴むと 彼女が抗議の声を上げるのも構わず、ベッドまで引きずって彼女をそこに突き飛ばした。
「ちょ、ちょっと!」彼女は寝転がって体勢を変えると、起き上がった。「何するのよ」
エスメラルダを見つめる彼の瞳には、烈火のごとき怒りが渦巻いていた。これから起こることが容易に想像できて、彼女は諦めたようにベッドに座り直した。
「この阿呆が!」彼の第一声は想像の範囲だった。語気の荒さに怒りが滲み出ている。「安静にしていろと言われただろう!」
彼はエスメラルダの肩を掴んだ。彼は彼女の顔を覗き込んで、俯いた。
「……どうして俺を庇った……?」
彼の声は震えていた。先ほどの剣幕が嘘のようだ。
「咄嗟に体が動いちゃったの」エスメラルダは困ったように微笑んだ。「理屈とかそういうのは全部後回し。本当なのよ」
彼が怒る理由はわかるし、自分もそれが愚かしいと思っていた。けれども、いざ、目の前にすると勝手に体が動いてしまったのだ。
彼女の肩を掴んでいる手に力が籠った。痛いくらいの力だ。
「……もう、お前の命を危険に曝すようなことは止めてくれ……」
顔を上げて、彼女を見つめる彼は泣き出しそうなほど顔を歪めていた。
雨が降っている。さああと静かな音を立てて。
レイハは雨に濡れながら中庭を歩いていた。道に迷ったわけではないが、当てもなくふらふらと。
彼女の背後には、いつもならいるはずの護衛はいなかった。もし、いたとするならば、雨が降り始めた時点で、彼女は引っ立てられるようにして屋内に連れていかれたことだろう。
レイハは立ち止まると空を仰いだ。厚く覆われた雲から、まるで涙のような雨が降ってくる。まさに天の涙と形容するに相応しい。雨を顔に受けながら、目を閉じた。
この城はとても窮屈で、自分を縛ってばかりいる。帰る場所は元よりなかったが、籠の中にいたいわけじゃない。どこにも行けないのなら、重荷を捨ててしまうしかない。
今すぐに全てを投げ出したい。全て、この雨に流されてしまえばいいのに。
長く雨に打たれていたせいか、彼女は小さくくしゃみをした。そのとき、近くで大きな溜息が聞こえたかと思うと、背後の藪ががさがさと音を立てた。ぼうっと突っ立っている彼女の肩を誰かが掴む。
「……探したぞ」
レイハは緩慢な動作で振り返る。そこに立っていた人を見て、目を大きく見開いた。夢でも見ているのかもしれないと目を瞬いた。
「……王子様、どうしてここに……?」
彼はそれに答えることなく、彼女の腕を掴んで引っ張っていく。彼女は引きずられるようにして歩き出した。彼は藪を掻き分けて進んでいく。少しすると、妙に開けた場所に出た。大きな樹の根元だ。大きく枝葉を広げているおかげで雨が吹き込んでこない。
「お前は以前、雨に打たれて熱を出したことをもう忘れたのか」
呆れたと溜息が混じった、疲れた声音で彼は言った。何も言えずにレイハは思わず俯いた。
彼は彼女の着ていた濡れそぼった外套を剥ぎ取ると、自分が持ってきた雨避けの外套を羽織らせた。すると、役目は終わったと言わんばかりに、樹の根元にどっかと腰を下ろす。立ち尽くしている彼女を見て、隣をぽんぽんと叩いた。
レイハがおずおず彼の隣に腰を下ろすと、彼は自然な動作で彼女を抱き寄せた。冷えて蒼白かった彼女の頬にさっと赤みが差す。
「しばらくすれば、雨も止むだろう。それまで大人しくしていろ」
彼の言葉を彼女は上の空で聞いていた。早鐘を打ち始めた鼓動の音が聞こえていないことを祈りながら。
今日、アンネとナハトはサンダーバード討伐のため、この山を訪れていた。無邪気にはしゃぐアンネを尻目に、ナハトは山道をひたすら登りながら、徐々に様相の変わっていく風景に悪い予感がしていた。
登り切ったとき、彼女は愕然として立ち尽くした。ギルドからそれほど遠くない場所にある山だが、季節のせいだろうか、標高のせいだろうか、眼前には見渡す限り、真っ白の雪景色が広がっていたのだ。
「通りで景色が白くなっていくなと思ったぜ」
ピュウと口笛を吹いて、ナハトは肩を竦めた。辺りを見回すが、右を向いても白、左を向いても白。地面はもちろん白。
二人はとにかく歩き始めた。さくさくと雪を踏んで進んでいく。
へっくちと隣でアンネがくしゃみをしたので、彼は我に返った。彼は雪国で生まれ育ったせいか、寒さには滅法強かったのだが、隣のアンネはそうでなかったことをすっかり忘れていた。
一度だけではすまなかったのか、二度三度と立て続けにくしゃみをする彼女に、ナハトは自分の上着を羽織らせた。身震いしながらも、彼の方を振り返ったアンネは目をぱちぱちさせた。
「あの……ナハトさん、これ……」
「ああ、オレ、寒いの平気なんだ。いいから、着てな。ないよりはマシだろ」
礼を言いながら、彼女はそれに袖を通した。まだ微かに彼の温もりを感じる。
さやさやと吹いていた風は、やがてピュウピュウと吹き荒れ始めた。
ナハトは風除けになるべく彼女を自分の方に引き寄せながら、どこか風を凌げる場所はないかと辺りを見回した。少し離れた場所にぽっかりと口を開けている洞窟が見えた。彼は彼女を抱き上げると、走ってそこに向かう。
洞窟の中は魔物も見当たらず、そんなに深くなかった。奥まったところで火を熾すと、それに当たって暖を取る。
ぱちぱちと爆ぜる火の粉を見つめるうちに、アンネはぼうっとしてきた。うつらうつらと舟を漕ぎ始めた彼女に気づいたナハトは、彼女に向かって口を開いた。
「アンネ」名前を呼ぶと、彼女は彼の方に振り向いた。瞼がとろんとしている。「寝るなら、オレの隣で寝な」
どうしてだろうと思ったが、口に出して意味を問えるほど、意識がはっきりとしていなかった。言われた通り、アンネはいそいそと彼の隣に移動すると、彼にもたれかかって、少しもしないうちに寝息を立て始めた。
そんなアンネをナハトはこれ以上ないくらい優しい瞳で見つめている。
気づいた頃には、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。ただでさえ迷路のような路地裏なのに、夜闇に沈んでしまっては、もう帰り道はわからないといっても過言ではない。
途方に暮れて、空を仰ぐと、まるで猫の瞳のような三日月がこちらを見ていた。
あれでは夜道の灯りにするにはあまりにも頼りない。
アンネは腕組みをして頭を捻る。彼ならこうするときどうするだろう。しばらく考えていたが、この状況を打破するよい考えは浮かんできそうにもなかった。想像の彼は、いつも携えている大鎌で、辺りを薙ぎ払っていく。これでは参考になりそうにない。
アンネは、とにかく近場の壁を登って、縁の上を歩くことにした。少しでも高いところにいる方が、辺りを見通しやすいだろうと思ってのことだ。
しかし、上手に登れない。いくら人気のない路地裏だとはいえ、必死になって壁を登ろうとする姿は、不審且つ滑稽そのもの。何度も失敗が繰り返すうちに、暢気に構えていたアンネの気持ちに、徐々に焦りが生まれてくる。
夜空に浮かぶ細い三日月が、にんまりと嗤っているように見えた。
ようやく、アンネは壁をよじ登ると、縁に立ち上がった。目線がいつもより高くなる。思ったよりは辺りを見通せなくて、落胆したものの下にいるよりは、迷路を抜ける助けになるだろう。
細い場所だから落ちないように下を見てゆっくりと歩いていく。
やがて、大通りが見えてきた。アンネはそこまでの道をしっかりと頭の中に刻み込んで、地面に降りた。降りるや否や、大通りに向かって走り出す。
アンネが大通りに出たとき、彼女と逸れた――正しくは彼女が逸れたのだが――ナハトが、困ったように眉を八の字にして辺りを見回していた。
何度もアンネの名を呼ぶが、一向に返事がない。彼女は多少は武器を扱えるが、ギルドのメンバーの中ではどちらかというとワーストの方に入る。あからさまに荒れた場所はもちろん、このような小奇麗な街でも難癖をつけて他人に絡んでくる輩はいるのだ。標的にされていないかが心配で堪らない。
「アンネ!」
何度目か、彼がアンネの名を呼んだときだった。
「ナハトさん!」
彼の背後に誰かが抱きついた。ナハトは首だけ動かして、自分に抱きつく誰かを横目で見た。それはアンネだった。見える限りは、特に何事もなかったようだ。
ほっと胸を撫で下ろして、ナハトは彼女を引っぺがした。膝を折って、彼女と目線を合わせる。
「ったく……心配したんだからな。あんまりうろちょろすんじゃねェぜ」
「ごめんなさい……」眉を八の字にして、彼女は頭を下げた。
「ま、見つかったしいいけどさ」ナハトは彼女の手を取った。「しばらくは逸れねェようにしとかなくちゃな」
そう言って笑った彼に、ぎゅっとその手を握って彼女は満面の笑みを返した。