気づいた頃には、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。ただでさえ迷路のような路地裏なのに、夜闇に沈んでしまっては、もう帰り道はわからないといっても過言ではない。
途方に暮れて、空を仰ぐと、まるで猫の瞳のような三日月がこちらを見ていた。
あれでは夜道の灯りにするにはあまりにも頼りない。
アンネは腕組みをして頭を捻る。彼ならこうするときどうするだろう。しばらく考えていたが、この状況を打破するよい考えは浮かんできそうにもなかった。想像の彼は、いつも携えている大鎌で、辺りを薙ぎ払っていく。これでは参考になりそうにない。
アンネは、とにかく近場の壁を登って、縁の上を歩くことにした。少しでも高いところにいる方が、辺りを見通しやすいだろうと思ってのことだ。
しかし、上手に登れない。いくら人気のない路地裏だとはいえ、必死になって壁を登ろうとする姿は、不審且つ滑稽そのもの。何度も失敗が繰り返すうちに、暢気に構えていたアンネの気持ちに、徐々に焦りが生まれてくる。
夜空に浮かぶ細い三日月が、にんまりと嗤っているように見えた。
ようやく、アンネは壁をよじ登ると、縁に立ち上がった。目線がいつもより高くなる。思ったよりは辺りを見通せなくて、落胆したものの下にいるよりは、迷路を抜ける助けになるだろう。
細い場所だから落ちないように下を見てゆっくりと歩いていく。
やがて、大通りが見えてきた。アンネはそこまでの道をしっかりと頭の中に刻み込んで、地面に降りた。降りるや否や、大通りに向かって走り出す。
アンネが大通りに出たとき、彼女と逸れた――正しくは彼女が逸れたのだが――ナハトが、困ったように眉を八の字にして辺りを見回していた。
何度もアンネの名を呼ぶが、一向に返事がない。彼女は多少は武器を扱えるが、ギルドのメンバーの中ではどちらかというとワーストの方に入る。あからさまに荒れた場所はもちろん、このような小奇麗な街でも難癖をつけて他人に絡んでくる輩はいるのだ。標的にされていないかが心配で堪らない。
「アンネ!」
何度目か、彼がアンネの名を呼んだときだった。
「ナハトさん!」
彼の背後に誰かが抱きついた。ナハトは首だけ動かして、自分に抱きつく誰かを横目で見た。それはアンネだった。見える限りは、特に何事もなかったようだ。
ほっと胸を撫で下ろして、ナハトは彼女を引っぺがした。膝を折って、彼女と目線を合わせる。
「ったく……心配したんだからな。あんまりうろちょろすんじゃねェぜ」
「ごめんなさい……」眉を八の字にして、彼女は頭を下げた。
「ま、見つかったしいいけどさ」ナハトは彼女の手を取った。「しばらくは逸れねェようにしとかなくちゃな」
そう言って笑った彼に、ぎゅっとその手を握って彼女は満面の笑みを返した。
その日は例年にない寒波だった。びゅうと身を切るほど冷たい風が辺りに吹きすさぶ。
立て続けに三度、くしゃみをしたニェナを、メイナードは呆れたような顔をして見ている。そんなあり得ないほど薄い格好をしていれば、くしゃみをするのも当然だろう。一瞬迷ったものの、彼は彼女に自分の着ていた外套を羽織らせた。厚手のものではないが、ないよりかはましだろう。
「メイナードさん……?」
口許をハンカチで拭いながら、ニェナは小首を傾げた。
「ないよりはましだろうから、羽織っていろ」
「メイナードさんは……?」
彼女の心配そうな問いに、彼は肩を竦めて答えた。
「お前よりは着込んでいるから、そう問題はない。気にするな」
本当に? と言いたげに彼を見つめていた彼女は、はっとしたように顔を背けると、口許をハンカチで覆った。くちゅんと肩を震わせてから、彼女はおずおずと言った。
「……ありがとうございます」
そう言いながら、ニェナは済まなそうにしゅんと肩を落とした。
ここで生まれ育って、もう両手では数えきれないほどになる。今までこんなに寒い日はなかった。ここは大陸の中でも温暖な気候の地域で、冬の季節でもこんなに冷えたことはなかったのに。
ニェナのしょげた姿を見て、メイナードはふっと口許を綻ばせた。大きな掌を彼女の頭に載せると、ぎこちなく撫でた。
「この寒波がすぐに去るとは思えないから……まあ、しばらくはその上に、少なくとももう一枚は着ておくべきだな」
こくりとニェナは頷いた。
ぽとりと鼻先に水滴が落ちたような気がして、彼女は空を仰いだ。
「どうかしたのか?」
頭上には曇り空が広がっているものの、雨粒は降っていない。気のせいだったかと、彼女は空を見上げたまま首を横に振った。
そのとき、ちらちらと白いものが雲の隙間から舞い落ちてくる。それは始めはちらちらと、徐々に量を増して降り出した。
彼は空を仰ぐと口を開いた。
「ああ……雪だな」彼女を見やると、きらきらした目をして、それをじっと見つめている。「初めて見るのか」
ニェナは彼の方に振り向くと、満面の笑みで頷いた。その彼女の笑みに釣られたように、彼も穏やかな微笑みを浮かべたのだった。
修道院の近くにはドナという小さな街がある。牧畜業を営む何てことないありふれた田舎だが、各地から訪れる巡礼者が大勢宿泊するので、思いの外活気があった。
旅の道中だったが、久々にドナに戻ってきたマーシャは、街の中央にある噴水広場で人を待っていた。約束の時間よりだいぶ早く着いてしまった。近くのベンチに座って、ぼうっと高く吹き上がる水流を眺めていた。
「――遅くなって済まない、マーシャ」
声と共に肩に手を置かれて、思わず彼女は肩を跳ねさせた。早鐘を打つ心臓の上に手を置いて、一度深呼吸をすると彼女は笑顔を浮かべて、声の方へと振り向いた。
「いいえ。わたしが早く着き過ぎたの。むしろ、どちらかというと、あなたの方が早過ぎるわ」
そこに立っていたのは、マルスだ。少し息が上がっているのは、急いでこちらに来たらしい。約束の時間まで、まだ一時間もあるのに。思い返せば、五分前、十分前……三十分前に着いても、彼は先に来ていたっけ。
「少しでも君を待たせるのが嫌なんだ」
穏やかな笑みを浮かべて、事もなげにそういう彼に、彼女は咄嗟に返す言葉が見つからなかった。
「それにしても、手紙が間に合ってよかったよ」
「ええ、本当に」彼女は頷くと、気づかわしげに彼を見やった。「お誘いは嬉しかったけど……あなた、忙しいんじゃないの?」
彼は修道院長代理やら、騎士団長やら、何やかんやとあれこれ引き受けている。手紙の返事を読んでいる限り、マーシャはあれこれ引き受け過ぎているのではないかと心配していた。仕事中毒の気がある彼に、あまり仕事をし過ぎないようにと、口を酸っぱくして言うものの、治る気配はない。
「あれぐらい大したことないさ」
からりと笑って、彼は彼女に手を差し伸べた。その手を取って、彼女は立ち上がる。
「今日はどこに連れていってくれるの?」
彼に手を引かれながら、彼女は問う。彼はちらりと振り返った。
「君はどこに行きたい?」その声音は優しくて、見えなくても微笑んでいるのがわかった。「君と一緒ならどこへでも」
どういう話の流れだったのだろう、もう思い出せないけれど、あるときぽつりと彼がこぼしたのだ。
「……なあ、秋穂サン」
秋穂は彼を見やって、口を開いた。
「どうしたの? 郡司くん」
彼はちらりと彼女を見て、もじもじとしている。辛抱強く答えを待っていると、彼はおずおずと口を開いた。
「……あのさ、幸せって何だと思う?」
秋穂は目をぱちくりさせて彼を見た。仄かに顔を赤らめた彼が、彼女を見つめ返す眼差しは思いの外真摯なものだったので、彼女は居住まいを正して思案する。
ぐるぐると頭の中で言葉が浮かんでは消えていく。
上手に言葉にできる自信はなかった。でも、きちんと伝えておかねばならないとも思った。
「わたしにとっての幸せは――あなたとこうして過ごせることかな」秋穂はそう言うと微笑んだ。「……ありきたりかもしれないけどね」
まだ暗いうちから、トルデニーニャは山頂に向かって走っていた。彼女たち、有翼族が住まう岩山のてっぺんに向かっているのである。
今日は特別な日。どうしてもその時刻に遅れるわけにはいかない。飛んでいけば一瞬のことだが、彼女はみんなのように巧く飛べなかった。しかし、日々の積み重ねで得た、狩りの腕はある一人を除いて、彼女に勝る者はいない。
同朋たちは幼い頃こそ、それを散々からかっていたものだったが、彼女に狩りの腕前が敵わなくなった頃には、彼女の真摯な努力に敬意を表していた。
毎日のように走っている道のりを急いで走り抜け、彼女はとうとう山頂に到達した。まだ空は暗くて、山の端が少し明るんでいる。
(――間に合った)
ほっと胸を撫で下ろして、彼女は崖際に近寄っていく。すると、暗闇に紛れてよく見えなかったが、既に先客がいたらしい。先客は端に座って、眼下の景色を眺めていた。
先客は彼女の足音で気づいたらしく、振り向いた。
「……ああ、トーマ」
彼女の姿を認めて、それが発したのは気のない声だった。冷たいと言い換えてもいいのかもしれないその声音は、リヴァルシュタインのものだ。誰だろうと訝っていたトルデニーニャは、その声を聞いて、緊張を解いた。
よかった。知らない人だったらどうしようかと思ったところだった。
「こんばんは、リヴァ」
にっこりと笑って、彼女は遠慮することなく彼の隣に座った。
「君、きちんと暖かい格好をしてきたのかい」
「もちろん。リヴァたちと違って、わたしは寒さに強くないもの」
見て、と彼女は両手を広げた。毛皮の上着の下に厚手の服を二枚重ねて着ており、耳当てのついた帽子に手袋をしている。走ってきたから、熱いくらいだ。
ぴゅうと冷たい風が吹いた。
くちゅんとくしゃみをした彼女を見て、彼は小さく溜息をつくと、自分の巻いていた襟巻を彼女に巻き始める。
「首元を出していると冷えるよ。しばらく、ここで座って待つんだからね」
「ありがと……」
大人しく為すがままにされながら、トルデニーニャは答えた。
彼が襟巻を巻き終わったので、二人は並んで、前方を眺める。
山の端の明るい色が徐々に下から立ち昇り、暗い空が徐々に明らみ始めていく。山の端から大きな半円が姿を現して――やがて完全な円となる。朝日が昇ったのだ。
(今年もこうやって一緒に見れてよかった)
彼女はそっと彼にもたれかかった。彼は驚いたように彼女を見たが、口許を緩めると、彼女を抱き寄せたのだった。