木枯らしが辺りに強く吹きつける晩のことだった。借りていた本に夢中になりすぎて、トルデニーニャが眠気を感じて、本を閉じた頃にはすっかり真夜中に近い時間になってしまっていた。この時間なら寝床の中には既にリヴァルシュタインが就寝しているだろう。そろそろ寝ようと思ったトルデニーニャは物音を立てないように寝床に向かった。
「……トーマ?」
寝床では眠っているはずのリヴァルシュタインが起きていた。彼は近づいてくる彼女の気配を感じて、確かめるように声に出した。彼の呼びかけはとても頼りなげで胡乱としている。
「リヴァ、どうかしたの?」
返事をしながらトルデニーニャは彼の傍に近寄った。その顔を覗き込んで、彼女はぎょっと目を大きく見開いた。彼は熟睡しているときに叩き起こされたときと同じようなぼーっとした表情をして、両目から大粒の涙をこぼしていた。よくわからないけれど、夢見が悪かったのだろうか。
「どうしたの? 眠れないの?」
彼は胡乱な表情を彼女に向けるだけで、何も言わなかった。本当に起きているのか、実のところ眠っているのか判別がつかない。トルデニーニャは彼の腕を掴んだ。ぐいぐいと自分の方へと引っ張りながら、彼女は彼の顔を覗き込んだ。自分の姿が瞳に彼の映っているけれど、彼の瞳には違うものが映っているのだろう。
「ねえったら」
彼女はもう一度声をかけたが、返事が返ってくる気配がなかった。このままだと埒が明かない。仕方がないので、掴んでいた彼の腕を離すと、彼女は自分の寝床にもぐり込む。
「……君がいなくなる夢を見た……」
足音もなくいつの間にかトルデニーニャの側に立っていた彼が、ぽつりとこぼした。彼女はごろりと寝返りを打つと、体を起こした。
もう一度、リヴァルシュタインの腕を掴むと、自分の方へと引き寄せた。引っ張られてバランスを崩した彼が、片膝を彼女の寝台についた。自分とほぼ同じくらいの目線になった彼を、トルデニーニャはしっかりと抱きしめた。
「大丈夫。わたしはここにいるよ」
彼から息苦しくなるほど強く抱きしめ返された。彼女の腕の中で彼が小刻みに震え始める。その背中をゆっくりとさすりながら、彼女は言った。
「だから、泣かないで」
月明かりが二人を優しく照らしていた。
見たことのない速度で風景が過ぎ去っていく。どんどん血の気が失せていくのを感じながらも、ステラは馬を駆けるラインハルトの腰をしっかりと掴んでいた。丘を、街を、平野を瞬く間に駆け抜けて、一体ここはどこなのだろう。もう三時間ぐらいは馬に跨っているような気がする。
非常に疲れた。腰に回す腕の力が段々と抜けていく。そろそろ一旦休憩を入れてくれてもよいのではないか。そう思いつつ声をかけても風音に掻き消されて、自分の耳にすら届かない。一体全体、何に焦ってこんな早駆けをしているのだろう。
彼の背中に頭を預けて、ステラは溶けていく景色をぼんやりと見ていた。馬上は不規則に揺れるが、慣れれば規則的に感じてくる。規則的になると今度はそれが眠気を呼び起こす。何とかあくびを噛み殺していたが、次第にあくびは止まらなくなり、瞼が重たくなってきた。こんな状態で居眠りをするのは危険だと、重々承知しているが、眠たいものは眠たい。
ステラの腕の力が徐々に抜けていくのを感じて、ラインハルトは腰に回る彼女の腕を掴むと、馬の速度をゆっくりと落としていく。常足まで速度を落とすと、そのまま街道を走らせることにした。彼女の腕を掴みながら後ろ手に彼女の背を叩く。とんとんと軽く叩いても寝息が返ってくるだけなので、少し強めに叩いてみると身じろぎした。ううんと唸り声が聞こえて、背中に感じていた重みが消える。
「――ステラ、起きてください」
「……起きた」
しばらくして憮然とした返事あった。見なくても、ぶすっとしている表情が目に浮かぶようだ。想像して少し微笑むと、ラインハルトは掴んでいた彼女の腕を離す。再び、彼女は彼の腰にしっかりと抱きついた。
「少し休んでくださらない?」
背後から彼女の声が続く。
「さっきからずっと走りっ放しで、さすがに……これ以上ないくらい疲れたわ。わたしはあなたと同じ体力じゃないのよ」
街道を進む二人は森の中に入っていた。日は高く昇っているが、そう広い森ではない。日が暮れるまでには森を抜けるだろう。この森を抜けたら、次の街に着く。
「もう少しだけ、我慢してくださいますか」
はあ、と大きな溜息が聞こえた。ぎゅうと腰に回る腕に力がこもる。
「……あと少しだけよ」
謝意と労いを込めてラインハルトは軽く彼女の腕を叩くと、再び馬を駆け始める。
ぐすぐすと泣きじゃくるアンネを前にして、ナハトは困ったように立ち尽くしている。
「……あ、アンネ? どうしたの?」
恐る恐る声をかけるが、彼女は首を激しく横に振るばかりで何も言わない。大粒の涙が彼女の両目から溢れて、ぽろぽろと地面に向かって落ちていく。
彼女の背中をゆっくりとさすってやりながらも、ナハトはどんな言葉をかけてやればいいのかわからない。自分に上手にひとを慰める術のないことは充分に承知していた。
だから、自分にできることと言えば、彼女の気の済むまで泣かせてやることだが、何分場所が悪かった。二人がいる、このアカシアの谷は、強い魔物がわんさかと出現する場所で、今も襲いかかってきた魔物を屠ったばかりだ。
わたし、としゃくり上げながらもアンネが口を開いた。
「嘘、をついたんです……ごめんなさい……」
ナハトは首を傾げた。
「どんな?」
彼女は身震いをした。これを告げることで、彼がどれだけ怒るかわからなくて――いや、嫌われるかもしれないのが怖かったからだ。自分でもどうしてこんなことを言ったのかわからない。
「……レイさんがアカシアの谷にいるって……」
「ああ、何だ」彼はあっけらかんと笑った。「そんなの別にいいよ」
ナハトは少し膝を折ると彼女と目を合わせた。アンネは兎のように赤くて怯えた目をしている。何だかとても抱きしめてやりたくなったが、逆に怖がらせそうだったので、ナハトは己を律した。
「怒ってねェから、そんな気にすんなって」
ナハトはアンネの頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。
「それを言いに来てくれたんだ。ありがとな」
またアンネの両目から涙が溢れてくる。彼は困ったように眉を八の字にして、自分の頭をがしがしと掻いた。
「あのさ……オレ、アンネも知っての通り、レイは大事なんだけど……お前のことも同じか、それ以上に大事なんだよ」だから、と彼は続ける。「できれば、笑っててくれた方が嬉しいんだけど」
嘘、とアンネが首を横に振った。ナハトはアンネの名を呼んだ。恐る恐る顔を上げた彼女の額を指で軽く突いた。
「バカ、こんなことで嘘なんかつかねェよ」
「……わたしのこと、今ので嫌いになったりしませんか……?」
ナハトは優しい笑みを浮かべた。
「たぶん、オレ、お前のこと好きだからさ。今の何だか可愛いなって思うよ」
しんしんと雪が降っている。夜半から降っていたらしいそれは、すっかりと辺りを白く染め上げていた。朝日を受けてそれらはきらきらと輝いている。
(――通りで冷えるはずだわ)
窓の外に広がる一面の銀世界を眺めながら、マーシャは胸中で嘆息した。身を切るような寒気を覚えて飛び起きたのが、ついさっき。暖炉の火が消えており、それで部屋が冷え込んだらしい。
毛皮のスリッパに足を入れ、毛布にくるまりながら立ち上がる。暖炉の傍にある小さなテーブルの上には書きかけの手紙が放置してあった。翌朝に続きを書こうと思って眠りについたのだが、すっかりインクが固まってしまっている。
まずは薪を貰ってこねばならない。彼女は重たい足を引きずるようにして、宿の裏手の薪置き場に向かった。ちょうど住み込みの従業員が薪を割っているところで、いくつか余分に薪を貰って部屋に引き返す。吐く息は白く、朝日にほのかに輝く。
暖炉に薪を入れると、マッチを擦って火をつける。一緒に貰った細枝に火を移して種火とし、少しずつ薪を足していく。小さかった火はやがて炎となり、ちょっとずつ暖かくなってくる。
かじかむ手を少しでも早く温まるように暖炉にかざす。指の隙間から見える、炎のゆらめきを見ていると、また睡魔が戻ってくるような気がしてくる。いけないとばかりに首を振り、手をさすり、揉み、かざすを繰り返す。
やっと満足に指が動くようになってきた頃に、彼女は固まったインクを持ってきた。これも温めたら書けるようになるだろうか。インクが溶けるまで、文面を考えていよう。
ゆらゆら、ゆらゆら。炎が右に左にゆらめいている。時折、火の粉が爆ぜる。降り積もる雪のように穏やかでゆったりとした時間が流れていく。
隣室から、寒いと仲間の叫ぶ声が聞こえた。小さな宿屋ゆえに声が丸聞こえだ。彼女はふふと含み笑うと、余分に貰っていた薪を分けに行く。少しお喋りをしているうちに、階下から人のざわめきが聞こえ出す。ようやく人々が活動する時間になってきた。
もう少ししてから朝食を摂りに行こうと約束して、彼女は自室に戻ってきた。そのついでに手紙を出してしまおうと思ったからだ。
インクは液体に戻っていた。ペン先を浸して、少し試し書きをする。――問題なく書けそうだ。
遠い場所で、今も変わらずに仕事をしているであろう彼を想う。夜、寝る前に見かけても、朝、起きたときに見かけても、彼はいつでも机に向かっていた。いつ休んでいるのかわからない彼が少しでも自分を顧みるように、そんな祈りを込めて、文字を綴り始める。
――拝啓、親愛なるあなたへ。寒い季節になってきましたね。わたしたちは今、ネージュの町にいます。名の通り、降り積もる白雪が美しく、また凍えそうなほど寒いです。ただでさえ風邪の引きやすい時期ですから、暖かくしてきちんと休養を取るようにしてください。仕事のしすぎはだめですよ。
煌びやかに飾りつけられた室内に、贅を尽くした料理に、ここぞとばかりに着飾った人、人、人。いくら自分が近衛兵だとしても、場違いであることには変わりない。
ユダはげんなりとしていた。場に合うようにと何故か着せられた装束が重たい。
今夜は晩餐会が開かれている。王女の快気祝いという名目だとユダは聞いていた。
あまりにも居心地が悪いので、早く退散したかったのだが、自分の腕をガッチリと掴むミュリエルがそれを許さない。周囲の目もあるので振り払いたかったが、今や彼女が主君である。主君をこちらから振り払うわけにもいかない。
「……姫君、そろそろ腕を離して頂けますか」
「嫌です」
ミュリエルはユダの要請を満面の笑みで拒否した。はあと彼は深い溜息をつく。
どうも彼女は自分に好意を抱いているらしく、事あるごとに接触を図られる。そのたびにどうにかこうにか躱していたが、今回は躱し切れなかった。
(厭われていてもおかしくないはずなのだが……)
あの出会いから始まって、帰城するまでの軌跡を振り返って、どこにそんな好意を抱く要素があったのか。自分には全く理解不能だ。
王や王妃にも彼女の態度を改めさせるように陳情したが、付き合ってやってくれと逆に頼まれる始末。全く、やってられないとはこのことを言うのだろう。罪悪感だけが膨らんでいく。
「ほら、姫君。あそこで大臣が震えていますから。そろそろ離れてください」
ユダは王の近くに控えている老年の男性をそっと指して言った。微笑ましげにこちらを見る王たちと違い、大臣は険しい顔をしてぷるぷると震えている。雷が落ちるのも時間の問題といったところだろう。
(言ってる間に……来たな)
再度、ユダは深々と溜息をついた。
大臣は二人の目の前にやってくると、ミュリエルを見て口を開いた。
「姫様、さすがにはしたないですぞ」
ミュリエルは不満げに頬を膨らませた。両親が許しているのだから、その家臣にあれこれ言われる筋合いはないとでも言いたげだ。
「そういうのはあとで好きなだけすればよろしいですから、今はもう少し品よくなさいませ」
黙って聞いていたユダが怪訝そうに眉をひそめた。何だか大臣の言葉がおかしく聞こえる。
大臣は次にユダを見た。
「元々、あなたが仏頂面なのは知っていますが、少しは愛想よくなさい」
「お言葉ですが、大臣。私はただの近衛兵です。本来ならばこの場にいるべきでは……」
困惑するユダを見て、大臣は首を傾げる。
「何を言うのですか。あなた方の婚約を祝う祝賀会なのですから、あなたも主役ですよ」
「き……聞いておりませんが……」
ユダは表情を凍りつかせた。大臣はきっと眉を吊り上げて、ミュリエルを睨みつける。
「姫様! あなたが彼に伝えるとお申し出になられたのでしょう!」
大臣の雷が落ちたが彼女は悪びれることなく、満面の笑みを浮かべて口を開いた。大臣がそれに対して、またあれこれと小言を口にしている。しかし、衝撃で固まるユダの耳には、もう何も入っていなかった。願わくば、この晩餐会が終わるまで、それを続けていてほしい。