その日が近づくにつれ、郡司は段々と落ち着かなくなってきた。
そわそわとした気分のまま、あちらこちらをふらふらふらふら出歩いて、どうしようもない気持ちをどうにもできず、歩き疲れてへとへとになって部屋に戻ってくる。それを何度も繰り返した。
ベッドに寝転んで、寝てしまおうと思えども、神経だけが昂っていて、すぐには眠れずに周囲の生活音が耳に入ってくる。
時折、ケータイが震えるので、逸る気持ちを抑えながらも画面を開くと、それはただの友人からの誘いだった。無視はしないが、がっかりしたのは事実だ。
その日はもう、細やかな物音にですら耳が嫌でも反応してしまう。
こんこんと玄関の方からノックが聞こえてくる。遠くの方から「高千穂くんいる?」という声がする。
一気に血流が動き出したのか、一気に熱くなってきた。特に顔の辺りが湯気でも出てるんじゃないかって思うほどに、熱い。
枕に顔を押し付けて、郡司は玄関扉の前にいる彼女に向かって、開いてる、と声を張り上げた。
しばらく間があってから、ほんとだ、というつぶやきが聞こえた。扉を開ける音は聞こえなかった。
床が軋んで、静かな足音が自分の居場所に近づいていく。ふ、と足音が止まった。背後に気配がする。緩慢な動作で郡司は寝転んだ。
心配そうに自分を見下ろす彼女と目が合った
「高千穂くん、どうしたの。風邪引いた? 大丈夫?」
「……いや、何も要らねえ。別に風邪引いたとかじゃねえから」
「ほんと?」
眉根を寄せて彼女は郡司の顔を覗き込んだ。また彼の顔が朱色の染まっていく。気づかわしげに首を傾げる。
「……なら、いいんだけど」
ふうとてのひらを頬にあてながら彼女は溜息をついた。
「あのね、高千穂くん」
きょろきょろと辺りを見回すと、いつの間にか郡司は向こうの隅に立っていた。
「無理しないでね」
「大丈夫だって」
「なら、何でそんなところにいるの」
「それは、まあ、気にすんな」
「気にすんなって言われても……」
困ったように彼女は眉を八の字にした。しばらく、じいっと郡司を見つめていたが、彼は梃子でもそこから動かぬらしいと悟ったようだ。
すっと立ち上がると、音もなく郡司との間を詰めていく。
心臓が早鐘を打つせいで、何だか頭がぽーっとしている郡司は、気づいたときには真正面に彼女が立っていて、思わず出そうになった悲鳴を呑み込んだ。
彼女は手を伸ばすと、てのひらで郡司の両頬を包み込む。あと少しでキスできそうな距離。
「お誕生日、おめでとう。高千穂くん」
そうささやきながら、彼女は手を放して離れていく。
「あのね、プレゼントなんだけど――」
「待ってくれ」
彼女の言葉を遮るようにして、郡司が声を上げた。真っ赤な顔は治っていない。
「あのさ、月読サンにお願いがあるんだけどさ……」
「なあに?」
「……俺のこと、名前で呼んでくんない?」
彼女は目をぱちりと見開いて、それから菫のような可憐な微笑みを浮かべた。
もう一度、手を伸ばして彼の頬にふれる。彼の体温がてのひらに伝わってくる。郡司くん。顔を近づけてささやいた。
湯気でも出ているんじゃないかと思うくらい、郡司の顔が真っ赤っかになった。ぶわっと血流が逆流したようなそんな勢いで、顔が熱くなっていく。心臓がばくばくと動いているを感じる。心臓からこんな音がするなんて、一駅分全力でダッシュしたときぐらいだ。
「郡司くん」もう一度名を読んでから、彼女は照れ臭そうにはにかんだ。「ただ名前を呼ぶだけなのに、とてもとても恥ずかしいね。何でだろ」
ふふ、と口元を抑えたその姿がとても愛おしくて、郡司は彼女を強く抱きしめていた。
菫は大学の講堂前のベンチに座って、空を仰いでいた。
辺りを焼き尽くすのではないかと思うほどの熱波を放つ太陽が、燦々と輝く長い長い夏が、ようやく終わって秋が来た。それで喜べたのもほんの束の間で、あっという間に冬がやってきた。
今日の朝は特に寒かった。だから、ヒートテックのシャツを着て、もこもこのセーターを着て、ニットのスカートに裏起毛のタイツもばっちり。手触りのいいフリースの上着も着ている。昼間になると却って暑いかもしれないが、そのときは脱げばいいだけのこと。
実際に昼になって、こうやって外にいると、日向にずっといれば確かに暑いかもしれない。でも、日陰にあるベンチに座る菫にとっては、時折、冷たい風も吹くから丁度よかったと思っている。
空は北の方向は真っ青で、南の方向が灰色になっている。家に帰る頃には、もしかすると雨が降っているかもしれない。折り畳み傘を持ってくるのを忘れてしまった。最寄り駅から家までの短い時間、雨に濡れることになるかもしれない。――そんなとりとめのないことを考えながら、菫は彼を待っていた。
ふと視界に影が差した。菫、と名前を呼ばれたので、彼女は振り向いた。
「待たせて済まない」
彼女の顔がぱっと明るく輝いた。
「伸くん!」彼女はぽんぽんと自分の隣に座るよう彼に促した。「さっき来たところだから大丈夫だよ」
彼は菫の隣に座りながら、掌を彼女の頬にあてた。彼女の頬はひんやりとしていて、到底数分前に来たとは思えない。彼女の顔をよく見ると、鼻先や頬骨の辺りが赤くなっている。
「……の、伸くん?」
自分を見つめる彼の真剣な眼差しにどぎまぎして、菫は恐る恐る声をかけた。彼が寡黙で思索に耽る性質だということはわかっているものの、ずっと凝視されるのは気恥ずかしいというもの。
「ああ、いや……寒かっただろう」
彼は控えめな笑みを口許に浮かべると、自分のマフラーを彼女に巻いた。ふわふわのマフラーに菫の顔が埋もれてしまう。何とか顔を出した菫は彼に向かって大丈夫だとでも言いたげに、にっこり笑った。それにしても、この肌触り、憶えがあるぞ。
「伸くん……これって、もしかして」
ちらりと彼を見やると、彼は頷いた。
「ああ。お前に貰ったものだ。愛用している」
彼の率直な言葉は弾丸のようで、菫の心を撃ち抜いていく。嬉しさと気恥ずかしさで菫は顔を赤くした。
「気に入ってくれてるなら……嬉しい」
彼女はそう言うと、はにかんだ。
蝉時雨が降り注ぐ昼半ば。太陽に熱されたコンクリートから湯気が立ち上っているのではないかと思うほど、辺りは蒸し暑い。こんなかんかん照りでは打ち水も大した効果を持たなそうだ。
直子と匠は夏期講習の帰り道を歩いていた。別に示し合わせたわけではなく、何となく気づけば一緒になっていた。特に何か喋るわけでもなく、彼女が先を歩いて、彼がその後ろを歩いている。
(抜かしたらいいのに)
歩幅も歩く速度も違うから、きっと歩きにくいだろうに。そんなことを思いながら彼女は歩いていた。
「直子」
蝉の大合唱に紛れて、彼が呼んだことに気づかなかった直子は、もう一度、強めに声をかけられて、ようやく気づいて立ち止まった。振り返って見た彼の表情は、語調に反して穏やかだった。
「何?」
「明日も来るの?」
怪訝そうに直子は眉をひそめた。
夏期講習は必修の二日間を除いて選択制だ。推薦やら総合型選抜やらで進学先が決まっている人は、必修の二日間を受けたあとは、残り僅かな夏休みを満喫している。彼もどちらかというとその口のはずだった。決まりそうだと自分に自慢してたくらいなのだから。
「まあ、一応」
推薦を使えるほどの成績がない彼女は、普通に入試を受けるしかない。正直なところ、塾の夏期講習を受けている方が自分のためにはなるだろうけど、家のお金に余裕はない。とはいえ自宅では気が散って勉強できないために、学校に通っている。
「ふーん……そうなんだ。俺も行こっかな。練習がなかったら、毎日、暇で暇で……」
そんなことを口にする彼に何と返していいのかわからず、直子は黙っていた。
大体、彼がこういう軽口を叩くときは、何か悩んでいるときだ。でも、もう直子には彼の悩みに何か応えることはできない。それは彼が山の頂上で悩んでいるのに、自分は麓で応えているようなものだからだ。
二人の間の沈黙を埋めるように、蝉が鳴いている。慣れてくると並木路の枝葉が揺れる音や、時折強めに吹く風の音が聞こえるようになってくる。
直子が目を閉じてそれらに聴き入っていると、突然びゅうと突風が吹きつけて、ぐらりと体が傾いだ。
「直子!」
たたらを踏むこともできずに倒れる彼女の腕を、彼が掴んだ。彼の手は大きくて力強かった。
「……ありがとう」
彼女は小さく呟いた。どういたしましてと返ってくる。
「俺、明日も行くよ」
唐突に彼が言った言葉に、直子は困惑した。曖昧な返事を口にしながら、好きにすればと言いそうになったのを、やっとのことで呑み込んだ。
そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、彼は満面の笑みを浮かべると言う。
「直子に会いたいから」
絶句する直子を見て、彼は楽しそうに笑い声を上げた。
「好きにすれば」
そう言い捨てて、直子はさっさと歩き出した。自分の顔が熱いのは、たぶん、照りつける太陽のせいだろう。
ふ、と蝋燭の火が揺れた。
閉め切った部屋の中、どこから隙間風が入り込んだのか。
マルスは目を閉じると、集中して風の流れを探る。せっかくストーブを焚いているというのに、暖気が逃げていってしまうのでは甲斐がない。
左後方から寒気を感じる。彼は椅子から立ち上がると、その方向へと歩き出した。どうやら窓が少し開いていたらしい。おそらく換気のために開けたとき、きちんと閉め切れてなかったのだろう。
彼は踵を返すと再び座った。目の前にうずたかく書類が積まれている。見るだに嫌になる量だが、誰かがやらねば終わらない。幸いにも、自分は仕事をこなしていくスピードが早い。
冷めたコーヒーを一口啜ると、彼はペンを手に取って、仕事を始めた。ガリガリとペンが紙を削る音が響く。書類の文字を追って、サイン。不要なものは破り捨てる。書類に文字を書きつけて、サイン。必要なものを封する。
いつの間にかそれらは一定のリズムを刻んでいて、さくさくさくと気づけば書類の山は半分くらいになっている。この調子で片付けてしまおう。何事も波を逃してはならない。立ち止まってしまえば、一歩も動けなくなってしまうように。
コンコンと扉がノックされた。彼は自分の刻むリズムに集中しているうちに、周りの音が耳に入らなくなってしまっているのだ。もう一度、ノックされる。彼は気づかない。
ノックの主は痺れを切らしたらしい。外で開けますよと言っているのが朧気に聞こえくる。彼は一向に返事をしない。ゆっくりとノブが回されて、扉が開いた。
その音でようやく気づいたらしい彼は、顔を上げた。そのときランニングハイならぬワーキングハイが切れてしまった。ずっと同じ姿勢で書類を見続けていたせいか、あちこちバキバキだ。彼はむっとして言った。
「誰だ?」
「わたしです。ノックは何度もしましたからね」
間髪容れずに返したのは、マーシャだった。彼女は部屋に入るや否や、マルスの机上に書類がうず高く積まれているのを見て、深々と溜息をついた。
「全く……あなたって人は……。もう真夜中ですよ。お仕事が忙しいのはわかりますけど、もう寝るべきです」
ガタンと何かが落ちる音がした。マーシャがその方向へと目線を向けると、彼が椅子から落ちていた。驚きに目を丸くして、彼女は彼の元へと駆け寄った。
「ど、どうしたの? だ……大丈夫?」
彼は地面に尻餅をつくような形になっていた。マーシャを見上げながら口を開く。
「……マーシャ? どうして君が、こんなところに……」
「そんなの決まってるじゃないですか」
彼を助け起こしながらマーシャは微笑んだ。
「あなたに会いたかったから会いに来たんです。たまたま今はドナの街にお邪魔してますから」
そうか、とマルスは嬉しそうに微笑んだ。
今日はお互いの非番が重なる日だった。早い段階でわかっていたので、トルデニーニャとリヴァルシュタインは、二人で買い物に行く予定を立てていた。
トルデニーニャの装備は使い込んでいるせいでだいぶへたってきているし、毎日猛烈な鍛錬をしているせいか剣は刃毀れしている。自分で手入れをしながら使ってはきていたが、そろそろ限界がやってきていた。そして、買い物に行くのも久々なので、日用品も買い込むつもりだ。
リヴァルシュタインは彼女の荷物持ちで付き合うようなものではあったが、質の良い物があれば買おうと決めていた物がいくつかあった。
身支度を整えて、彼の元へ向かおうとしていたトルデニーニャは、鈴の音のようなか細い声に引き止められた。振り返ると、華奢で可憐な感じな女性が立っている。着ている制服から、おそらく同じ職場ではあるのだろうが、知らない人だ。
彼女はトルデニーニャに、リヴァルシュタインのところに案内してほしいと頼んできた。今から彼の元へ行くところであったし、特に断る理由も見つからなかったので、彼女はその女性と連れ立って、彼の元へとやってきた。
彼はトルデニーニャの隣に立つ、見知らぬ女性を見て、嫌そうに顔をしかめた。
女性は彼を見るや否や、花のような笑みを浮かべて、つつつと彼の元へと駆け寄る。
「あ、あの……リヴァルシュタインさん……少しお時間よろしいでしょうか……?」
もじもじしながら口を開く女性に、対する彼はにべもない。女性を一瞥すると、
「君のこと、全く知らない上に、そもそも僕は今日予定があるんだ。知らない人間のためにどうして僕の時間を割かなくちゃいけないんだい?」
そう言い捨てて、しっしと手を振った。女性は彼をじっと見つめていたが、彼がしかめ面を崩さないので、大粒の涙を浮かべ、踵を返して走り去ってしまった。その後ろ姿を見送って、トルデニーニャは大きな溜息をついた。
足音が聞こえなくなってから、彼がげんなりした様子で口を開いた。恨みがましい目で彼女を見やる。
「君さ、ああいうの連れてくるの、本当に止めてくれない?」
彼女はむうと唇を尖らせた。
「だって、用事があるんだって言われたんだもん」
「まあ、君に悪気があったわけじゃないのはわかってるけどさ……」彼は肩を竦めた。「次からは気をつけてくれる」
「うん、ごめん。なるべく気をつける」
彼女はしゅんとして俯いたが、すぐに笑顔になって顔を上げた。
「お詫びにあなたの好きなアップルパイ作るから、許して」
彼女は手を合わせると可愛らしく小首を傾げて、悪戯っぽく笑う。
彼は釣られて笑った。つくづく自分は彼女のこの顔に弱い。
「毎日作ってくれるならね」