今日はお互い、四限で講義が終わるから、図書館の前で待ち合わせる約束だった。終了時間は一緒でも、取ってる講義は違うから、図書館から講義室が遠い郡司は急いで待ち合わせ場所に向かっていた。
ようやく待ち合わせ場所に着いたとき、そこに目当ての人物はいなかった。本が好きな彼女のことだ。先に着いたから、約束の時間まで図書館の中で時間を潰しているのだろうと当たりをつけて、郡司は図書館の入口をくぐる。
図書館の入口には、まるで駅の改札口のような機械が設置されている。ICチップが内臓されている学生証を通して、中に入ることができる。学生証がない者も、用途によっては図書館を利用できるが、その手続きは複雑だ。
一階は、比較的軽く読めるもの――主要出版社の新書であったり、学術文庫であったりがたくさん配架されている。二階以降は専門書が多くなってくるので、郡司はあまり利用しないが、一階部分の本は時折借りて読んでいる。
入って右手側奥に調べもの用のテーブルと椅子が置いてある。太い柱に隠れているため、パッと見たときに、あまり視界に入ってこない。そのため擬似的な独りの空間を作ることができる場所だ。彼女はこういうところによくいる。
郡司は当たりをつけていた場所に向かった。後ろの方からそっと覗くと――やはりいた。何やらこの図書館にはそぐわない料理本を広げているように見える。
後ろから回り込んで、彼女の真横に立つと、郡司は彼女の肩をとんとんと叩いた。驚いたらしい彼女が体を強張らせて、弾かれるように郡司の方へと顔を向けた。彼女は自分の肩を叩いたのが郡司だとわかるや否や、ほっとしたように表情を緩めて笑顔になった。
「……何だ、高千穂くんかあ。びっくりしちゃった」
そう言った彼女は、自分の腕時計を見て、あっと声を上げた。
「とっくに時間過ぎてたんだね。待たせちゃってごめんなさい」
「俺が来たのはさっきだから。俺こそ待たせてごめんな」
しゅんと肩を落とす彼女に、郡司は笑って言った。それより、と彼は続ける。
「それより、月読サン、何読んでんの? それ、レシピ本っぽいけど」
彼女はその瞬間、広げていた料理本をぱたんと閉じて、目にも留まらぬ早業で鞄の中に仕舞った。ちらりと郡司を見やる顔が見る見るうちに赤くなっていく。
郡司は困惑して首を傾げた。
「……今度のバレンタインデーに何か作れたらいいなって……」
顔色を朱に染めた彼女は、そう言うとはにかんだ。彼女のその照れた微笑みが、郡司の心を撃ち抜いて、彼はしばらく何も言えなかった。
机の上で突っ伏して寝ている彼女に、やわらかな光が差している。その様子を愛おしげに見つめると、ラインハルトは彼女に着ていたジャケットをかけた。そして、机の上に散らばっている書付をひとところにまとめて片づける。
魔術の研究が大好きな彼女は、放っておけば日がな一日、魔術の研鑽に勤しんでいる。時折、外に連れ出してやらないと茸が生えてしまうのではないかと思うほど、ずっと書斎兼研究室に籠り続けている。
彼女自身はそれで困っていないようだが、彼としては……とてもさみしい。手が離せないほど忙しそうな時は遠慮しているが、自分の手が空いているときは、彼女を何かしらに誘って外に出ている。意外にも彼女は素直に応じてくれるのだ。
彼女の寝顔をずっと見つめていたい気もするが、これ以上、部屋にいても仕方ないだろう。彼女を起こすことになってしまっては本末転倒だ。
彼は後ろ髪引かれる思いで部屋の扉を開けた――そのとき、
「……誰?」
目を覚ましたらしい彼女が顔を上げた。彼女は寝ぼけまなこをしょぼしょぼさせて、人気のある方へと顔を向けた。ぼんやりしていた姿が徐々に像を結んでいく。部屋の出入口に立っているのは――ラインハルトだ。
こちらを見る彼の顔が、何だかしょんぼりしているように見える。
「ラインハルト……? どうかしたの?」
彼女がそう口を開いたとき、しょんぼりしていた彼の顔が、見る見るうちに輝き始めた。開けかけていた扉を閉め、彼女の元に向かって歩いていく。
体を起こした彼女は、自分の肩にジャケットがかけられていたことに気づいた。この香りは彼のものだ。脱いで綺麗に畳むと、近くにやってきた彼に手渡した。
「ありがとう。これ、あなたのよね?」
ええ、と彼は微笑みながら受け取った。
「眠っておられたので、起こさないようにと思っていたのですが、結果的に起こしてしまったようで済みません」
「いいえ、いいのよ。あなたこそ、何かわたしに用事があったのではなくて?」
小首を傾げて彼女は言った。そんな仕草の一つ一つがとても可愛らしい。
「その……特に用事があったというわけではないんです」
彼は申し訳なさそうに眉を八の字にする。ただ彼女の顔を見に来ただけなのだと口にするのは、起こしてしまった手前、少し言いにくい。
「そうなの?」
不思議そうに彼女は首を傾げたが、その表情はすぐに穏やかな笑みに変わった。
「なら、テラスでお茶にしましょうよ。今日は天気がいいみたいだから」
「ええ、喜んで」
嬉しそうに頷くと、準備してきますと言って、彼は部屋を出て行く。いつもの流れで見送りかけて、わたしも手伝うわと、彼女もその後を追いかけた。
直球の侮辱だった。
アシェリカは羞恥で顔が真っ赤になった。怒鳴りたくなったのをぐっと堪えて俯く。彼女の横にいた青年が庇うように前に進み出た。彼こそが、今をときめく騎士団団長シェーンハイト・グロウズである。
「失礼」彼は穏やかに口を挟んだ。「今、何と仰いましたか?」
その場にいた誰もが、空気が凍りついたことに気づいていた。その冷え冷えとした殺気の発信源が、シェーンハイトであることにも。気づいていないのは口を滑らせた本人のみ。
気持ちよく放言していたのは最近男爵の位に叙せられた成金貴族だ。話を遮られたため、不愉快そうに眉をしかめてシェーンハイトを睨みつけた。
「かつて栄勇を誇った近衛騎士団に、女の身でもぐり込むなど、どのような手段を使ったのか窺い知れるものだなと言ったのだ」
「それはつまり、彼女が我が騎士団にいるのは実力ではないと仰っているのですか」
「そうだ。このような男所帯に女がいるなど実に不道徳でけしからん。言うにおぞましい手段を使ったに違いない」
その言葉を聞いたシェーンハイトの表情が、能面のように無になった。
「今の言葉は訂正していただきたい」
彼の言葉は静かながらも圧がある。相手はふんと鼻を鳴らすと、皮肉気に口端を吊り上げた。
「口先では何とでも言える。現に、今、庇い立てする貴様こそ、何やらやましいことが——」
得意気に喋っていた彼は、シェーンハイトの鋭い眼光に怯んだのか、口を噤んだ。
「卿は何やら誤解をされているようですね。彼女がここにいるのは、ひとえにその実力に因るもの」シェーンハイトの声がどんどんと低くなっていく。「彼女をそのように侮辱することは、我が騎士団を、ひいては我が騎士団を有する王への侮辱となることがおわかりにならないのか?」
その剣幕に相手はたじろいだ。先ほどまでの威勢のよさが嘘のようにおろおろとし始める。アシェリカも驚いて顔をあげた。
彼はいつでもにこにこと穏やかに微笑んでいて、アシェリカは今まで彼が声を荒げる姿など見たことがなかった。若年でウェルス王国近衛騎士団の団長に就任した彼は、優美で文化人然とした佇まいから、優男だ軟弱者だ何だかんだと言われ続けていたが、何一つ反論することはなかった。
「彼女に潔く謝罪をするか、見苦しくもこの場から逃げ出すか、卿はどうされるおつもりか」
それなのに、どうしたのだろう今、彼は自分を庇うように前に出て、鋭い眼差しを相手に注いでいる。
こんな表情もできるのか。妙に感慨深い気持ちで、アシェリカはシェーンハイトの横顔を見つめていた。
時折、リヴァルシュタインは切なそうに里を見下ろしている。平穏な日常は彼の求めるものに一歩届かないのだろうと思う。だからといって、何かが起こってほしいわけではない。何も起こらず、このままで在ることが一番大切ではあるのだ。
トルデニーニャは欄干に頬杖をついて空を見上げていた。遥か高みに浮く彼の姿は眩しい。里一番の戦士、次の里長……あらゆる称賛をその身に受ける彼は一体何を思っているのだろう。その背に追いつきたいと努力を重ねても、彼はその三歩先を進んで手が届かない。
目を閉じ、ふうと息を吐いた。
風のざわめきが聞こえる。遠くでは懐かしい笛の音がする。いつともなしに聴こえるその音は、どうやらトルデニーニャにしか聴こえていないようだった。彼には鼻で笑われたし、里長も首を傾げていた。
(父様なら聴こえたかもしれない)
男手ひとつでトルデニーニャを育て上げた父は、里の中では変わり者だった。里の男たちが強さを尊び、毎日訓練に明け暮れているのに対し、父はのんびりと唄を歌って楽器を弾いていた。たくさんの書物に囲まれて、いつも本を読んでいた。
父は博識で、トルデニーニャに色んな話をしてくれた。読んでいる書物の話、遠く離れた地の話、母と出会った話、御伽噺、お城の話……。また、優しい人でもあった。トルデニーニャの些細な問いに真摯に向き合ってくれる人だった。
唯一の家族もこの間亡くなってしまった。あのときのことはよく思い出せない。あっという間に過ぎ去ってしまった。いつまで経っても起きてこない父の前で呆然と佇むトルデニーニャの代わりに、一切を仕切ってくれたのがリヴァルシュタインだった。彼はてきぱきと葬儀を執り行い、遺体を荼毘に付した。
それ以来、彼はより厳しい訓練を重ねるようになった。比例して自他に厳しくなり、今では誰も寄せつけなくなった。幼馴染であったトルデニーニャすら、容易には近づけない。彼は鋭く尖った鏃のようで、迂闊にさわれば怪我をしてしまう。それはお互いに望むところではなかった。
一時は接戦していた弓の腕も、遠く離されてしまった。ふっと笑うと、トルデニーニャは大きく伸びをした。空は今日も透き通っていて雲ひとつない。
いつかこの空を自由に泳いでみたい。何も考えずにただひたすら高く高く。嫉妬も執着も郷愁も、思い出すら全てを捨てて。
そんな日が来ることを願っている。
決まった主人を持たないために、あっちこっち引っ張りだこな衛兵のロハは、ようやく貰えた休日に、焼き菓子を作っていた。
久々に作ったせいか加減がわからず、気づけば一人では食べ切れないほどの量を作ってしまっていた。少しは日持ちするとはいえ、二、三日くらいで食べてしまわないと傷んでしまう。夕食が要らなくなるほど消費して、隣室の同僚にいくらか押しつけたが、それでも残っていた。
ロハは悩んだ末に、世話になっている職場の先輩に持っていくことにした。他人に渡せる出来ではあるし、甘い物は好きだと言っていたことを思い出したからだ。
彼女の部屋から、目当ての人物の部屋まではそう遠くない。軽い足取りで目的地に向かうと、扉をノックする。
「ネロ先輩、ロハです。今、お時間よろしいですか?」
中に向かって声をかけると、扉が開いた。隙間から大柄な男性が顔を覗かせる。
「……お前がわざわざ来るとは珍しいな。どうかしたのか、ロハ」
ロハは持っていた袋をネロに渡すと言った。思わず受け取ってから、彼は困惑したように袋の中を覗き込んだ。彼の目が見る見るうちに輝き出す。
「ロハ、これは……?」
「今朝作った焼き菓子なんですけど、作り過ぎてしまったので、よかったら貰っていただけませんか」
彼女の言葉に彼は嬉しそうに微笑んだ。
「では、頂くよ。ありがとう、ロハ」
「こちらこそ、貰っていただいて助かります。お口に合えばいいんですけど」
同じように満面の笑みを浮かべてぺこりと頭を下げるとロハは、それではと踵を返す。
――あんな風に笑う人だったんだ。
初めて見た彼の一面に、彼女は素直な驚きを覚えた。いつだって無表情で寡黙で、元々強面なのが相まって、とても恐ろしい人に見えていたけれども。
もちろん、見た目が怖いというだけで、人柄がいいのは皆に知られているところだ。
周囲をよく観察しており、そっと人のフォローに回ることができるし、口数は少ないものの、その言葉には人に対する気づかいや思いやりがある。決して怒らず威張ることもない。物静かで何事にも文句を言わず、近衛兵の中でも実力も申し分ない彼は、ロハにとって尊敬する先輩――。
ふいに先ほどのネロの笑顔が脳裏に浮かぶ。トトトと鼓動が速くなってきた。
(あ、やば)
自分の顔に熱が集まっていくのがわかる。今、鏡を見たら熟れた林檎のように真っ赤な顔をしているに違いない。
――美味しいって思ってくれればいいなあ。
この気持ちが恋なのかどうかはわからないけど、そうならばとても嬉しい。ロハは知らず知らず、口元に笑みを浮かべながら、自室への道を歩いている。