手のひらの宇宙
「ママー!これ、欲しい」
6歳になった少女が手にしていたのは、青や緑、透明にキラキラ輝くビー玉。
「そんなもの、本当に使うの?すぐ飽きるでしょ」
「使う!大事にするの」
「そう言って…お昼ご飯の後にしたガチャガチャ、早速落としたばかりでしょ!」
お昼ご飯の後に、ガチャガチャで手に入れた小さなマスコットは、ポケットからいつの間にか消えていて、泣いて悔しがっていたのはまだ数時間前の話だった。
大事そうにポケットに入れていたのは知っていたし、落としたのは不運だったと思う。でも、あれもこれも欲しがるものを与えてあげられない。
お菓子も欲しがって買ってあげたし、今日はもうおしまい。そう思っていた。
「そうだけど…でも…」
6歳になったとはいえ、まだ自分の気持ちのコントロールなんて出来ないのは目に見えてる。36歳の私だって、自分の気持ちを完璧にコントロールなんて出来ないのだから…。泣きそうに、言葉を紡ぐ子どもに、私の意志は折れそうだ。
「…そんなに高いものじゃないんだから、買ってあげてもいいんじゃないか」
(そう言って、先週もガチャガチャとおもちゃ両方買ってあげたじゃない)心の中で思う。うちは裕福ではない。貯金たって、そんなにない。ローンだって残ってる…。出かけるたびに、何かを与えている今が正解なのか…
「パパは甘いよ…」
「良いだろ」
「パパ、ありがとう!!」
「ビー玉、どうしてこれが欲しいんだ?」
パパが子どもに聞く。子どもは、ニコニコで答えた。
「この前に見た、宇宙みたいで綺麗でしょ。宝物にするの」
「先週行った、プラネタリウムで見たやつだな。確かに…宇宙に見えないこともない…」
パパはじーっとビー玉を見つめて、レジへ向かった。
私にはない。パパの良いところなのかも知れない。
子どもがそれを、嬉しそうに追いかける後ろ姿を見た。
「宇宙か…」
私は棚に残っているビー玉を見つめた。
先週プラネタリウムで見た、宇宙。あの時、確かに娘は目をキラキラさせて集中していた。
好きなんだろうなと思っていた。
まさか、ビー玉を見て宇宙を思い出しているなんて…。
子どもの見る世界は、なんて美しいんだろう。
レジを通した後、店の前のベンチでビー玉を手に握りしめて、ニコニコの娘を見つける。
娘の手の中に、今宇宙があるのだ。
私を見つけた娘が走ってきて、握りしめていた手を広げた。
そこにあったのは間違いなく、手のひらの宇宙。
『鏡の中の自分』
「ユウくん」
「ん?どうした?」
「ふふ、呼んでみただけ」
「えー、なんだよそれ」
可愛いじゃん。心の中で、思う。俺の彼女は可愛い。
そこら辺の女じゃ比べものにならない。
サラサラの肩までの髪、一重だけど、ぱっちり二重のナチュラルメイクも上手だし、身体もふわふわしてて、料理も家事もできる。何でも諦めずに努力するし、心が広くて、そうそう怒らないし、笑いのツボが似てる。彼女のことだけで、作文が書けそうだ。
「今度の日曜日さ、暇?」
「暇だよ、どこか行くか?」
「うん、好きなアニメの映画がそろそろ始まるんだけど、一緒に行ってくれない?」
「おー、いいよ!」
「ありがとう、来週も会えるの嬉しい。楽しみにしてるね!」
可愛い、可愛い、可愛いじゃん。
こんなに女に入れ込んだことないんだよ。
全部初めてなんだ。
彼女が俺の名前を呼ぶたびに、胸が疼く。
あぁそうだ、彼女の声も、めちゃくちゃ好き。
あまりに眩しい彼女に、自分が恥ずかしくなって、
ふ、と目線をずらした。
壁際にインテリアとして置いてある丸い鏡が目に入る。
鏡の中の自分が見えた。
彼女と会うまでは、鏡を見ることが嫌いだったんだ。
太っていて、学生の時から変わらない眼鏡で、カッコよくもない天パ。酷いドライアイで、コンタクトも出来ず、美容室でストレートパーマを掛けても、すぐに落ちる酷い天然パーマ。野菜大好きで、それほど大食いではないのに、無駄に脂肪を蓄える身体も、親からも友人からも馬鹿にされる。嫌いだったのに…。
たったひとり。彼女に、俺自身を見てもらえたから、認めてもらえたから、それだけでこんなに自信になるとは思わなかった。
鏡に映る、情けないほど緩んだ顔。
俺はきっとこれからも彼女が、可愛くて仕方ないのだ。
俺を選んでくれたことに毎日感謝してる。
だから、彼女の1番の味方でありたい。
鏡
水垢一つ無い、きれいな鏡。
そこに映る自分の口元を見ながら、赤い、グロスを付ける。
鏡に映る自分は、滑稽で、汚くて、嫌悪感しかない。
私は、自分が大嫌いだ。
親からも「可愛くない」と言われてきた。
兄からも、「汚い、死ね」と何度も言われた。
自分が可愛くないことなんか、自分が一番分かっている。毎日鏡の中に映る自分を見ているのだから。
でも私は負けず嫌いで、結構心は強い方だと思う。
卑屈になんてなってやらないし、誰からどれだけ貶されて、消えてしまいたいと思っても、その度に自力で這い上がってきた。時間をかけても、必ず心を保ってきた。
落ち込むたびに、図書館に通って漫画や小説を読む。
私の想像する、本の中の主人公は、だいたい可愛くて、困難があってもそのままの自分でいる主人公を愛してくれる人が現れた。
本にのめり込んでいると「私にもいつか…」なんて、憧れの気持ちが湧いてくるのだけれど、現実はそう上手くいかないこともわかってる。
でも、本の中の主人公を目指したくて、毎日少しだけ努力してきたつもりだ。清潔感を保つために、石鹸から見直して、お化粧やファッション、ネイルもしたし、エステも行ってみた。美容院だって何件も回って良さげなところを探してみた。
でも、どれだけ「キレイ」を目指しても…
鏡の中に映る自分を好きにはなれない。
私が一番、よく分かってる。
「でも、諦めたくない」とまた本の世界にのめり込む。
繰り返す、厄介な感情。
鏡をみるたびに思い出す、過去に言われてきた罵り。
負けない、負けない。
「今日も、きれいになれた」
嘘でもいい。精一杯の笑顔を鏡の前で作る。
誰からも愛されないなら、私だけでも私を愛してあげないと。
鏡に映る私は、昨日より少しでも、きれいになれたかしら。
「雨は、嫌いじゃないわ」
ぽつり。屋根の端から水滴が溢れた。
「あなたは?」
縁台に腰掛けて、降り止まない雨を仰ぎながら、隣に腰掛ける男に問う。いつもにこにこしていて、本心の読めない彼も、同じように屋根の向こうに見える、暗く淀んだ空を見ていた。
「そうですね…」
少し考えるような表情をしてから、10歳以上歳上には見えない幼い表情で笑い、こちらを見た。
「こうやって、あなたとふたりで雨宿り出来ているんだから、今は感謝していますよ」
「…そう」
はっきりとそう言われてしまえば、なんだか少し恥ずかしくて、私は目を反らして視線を雨に戻した。顔が熱くなるのを感じる。
「そろそろ、告白の返事をいただけませんか?」
「…そうね」
1ヶ月ほど前、この男から「好きだ」と言われている。
私には両親や家族は既に死んでいておらず、事情があって、特殊な環境下で過ごしている。この男が管理しているアパートの一室を借りて、この男が紹介してくれた職場で働いている。
今日と同じような、降り止まない雨の中で、傘も差さず閉店後の店の前で佇んでいた所を、私はたまたま通りかかった彼に拾われたのだ。こんな初対面の怪しい女のことを、何故か受け入れ、世話を妬いてくれる。
出会って半年を過ぎた。与えられた仕事や、頼まれ事は全部受け入れて、真面目にこなしてきたと思う。頑張りすぎて、体調を崩すことも度々あった。彼は仕事終わりに看病に来てくれたり、病院へ連れて行ってくれたり…休日には外に連れ出してくれ、手料理もご馳走してくれた。「私にはもったいない」と断ったこともある。でも、彼は少し驚いた顔をして、優しくほほえみ、にこにこと笑っていただけだった。
『僕には家族はいないんだ。施設で育ったから、身内も居ない。施設で母親のように思ってた先生は、8年も前に病気で亡くなったし、学生の時から仲良くしてた友人が5人居たんだけど、みんな事故や病気で…最後のひとりが去年亡くなってしまったんだよね。』
彼は可哀想な人だと思った。そして、孤独なのは私と同じだと思った。でも孤独なんて感じさせない、切なくも優しい笑みで彼は笑っていたのだ。
『手にしたはずのものを、あまりに全部失うから、もう何も持たないと思っていたんだけどね。君が好きだ。そばにいたいし、手放したくないと思ってるんだよね。』
彼から1ヶ月ほど前に、言われた言葉。
彼といると楽しいし、飽きない。私がこんなに笑って、人と過ごすことがこんなに暖かいのだと幸せだと感じていた。返事をしないでいたのは、私は自分に自身がないからで…
「ねぇ」
「え、あ…」
考え込んでいて、いつの間にか目の前に彼の顔があることに気づかなかった。耳が熱くなるのが分かった。
徐々に近づいてくる、彼の顔。
私は咄嗟に目を閉じる。
「…それは、返事と捉えてもいいんですか?」
耳元で、名前を呼ばれて、身体が強張る。
先ほどまでうるさいくらいに聞こえていた、雨の音は聞こえない。うっすらと目を開けると、彼のため息が聞こえた。
「本当に、どうしようもないこだ」
いつか、どこかの誰かが言っていたじゃない?
「死ぬこと以外はかすり傷」
「生きてるだけで丸儲け」
その言葉があったから、
私は今、強く生きてると思う。
泣かないよ。
簡単に涙なんか、見せてやんないよ。