『鏡の中の自分』
「ユウくん」
「ん?どうした?」
「ふふ、呼んでみただけ」
「えー、なんだよそれ」
可愛いじゃん。心の中で、思う。俺の彼女は可愛い。
そこら辺の女じゃ比べものにならない。
サラサラの肩までの髪、一重だけど、ぱっちり二重のナチュラルメイクも上手だし、身体もふわふわしてて、料理も家事もできる。何でも諦めずに努力するし、心が広くて、そうそう怒らないし、笑いのツボが似てる。彼女のことだけで、作文が書けそうだ。
「今度の日曜日さ、暇?」
「暇だよ、どこか行くか?」
「うん、好きなアニメの映画がそろそろ始まるんだけど、一緒に行ってくれない?」
「おー、いいよ!」
「ありがとう、来週も会えるの嬉しい。楽しみにしてるね!」
可愛い、可愛い、可愛いじゃん。
こんなに女に入れ込んだことないんだよ。
全部初めてなんだ。
彼女が俺の名前を呼ぶたびに、胸が疼く。
あぁそうだ、彼女の声も、めちゃくちゃ好き。
あまりに眩しい彼女に、自分が恥ずかしくなって、
ふ、と目線をずらした。
壁際にインテリアとして置いてある丸い鏡が目に入る。
鏡の中の自分が見えた。
彼女と会うまでは、鏡を見ることが嫌いだったんだ。
太っていて、学生の時から変わらない眼鏡で、カッコよくもない天パ。酷いドライアイで、コンタクトも出来ず、美容室でストレートパーマを掛けても、すぐに落ちる酷い天然パーマ。野菜大好きで、それほど大食いではないのに、無駄に脂肪を蓄える身体も、親からも友人からも馬鹿にされる。嫌いだったのに…。
たったひとり。彼女に、俺自身を見てもらえたから、認めてもらえたから、それだけでこんなに自信になるとは思わなかった。
鏡に映る、情けないほど緩んだ顔。
俺はきっとこれからも彼女が、可愛くて仕方ないのだ。
俺を選んでくれたことに毎日感謝してる。
だから、彼女の1番の味方でありたい。
鏡
水垢一つ無い、きれいな鏡。
そこに映る自分の口元を見ながら、赤い、グロスを付ける。
鏡に映る自分は、滑稽で、汚くて、嫌悪感しかない。
私は、自分が大嫌いだ。
親からも「可愛くない」と言われてきた。
兄からも、「汚い、死ね」と何度も言われた。
自分が可愛くないことなんか、自分が一番分かっている。毎日鏡の中に映る自分を見ているのだから。
でも私は負けず嫌いで、結構心は強い方だと思う。
卑屈になんてなってやらないし、誰からどれだけ貶されて、消えてしまいたいと思っても、その度に自力で這い上がってきた。時間をかけても、必ず心を保ってきた。
落ち込むたびに、図書館に通って漫画や小説を読む。
私の想像する、本の中の主人公は、だいたい可愛くて、困難があってもそのままの自分でいる主人公を愛してくれる人が現れた。
本にのめり込んでいると「私にもいつか…」なんて、憧れの気持ちが湧いてくるのだけれど、現実はそう上手くいかないこともわかってる。
でも、本の中の主人公を目指したくて、毎日少しだけ努力してきたつもりだ。清潔感を保つために、石鹸から見直して、お化粧やファッション、ネイルもしたし、エステも行ってみた。美容院だって何件も回って良さげなところを探してみた。
でも、どれだけ「キレイ」を目指しても…
鏡の中に映る自分を好きにはなれない。
私が一番、よく分かってる。
「でも、諦めたくない」とまた本の世界にのめり込む。
繰り返す、厄介な感情。
鏡をみるたびに思い出す、過去に言われてきた罵り。
負けない、負けない。
「今日も、きれいになれた」
嘘でもいい。精一杯の笑顔を鏡の前で作る。
誰からも愛されないなら、私だけでも私を愛してあげないと。
鏡に映る私は、昨日より少しでも、きれいになれたかしら。
「雨は、嫌いじゃないわ」
ぽつり。屋根の端から水滴が溢れた。
「あなたは?」
縁台に腰掛けて、降り止まない雨を仰ぎながら、隣に腰掛ける男に問う。いつもにこにこしていて、本心の読めない彼も、同じように屋根の向こうに見える、暗く淀んだ空を見ていた。
「そうですね…」
少し考えるような表情をしてから、10歳以上歳上には見えない幼い表情で笑い、こちらを見た。
「こうやって、あなたとふたりで雨宿り出来ているんだから、今は感謝していますよ」
「…そう」
はっきりとそう言われてしまえば、なんだか少し恥ずかしくて、私は目を反らして視線を雨に戻した。顔が熱くなるのを感じる。
「そろそろ、告白の返事をいただけませんか?」
「…そうね」
1ヶ月ほど前、この男から「好きだ」と言われている。
私には両親や家族は既に死んでいておらず、事情があって、特殊な環境下で過ごしている。この男が管理しているアパートの一室を借りて、この男が紹介してくれた職場で働いている。
今日と同じような、降り止まない雨の中で、傘も差さず閉店後の店の前で佇んでいた所を、私はたまたま通りかかった彼に拾われたのだ。こんな初対面の怪しい女のことを、何故か受け入れ、世話を妬いてくれる。
出会って半年を過ぎた。与えられた仕事や、頼まれ事は全部受け入れて、真面目にこなしてきたと思う。頑張りすぎて、体調を崩すことも度々あった。彼は仕事終わりに看病に来てくれたり、病院へ連れて行ってくれたり…休日には外に連れ出してくれ、手料理もご馳走してくれた。「私にはもったいない」と断ったこともある。でも、彼は少し驚いた顔をして、優しくほほえみ、にこにこと笑っていただけだった。
『僕には家族はいないんだ。施設で育ったから、身内も居ない。施設で母親のように思ってた先生は、8年も前に病気で亡くなったし、学生の時から仲良くしてた友人が5人居たんだけど、みんな事故や病気で…最後のひとりが去年亡くなってしまったんだよね。』
彼は可哀想な人だと思った。そして、孤独なのは私と同じだと思った。でも孤独なんて感じさせない、切なくも優しい笑みで彼は笑っていたのだ。
『手にしたはずのものを、あまりに全部失うから、もう何も持たないと思っていたんだけどね。君が好きだ。そばにいたいし、手放したくないと思ってるんだよね。』
彼から1ヶ月ほど前に、言われた言葉。
彼といると楽しいし、飽きない。私がこんなに笑って、人と過ごすことがこんなに暖かいのだと幸せだと感じていた。返事をしないでいたのは、私は自分に自身がないからで…
「ねぇ」
「え、あ…」
考え込んでいて、いつの間にか目の前に彼の顔があることに気づかなかった。耳が熱くなるのが分かった。
徐々に近づいてくる、彼の顔。
私は咄嗟に目を閉じる。
「…それは、返事と捉えてもいいんですか?」
耳元で、名前を呼ばれて、身体が強張る。
先ほどまでうるさいくらいに聞こえていた、雨の音は聞こえない。うっすらと目を開けると、彼のため息が聞こえた。
「本当に、どうしようもないこだ」
いつか、どこかの誰かが言っていたじゃない?
「死ぬこと以外はかすり傷」
「生きてるだけで丸儲け」
その言葉があったから、
私は今、強く生きてると思う。
泣かないよ。
簡単に涙なんか、見せてやんないよ。
大きなお腹を抱えて、歩いた日々。
常にスイカを抱えているようだった。
毎晩の前駆陣痛に、布団の中で丸まり耐えた。
いつ抱けるのかと、心待ちにしていた。
片腕に点滴を付けられ、陣痛に声を出す。
「これで産む」と、案外冷静だった。
産まれたのに、聞こえない泣き声。
「泣いて!泣いて!」と分娩台の上で叫んだ。
小さな手、足。
薄い髪の毛。
柔い身体。
元気に育った。
ひと晩泣き続けた長女とは違い、夜はよく寝てくれる子。私も3時間を超えて寝てしまい、慌てて起きると次女の呼吸を確かめる毎日。
寝返り、ハイハイ、おすわり、ひとり立ち。
ママ追いも長女大好きなおかけで、負担が分散された。
姉追いされて困る長女が、なんとも優しく、3歳離れた次女の面倒を見てくれる。
長女はママ追いが酷くって、トイレの前でドンドンガチャガチャ。どこまででも付いてきて、ノイローゼになりかけたのに…妹の面倒を見れるまでに成長したんだね。
歩いて、走って、保育園入園。
保育園ってすごくて、驚くほど成長して帰ってくる。
いつの間にか、出来ることが増えていて、
ママがいなくても平気になっていた。
それは少し悲しいことのようで、でも仕事を終えて迎えに行った時の、満面の笑みはとても強くて安心出来るものだった。
たくさん風邪をひいて、仕事を休んだ。
たくさん、頭を下げた。
ヒールや派手で引っかかるアクセサリーは避けるようになった。自分の服にお金をかけず、子どものことをお金を使うようになった。
ある時、次女が風邪でけいれんを起こし、意識を失った。抱っこしていた手の中で、全身の力が抜け、3分程のけいれん。
すぐに救急車を呼んだ。
次女は病院へ着いてようやく意識を取り戻した。
朦朧としている中、焦点の合わない目線。
手の震えが止まらなかった。
産まれた日のことを思い出す。
「泣いて、泣いて」
寝不足と疲れで「いい加減にして!泣かないで」と何度も思ったけど…真っ先にそのことが思い浮かんだ。
入院3日目で、ようやくご飯も食べられるようになり
座れるようになった。まだぐったりはしていたけど、座っている時間が少しづつ増えた。
生きていて、良かったと泣いた。
悪いことは続くもので、その数ヶ月後。
今度は長女がけいれんを起こした。
熱のないけいれん。
意識を失い呼吸が止まり、次女の時を思い出した。
数分で治まったその後は、普段と変わらない長女に会えた。
2度目のけいれんを起こし、
小児てんかんと診断された。
何度経験しても、なれることはなく、長女のけいれんが起こるたびに手が震える。
子どもが産まれて、生きている。
それが本当に奇跡なのだと思えた。
お風呂やプールで倒れて、溺死するかもしれない
階段や遊具で倒れて、転落するかもしれない
気の休まらない不安な日が続く。
けいれん発作が長く続き、止まらないかもしれない。
すぐに止まっても繰り返し、障害が残るかもしれない。
今日と同じ日々は、2度とこない。
だから、後悔しないようにしたいと、長年勤めた会社の正社員を辞めた。
少しでも子どもと居られるように、パートで転職した。
今まで見たことのない子どもたちを見れたのだから、
後悔はしていない。
どれもこれも、もうすでに、過ぎ去った日々…
明日はどんな日になるのだろう。
こうしている今も、もう一瞬で過ぎ去っていく。