ひとひら
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4月。毎年この時期になるとえも言われぬワクワク感が胸を満たす。新しい出会いがあろうとなかろうとに関わらずだ。ふと春の匂いに誘われて窓を開けてみる。母校でもある近所の小学校は桜が満開だ。ちょうど子供たちが登校しているところだった。みなが弾ける笑顔をしている。その様子を見て懐かしくなったか、あるいは春の匂いの仕業か、ともかく、私は昔よく遊んだ公園に足を運んでみることを思いたち、弾かれるように家を出た。
公園は案外近かった。私が大きくなったからだろう。もう20年ぶりくらいだ。桜の木の下にあるブランコに腰をかける。ブランコも20年ぶりだ。鎖が少し窮屈な気がした。
公園に来たは良いものの、何もすることがない。かと言ってすぐ帰るのも惜しい気がして、しばらくブランコに揺られていると、女性が1人公園に入ってきた。見覚えのある顔だった。初恋の相手だった。面影がある。しばらく連絡をとっていなかったどころか連絡先すら知らないし、そもそも正確な名前さえ思い出せない。ただ、かつての思い出は鮮明に残っている。この公園の、まさに今座っているブランコで遊んだことも。彼女も春の匂いに誘われたか、あるいは懐かしさを感じたのだろうか。どちらでも良いように思われるが、なぜだか私にとっては重要なことのように感じた。
向こうもこちらに気づいたようだ。彼女もどうやら同じような考えらしく、こちらの様子をちらちらと伺ってくる。ややあって、こちらに向かって歩いてきた。
春の風が、桜の花をひとひら私の肩に落とした。
何かが始まる合図のような気がした。
新しい地図
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外に出てみると、いつのまにか雨が上がっていた。
薄汚れた東京の街を太陽が燦々と照らしていた。空を見上げると焼け付くように眩しかったが、それよりも視界を遮る前髪の方が鬱陶しくなり、手櫛でかきあげてじっと太陽を見つめた。
水溜まりを避けながら駅を向かう。いつもと同じ道だ。もう何年も変わらない。だがしかし、その事実が私の足取りを日に日に重くさせる。
同じ道を歩いているようで、私は迷っているのだと思う。いつからだろうか。間違った道を進み、いつのまにか引き返せないところまで来てしまった。
ポケットに両手を突っ込む。新しい地図を求めて中を弄る。そんなところにあるはずがないとはわかっているが、そうしたくなったのだ。
桜
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今日はあくびがよく出る。
春の陽気に誘われた眠気の妖精が、形となって体外へと出ていく。電車の揺れが心地よく、このまま眠ってしまいそうだ。
周りを見渡すと、皆同じように眠たそうにしている。
みんなで一眠りしようか。桜の夢を見ながら。
涙
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私は涙脆い方だ。
ドラマでよくある陳腐な御涙頂戴のシーンでも涙を流してしまう。
それだけ感受性が豊かで、色んなことに一喜一憂して、生きづらくもある人生だ。時々嫌になる。
数年前、友人が亡くなった。学生時代を終え、人生これからという矢先だった。
学生時代、一番長い時間一緒に過ごしたと言って良い、大切な友人だった。
涙は出なかった。
人は大切なものを失うとこういう感情を抱くのかと、現実の事態とは裏腹に、いやに浅く、冷静な感想が出てくるのみだった。
人の命は、蝋燭の火がふっと消えるように、かくも儚い。けれど、ゆらゆらと熱を滾らせている限りは、周りの人に温かみを届けている。ケーキに立てられた蝋燭が、どこかで誰かの誕生日を祝っている、そんな姿を想起させる。人とはそういう存在だ。
少し昔のことを思い出してしまった。
私は蝋燭の火を吹き消すように、ふうっと息を吐き、涙を拭った。
もう二度と
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もう二度と会えない人ってどれくらいいるだろう。
一回だけ行った美容院で髪を切ってもらった人、昔泊まった旅館の仲居さん、もしかするともっと身近な人もそうかもしれない。多分、これまでの人生で相対した人のほとんどは「もう二度と会わない人」だろう。
一期一会という言葉がある。茶道に由来する言葉で、一生に一度しかない出会いと心得て、精一杯のおもてなしをしようという精神を表している。では、その出会いは偶然の産物だろうか?私はそうではないと思う。各々の選択の結果、運命的に相見えることになったのだ。先ほどの例に戻ると、私がクーポンに誘惑されて美容院に出向いたのも、美容師さんが美容師を志したのも選択の結果だ。
今、この文章を読んでいるあなたにも同じことが言える。このアプリをインストールした理由は人それぞれだろうし、今日、たまたまアプリを開いているのも、全てが選択の結果のはずだ。一期一会は、人と人との出会いだけじゃない。物や文章についても言えることだ。私はもう二度とこの文章を書けないし、あなたも、同じ文章を読むことは二度とない。この世はすべてが運命的で、毎日がドラマの連続である。そう考えると、何か壮大な物語の主人公になった気がして、ちょっとばかり、楽しくなる。