曇り
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「曇り」という言葉は、一般的にはネガティブなニュアンスで使われることが多い。「晴れ」がポジティブな意味で使われるように。だが私は「曇り」に肯定的な印象を持つ数少ない人間の1人であることをここに強調しておきたい。
私は晴れの日に出かけるのが苦手だ。太陽は私の全てを照らし、暗い影を否応なしにはっきりと映し出す。私が何者であるかを洗いざらい白状させられているような感覚に陥る。私は何者でもないし、何者にもなりたくないのに。だが曇りの日には、雲の影が世界を覆って私の影を隠してくれる。何者にもならなくて良いのだと、自分を肯定してくれている気がするのだ。もはや自分自身を隠す傘だって要らない。ありのままで良いのだから。
桑田佳祐さんの有名な曲に「明日晴れるかな」というタイトルがある。私ならこう書きたい。
「明日曇るかな」
「bye bye...」
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東京で学生時代の友人の結婚式があった。ススキ花火の弾ける火花の如く賑やかな時間を過ごした。
1人関西の田舎に出てきて泥のような日々を送っている私と違い、着実に人生を進めている2人は輝かしく見えると同時に、異世界の珍奇な生命体の様にさえ感じた。それほどに、今の自分の生活とは無縁な奇怪さを感じざるを得なかった。ただ、その場にいる間は、私も異世界の生命体の一員になり、身体の内側から滴る泥溜まりに足を取られまいと必死になりながら蜂のようにダンスを踊った。何食わぬ顔で、懐かしい友人と笑い合う姿は我ながら道化そのものだった。友人と別れ1人になると、私は顔にへばりついた羽虫を払うように仮面を脱ぎ捨てて、再び泥の世界に戻った。昔の自分はもういない。私にとって過去の自分はもはや、自分の言葉をあえて使うなら異世界の生命体であり、心地の良いものではなくなっていた。
「次は名古屋、名古屋...」
車内アナウンスで我に返る。ふと窓を見ると目が合った。これは私だろうか。それとも仮面を被った道化か。いずれにしても、今は1人になりたかった。こちらが手を振ると、あちらも手を振り、ふっと微笑み返してきた。
「時間よ止まれ」
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「止まれっ!!!」
しかしその叫び虚しく、無情にも球は狙いの一つ先のポケットに落ちた。ルーレットで10万円負けが決まった瞬間だった。
「祐樹ほんとツイてねーな」
隣で笑いながら和彦が言う。和彦は3万勝っているらしく、機嫌が良かった。
「俺らトータルでみたら負けてんだぞ?これじゃ飯にもありつけないぞ」
「なんでトータルでみてんだよ。自分で負けた分は自分で取り返せよ」
「和彦って案外冷たいよな」
「時間を止められたらな、ポーカーもルーレットも百戦百勝なのにな」
「馬鹿、なんで俺らだけ動けるんだよ。真面目に取り戻す術を考えてくれ」
そう話しながら俺は既に次の賭けのことを考えていた。
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結局、負けを取り戻そうと闇雲になった結果、俺はさらに5万負け、和彦も欲を出したのが運の尽き、終わってみれば3万の負けになっていた。2人して肩を落として店を後にしたが、バカをするのは2人の常だった。1週間もすれば笑い話になっていた。
しかし和彦はもういない。突然、「俺は幸せを見つけた。お前も、お前自身の幸せを探してくれ」とメールが来て、それから連絡がつかなくなったのだ。前触れは何もなかった。いや、俺が気づいてなかっただけなのかもしれない。彼女でもできたんだろうか。あるいは、もともと彼女がいて婚約したんだろうか。よく思い返してみると、俺には和彦の知らないことがたくさんあった。
「あの頃に戻りてえな」
カジノの勝ち負けなんかどうでもいい。もし今の自分があの時に戻れるなら、和彦の言ったことを肯定していたかもしれない。
「ああ、時間、止めてぇな」
「俺、あの頃の友情を取り戻してぇよ」
そっと目を閉じると、ロープの強度を確認し、首にかけていた手を離した。そして、そうしなければならない衝動に駆られて少し背筋を伸ばした後、乗っていた椅子を勢いよく蹴り倒した。
「俺、幸せを見つけられなかったよ」
心の中でそう言いながら、意識が遠のくのを感じた。
「君の声がする」
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夢を見た。楽しい夢だった。テーマパークではしゃぐ君の笑顔、僕を呼ぶ声。別れてから5年が経つけれど、何ひとつ変わらない。夢に出てくる君はいつも昔のままだ。でも現実の君はきっと変わっているだろう。君は僕の夢を見るのだろうか。その夢に出てくる僕も、あの頃のままだろうか。
カーテンを開けると心地よい朝の日差しが僕の顔を明るく照らした。あまりの眩しさに目を細めたが、しっかりと前を見ていた。
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夢を見た。とても、とても苦しい夢だった。思い出したくないのに、今でもたまに夢に見る。いつのまにか楽しかった記憶が薄れ、嫌な記憶だけが脳にこびりついて離れない。忘れたいのに、そう思えば思うほど追いかけてくる。5年経ったあなたは変わっているのかな。
外は雨が降っていた。私は雨が好きだ。いつでも雨は心の雑音を消してくれる。君は独りじゃないんだと語りかけてくれているような気がする。雨の声に耳を傾けながら、私はそっと目を閉じた。