【子供のように】
「ねぇ、ゆるして」
静寂の水面に、ぽつんと雫が落ちた。
何に希っているのか、何に祈っているのか、何に、何に。
苛ついてグシャグシャにした紙みたいに考え全部が混じり合って、分からない。
「ゆるして」
「ゆるして」
「ゆるさなくてもいいから、ゆるしてほしくて」
何を言っているのだろう。何に願っているのだろう。
そんな簡単なことさえも、立ち昇る水蒸気みたくすぐに消えて分からなくなってしまう。
真っ暗なキャンバスに浮いている真上の月がアンバランスなようで、どこまでもマッチしていて。
ゆるして、なんていたいけな言葉に感動したように、雲に身を隠した。
【奇跡をもう一度】
朝起きると外で小鳥が鳴いている。
小鳥の囀りは、歌を歌っているなんてよく例えられたりするが、生まれてこの方ずっと田舎に住んでいるもんだから、もはや毎日流れて気にも止めなくなってしまった名曲みたいなものだった。
眠くてとろとろ下がってくる眼を擦りながらカーテンを開けると、朝特有の涼を纏った日が差し込む。多分、絵にしたら青色系の光なんだろう。
それでようやく脳みそが起きなければいけない時間だと気付いて、欠伸をひとつ。
ちょっとだけ窓を開けてみると、冷たい空気と一緒にペトリコールが部屋を濡らしていった。
ああ、昨日の夜は雨が降ったのかな、なんて思いながら朝の空気を吸い込むと、やっとぱっちり目元が開いたような気がした。
朝日に照らされて、宵の雨の残りがキラキラ輝く。
それほど明度が高くないそれが眩しくて目を細めた。
ああ、こんな日々の奇跡をまたもう一度味わえたら。
続いていくちょっとした幸福に埋もれる日々は、奇跡で溢れている。
【ジャングルジム】
家の中はどこか狭苦しくて、一言近くの公園に出掛けると玄関で叫ぶように言ってから、返事も待たずに外に飛び出した。
もしかしたらお母さんが心配して玄関から飛び出してくるかもしれない、とドキドキしながら道を駆ける。時々後ろを振り返って、誰もいないことを確認すると心のドキドキが少なくなって少し残念に思う。
いや、別に追いかけられたかった訳じゃないし、別にいいんだけどね。
全力で走ってきてぜぇはぁ言う口を休めるように、小走りにスピードになる。
歩かないと到底使ってしまった体力は戻ってきそうになかったが、もしかしたらまだ追いかけてきてる途中かも、と思うと走る足を止められなかった。
太陽が熱い。風が涼しい。
まだ夏を抜けきれてない暑さに少しイラつきながら、全身で感じる風の心地よに身を委ねる。
あ、ここの道は右から行ったほうがちょっとだけ早い。
真っ直ぐ走っていた足をぐっと右に向けた。
先程の車が通れる大きさの真っ直ぐな道とは打って変わって、グネグネ曲がった自転車ひとつが通れたら御の字の道を走る。
時々別れ道があったが、何度も公園に行っている自分の足はもう考える間もなく正解の道を選ぶ。
そろそろ体力の限界だ、というところで、やっと公園の入口に着いた。
はぁはぁと膝に手を当てて息を整えながら公園の中を覗く。
誰もいないことと、ついでに不審者が何処にも隠れてないことを確認して、走り過ぎで少し震える足を無視して公園の中に入った。
取り敢えず座って休もうと、目の前にあるジャングルジムの中に入って棒に腰掛けた。ベンチに座らなかったのは、前に鳥がフンを落としているのを見たから。
ジャングルジム捕まっている手から鉄の冷たさを感じながら、足をブラブラとさせる。
火照った体にもっと風が欲しくなって、ジャングルジムの一番上を目指して登ることにした。
檻のようになっている鉄の棒をよじ登って頭を上に出すと、新鮮な空気が吸えたような気分になる。ジャングルジムの中はスカスカだから別にそんなことはないんだけども。
頭を出したジャングルジムの頂上に体を引き上げて、落ちないように注意しながら横になる。
場所が高くなったぶん風が強く吹いているように感じて心地よかった。
でも、遮るものがひとつも無くなったぶん太陽はジリジリ肌を攻め立ててくる訳で。
強い光を目前にした目がチカチカして、思わず手のひらで太陽を覆い隠す。
それだけでも大分と抑えられた陽光に少し安心していると、自分の手のひらだけでは抑えられずに指の間から漏れていた光がスッと消える。
何だと思って上に上げていた手を下ろすと、太陽が雲に覆われて見えなくなっていた。
【心の灯火】
ちょいとあんた、そこのあんただよ。そう、あんた。
最近、身内に不幸かなんかは無かったかい。随分と痩けた顔をしてるからね。
そうかい、かっさんが。そりゃ大変だったねぇ。
でもそんなに見るからに弱々しくなっちゃいけないよ、妖怪にでも連れてかれちまう。
心の炎ってのは案外小さいもんだ、手で炎の部分を握ったら消えちまうくらい。
あんたはそれが更に小さくなって、しかも弱々しいときてる。
浮世の者じゃないナニカに狙われるのも時間の問題さ。
だからしゃきっとしな!団子でも食わせてやるからさ、な?
――
布団の中に入って天井の木目を目にした時、はぁと無意識に溜息が零れ落ちる。
かっさんがいなくなってしまってからどうも元気が出なくて、いつもの調子がでない毎日。食欲も出なくて好物の饅頭さえ喉を通らなかったのに、今日食べさせてもらった団子はするする胃の中に収まっていった。
こんなうまい団子食べたことない、と言うと、そりゃ良かった、もっと食べなと言われて。団子だって無料じゃないだろうに、浮世にも優しいやつがいるもんだ。
はぁ、と二度目の溜息が口から吐き出される。だけど今度はいつもみたいな寂しさを含んだ息じゃなくて、少し満足げな感じを含んだ息だった。
明日も生きるんだから仕事をしなきゃならない、早く寝ちまおう。
暗闇に随分と慣れてしまった目を閉じて横を向く。かっさんが死んじまってから嫌な夢を見ることが多かったが、今夜は団子の夢でも見れそうだ。
団子は御手洗がいいな、なんて少し欲望深いことを考える。
そうしている内に、俺は眠りにすとんと落っこちた。
すぅすぅと寝息が聞こえる部屋の中、暗闇でなにかが蠢いた。
姿を見ることは出来ないが、なにかがいる夜闇を見ると 、嫌な予感を極限まで高めた感覚が襲ってくる。
闇が移動する。布団の中の男の胸のあたりに、ぴとっと手のようなものを置いた。
ずぶり、と手が沈んで胸の中に入る。何かを探すようにがさごそ胸の中を掻き回して、手を引き上げるとそこにはぽっと光る灯火があった。
暖かなその光を、なにかは手で握り潰そうとした。
ふにゃん、と火が揺らめく。だが、それだけだった。
前の男の灯火なら直ぐに消えていただろうが、団子の力なのか……は分からないが、随分と灯火が強くなっていたようだ。
なにかは火を消せないか数回試したあと、諦めたのか天井の方の闇に紛れて消えた。
一命を取り留めた男は、今さっき自分の命の危機が迫っていたなんて全く知らない顔ですこすこと寝ている。
今見ている夢は、やっぱり団子だろうか。
【香水】
香りと記憶が結びついている、というのは有名な話だ。
香りというものは海馬に直接刺激を与えるらしく、記憶と香りは一緒に脳に収納されていることがある。
昔嗅いだことの匂いで芋づる式に記憶が蘇ってくるのは、そんな仕組み。
フランキンセンス、という香りは知っているだろうか。
昔から宗教的な儀式や神聖な場で使われることが多かったその香りは、別名『神の香り』とも言われているらしい。
スパイシーとウッディ、あとは柑橘系。暖かさと冷たさが混じり合うような香り。
緑が深い森の中でふと人工物を見つけたような、そんな感じ。
普通なら混じり合うと異質で気持ち悪いなものだが、妙に綺麗に合わさっていて美しく感じる。
複雑なのに、嫌悪感がない。不思議な香り。
嗅いだこともない匂いなのに懐かしさを感じた、なんて経験はないだろうか。
こんな香り知らないはずなのに、なんだかノスタルジックで。
心がざわざわして、その香りと紐づく記憶を呼び起こそうとしているのに。
あぁ、思い出せない、こんなにも懐かしいのに。
そんな感情。
フランキンセンスの香りを初めて嗅いで、懐かしさを感じた人はいるだろうか。
神の香りと呼ばれているフランキンセンスを懐かしく感じるのなら、あなたはいつの日にか神と呼ばれるモノにあっていたのかも?
なんてね。
記憶にありもしない懐かしさが事実を教えてくれるのなら、それは、