『胸が高鳴る』SS
最近香水デビューをした私には、悩みがあった。
誰も、香水をつけていることに気が付いてくれないのだ!
友達も「ごめん気が付かなかった」と、にべもない反応。
インターネットで調べた適正の量を、プシュッとひと吹き。その香りを手首へ、さらに首筋にうつしている。
これでは量が少ないのか、でもつけすぎはマナー違反だと、どこを調べても書いてある。
自分でも、鼻先を手首に近づけてようやく香りが分かるくらい。これじゃあ誰も気が付かないか……と落胆する。
甘く女の子らしい香りは似合わないかと、ユニセックスの爽やかな香りを選んだのが良くなかったのだろうか。
少しでも魅力的に、と思ったけどうまくはいかない、私にはまだ早いのかも。
「あれ、香水つけてるの」
隣から不意にかけられた声で、心臓が大きく脈打ち、ブワッと体温が上がる。
「やっぱりそうだ、いい香りだね」
上がり続ける体温に、香水が恋の匂いを立ち昇らせて、私は胸を高鳴らせた。
『不条理』
ドゴンッ!
大きな音がして、私にちくちくと飽きもせず嫌味を言っていた理不尽な上司が、目の前から消え失せた。
というか、吹っ飛んでいった。
あらあらまぁまぁ、その身体は回転しながらオフィスの壁をぶっ壊して、空の彼方へと消えていく。脳裏に「バイバイキーン」というセリフが過ぎった。
そして残されたのは私と、どこから現れたのか背丈よりも大きいハンマーを携えた青年がひとり。
「理不尽クラッシャーです!本日はご利用ありがとうございました!」
「はぁ……」
呆気に取られた私は、間抜けな返事を返す。
「理不尽には不条理を!またのご利用、お待ちしていまーす!」
そうして、青年は煙のように消えてしまった。
何だったのだろう、今のは。
不条理に打ち砕かれた理不尽のことは最早どうでもよくなった私は、とりあえず家帰ってビール飲もう、と帰り支度を始めたのだった。
『泣かないよ』
真っ直ぐに落ちていく雨の軌跡を、僕は見つめている。
降り注ぐ雨が灰色のノイズになって、二人きりの昇降口を満たしていた。
隣に立っている彼女は俯いたまま。僕の言葉に対する返事を考えているのか、それとも声にならない思いを堪えているのだろうか。
分からない。泣くだろうか、怒るだろうか、それとも案外ケロッと受け入れるのだろうか……そうやってシミュレーションしたどれとも違う反応だった。
いっそビンタでもしてくれたら良かったのに。僕は、次にかける言葉を失い、落ちる雨をただ見つめている。
その時、視界の横で影になっていた彼女が、不意に外へと飛び出した。
僕はそのまま彼女が去ってしまうのかと思い、咄嗟に名前を呼んでいた。もうそんな資格はないというのに。
彼女は立ち止まり、降りしきる雨の中、傘もささずに天を見上げている。
「あたし、泣かないよ」
その声を聞いた僕は、伸ばしかけた手をきつく握りしめ、彼女を抱きしめることができない愚かな自分を呪った。
滑らかな曲線を伝っていく雨の軌跡を、僕は見つめている。
『怖がり』
僕は怖がり。
君はいつも「そんなに心配しなくたって大丈夫」と笑って、そんな僕を励ましてくれる。
すやすやと、身じろぎ一つせずに眠る君を見れば、僕は本当に君が息をしているのか心配になって、そっと君の体に触れた。
帰りの遅い時には、君がどこかで事故にでもあってやしないかと、気が気じゃなかった。
どこかが痛むと聞けば、大きな病気ではないだろうかと心配して、大袈裟だと笑い飛ばされた。
僕は怖がりだ。
ねぇ、ちょっと転んだだけだよね。こんな、ちょっと体を小突いただけで。
きっと怖がりの僕を揶揄っているんだ、「びっくりした?」って、今から起き上がって笑うんだよね。
今に起きる、今に起きる、今に起きる。
そうに決まっている。
怖がりの僕は、君に触れる事ができない。
『溢れる星』
雲ひとつない、静かで滑らかな闇の夜でした。
月は自らの影のなかに隠れて、私たちのこれからすることにはきっと気付かないことでしょう。
「星を拾いにいくんだよ」
彼は秘密を打ち明けるように、私にそう告げたのでした。
「それは、空にキラキラと光る、あの星のことかい?」
「ああそうさ、それが湖の中にそっくり落ちているだろう。それを拾ってやるのさ」
そうして私たちは、星の綺麗なその夜に、湖にまでやってきたのでした。
果たしてその日の夜の湖は、絹のような闇の中。天と地の、その境もわからぬくらいに、そっくりそのまま天の星を映し取っていました。
「これをどうするんだい?」
湖面を覗き込みながら私がそう問いますと、彼はボロボロの皮の鞄から、星夜にチラチラと光るガラスの瓶を取り出しました。
「この中に捕まえてやるのさ」
そう言って、彼はおもむろに湖の星へと手を伸ばしました。
彼の指先が何かを摘むように湖面に僅かに触れて、微かな波紋が広がりました。そうして彼は小さな小さな光る星を、確かにその指で拾い上げていたのです。
それをガラス瓶の中に落とすと、カランと硬質な音がして、小さなランタンの灯のように燐光を発しながら、ガラス瓶の底に転がりました。湖面に映っていたはずの星は、そのまま見えなくなりました。
そこからは、私も一緒に手の届く限りの星を摘み上げて、ガラス瓶の中へと詰め込みました。
そうして溢れるほどの星を拾い集めて、ガラス瓶が明々と光るようになると、湖に映る星までをかき消してしまうようになりましたので、私たちはその灯りを手に、家へと帰ることにしたのでした。
帰り道に溢れた星をひとつずつ摘んで食べると、口の中でパチパチと弾けて、甘酸っぱく、まるで野いちごのように香ったのでした。
それからその湖は、星の映らぬ不思議の水として語られるようになったのだそうです。