娘が選ばれたのは女であり、かつ不義の子だったからという、ただそれだけの理由だった。
男であれば、労働力として使い道はあっただろう。女であったとしても、この家に生まれさえしなければ、まだ人として生きられたのかもしれない。
だが娘はこの家の当主の子として生まれ、そしてその当主のため、愛の代わりに絶え間ない苦痛と永遠という名の絶望を与えられることとなった。
娘には名がない。ヤシロと呼ばれることもあったが、それは自身の身の内に入れられた憑き物のための社であり、廟という意味でしかなかった。
永い年月の間に、娘はかつての娘としての形を失った。ほんの一時、穏やかな日々を過ごしていたような気もするが、暗く湿ったこの場所では、すぐにそんな光は搔き消えていく。
ぞわり、と中の憑き物が蠢くのを感じて、娘は目を開ける。
誰かが扉を開こうとしている。またあの子を傷つけようとしている。
あの子が誰なのか、娘の記憶にはない。だがあの子という存在が、無為に過ごしていた娘に唯一の衝動を与えてくれた。
守るために排除する。近づくものは誰であれ、皆破壊する。
衝動に突き動かされるように、娘の内の憑き物が鎌首を擡《もた》げる気配がした。
重厚な扉に閉ざされていた部屋。その奥にある台の上に一人の女性が繋がれていた。
「麗《うらら》……!」
名を呼び、近寄ろうとする繩手《なわて》の足を、蛇の低い威嚇の声が止める。
暗闇の中、女性の体が歪に蠢いている影が見える。それは細長く、持ち上がる細い影の形は蛇の頭に似ていた。
「迎えに来たんだ。こんな暗い場所から早く出よう」
繩手の声に女性の反応はない。四肢はわずかにも動かず、生きているのかすら分からない。
「麗」
名を呼ぶ。
教えられた通りに。繰り返し呼び続ける。
一歩、足を踏み出した。
「麗、帰ろう」
また一歩、近づき。
そして、手を伸ばす。
「麗」
その手が女性に触れる瞬間。
蠢く蛇が腕に絡みつき、突き立てられる牙の痛みと共に、繩手の意識は黒く塗りつぶされていった。
幼い頃の夢を見ている。
そう感じたのは、視線の先に本を読んでいる子供の頃の自身の姿が見えたからだ。
何を読んでいるのだろうか。その表情はとても真剣でありながら、どこか楽しげに微笑みを浮かべている。
「また読んでるのか。物好きだな」
聞き覚えのない声がした。
瞬きの間に、子供の側に見知らぬ男がいて、本を覗き込んでいた。
「だってここなら、何でも本が読めるんだもん!目が覚めたら、難しくて何が書いてあるのか分からないし」
「まあ、夢の中だからな」
そうか。ここは幼い頃に見た夢の中で、今はその夢の中にいる夢を見ているのか。
ぼんやりとおかしなことを考えながら、辺りを見回した。
室内にいるのかと思っていたが、そうではない。
満開の桜の木の下にいることに、今更ながらに気づいて目を瞬いた。
「ねぇ」
子供が、幼い自分が男を呼ぶ。笑顔の中に悲しみを浮かべて問いかける。
「お姉さんね。名前がないんだって。でもずっとお姉さんって呼ぶのは嫌だから、名前をあげようかなって思ったんだけど」
男は何も言わない。表情の読めない目をして、言葉の続きを待っている。
「たくさん本を読んで、いっぱい考えて……うらら、ってどうかなって思ったの。春うららって暖かくて、優しくて……お姉さんに一番似合う気がする」
くすり。
男が小さく笑みを漏らした。くすくすと堪え切れなかった笑いが溢れ、困惑する。
そんなに笑う程おかしな名前だっただろうか。彼女を思い浮かべ、自然と眉が寄った。
「悪くないんじゃないか。でもせっかくだし、いいことを教えてやろう」
笑いながらそう言って、男は地面に何かを書き始めた。
少しだけ近寄り、書いているものに視線を向ける。男の言動には似合わず達筆な字で一文字、書かれていた。
――麗。
思い出す。
うららという言葉の響きに、形と意味を持たせてくれた人がいたことを。
「漢字では、うららはこう書く。美しく、穏やかで……そして並び連なるという意味を持つ」
「ならび、つらなる?」
「まあ、ちょっと違うが一緒にいるってことだ」
あぁ、と思わず声が漏れた。
視線の先では、幼い自分が何度も一緒と繰り返している。笑われたことで不安だった表情は次第に満面の笑顔に変わり、勢いよく立ち上がった。
「それがいい!お姉さんに伝えてくる!」
ありがとうと言いながら駆け出して、その背は霞んで消えていく。
目が覚めたのだろう。消えた自分を見送って、男に視線を向けた。
「最後のヒントだ。しっかりと思い出しただろう?」
楽しげに男は笑う。
「名を呼ぶのは坊主にできる、唯一で最良の手段だ。ただ意味を持たせないと、ただの音の響きでは届かない」
「意味……」
「響かせる方法もあったが、坊主が段取りを忘れて先に進んだからな。気持ちは分からなくもないが、感情だけで行動するとこうして痛い目をみるぞ」
思わず視線を逸らした。
この屋敷に入る前、確かに言われていたことだ。
通された部屋から動かないこと。それが祖父の部屋であっても、彼女が閉じ込められていた部屋でも関係なく、指示があるまでは動かないと約束していた。
今更ながらに思い出して、迷惑をかけてしまっただろうことを申し訳なく思う。ただでさえ巻き込んでしまっているのだ。考えなしの行動のせいで、もしも危険な目に合わせてしまったらと思うと気が気でない。
そう内心で慌てていると、ぽんと頭に手が置かれている感覚がした。
「式貴《しき》」
視線を向けると、男が柔らかく微笑んでいた。頭を撫でられ、軽く叩かれ、手が離れていく。
「お前は決まり事を大切にできる子だ。足りなかったものは思い出した。後は行動に移すだけ。名を呼んでどうしたいか考えるだけだよ」
ざああ、と風が強く吹き抜けた。桜の花が風に舞い、遠くの空へ消えていく。
目を細めて空を仰ぐ。桜色に染まる視界が、子供の頃に交わした約束を思い起こさせる。
名を呼んだ、その後。彼女と何がしたいか。
思わず笑みが溢れた。したいことがたくさんありすぎて、順番を決めるのが難しい。
けれども、まずは。
「麗と一緒に、桜の花が見たいな。子供の頃のように桜の花びらを追いかけて、そして好きな所へ自由に行ってみたい」
どこでもいい。彼女と二人、一緒にどこまでも、それこそ桜を追って遠い空の下まで追いかけたい。
「ならば、その願いを全部ぶつけるつもりで名を呼んでやれ。それだけでいい」
桜が視界を覆う。声が遠く、感覚が薄くなっていく。
目が覚めるのだろう。
「ありがとう。――」
礼を言い、そういえば、男の名を知らないことに気づいた。
「あの、名前……」
問いかければ、答えの代わりに笑う声。
「夢じゃなく、現《うつつ》で会えた時にでも、教えてやるよ」
年上だというのに、子供のような無邪気さで告げた言葉。
楽しげな声音を聞きながら、視界が桜色から白へと染まり。
そこで、目が覚めた。
20260412 『遠くの空へ』
空気が澱んでいる。
村の奥。広大な敷地に建つ屋敷を見て、燈里《あかり》はそう感じた。
「ここが……俺の、祖父の家……?」
隣に立つ繩手《なわて》の表情は暗く、落ち着きなく視線を辺りに彷徨わせている。
記憶が閉じられている今でも、何か感じるものがあるのだろう。微かに震える体は、屋敷に近づくことすら拒んでいるようだ。
「繩手くん。辛いなら、無理はしなくても……」
「だ、大丈夫。怖いけど、行かないといけない気がするんだ」
きつく拳を握り締め、震える足を前に出す。
「この屋敷の中で、誰かが俺を待っている。だから、行かないと」
「そうだな。ここで逃げ帰っても何も進展しない。今更忘れたままにはできないだろう」
繩手を一瞥し、冬玄《かずとら》は無感情に告げた。
繩手の本心としては、憑き物に関して何も思い出したくはないのだろう。
それは恐怖からの逃避であり、記憶にはないが封を施した両親に対する思いでもある。
だがそれは、燈里に助けを求めた時点で否定された。燈里を巻き込んだことにより、全てを曝け出される方向へと向かってしまったのだ。
そして繩手にとっては幸か不幸か。こうして元凶と対峙させられるまでに至っている。
「それに、引き返せそうにもないしな」
そう言って、冬玄が視線を向けた先。
閉ざされていたはずの屋敷の扉が、開かれていた。
「お帰りなさいませ、式貴《しき》様。ご友人の方もようこそおいで下さいました」
出迎えた初老の男性の後に続き、屋敷の中へと足を踏み入れる。
美しく整えられた庭。鮮やかな花が咲き乱れる光景は、しかしどこか虚ろで空恐ろしく感じられた。
屋敷のあちらこちらから気配がする。だが誰かとすれ違うことはなく、辺りは不気味に静まり返っていた。
「ご友人の方は、こちらをお使い下さい」
「ありがとうございます」
「勿体ないお言葉にございます。何かあれば遠慮なくお申しつけ下さい」
通された客間はとても豪奢な作りだった。
広大な室内には真新しい畳が敷き詰められ、黒々と磨き上げられた柱は底知れぬ威圧感を醸し出している。金箔が鈍く煌めく襖絵。床の間に飾られた水墨画。見上げた天井は格式高い格天井が広がっている。
踏み入れた瞬間、伽羅の香が鼻腔を掠めた。僅かに眉を顰め、冬玄はさりげなく燈里の肩を抱き寄せる。
「冬玄?」
「何かあれば呼ぶ。遠出で疲れているから、しばらく休ませてくれ」
有無を言わさず、燈里を伴い室内に入る。言外に邪魔をするなと告げ、それを察して男性は恭しく頭を下げた。
「承知いたしました。では、式貴様。参りましょうか」
「え?あ、はい……」
一人離されることに、繩手は不安を感じ燈里を見つめた。それに燈里は何かを言いかけたが、その前に男性によって戸が閉められる。
遠ざかる足音。戸を見つめたまま動けない燈里の手を引き座らせると、冬玄は華奢なその体を強く抱きしめた。
「っ、冬玄!?」
「燈里。少しの間、動かないでいてくれ」
囁かれる声に、燈里の動きが止まる。頬を赤く染め、戸惑いに泣きそうな表情をする燈里の頭を優しく撫で、冬玄は安心させるように微笑みかけた。
ふわり、と強く蝋梅が香る。部屋を満たす伽羅の香を掻き消すかのように、冷気と共に広がっていく。
「どうやら、俺たちのことも逃がすつもりはないようだな。ここまで厳重に監視されるのは気分が悪い」
忌々しいと言わんばかりに吐き捨てた。燈里を抱く腕の力を僅かに弱め、それでもその目は鋭く室内に向けられている。
冬玄の言葉に燈里は眉を寄せた。どういうことなのか身じろぎ、室内を見回して。
燈里は声にならない悲鳴をあげた。
無数の目が、燈里と冬玄を見ていた。
襖。天井。畳。隠していた伽羅の香が消えたことで露になった目のどれもが、瞬き一つせず燈里と冬玄を凝視している。
酷く虚ろな目だ。人形のように意思のない、それでいて妙な生々しく、濡れた質感を持った目。そのいくつかは作り物のようであり、獣のようであり、そして人の、幼い子供のもののように見えた。
「大丈夫だ。見ているだけで、こちらに干渉するほどの力はない。正しく俺たちを見ているかも分からないほど微弱なモノだ」
かたかたと震える背を撫で、落ち着かせるように冬玄は囁く。これ以上何も見えないようにと、燈里の頭を引き寄せた。
「この、目……これって……」
震えながらも、燈里は問いかける。間違っていてほしいと願いながらも、頭ではある一つの答えが浮かんで消えない。
背を撫でる手が一瞬止まる。殊更優しく撫でられ、燈里はそっと目を伏せた。
「分け与え、取り込む……いや、取り込むことこそが目的か。定着しようとしまいと、どうでもよかったのかもしれないな」
直接の答えではない呟き。
しかしそれは、これ以上ないほどの答えだった。
「祀る方法を間違っている程度の話ではないな。欲を満たし、叶えるための外法だ」
敬い、畏れ、鎮める祈りはそこに存在しない。ただひたすらに醜悪で、自己中心的な人間の業の果てがそこにあった。
震える手で服を掴み、燈里は力なく冬玄に凭れかかる。
何を言えばいいのか分からない。
ただ悲しく、痛みを伴う思いが燈里の胸の内で渦巻いている。
言葉にできない感情が溢れ、それは一筋の涙となって燈里の頬を伝い落ちていった。
繩手が通されたのは、屋敷の一番奥にある暗い部屋だった。
足を踏み入れた途端に感じたのは、澱み滞った泥のような空気。まるで底なし沼に沈んでいくように、四肢に絡みつき離れない。
そんな錯覚を覚えながらも目を凝らすと、部屋の中心に布団が敷かれていることに気づいた。誰かが横たわっている。深く眠っているのか、動きはない。
ゆっくりと歩み寄る。恐怖に震える足は、それ以上の何かの強い意思に突き動かされ止まることはない。
暗闇に慣れ始めた目が、横たわる誰かの横顔を明確にしていく。
老年の男性だ。肉が削げ落ちた頬に、落ち窪んだ眼窩。死相が色濃く浮かぶ横顔は、およそ生者のものとは思えない。
傍らで膝をつき、繩手は眠り続ける男性を見下ろした。見覚えのないこの男性が誰であるのか。
誰かに教えられずとも、繩手はよく理解していた。
「祖父さん」
ぽつり、と落とされた言葉。
消え入りそうな程微かな声は、静謐に満たされた部屋にやけにはっきりと響いた。
「――っ!」
その瞬間。
それまでただの骸と変わらぬ死を纏っていた祖父の目が見開かれた。
白濁し、何も映すことのない目。しかし底のない我欲を孕んで、繩手を捉えようと蠢いている。
布団の中から痩せて枯れ木のような腕が伸ばされる。もはや持ち上げる力すら残されていないのだろう。ずるずると畳を這う腕はまるで弱り切った蛇のようだった。
「ひっ……」
後退り、恐怖に震えながらも、繩手は恐怖とは違う感情が自身の内に沸き上がるのを感じていた。
正反対のそれは、怒りや憎しみに近い。戸惑いに動きが止まり、眉を寄せながら繩手はそっと自身の胸に手を当てた。
正しく言葉にできないその激情が出口を求めるかのようにぐるぐると渦を巻いているようだ。繩手が意識を向ける程それは強くなり、やがてそれは固く閉ざした記憶の蓋をこじ開け始めた。
「あぁ……」
繩手から表情が抜け落ちていく。服の裾から覗く腕、そして首筋に、何かが巻き付いているかのような黒い痣が色濃く浮かび出す。
「行かないと」
閉じた蓋は開け放たれ、繩手は呟き立ち上がった。這いずる祖父などないもののように通り過ぎて部屋の一番奥へと進んで行く。
そこには和室の部屋には似つかわしくない、重厚な金属の扉があった。重たい錠で閉ざされた扉は、しかし繩手が扉に触れた瞬間に錠が外れ開いていく。
「あなたの欲は多くを苦しめた」
扉に手をかけたまま、繩手は呟いた。
「俺はあなたの新しい体にはならない。けれどあなたは死ぬこともない……永遠に、あなたはそのまま。死んだ体で生きるしかない」
感情の乗らない声。
ただ事実だけを告げて、扉を開け放つ。
「それが、今までしてきたことの報いだ」
祖父の動きが止まる。ひゅう、と掠れた吐息が答えるのを聞かず、繩手は扉の向こう側へと足を踏み入れた。
20260411 『言葉にできない』
春疾風が薄紅の花びらを舞い上げていく。
桜吹雪。幻想的な光景に少年は見入り、そして腕を伸ばして舞う花びらを手にしようと追いかけ始めた。
一年前熱で魘され、生死の狭間を彷徨っていたとは想像もできぬ程元気だ。少し離れた場所で様子を伺っている女も、そう思っているのかもしれない。
やがて舞う花びらを手にすることができたのか、少年が歓声を上げる。満面の笑みを浮かべ、女の元へと駆け寄った。
「これ、あげる!」
戸惑う女に手にした花びらを渡す。
七つを過ぎても女が見えるとは、どうやらうまく定着ができたようだ。
「いつも守ってくれているおれい!あと、もうひとつ」
そう言って少年は屈み込み、手近にあった石を持ち何かを地面に書き始めた。
何を書いているのか。その表情はとても真剣だ。
やがて書き終わったのか、少年は顔を上げて女を見た。どこか誇らしげに書いたものを指さし、口を開く。
「あのね、名前がないのはやっぱりよくないと思うんだ。だから僕、たくさん本を読んで調べてね、これが一番似合うと思ったの!」
立ち上がり、地面に書かれたものから目を逸らせないでいる女の手を両手で包み込む。地面から少年へと視線を移した女と目を合わせ、輝かんばかりの笑顔でそれを口にした。
「麗《うらら》……どうかな?僕、今からお姉さんのこと、麗って呼んでいい?」
「あ……」
小さく声を上げ、女はゆっくりと目を瞬いた。
ぱたり、と女の頬を伝い落ちた滴が手に落ち、流れて地面を濡らしていく。
声もなく涙を流す女に、少年の表情が次第に不安そうなものへと変わっていった。
「あ、えっと……気に入らないなら……」
「ありがとう」
言いかけた少年の言葉は、強く抱きしめられたことで止められる。
何度も繰り返される、ありがとうの言葉。
女の在り方が、新しく名付けられたことで変わっていくのを感じる。
思わず、苦笑が漏れた。可能性を考えていなかったわけではない。むしろ、こうなることは見ていて容易に想像がついていた。
けれどここまで平穏に変化を与え、受け入れるとは。まだ幼い純粋さが眩しく感じられた。
在り方は少しばかり変わってしまったが、これならばこの先も二人は問題なく過ごせるだろう。
そう思い、戻ろうと踵を返して。
不意に、手を引かれた。
びくり、と肩を震わせ、燈里《あかり》は目を瞬いた。
目の前には庇うように立つ楓《かえで》の背。その背越しに、見知らぬ男が立っているのが見える。
きゅっと手を繋ぐ温もりを感じ、視線を向ける。そこには燈里と手を繋ぎながら、真っすぐに男を見つめる睦月《むつき》の姿があった。
「おじさんは、どうして燈里ねぇに色々見せるの?」
睦月の問いかけに、男は薄く笑みを浮かべた。
「ヒントがなきゃ、求める答えを出すことができなさそうだったから」
「ヒントねぇ……答えは教えてくれないってわけか」
気に入らないとばかりに、楓が吐き捨てた。男はそんな楓の態度に肩を竦め、溜息を吐いた。
「与えられた答えなんて正誤も、況してやそれが最適解かも判断がつかないだろ?同業者ならまず間違いなく、あの子供ごと封じるか消滅させるかの判断を下す」
お前にそれができるのか。
男は言外にそう告げている。男の背後で幸せそうに笑う少年と女性の姿が視界に入り、燈里は思わず目を伏せた。
「おじさんは、燈里ねぇに答えを出させたいの?」
「いや?答えが出せるのは当事者だけだ。でもあいつは夢見の才能はないから、巻き込まれてたあんたたちの方に干渉してるってだけ」
「情報だけ与えて、そちらは高みの見物を決め込むってつもりかい?随分な趣味だね」
楓の嫌味を意に介さず、男は足元に視線を落とした。
舞い散った桜の花弁が影に落ち、そのまま飲み込まれていく。影が盛り上がり一匹の獣を形作っていく。
「ここまでか。あちらさんが気づいて荒れ始めているみたいだから、戻った方がいいな」
金の毛並みを持つイタチに姿を変えた影。それを見て、楓は僅かに顔を顰めた。
「飯綱《いづな》……ある意味同じ憑き物でありながら、祓い屋か。一番面倒な類の人間だね」
「別に敵対するつもりはない。あんたたちを無理に祓う理由が俺にはないからな」
それは嘘ではないのだろう。楓の目を真正面から見つめ男は断言する。
そしてイタチと目配せをして、男は呟き燈里に視線を向けた。
「どんな行動を起こすのか、何を選択するのかは自由だ。ただ経験上、後悔しないように動き回れば、大体はうまく転がっていく。周りがそれを可能にしてくれるから、心配するな」
柔らかく微笑む男の姿がイタチと共に霞んで消えていく。
「待って――!」
一際強い風が吹いた。桜を散らし、視界を薄紅色に染めていく。
穏やかな日差し。満開に咲き乱れる桜の花。
春爛漫。失われた幸せの記憶が、男が姿を消したことで次第に色褪せ消えていく。
遠くで楽しそうに笑いはしゃぐ声を聞きながら、沈む意識に身を委ねた。
「燈里」
優しく呼び起こされて、燈里は目を覚ました。
繋ぐ手の感覚に視線を向けると、眠りながらも手を離さない睦月の姿。
「燈里」
呼ばれて、燈里はベッドサイドに座る冬玄《かずとら》を見た。安堵が滲む目を見て、そっと手を伸ばす。
「冬玄」
触れる愛しい熱。鼻腔を擽る蝋梅の香りに、目を細めた。
夢の内容を思い起こす。幼い繩手《なわて》と、麗と名付けられた憑き物。名付けの瞬間に、きっと二人の関係は変わった。
憑き物から、守り神へ。そしてそれはもしかしたら、燈里と冬玄のような関係へとなっていったのかもしれない。
だから、堕ちた。繩手を奪われそうになり、執着が麗を堕としてしまったのだろう。
「冬玄は、例えば私の中に封じられたとして、その封印を無理矢理にでも解きたいと思うのはどんな時?」
「そりゃあ、燈里が傷つけられそうになった時だろうな」
迷いなく答えた冬玄に、燈里は小さく笑う。その笑みに冬玄も表情を綻ばせ、だがすぐに真剣な目をして燈里に問いかけた。
「あの人間と憑き物がそうなんだな」
頷く燈里に冬玄はそうか、とだけ呟いた。名残惜し気に手を離し、静かに立ち上がる。
「一番簡単なのは、人間ごと完全に封じることだ。けれど燈里は嫌だろう?」
柔らかな微笑み。真っすぐに冬玄を見つめ頷く燈里に、穏やかに告げる。
「ならばあの人間を連れて、憑き物の本体がある屋敷に行こうか」
後悔しない選択を。
夢の中の男の言葉を思いながら、燈里は迷いなく冬玄に頷いて見せた。
20260410 『春爛漫』
「無茶苦茶だな」
ファイルに目を通した後、冬玄《かずとら》はただ一言呟き、嘆息した。
どういうことかと視線を向ける燈里《あかり》と東に、冬玄はほんの僅か言いよどむ。それは二人に告げてよい内容なのか判断に迷ったからではなく、どう噛み砕いて説明するかを悩んだからだ。
「全ての元凶はあの人間の祖父の家なんだが、そこが代々執り行っていることが間違っている……いや、この家の憑き物筋という前提が間違っているというべきか」
「南も言っていたわ」
首を傾げ、東は言う。
「何がしたいのかよく分からないって。それから、燈里をしっかり守るようにって念を押されたわ。どういう意味なのかしら?」
「そのままの意味だ……憑き物が権力と富の象徴として扱われている所から、よく分からん儀式まで、全部が矛盾と妄想が入り混じって、訳が分からないことになっている」
「矛盾と、妄想?」
眉を寄せる燈里に、冬玄は手元のファイルを開いて見せる。
いくつかの写真と事細かに記された資料は、どうやら繩手《なわて》の祖父のいる村と屋敷について書かれているようだ。どこか寂れた感じのある村には、広大な敷地に建つ豪勢な屋敷は異様に見える。
富の釣り合いが取れていない。そう燈里は感じた。
「権力や富の象徴って言ってたけど、他の人からは妬まれたり避けられたりしなかったのかな?」
一般的に憑き物筋と呼ばれるのは、人の妬み嫉みなどの暗い感情が起因していることが多い。
憑き物を使役して、他者から財を奪っている。だから裕福なのだろうという僻みがあるからこそ、憑き物筋と呼ばれる家は忌み嫌われ、差別され、閉鎖的になっていくのだ。
しかし燈里の疑問に対して、冬玄は首を振る。資料のある一部を指さし、不可解だと言わんばかりに眉を顰めた。
「どうやら避けられるよりも、信仰に近い形で敬われていたらしい。この家の言葉は絶対で、何よりも尊ぶべきものだと思われていると資料にはある」
「認識を歪めたのかしら。村の人間全てに影響があるなんて、憑き物だとしても、とても力があるのね」
資料を覗き込みながら東は呟く。不思議そうに文字を追っているものの、その纏う気配はどこか鋭さを秘めている。
それに冬玄は気づいていたが、特に何かを言うことなく資料のページを捲った。
「まあ、そういう理由で、当然憑き物という象徴を家は失わないように模索する訳だが……その方法が、儀式というか呪法というべきか……よく分からない何かになっているな」
そこには白い壷と、同じように白い面の写真が添えてあった。
燈里の脳裏に、応接室で繩手が話していた内容が思い浮かぶ。
――蓋を開けて中を覗いてしまえば、もう戻れないんだ。
これが繩手のいう壷だろうか。
中には何が入っているのか。何のために用いられたものなのか。
資料を読み進め、書かれている内容に燈里は軽く吐き気を覚えた。
「これって……」
「燈里、無理に読まなくてもいい」
「そうよ、燈里。憑き物の一部を壷に入れて、それを一族の子供に覗かせて憑かせようとするなんて、読んでいてあまり気持ちのいいものではないわ」
憑き物の一部と書いてはあるものの、繩手に憑いているモノは女性だと書かれていた。
想像して顔を顰める燈里の背を東が撫でる。しばらくして椅子に深く座った燈里が深く息を吐くのを見て、冬玄は話を再開した。
「こういうものにはある程度決まった手順があるんだが、それをことごとく無視した方法だ。当然憑くことはないはずだが、どうやら奇跡的に憑いたらしいな。ここまでなら、まだ理解はできるんだが」
そこで冬玄は一度話を区切り、眉間にできた皺を伸ばすように揉み解した。
できることならば、ここから先の話は燈里に聞かせたくはない。だが巻き込まれてしまっている以上、対策を取る意味でも知らなければならないことでもあった。
冬玄の思いを察して、燈里は大丈夫だというように笑って頷く。右手の薬指に嵌る指輪に触れれば、冬玄もまた同じように指輪に触れ、続きを語り始めた。
「これは憑き物を広める目的で行われるわけではないようだ。憑いた子供がある程度成長したら、今度は逆に当主に憑くモノに与えるらしい」
捲られたページに書かれた内容と冬玄の説明に、東が不可解だと言わんばかりに眉を顰めた。
何度も資料を読み返し、それでも何一つ理解できなかったのか、答えを求めるように顔を上げて冬玄を見た。
「何なのそれは?与えて、戻すの?何のために?」
「さあな。憑き物の力を増すためや、人身御供のようにも見えるが、完全に憑き物筋の在り方から逸脱している……寄せ集めの知識で効果がありそうなものを試してみたと言われても、納得できる気がするな」
肩を竦め冬玄は答えた。資料を閉じ、今度は日記帳のあるページを開く。
「実際に、ほぼ攫われた形であの人間は当主の元へ連れて行かれたらしいな」
そこには酷く乱れた字で、文字が書き連ねてあった。
繩手の身を案じる言葉と、憑き物や書き手の父に対する憎しみ、恨みの言葉で埋め尽くされたページは見ているだけでも息が詰まる。
日記のページが捲られる。しばらく続く乱れた文字の羅列がページを捲る度に過ぎていき、あるページでそれは唐突に収まった。
――生き汚い男。あれだけのことがあっても、まだ生にしがみつくのか。
直前の乱れた字とはかけ離れた、丁寧に書かれた一文。
字と書かれた内容の差異に強い侮蔑や嘲笑を感じて、燈里は肩を震わせた。
「そこで何があったのかは分からない。だが、おそらくここで起きた何かが、後に憑き物を封じるという判断になったのだろう」
捲られた次のページには、書き手の困惑や不安、恐怖が綴られていた。
――女がいる。本当の化け物に成り下がったくせに、どうしても式貴《しき》から離れない……何で、どうしてこの子なのか。この子はお前のせいで誰よりも、ずっと苦しい道を辿ってきたというのに、まだ解放してくれないのかっ!
そこから先は、繩手と憑き物を切り離す方法を模索している文面が続いていた。
無茶苦茶だ。それが燈里の正直な感想だった。
聞きかじった知識を、情報の精査もしないで、繩手に試している。これでは書き手の父が行っていたこととさほど変わりはない。
眉を寄せる燈里を見て、冬玄は日記の最後のページを開いて見せた。そこには簡潔に、しかし安堵が滲んだような文面でこう書かれていた。
――時間稼ぎではあるけれど、封じてくれる人を見つけることができた。ようやく式貴を幸せにしてあげられる。
酷く穏やかな文字だった。
それが燈里には悲しく見えていた。
「これで封じられたのね。けれど時間稼ぎということは、最初から解けてしまう術だったのかしら」
「だろうな。時間経過か、それとも何か切っ掛けがあったのか。ともかく封が解けかけている状態で、燈里が巻き込まれている訳だ」
「困ったわね。大本を断てば、燈里は助かるのかしら」
そう言いながら東は冬玄からファイルを受け取ると、ぱらぱらと流し読んでいく。
ふと、ファイルから一枚の写真が滑り落ちた。足元に落ちたそれを、燈里は特に気にすることなく拾い上げる。
そして何気なく写真に視線を落とした時だった。
「――っ」
周囲から音が消えた。
弾かれたように顔を上げる。だがそこに冬玄や東の姿はない。
「――い」
目の前で俯いて座っているのは、見知らぬ女性。
長い黒髪。白装束から覗く細い手は鱗に覆われている。
「ゆるさない」
ゆっくりと、女性が顔を上げた。髪の間から見えるその肌も鱗に覆われ、強い怒りや憎しみを孕んだ金の眼が燈里を睨みつけている。
「ゆるさない……あの子を、苦しめる……」
ゆっくりと女性が立ち上がるのを、燈里は瞬きすらできずただ見つめていた。
体が動かない。視線を逸らすことができない。
向けられる強い感情に、呼吸すらうまくできなくなっていく。
「誰より……何より、優しい子……守る……ずっと、ずっと」
腕が伸ばされる。
その手が、燈里に触れる寸前。
「燈里ねぇ!」
強く腕を引かれ、視界を塞がれた。
しゃん、と、聞こえたのは錫杖の音。
視界を塞ぐ誰かの手が離れた時、そこには女性の姿はなく。
険しい顔をした、冬玄と東。そして腕を掴む睦月《むつき》と背後に立つ楓《かえで》が、燈里を見つめていた。
20260409 『誰よりも、ずっと』
後日。燈里《あかり》は冬玄《かずとら》と東と共に、繩手《なわて》の家へと向かっていた。
「あの人間、許せないわ。あんな卑怯な手で燈里を無理矢理巻き込んだのですもの!」
「煩い。少しは静かにしろ」
燈里の腕に抱き着き怒りを露にする東を、冬玄は一瞥し窘める。しかしその目は鋭く凍てついて、纏う空気すら張りつめていた。
「どうしてそんなに落ち着いていられるのかしら!北は燈里のことが心配ではないの?」
「だからといって、燈里にしがみついて耳元で喚くな。燈里の迷惑だろうが」
「私は、別に迷惑だなんて思ってないから……でも、できればもっと穏便に……」
腕に抱き着く東に大丈夫だと微笑みかけてはいるものの、燈里の表情はどこか固い。それはこれから繩手に会いに行くことも原因の一つではあるが、どちらかと言えば、冬玄と東の会話の内容に対しての方が大きいからだった。
「それよりも分かっているだろうな」
「もちろんよ!あの人間がまた混じって燈里に危害を加える時には、人間ごと封じればいいのでしょう?ちゃんと南に札は貰っているわ」
「ちゃんとすぐに取り出せるようにしておけ。時間との勝負だ。相手が燈里に干渉する前に終わらせるぞ」
真剣な二人に、燈里は何度目かの溜息を吐いた。できるだけ繩手に危害を加えたくはない燈里ではあるが、どちらも聞き入れる様子はない。
人と妖の感覚の違いなのだろうか。救いたい燈里と違い、二人は自己責任として切り捨てることを厭わない。
「燈里。そんなに不安がらなくても、失敗なんてしないわ。速さには自信があるもの」
「いえ、そういうことではなくてですね……」
「燈里」
できることならば封じないでほしい。そう言いかけた燈里を、冬玄の静かな声が止める。
窘めるような響きに眉を寄せ、燈里は視線だけを冬玄に向けた。
「そもそもあの人間が祀り方を誤ったから、憑き物が暴れているんだ。それに巻き込まれただけの俺たちが、心を砕く必要はない」
「そうよ!富を得ようと迎え入れたのに、正しく祀らなかったのだから自業自得だわ。無理矢理封じたせいで混じってしまった後始末をしてあげるのを感謝してほしいくらいよ」
怒りが収まらない二人からそっと視線を逸らし、肩を落とす。
憑き物筋がどういうものか。その末路を燈里も知らないわけではない。しかし繩手の場合は、自ら望んで受け入れたようには思えなかった。
「会って早々、手荒な真似はしないって約束してね」
これまた何度目かになる忠告を二人にしながら、教えられた繩手の家へと足を速めた。
「いらっしゃい。まさか本当に来てくれるとは思わなかった」
出迎えた繩手は変わらず青白い顔をしながらも、その表情はどこか安堵が滲んでいる。
「あんたが無理矢理約束をしたんだろうが」
「あ……そう、だね……俺が……」
不機嫌な冬玄の言葉に、繩手の表情は途端に暗くなる。
無理もない。繩手は燈里に巻き込まれてほしいと言ったことを覚えてはいなかったからだ。
助けを得られるのはありがたい。だがその理由が自身の脅すような言動にあること、そしてそれが両腕の痣の原因であろう憑き物の仕業であることは、繩手にとって恐怖でしかなかった。
「こっち。両親の部屋はそのままにしてあるんだ」
繩手の案内で部屋の奥へと向かいながら、燈里は冬玄と東の様子を伺う。纏う空気は鋭いものの、問答無用で手を出す気配がないらしい。そのことに少しだけ安堵して、燈里は繩手に話しかけた。
「あれから、何か思い出せたことはある?」
「いや、なにも……」
答える声は沈んでいる。
「麗《うらら》って名前にも、やっぱり心当たりはないよ」
それは応接室での話し合いの際、繩手が口にした名だった。
あの時、繩手は燈里と麗の目が合ったと言っていた。ならば、それは繩手の中にいる憑き物の名である可能性が高かった。
「ごめん。巻き込んで」
「気にしないで。とにかく今は手がかりを見つけないと」
大丈夫だという燈里の微笑みに、繩手もほんの少し表情を緩めた。
そして、ある部屋の前で立ち止まり、ゆっくりと扉を開ける。
「ここが両親の部屋。何か見つかればいいんだけれど」
「見つかればじゃなくて、見つけないといけない……それじゃ、手分けして探そうか」
その部屋はカーテンを閉め切っているせいか、暗く湿った匂いがした。
カーテンを開け日差しを取り入れてもなお暗さが残っているようで、振り切るように燈里は頭を振り部屋の中から手がかりになりそうなものを探し始めた。
「宮代《みやしろ》さん。これ……」
暫くして繩手が燈里に見せたのは、何冊もの分厚い日記帳だった。
日記の一つを手に取りぱらぱらと捲る。どうやら繩手の成長記録のようで、彼の幼い頃の様子が事細かく書かれていた。
思わず笑みを浮かべながら燈里は文字を追うが、ある日付に書かれていた内容にその表情は一気に険しさを増す。それに気づいた冬玄が日記を覗き込み、同じように眉を顰めた。
「宮代さん?」
「北?何か見つけたのかしら?」
近づく東と繩手に、冬玄は無言で日記のページを見せた。その内容に表情を険しくする東とは対照的に、繩手はただ困惑する。
――やっぱり父の家に行くべきではなかった。式貴《しき》にもしものことがあったら、私は絶対に父を許さない。どんな手を使ったとしても必ず、報いてやる。
憎しみに近い、怒りを綴った言葉。日付を見ると、どうやら繩手の六歳の頃の出来事のようだ。
その日にはそれ以上のことは書かれてはいない。しかし後の日記には、しばらく高熱が続いている様子が書かれている。
「そんなことがあったんだ……ごめん、記憶にない」
申し訳なさげに首を振る繩手を、冬玄は鼻で笑う。それを燈里が窘めようとするのを手で制し背に庇いながら、冬玄は繩手の眼を見据え告げた。
「黄昏時だ。巻き込んだのだから、ある程度の情報を寄越せ」
「冬玄?何言って……」
言いかけて、ふと差し込む光に朱が混じり始めていることに気づき、燈里は口を噤んだ。
黄昏時。逢魔が時とも呼ばれる夕暮れは、人と魔が混じり合う時間帯だとされている。
繩手は答えない。応接室で見たような歪な笑みを浮かべ、冬玄の目を見返している。
沈黙。息苦しさすら感じる重く張りつめた空気から逃げ出すように、燈里はそっと窓の外に視線を向けた。
朱に染まる空。沈んでいく、燃えるような夕日はまるで目のようだ。
「燈里、駄目よ」
瞬きも忘れるほど魅入っていれば、不意に視線を覆われた。
「心を傾けてはいけないわ。惹かれてしまわないように、今は北のことだけ見ていなさい」
静かだが、有無を言わせぬほどの強さを湛えた言葉。小さく肩を揺らし、少しして燈里は深く息を吐き出し脱力する。
凭れかかる燈里の体を抱き留め、東は視界を覆う手を外しながら顔を顰めて動きのない冬玄の背を見つめた。
「北」
「そうだな。これ以上無駄に時間をかけるつもりもない。だんまりを続けるならば、こちらも少しばかり手荒にいかせてもらうぞ」
険を帯びた低い声に、繩手の笑みが深まった。
静かに腕が持ち上がる。冬玄の手にしている日記を指さし、掠れた声が答えた。
「その日記に書かれていることが、あなたたちの知りたい情報の全てだ。持ち帰ってくれて構わない」
それ以上は何も語らず、冬玄は小さく舌打ちをして日記帳を纏めて持ち、立ち上がる。
帰れと言外に告げられたのは、夜が来るからなのだろう。意図を汲んで東も立ち上がり、燈里を伴い部屋を出る。冬玄もそれに続くが部屋を出る寸前繩手を振り返り、無感情に問いかけた。
「あんたは何だ?燈里に何をさせようとしている?」
色を暗くする朱に染められた部屋に落とされた影が揺れ動く。
繩手は動いてはいない。表情の読めない繩手とは違い、影は冬玄の問いに小さく首を傾げたように見えた。
「繩手式貴。ただ違うのは、昼間固く閉じている記憶の蓋がほんの僅かに開いていること……宮代さんには、これ以上蓋を開かせない方法を一緒に探してほしい」
「――俺は、嘘は嫌いだ」
その言葉に、繩手は小さく笑った。
貼り付けたものではない、困ったような笑みだった。
「本当でもないけど、嘘でもない。昼間の何も知らない俺は、思い出すことを恐れている。箱に閉じてくれた両親の献身を、意味のないものにはしたくないから……けれど今の俺は、開いた隙間から出ていってしまった麗の一部を取り戻したいと思っている」
冬玄の表情が歪む。
警戒ではなく、心底面倒だと言わんばかりの顔をして、何も言わず部屋を出て行った。
20260407 『沈む夕日』
「ごめんなさい。あなたまで巻き込んでしまう」
泣きながら謝罪を繰り返す女の背を、夫らしき男が撫でている。
「式貴《しき》を守るためだ。むしろこの子のために役に立てるのなら、これほど嬉しいことはないよ」
二人の前には、昏々と眠り続ける青年の姿。
まだ十代半ばくらいの、まだ大人の庇護を必要とする青年は、二人の献身を知らない。目覚めた後の悲しみと苦難はどれほどのものだろうか。
「もう泣かないでくれ。形は違うがこれからも、ずっと一緒にいられるのだから不安はない……それが、たとえ時間稼ぎでしかないとしても」
「っ……ありがとう、あなた」
微笑み合う二人は、果たしてどこまでを正しく理解しているのだろうか。
青年が眠り続けている原因であるモノ。封じ込めるための対価と期間のつり合いが取れていると、本当に思っているのだろうか。
誤った手順で迎え入れてはいるが、だとしても憑き物として迎え入れたことには変わりがない。不完全な憑き物を封じ込めるなど誤った方法を取ることの危険性を、どう思っているのか。
「――そろそろ、始めようか」
「えぇ、そうね……式貴。愛しているわ。あの時は守ってあげられなかったけれど、今度こそ守るから」
青年の頭を、二人は優しく撫でる。
二人に気づかれぬように、密かに息を吐いた。
あれこれ考えた所で二人の考えが変わるわけでもなく、その結果も何一つ変わらない。
どんなに手を尽くそうと、猶予が伸びるだけで結末は一緒なのだ。
二人の手が、青年の腕にそれぞれ添えられる。この状況で似つかわしくない穏やかな微笑みを浮かべ、目を閉じた。
――人とは、どうしてこんなにも面倒な生き物なのだろうか。
そんな戯れ事を考えながら、同じように青年へと手を伸ばした。
次の朝。
抱き着く誰かの腕を感じて、燈里《あかり》は目を覚ました。
東だろうか。幼いようでいて、しっかりと道理をわきまえている彼女にしては珍しいこともあるものだと、未だ微睡む意識で考えながら布団を捲る。
「睦月《むつき》……?」
予想外のことに、燈里は目を丸くする。いつもはどこか遠慮しがちで素直に甘えることの少ない睦月が、こうして布団の中に潜りこんでいる。何か良くない夢でも見たのだろうかという心配と、拠り所にしてくれているという愛しさに、燈里は嬉しくなった。
「ん……燈里ねぇ?」
名を呼んでしまったことか、それともしばらく見ていたからか、睦月の瞼が震えゆっくりと目を覚ました。
焦点を合わせるように何度か目を瞬き燈里の姿を認めると、ぼんやりとしていた表情がふにゃりと笑顔に変わる。
「おはよう、燈里ねぇ」
「おはよう。どうしたの?嫌な夢でも見た?」
不安そうな燈里に、睦月は首を振った。
腕を伸ばし、燈里の頭を撫でる。突然の行動に戸惑う燈里に、睦月は懐かしむように目を細めて呟いた。
「夢を見た時、燈里ねぇがこうして頭を撫でて一緒にいてくれたから」
してもらって嬉しかったことを、同じように燈里にしているのだと睦月は言う。一度強く抱き着いてから離れると、するりとベッドを抜け出した。
「燈里ねぇは、やらなきゃいけないことがあるんでしょ?お家のことはわたしと楓《かえで》ねぇに任せて、頑張ってね」
「睦月……ありがとう」
睦月の優しさに、燈里はふわりと微笑んだ。
部屋を出て行った彼女に続いてベッドから抜け出し、身支度を整えていく。
「そうだね、頑張らないと……これからも、ずっと皆と一緒にいるためにも」
呟いて、一つ深呼吸をする。
決意を新たに、部屋を出た。
ぱらぱらと日記帳を捲る。
流し読むだけではあるが、それでも熱が下がった後の繩手《なわて》の奇妙な行動が目についた。
――式貴《しき》以外誰もいない部屋で、二人分の話し声が聞こえる。
――夕暮れ時に、ふと影を見たら知らない女の影が見えた。一瞬だけですぐに消えてしまったけれど、見間違いではない。
――式貴の腕の痣が濃くなってきている。女の気配が強くなっている。家が裕福になっても、この子が犠牲になるのなら、そんなものいらない。
繩手に付きまとう女性の影と、物理的に裕福な家庭。
憑き物筋として憑くのは、一般的に狐や蛇などだ。人が憑き従うことはありえない。
女性を慕い、敬っていたという繩手。与えられていた加護。
憑き物筋というよりも、燈里と冬玄《かずとら》の関係に酷似していた。
「冬玄。もしかして、繩手くんは……」
「言いたいことは予想がつくが、この人間の家は憑き物筋だ」
燈里の言葉を遮り、冬玄はそう断言する。顔を上げ、困惑する燈里の目を見つめて問いかける。
「燈里にとって、俺は何だ?」
「え?」
目を瞬き、遅れて何を問われたかを理解したのか、燈里の頬が赤く染まる。
視線を彷徨わせ、俯きながら、消え入りそうなほどか細い声で答えた。
「……私の……た、大切で……大好き、な……人……」
冬玄の動きが止まった。
俯く燈里を凝視したまま、ゆっくりと手を伸ばす。
しかしその手が燈里に触れる寸前冬玄は我に返り、誤魔化すように咳ばらいをしてそっと手を引いた。
「そうなんだが……いや、そうじゃなくてだな。宮代《みやしろ》の……まぁ、俺も宮代になるわけなんだが……あぁ、いや、その……」
ここに楓《かえで》がいればまず間違いなく呆れ、冬玄を蹴ってでも話を進めただろう。
しかし幸か不幸か、楓は睦月と共に買い物に出てしまっている。そのため、甘酸っぱい空気の漂う部屋で、二人はしばらく赤面しながら無言のまま固まることとなってしまった。
「燈里!」
そんな気まずい沈黙を吹き流すかのように、一陣の風と共に東が部屋に飛び込んでくる。
慌てる二人を気にすることなく、東はどこか誇らしげに胸に抱いたファイルを掲げてみせた。
「南が調べたものを持ってきたわ!そちらの進捗はどうかしら?」
慌てている二人に、東は不思議そうに首を傾げる。掲げた資料と机の上の日記帳を交互に見て、あぁ、と得心がいったように頷いた。
どうやら慌てている理由を、まだ十分に日記を読み進めていないからだと思ったようだ。
「心配しなくても大丈夫よ。わたしも手伝うわ」
「問題ない。だいたいの理由は把握している」
東の持つファイルを受け取りながら、冬玄は無愛想に答えた。だがファイルの表紙に手をかけた時、ふと思いついて東に視線を向ける。
「あの人間の家に憑いていたモノは女だったらしいが、俺たちと同じだと思うか?」
「違うわ。あれは憑き物よ」
冬玄の問いに、東は迷わず断言する。
「何故そう思う?」
「だって憑き物だもの。憑いているモノが何であれ、人間がそれを憑き物だと認識しているのだから憑き物にしかならないわ」
何故、そんな当然のことを聞くのか。真意を測りかねて、東の眉が寄る。だが燈里の困惑した表情に大方の事情を察し、柔らかく微笑んだ。
「燈里。わたしたちはね、望みを映す鏡みたいなものよ。燈里が望んでくれたから、わたしは今までも、そしてこれからもずっとわたしでいられるの」
「そういうことだ。だから、というわけでもないが、色々と突拍子なことをしているようだな。詳細は分からないが全ての始まりとなった家でまた何かがあり、憑き物が変質して封じるに至ったようだ」
そう言って、冬玄は先程までの甘い気配などなかったかのように、眉を顰め手にしたファイルを開いた。
20260408 『これからも、ずっと』