sairo

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娘が選ばれたのは女であり、かつ不義の子だったからという、ただそれだけの理由だった。
男であれば、労働力として使い道はあっただろう。女であったとしても、この家に生まれさえしなければ、まだ人として生きられたのかもしれない。
だが娘はこの家の当主の子として生まれ、そしてその当主のため、愛の代わりに絶え間ない苦痛と永遠という名の絶望を与えられることとなった。

娘には名がない。ヤシロと呼ばれることもあったが、それは自身の身の内に入れられた憑き物のための社であり、廟という意味でしかなかった。
永い年月の間に、娘はかつての娘としての形を失った。ほんの一時、穏やかな日々を過ごしていたような気もするが、暗く湿ったこの場所では、すぐにそんな光は搔き消えていく。
ぞわり、と中の憑き物が蠢くのを感じて、娘は目を開ける。
誰かが扉を開こうとしている。またあの子を傷つけようとしている。
あの子が誰なのか、娘の記憶にはない。だがあの子という存在が、無為に過ごしていた娘に唯一の衝動を与えてくれた。
守るために排除する。近づくものは誰であれ、皆破壊する。

衝動に突き動かされるように、娘の内の憑き物が鎌首を擡《もた》げる気配がした。



重厚な扉に閉ざされていた部屋。その奥にある台の上に一人の女性が繋がれていた。

「麗《うらら》……!」

名を呼び、近寄ろうとする繩手《なわて》の足を、蛇の低い威嚇の声が止める。
暗闇の中、女性の体が歪に蠢いている影が見える。それは細長く、持ち上がる細い影の形は蛇の頭に似ていた。

「迎えに来たんだ。こんな暗い場所から早く出よう」

繩手の声に女性の反応はない。四肢はわずかにも動かず、生きているのかすら分からない。

「麗」

名を呼ぶ。
教えられた通りに。繰り返し呼び続ける。
一歩、足を踏み出した。

「麗、帰ろう」

また一歩、近づき。
そして、手を伸ばす。

「麗」

その手が女性に触れる瞬間。
蠢く蛇が腕に絡みつき、突き立てられる牙の痛みと共に、繩手の意識は黒く塗りつぶされていった。



幼い頃の夢を見ている。
そう感じたのは、視線の先に本を読んでいる子供の頃の自身の姿が見えたからだ。
何を読んでいるのだろうか。その表情はとても真剣でありながら、どこか楽しげに微笑みを浮かべている。

「また読んでるのか。物好きだな」

聞き覚えのない声がした。
瞬きの間に、子供の側に見知らぬ男がいて、本を覗き込んでいた。

「だってここなら、何でも本が読めるんだもん!目が覚めたら、難しくて何が書いてあるのか分からないし」
「まあ、夢の中だからな」

そうか。ここは幼い頃に見た夢の中で、今はその夢の中にいる夢を見ているのか。
ぼんやりとおかしなことを考えながら、辺りを見回した。
室内にいるのかと思っていたが、そうではない。
満開の桜の木の下にいることに、今更ながらに気づいて目を瞬いた。

「ねぇ」

子供が、幼い自分が男を呼ぶ。笑顔の中に悲しみを浮かべて問いかける。

「お姉さんね。名前がないんだって。でもずっとお姉さんって呼ぶのは嫌だから、名前をあげようかなって思ったんだけど」

男は何も言わない。表情の読めない目をして、言葉の続きを待っている。

「たくさん本を読んで、いっぱい考えて……うらら、ってどうかなって思ったの。春うららって暖かくて、優しくて……お姉さんに一番似合う気がする」

くすり。
男が小さく笑みを漏らした。くすくすと堪え切れなかった笑いが溢れ、困惑する。
そんなに笑う程おかしな名前だっただろうか。彼女を思い浮かべ、自然と眉が寄った。

「悪くないんじゃないか。でもせっかくだし、いいことを教えてやろう」

笑いながらそう言って、男は地面に何かを書き始めた。
少しだけ近寄り、書いているものに視線を向ける。男の言動には似合わず達筆な字で一文字、書かれていた。

――麗。

思い出す。
うららという言葉の響きに、形と意味を持たせてくれた人がいたことを。

「漢字では、うららはこう書く。美しく、穏やかで……そして並び連なるという意味を持つ」
「ならび、つらなる?」
「まあ、ちょっと違うが一緒にいるってことだ」

あぁ、と思わず声が漏れた。
視線の先では、幼い自分が何度も一緒と繰り返している。笑われたことで不安だった表情は次第に満面の笑顔に変わり、勢いよく立ち上がった。

「それがいい!お姉さんに伝えてくる!」

ありがとうと言いながら駆け出して、その背は霞んで消えていく。
目が覚めたのだろう。消えた自分を見送って、男に視線を向けた。

「最後のヒントだ。しっかりと思い出しただろう?」

楽しげに男は笑う。

「名を呼ぶのは坊主にできる、唯一で最良の手段だ。ただ意味を持たせないと、ただの音の響きでは届かない」
「意味……」
「響かせる方法もあったが、坊主が段取りを忘れて先に進んだからな。気持ちは分からなくもないが、感情だけで行動するとこうして痛い目をみるぞ」

思わず視線を逸らした。
この屋敷に入る前、確かに言われていたことだ。
通された部屋から動かないこと。それが祖父の部屋であっても、彼女が閉じ込められていた部屋でも関係なく、指示があるまでは動かないと約束していた。
今更ながらに思い出して、迷惑をかけてしまっただろうことを申し訳なく思う。ただでさえ巻き込んでしまっているのだ。考えなしの行動のせいで、もしも危険な目に合わせてしまったらと思うと気が気でない。
そう内心で慌てていると、ぽんと頭に手が置かれている感覚がした。

「式貴《しき》」

視線を向けると、男が柔らかく微笑んでいた。頭を撫でられ、軽く叩かれ、手が離れていく。

「お前は決まり事を大切にできる子だ。足りなかったものは思い出した。後は行動に移すだけ。名を呼んでどうしたいか考えるだけだよ」

ざああ、と風が強く吹き抜けた。桜の花が風に舞い、遠くの空へ消えていく。
目を細めて空を仰ぐ。桜色に染まる視界が、子供の頃に交わした約束を思い起こさせる。

名を呼んだ、その後。彼女と何がしたいか。

思わず笑みが溢れた。したいことがたくさんありすぎて、順番を決めるのが難しい。
けれども、まずは。

「麗と一緒に、桜の花が見たいな。子供の頃のように桜の花びらを追いかけて、そして好きな所へ自由に行ってみたい」

どこでもいい。彼女と二人、一緒にどこまでも、それこそ桜を追って遠い空の下まで追いかけたい。

「ならば、その願いを全部ぶつけるつもりで名を呼んでやれ。それだけでいい」

桜が視界を覆う。声が遠く、感覚が薄くなっていく。
目が覚めるのだろう。

「ありがとう。――」

礼を言い、そういえば、男の名を知らないことに気づいた。

「あの、名前……」

問いかければ、答えの代わりに笑う声。

「夢じゃなく、現《うつつ》で会えた時にでも、教えてやるよ」

年上だというのに、子供のような無邪気さで告げた言葉。
楽しげな声音を聞きながら、視界が桜色から白へと染まり。

そこで、目が覚めた。

4/14/2026, 5:22:19 AM