空気が澱んでいる。
村の奥。広大な敷地に建つ屋敷を見て、燈里《あかり》はそう感じた。
「ここが……俺の、祖父の家……?」
隣に立つ繩手《なわて》の表情は暗く、落ち着きなく視線を辺りに彷徨わせている。
記憶が閉じられている今でも、何か感じるものがあるのだろう。微かに震える体は、屋敷に近づくことすら拒んでいるようだ。
「繩手くん。辛いなら、無理はしなくても……」
「だ、大丈夫。怖いけど、行かないといけない気がするんだ」
きつく拳を握り締め、震える足を前に出す。
「この屋敷の中で、誰かが俺を待っている。だから、行かないと」
「そうだな。ここで逃げ帰っても何も進展しない。今更忘れたままにはできないだろう」
繩手を一瞥し、冬玄《かずとら》は無感情に告げた。
繩手の本心としては、憑き物に関して何も思い出したくはないのだろう。
それは恐怖からの逃避であり、記憶にはないが封を施した両親に対する思いでもある。
だがそれは、燈里に助けを求めた時点で否定された。燈里を巻き込んだことにより、全てを曝け出される方向へと向かってしまったのだ。
そして繩手にとっては幸か不幸か。こうして元凶と対峙させられるまでに至っている。
「それに、引き返せそうにもないしな」
そう言って、冬玄が視線を向けた先。
閉ざされていたはずの屋敷の扉が、開かれていた。
「お帰りなさいませ、式貴《しき》様。ご友人の方もようこそおいで下さいました」
出迎えた初老の男性の後に続き、屋敷の中へと足を踏み入れる。
美しく整えられた庭。鮮やかな花が咲き乱れる光景は、しかしどこか虚ろで空恐ろしく感じられた。
屋敷のあちらこちらから気配がする。だが誰かとすれ違うことはなく、辺りは不気味に静まり返っていた。
「ご友人の方は、こちらをお使い下さい」
「ありがとうございます」
「勿体ないお言葉にございます。何かあれば遠慮なくお申しつけ下さい」
通された客間はとても豪奢な作りだった。
広大な室内には真新しい畳が敷き詰められ、黒々と磨き上げられた柱は底知れぬ威圧感を醸し出している。金箔が鈍く煌めく襖絵。床の間に飾られた水墨画。見上げた天井は格式高い格天井が広がっている。
踏み入れた瞬間、伽羅の香が鼻腔を掠めた。僅かに眉を顰め、冬玄はさりげなく燈里の肩を抱き寄せる。
「冬玄?」
「何かあれば呼ぶ。遠出で疲れているから、しばらく休ませてくれ」
有無を言わさず、燈里を伴い室内に入る。言外に邪魔をするなと告げ、それを察して男性は恭しく頭を下げた。
「承知いたしました。では、式貴様。参りましょうか」
「え?あ、はい……」
一人離されることに、繩手は不安を感じ燈里を見つめた。それに燈里は何かを言いかけたが、その前に男性によって戸が閉められる。
遠ざかる足音。戸を見つめたまま動けない燈里の手を引き座らせると、冬玄は華奢なその体を強く抱きしめた。
「っ、冬玄!?」
「燈里。少しの間、動かないでいてくれ」
囁かれる声に、燈里の動きが止まる。頬を赤く染め、戸惑いに泣きそうな表情をする燈里の頭を優しく撫で、冬玄は安心させるように微笑みかけた。
ふわり、と強く蝋梅が香る。部屋を満たす伽羅の香を掻き消すかのように、冷気と共に広がっていく。
「どうやら、俺たちのことも逃がすつもりはないようだな。ここまで厳重に監視されるのは気分が悪い」
忌々しいと言わんばかりに吐き捨てた。燈里を抱く腕の力を僅かに弱め、それでもその目は鋭く室内に向けられている。
冬玄の言葉に燈里は眉を寄せた。どういうことなのか身じろぎ、室内を見回して。
燈里は声にならない悲鳴をあげた。
無数の目が、燈里と冬玄を見ていた。
襖。天井。畳。隠していた伽羅の香が消えたことで露になった目のどれもが、瞬き一つせず燈里と冬玄を凝視している。
酷く虚ろな目だ。人形のように意思のない、それでいて妙な生々しい濡れた質感を持った目。そのいくつかは作り物のようであり、獣のようであり、そして人の、幼い子供のもののように見えた。
「大丈夫だ。見ているだけで、こちらに干渉するほどの力はない。正しく俺たちを見ているかも分からないほど微弱なモノだ」
かたかたと震える背を撫で、落ち着かせるように冬玄は囁く。これ以上何も見えないようにと、燈里の頭を引き寄せた。
「この、目……これって……」
震えながらも、燈里は問いかける。間違っていてほしいと願いながらも、頭ではある一つの答えが浮かんで消えない。
背を撫でる手が一瞬止まる。殊更優しく撫でられ、燈里はそっと目を伏せた。
「分け与え、取り込む……いや、取り込むことこそが目的か。定着しようとしまいと、どうでもよかったのかもしれないな」
直接の答えではない呟き。
しかしそれは、これ以上ないほどの答えだった。
「祀る方法を間違っている程度の話ではないな。欲を満たし、叶えるための外法だ」
敬い、畏れ、鎮める祈りはそこに存在しない。ただひたすらに醜悪で、自己中心的な人間の業の果てがそこにあった。
震える手で服を掴み、燈里は力なく冬玄に凭れかかる。
何を言えばいいのか分からない。
ただ悲しく、痛みを伴う思いが燈里の胸の内で渦巻いている。
言葉にできない感情が溢れ、それは一筋の涙となって燈里の頬を伝い落ちていった。
4/12/2026, 11:33:52 PM