いつもより早い時間に目が覚めた。
「お姉ちゃん?」
昨日から泊まり込んでいる姉の姿がないことに気づき、首を傾げつつ起き上がる。
姉のことだから、朝ごはんを作っているのだろうか。キッチンに視線を向ければ、摺りガラス越しに動く影が見えた。
耳を澄ませば、物音と共に微かに話し声が聞こえてくる。
誰かと電話をしているのだろうか。まだ半分寝ている頭で考えるが、そうではないと思い出して苦笑した。
去年知ったことではあるが、自分にはもう一人の姉がいるらしい。
普段は結われ見えない姉の後頭部。そこにある口は、母の胎内で人の形にならなかったもう一人の姉の名残らしい。
辛党の姉とは対照的に、自分と同じ甘党のもう一人の姉。食いしん坊で少し抜けている彼女は、姉というよりも妹のようだ。
最初こそ理解が追い付かず驚きはしたものの、それ以上に姉の暴走を止めることに必死で、気づけばすんなりと受け入れることができていた。
「――から」
「それは……でも……」
何を話しているのだろうか。気になってベッドを抜け出し、キッチンに続く扉にこっそりと近づいていく。
「だから、あの子が好きなのは……私が……」
「そんなこと……違うわ、わたしの……」
声を潜めているせいで、近づいてもはっきりとは聞こえない。
扉を開けて何を話していたのかを聞くのは簡単だ。けれども中断した話を、二人は大した話ではないと誤魔化して教えてくれないことがほとんどだ。
小さく溜息を吐く。二人がいつも何を話しているのかずっと気になっていたが、今回も聞けないのだろう。
仕方がないと頭を振り、扉に手をかける。一呼吸おいて、できる限り普段と同じように意識しながら扉を開けた。
「おはよう、お姉ちゃんたち。朝から何を話しているの?」
「ひゃぁっ!」
「っ、おはよう」
二つの声と共に、甘い匂いがした。視線を向ければ皿の上のパンケーキと切られた果物が目につく。今日の朝食は姉特製のパンケーキらしい。
「ごめんね。煩くて目が覚めちゃったかな。この馬鹿が余計なことばかり言うから」
「余計なんかじゃないわ。重要なアドバイスよ」
「余計でしょ。何年この子のお姉ちゃんをやってきていると思ってんのよ。この子の好みは、私が一番知っているんだから」
「甘いものが食べられないのに、ちゃんと分かるわけないじゃない。ここは同じ甘党のわたしの言うことを素直に聞いていなさいよ」
「あの……本当に何の話をしているの?」
声を控える必要がなくなったからか、遠慮なく言い争いをする二人に呆れ交じりに呟いた。
ボウルの中の生クリームを泡立てている手を止めることなく話し続けられるのは、さすがと言うべきなのか。
半ば現実逃避をしていると、姉はどこか必死な顔をして問いかけた。
「パンケーキには生クリームがいいわよね!?」
「へ……?」
「違うわ。チョコクリームが一番よ」
「はい……?」
何を問われているのかすぐには理解できず、首を傾げる。
パンケーキ。生クリーム。チョコクリーム。問われた単語を頭の中で繰り返し、キッチンを見回して思わず溜息を吐いた。
つまり二人はパンケーキに乗せるクリームについて争っていたというわけか。
「ほら、あんたが変なことを言うから困ってるじゃない。そもそも料理のできない母さんに変わってこの子の食育をしてきたのは私なんだから、あんたの出番なんて最初からないのよ!」
「困ってるのは、あなたが自分の意見を押し付けようとしているからでしょう?辛党が甘党の気持ちなんて分かるわけないんですもの。きっとずっと困っていたんだわ」
「あの、ね。お姉ちゃん……」
激しさを増す二人に、恐る恐る声をかける。
途端に静かになる二人にどこか申し訳ない気持ちになりながらも、ここは正直に話すべきだと静かに口を開いた。
「私、パンケーキで一番好きなのは、バターとはちみつをかけたやつかな」
「バターと……」
「はちみつ……?」
愕然として立ち尽くす姉に、ごめんと小さく呟いた。
「この前見つけた喫茶店で食べたパンケーキが美味しすぎて……そこからバターとはちみつ派になりました」
確かに姉の作るパンケーキは絶品ではあるが、今のブームは喫茶店で食べたパンケーキだ。
正直な意見ではあるが、ボウルを置き俯く姉を見て少しだけ後悔する。
小さい頃から色々と世話を焼いてくれた過保護気味な姉だ。もしかしたら傷ついたのかもしれない。
溜息を吐いて、動かない姉に近づいていく。今一番好きなのは喫茶店のパンケーキではあるものの、姉の作るパンケーキが嫌いになったわけではない。そう伝えようとして、ふと姉が小さく何かを呟いていることに気づく。
「お姉ちゃん?」
「――なる」
眉を寄せ、耳を澄ませる。聞こえる声は二人分。何かを話しているのだろうか。
「バターは何とかなる。なんだったら作ればいいし。後ははちみつ……」
「簡単に決めてはだめよ。はちみつは、花の種類によって味が違うんですもの。パンケーキに合うはちみつを選ばないと」
「どちらにしろ、今からじゃ無理ね。こうなったら喫茶店に強襲をかけて」
「ちょっと、犯罪行為は止めて。あと、生クリームをそのままにするのはもったいないから、勝手にパンケーキに乗せて食べるからね?」
思わず口を挟んでしまったが、二人の話は止まらない。けれどボウルを再び取り、てきぱきと朝食作りを再開し始めた。
器用だなと半ば感心しながら、傍目には独り言を言っているように見える姉を見る。何かとお互いに文句を言い合っているものの、本当はとても仲がいいのだろう。
羨ましいなと思うと同時に、寂しくはないのだろうかと不安にもなる。話すことはできても、見ることも触れることもできないのでは、何だか空しくはならないのだろうか。
そんなことを思っていると、ふいに姉の下ろした髪が揺らいだ。息を呑んで見つめていれば、その揺らぎの中でぼんやりと姉に瓜二つの女性の姿が浮かぶ。
姉と同じように真剣な顔をして、でもどこか楽しそうに話している。じっと見ていれば視線に気づいたのか、こちらを見て笑いながら消えてしまった。
寂しくはなさそうだ。小さく笑い、姉を手伝うため食器棚を開ける。
「まだ寝てなよ。出来たら起こしてあげるから」
「目が覚めちゃったから気にしないで」
姉が気を利かせて声をかけるが、それに首を振ってそのまま食器を取り出していく。
目が覚めたというより、賑やかすぎて眠れそうにないのが本音ではあるが。それを口にすれば今度こそ落ち込むだろうことが分かるため、笑って誤魔化した。
「やっぱり一度その喫茶店に行ってみないと……」
「そんなんじゃだめよ。おねえちゃんが一番って思ってもらうには……」
「――まあ、たまにはいいか」
一人暮らしだと、静かなのが日常だ。だからたまにはこうして騒がしいのも悪くない。
姉たちの会話を聞きながら、そう思った。
20260305 『たまには』
――拝啓。
ペンを持つ手が止まる。
毎日顔を合わせている相手にふさわしい書き出しではない。ペンを置き、紙を丸めてゴミ箱に投げ入れた。
思わず溜息が溢れ落ちる。直接伝える勇気がないからと手紙を書こうとしたが、先程から何一つ言葉が出てこない。
やはり顔を見て、伝えるべきなのだろうか。けれど手紙の方が落ち着いて伝えたいことを伝えられるのではないだろうか。
同じ思考を繰り返している。そう分かってはいるものの、止めることができない。
ちらりと壁掛けのカレンダーに視線を向ける。一月、二月があっという間に終わり、この調子では三月もすぐに過ぎてしまうのだろう。
残された時間は少ない。焦る気持ちが空回りして、益々どうすればいいのか分からなくなってきた。
「悩むねぇ。そんなんだと、何も言えずにさよならするんじゃないのかい?」
「うるさい……」
呆れたように笑いながら、窓辺に一羽の鳥が降り立った。部屋に入るとその姿はぐにゃりと歪み、鳥から猫のような獣の姿に変化する。
「ちょっと、窓を開けたんならちゃんと閉めてってよ」
「今の姿じゃ、ムリ」
文句を軽くあしらわれて、眉が寄る。ベッドに乗りくつろぎだす猫を睨みつけながら、窓を閉めるため仕方なく立ち上がった。
「いっつも邪魔ばかりするんだから」
「僕が来ても来なくても変わらなかったじゃないか。結論の出ない悩み事ほどムダなものはないと思うけど?」
正論に何も言えなくなる。込み上げる苛立ちに、ぴしゃんと大きな音を立てて窓を閉めてしまった。
それに何かを言いかける猫をきつく睨みつけることで黙らせる。軽く舌打ちをし、足音荒く椅子に座って真っ白な便箋に視線を落とした。
「荒れてるねぇ」
ぼそりと呟く声にも、敏感に反応して苛立ってしまう。今すぐ出て行ってほしいが、言ってもムダなことは長い付き合いで分かっていた。
何もかもに苛立つ自分に、まだ冷静な思考がそれではいけないと忠告する。周りに八つ当たりをしても意味がないのだと、そう理解はしているものの、焦る気持ちはそう簡単に落ち着きを取り戻すことができない。
「まったく困った子だね。何がそんなに不安なんだい?」
呆れたような溜息に、苛立ちを通り越して段々と泣きたくなってくる。
それは自分が知りたいと、なりふり構わず叫びたいのを必死で堪えた。
時間がないのだ。こうして悩んでいる間にも、時計の針は進んでいく。もう残された時間は少ないのに、このままでは何も伝えられずに別れてしまう。
「本当に困った子だ。それじゃあ気ばかり急いて何もできないだろう。まずは深呼吸をしてごらん?」
とん、と猫が机の上に乗る。月の光のように煌めく瞳に見据えられ、びくりと肩が震えた。
動けなくなった自分の手に前足を乗せ、猫は目を細める。それだけで今まで焦り苛立っていたはずの気持ちが凪いで、促されるままに深呼吸を繰り返す。
二度、三度。繰り返す度に周りがはっきりと見えてくる。机もベッドも窓も、部屋すら消えて、まるで真っ白い空間に猫と自分だけが取り残されてしまったかのようだ。
目を瞬いて、ゆっくりと思い出す。何故焦るのか。時間がないと思うのか。
誰に何を書こうと、あるいは告げようとしていたのかを正しく思い出して、呆けたように小さく息を吐いた。
「あ、私……」
「焦っても意味はない。心配しなくとも時間はまだあるんだ。大丈夫、ちゃんと伝えらえるよ」
笑う猫の目は、どこまでも真っすぐだ。嘘や誤魔化しのない言葉に、ほんの僅か不安が解けて不格好に笑う。
もう一度深呼吸をして、震える唇を開いた。
「伝えたいことはたくさんあるの。全部伝えられるかな?」
「伝えられるさ。伝えたい気持ちと少しの勇気があればね」
「そっか……うん。そうだね」
手に擦り寄る猫を抱く。甘えるような鳴き声に、自然と足は動き出す。
大好きな人たちへ、大好きと伝えるために。
さっきまで悩んでいたのが嘘みたいだ。早く伝えたいと歩いていたはずが、気づけば駆け出していた。
世界が、がらがらと音を立てて崩れ落ちていく。腕の中の猫が鳥へと姿を変え、空高く舞い上がる。
それを追うようにして腕を大きく広げた。羽ばたけば腕は翼に変わり、風を纏い体を宙に浮かせる。
甲高く声を上げた。
空で待つ鳥の下へ、迷いなく飛び立った。
燻る煙を、青年は無言で見つめていた。
隣の部屋からは、母のすすり泣く声がする。仕事と言って家を出ている父は、今夜もまた帰らないのだろう。
煙の向こうの妹はまだ幼さが残る姿で、しかし感情の読めない目をしてこちらを見つめている。何年前の写真だろうか。家中探しても彼女の昔の写真しか出てこなかったことに、今更ながらに後悔が滲んだ。
決して蔑ろにしていたわけではないと、男は胸中で言い訳を繰り返す。それすら虚しくなり、妹から視線を逸らして隣の写真へと向けた。
男の双子の弟。妹とは対照的に、笑顔を浮かべた弟はどこまでも自由で、悪戯好きだった。それでも妹の面倒を積極的に見ていたのを思い出す。
妹を一番大切にし、愛していたのは彼だった。それこそ妹を守るためならば、自身の命すら投げ出すほどに。
彼が今の家の様子を見たら何というのだろう。
心配してくれるのか、それとも妹に目を向けなかったからだと呆れるのか。
「見てなかったわけじゃない。ただ少しだけ、忙しかったんだ」
胸中で抑えきれなかった思いが、言葉となって溢れ落ちる。
結局は言い訳だ。言葉にすれば、それがどれほど意味のないものかを男は思い知った。
実際、家族よりも妹の友人たちの方が、彼女の支えとなっていたことを男は知っている。今も妹に会いにきてくれるのには感謝してもし足りない。
だが同時に、友人たちの訪れは男を酷く落ち着かなくさせた。訪れる誰もが胸に挿している白い羽根を見るたびに、深く澱んだ感情が渦を巻くのを感じていた。
例えるのならばそれは嫉妬、だろうか。
羽根を持つ友人たちは言う。妹が会いに来てくれた。大好きだと笑ってくれたから、親愛の証に羽根を残してくれたから、これからも大切な友人として会いに来たいのだと。
「酷いな」
男の元にも、おそらくは両親の元にすら訪れなかった妹。
酷い酷いと繰り返し、疲れたように立ち上がり仏間を出る。
家族に別れも告げず一人きりで逝ってしまったことか。理由をつけて、あまり見舞いにもいかなかったことか。
何が酷いのか、男にはもうわからなかった。
20260304 『大好きな君へ』
「いいなぁ」
流れていく笹舟を見つめながら、無意識に呟いていた。
たくさんの願いを込めた形代が笹舟に乗って川を流れていく。
その一つに、懐かしい気配を感じた。大好きだった人と守りたかった人の血を継ぐ幼い子の無邪気な願い。吸い寄せられるようにふらふらと、笹舟を追って歩き出す。
幸せでいるのだろう。離れていても暖かな思いが伝わってくる。
「いいなぁ」
繰り返して、その言葉の響きの可笑しさに笑う。
まるで羨んでいるみたいだ。妹の側にいた時、いつも口にしていたことを思い出す。
お姉ちゃんなのだからと母に言われるたびに、何度も反発していた。妹ばかりずるいと駄々をこね、母を困らせていたのも今では大切な思い出だ。
そんなことを思いながら笹舟を追いかけていれば、いつの間にかその笹舟は他と離れてしまっていた。川の流れに乗り、時折逆らうようにふらふらと笹舟は揺れ、浅瀬に乗り上げて止まってしまう。
苦笑して、笹舟を拾い上げる。どこまでも自由な舟に、妹の姿が重なった。
「そういうところはお母さんじゃなくて、お父さんに似たらよかったのに」
妹ではなく先輩に似ていれば、しっかりとしてくれていただろうに。笹舟に対して思うことでもないが、つい考えてしまう。小さく溜息を吐いて、そっと笹舟を拾い上げた。
川の流れに戻してやらねば。形代に移した穢れが戻っていってしまう。
手のかかった妹の、手のかかる子。くすくす笑いながら川下へ移動し、身をかがめた。
「流しちゃうの?」
不意にかけられた言葉に、笹舟を流そうとした手を止め振り返る。どういう意味かと首を傾げれば同じように首を傾げて彼は笹舟を指差した。
「流す前に、読んであげればいいのに」
「読む?」
「だってお手紙だよ?君に宛てて言葉が書いてある」
目を瞬き、笹舟に視線を落とす。逡巡しながらも、そっと形代を取り出した。
雛人形の形をした形代を開き、書かれている文字に目を通す。
――みんなが笑ってくれますように。
まだ拙さが残る文字。
他と変わらない願い事だ。そう思ったが、続く願いに息を呑んだ。
――お母さんのお姉ちゃんが帰ってきますように。みんな待ってるよ。
どこまでも純粋な願い事に、泣きそうになるのを耐えて唇を噛んだ。
「酷いことを子供に書かせるなぁ」
「内緒で書き足したんじゃないかな?両親思いのいい子だね」
「いや、そうじゃなくて」
子供に親の願いを書かせることも気になるが、そうではないと首を振る。
少しだけ頬を膨らませ、不満を露わにして呟いた。
「体がないと帰ってきたと思われないのは、納得がいかない」
ここにいるのに、いないことになっている。気づかれることはないのだから仕方はないが、察するくらいはして欲しい。
ぶつぶつと文句を連ねていけば、彼は耐えきれなかったように吹き出した。
「ふふ。だったら夢枕にでも立てばいいのに。探さないでください。私はここにいますって」
くすくす楽しそうな彼に益々頬を膨らませた。
以前それを試して、全く気づかれずに落ち込んだのを慰めたのは彼だったろうに。
相変わらず彼は意地悪だ。それでいて優しいのだから、本当にたちが悪い。
形代を畳んで笹舟に戻しながら溜息を吐く。川の流れに戻そうとして、ふと思い立ち笹舟を持って立ち上がる。
「穢れを流さないの?」
「折角だから、持ち帰って引き受ける。ちゃんと元気でいてほしいし、厄を引き受けた方が確実だから」
「甘やかすねぇ。気づいてもらえないって怒るくせに」
笑う彼から目を逸らし、流れていく笹舟たちに視線を向けた。
次々と流れていく笹舟の数だけ子供の願いがあり、無病息災を願う親の思いがある。妹と二人で流した雛を思い出しながら、懐かしさに目を細めた。
あの日、妹は雛に何を書いたのだろうか。こっそりと書いた、妹が笑っていてくれますようにという願い事はちゃんと叶っているだろうか。
「そろそろ戻らない?彼岸にはまだ早いよ」
声をかけられ、確かにと頷いた。妹たちの様子は、彼岸の墓参りの時に眺めればいい。
「素直じゃないよね。お盆の時に戻ってあげればいいのに、墓参りにきた時に遠くから見ているだけなんてさ」
「――だって、母さんが泣くんだもの」
思い出して溜息を吐く。数年前に亡くなった母は、生きている時と変わらず盆に戻ってくると近所をうろうろと歩き回るのだ。
あの子は、お姉ちゃんはどこ。戻ってきていないか。どこかで動けなくなって泣いてはいないか。幽鬼のように泣きながら彷徨い歩く姿を見ているのが苦しくて、死んでもなお自分の姿が見えない母が寂しくて、一度戻ったきり盆には帰っていなかった。
「仕方ないよ。後悔に取り込まれて何も見えなくなっているんだから……あの人は君ではなく妹と手を繋ぐことを選んだ。その結果、君は帰れなくなった。その後悔と、長く探し歩いた記憶でいっぱいで、他が入らない状態だからね」
苦笑して彼は近づくと頭を撫でた。そして手を差し出し、笑う。
「ほら、戻ろう?引き受ける穢れの分、ゆっくりと休まないと」
「ん。分かってる」
ふい、と顔を逸らしながら、差し出される手を握る。離れないようにしっかりと繋ぎ、ゆっくりと歩き出す。
「そうだな。折角のひなまつりなんだから、軽くお祝いの真似事をしようか。ごちそうと白酒と……ちょうど梅が咲き誇っているし、花見をしながら楽しもう」
穏やかな声は、まるで慰めているかのように優しく響く。
気恥ずかしさはあるものの、甘やかされるのはとても心地がいい。姉として妹を守らなければと思っていたのがなくなって、ただの子供として優しくされるのが嬉しい。
そんなことを正直に口にする気はないけれど。
「雛壇のないひなまつりなんて、ひなまつりじゃないよ」
「我儘言わないの。今回は折り紙で作ったやつで我慢しなさい」
今回、ということは次回は用意するということだろう。
彼に気づかれないように、必死で浮かぶ笑みを隠す。ありがとうの言葉の代わりに、繋ぐ手に少しだけ力を込めた。
「ありがとうくらい、仕草じゃなくてちゃんと言葉にしてほしいんだけど。にやにやしてるのなんて、とっくに気づいているんだからさ」
溜息と共にぼやく言葉に、耐えきれず声を上げて笑う。
彼は意地悪だけれども、やっぱり優しい人だ。家が分からず彷徨っていた自分を帰してくれた時から知っていることではあるけれど、改めて思う。
「ありがとう」
笑いながら言葉にする。今回のことだけではなく、今までの全ての優しさに対する感謝を改めて口にする。
「どういたしまして」
素っ気なく、彼は言葉を返した。
けれども、その耳は僅かに赤い。それにまた笑いが込み上げる。
「ひなまつり、楽しみだな」
「さっきと言ってることが違うんだけど」
「それはそれ。これはこれ」
こちらを振り返り、呆れたような顔をする彼に笑ってみせる。
そうすれば溜息を吐きながら彼も笑う。
互いに笑いながら手を繋ぎ、歩いていく。
繋いだ手に温もりは感じられない。けれど離されることのない手に何より安心する。
手の中で、かさりと形代が音を立てた。
帰ってきて。そう書かれていたが、本当の意味で帰ることはないだろう。
母とは手を離した。妹のためになら、離してもいいと思った。
けれど彼と手を離すつもりは、この先もきっとないのだから。
20260303 『ひなまつり』
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
玄関先で見送る彼女に、いつものように笑ってみせる。
「分かってるって。行ってきます」
心配そうな彼女に背を向け、家を出る。
いつもの光景。いつもと変わらないやりとり。
足早にバス停まで向かうのも、いつもと同じ行動だ。
「いつまで続くんだろう」
バスを待ちながら嘆息する。
義姉になるはずだった、兄の婚約者である彼女。
兄がいなくなってからもこうして一緒に暮らしているのは、お互いに身寄りがないからでしかない。
「いつまで……」
彼女から離れるたびに考える。
いつまで彼女はいるのか。いつまで兄の行方は分からないままなのか。
いつまで自分は何も言わないのか。
彼女は優しい。まだ親の庇護がなければ生きていけない自分の世話を焼き、兄の、両親の代わりをしてくれる。
けれどそれが苦しい。彼女の笑顔を見るたび、家を出る時のあの不安げな表情を見るたび息が詰まる。
おそらく彼女は、自分に兄を重ねて見ているのだろう。
「言いたいなぁ」
呟いて苦笑する。
彼女には言えないこと。気づいていて黙っていること。
本当は気づいている。どうすればいつまでが終わるのかを。
兄がいなくなってしばらくして、偶然見てしまった。
夕暮れに伸びる彼女の影が、人ではない何かの姿をしていたことに。
「まだ言えないよなぁ」
近づくバスを見遣りながら、小さく息を吐いた。
兄はもう帰らない。自分が何も言わない限り、彼女はずっと自分の側にいる。
そして自分はまだ、彼女に全てを告げる勇気はない。
「早く言いたいなぁ」
ふふ、と笑いながらバスに乗る。
言ってしまえば、終わってしまうだろう。もしかしたら自分は兄と同じ末路を辿るのかも知れない。
自分にとってそれはとても魅力的で、たった一つの希望であり、救いだ。
一人で生きていくには、自分はあまりにも弱すぎる。彼女がいたことで、踏み留まれているだけに過ぎない。
だから、と思う。彼女がまだこの関係を望んでいる限りは、何も言わないでおこうと。
救いを与えてくれる彼女への、せめてもの恩返しだ。
いつまで。そう不安になるたびに、大丈夫だと自分自身に言い聞かせる。
そう遠くない先に、終わりが来るのだろう。
時折見るようになった、彼女の目の奥の光。まるで肉食の獣のように鋭さを孕んだそれが伝えてくれている。
最近は夢を見るようにもなった。誰かに手を引かれて逃げているのに、最後にはその誰かに捕まえられて、近づく獣の影に食べられてしまう夢。
逃げてはいるのに恐ろしさは感じない。まるで鬼ごっこをしているように楽しんですらいた。
早くその時が来ればいい。
そんなことを思いながら、また同じ一日を繰り返している。
「行ってらっしゃい」
姿が見えなくなったあの子に向けて、そっと呟いた。
今日も大丈夫。あの子はここにいて、笑ってくれている。
心の奥底で暴れる衝動を抑え込みながら、無理やりに笑みを形作る。
あの子は自分にとって最後の、たった一つの希望だ。彼とは違う。
数年前、好きだった人間を喰らった。
その時までは彼を信じていた。本来の姿を晒したとしても、彼なら受け入れてくれる。変わらない日々を過ごせるのだと、疑いもしなかった。
けれど彼も他の人間と同じ。醜く悍ましい姿を見た瞬間に彼は逃げてしまった。
その時の怒りと絶望は、決して忘れられはしない。
衝動が収まった後、最初に考えたのはあの子のこと。
まだあの子は年若く、家族の庇護が必要だった。それなのに、衝動に任せて彼を襲ってしまった。
あの子は戻らぬ兄を思い、悲しむのだろうか。その時にはすでに彼に対する思いは消え、あるのはあの子の未来に対しての不安だけ。どうすればいいのかを悩み、そしてあの子の姉として守ることに決めた。
「いつまで続けられるのかしら」
部屋の掃除をしながら考える。
いつまでこの日々を続けられるだろうか。いつまで黙っていられるだろうか。
いつまであの子はここで守られてくれるのだろうか。
優しいあの子。寂しさや不安で苦しいだろうに、それを隠して微笑み自分を姉と慕ってくれる。
全て気づいているだろうに何も言わず、気づかない振りをし続けてくれている。
「いつまでも続けばいいのに」
ほぅ、と息を吐いた。
夕暮れに伸びた本来の自分の姿を映した影を、あの子が見ていると気づいたのはいつだったか。
驚くでも、怯えるでもなく無心で見つめるあの子を見た瞬間、あの子は守るべき存在から、唯一の希望に変わった。
彼とは違い、あの子は受け入れてくれている。ずっと願っていたこの平穏な日々をこれからも続けていくことができる。
とても幸せで、だからこそ不安が込み上げる。
「大丈夫。ここはあの子の家だもの」
そう言い聞かせるも、このまま家に帰って来ないのではないかと考えてしまう。考える度に衝動が込み上げ、あの子に手を伸ばしそうになる。
だからだろうか。ここ最近、同じ夢を見るのは。
夢の中で、誰かに手を引かれ逃げるあの子を追いかけている。そして最後には、彼のようにあの子を喰らってしまう。
不思議なのは、あの子が怯えた様子を見せていないこと。そして手を引く誰かが、あの子を捕まえてしまうこと。
誰かの姿は目が覚めてしまえば忘れてしまう。影のように曖昧で、それでも笑っていたようにも思う。
これで一緒と囁くのは、誰だったのだろうか。
思わず苦笑して、頭を振った。
所詮は夢。あの子はいつもと変わらなかった。だからいつものように帰ってくるのだろう。
くだらない考えを、溜息と共に吐き出す。あの子が帰ってくる前に、家のことを終わらせておかなければ。
夕飯の内容を考えながら、いつもと変わらない一日を繰り返していた。
20260302 『たった1つの希望』
「またそんな隅にいたのか」
部屋の片隅で微動だにせず座る少女に、男は呆れたように溜息を吐いた。
少女は男の言葉に視線を向けるものの、答える様子はない。感情の灯らない静かな目に男は舌打ちし、大股で少女へと近寄った。
「何をお求めでしょうか」
「それを止めろ。あんたはもう屋敷を出ているんだ。記録としての役目はとうに終わってる」
苛立つ男の様子にも、少女は表情を変えることはない。ただほんの僅か、戸惑うように瞳を揺らした。
それを見て男は嘆息し、動かない少女を抱き上げ外へ向かう。少女はやはり動くことなく男を見つめていた。
少女はかつて、とある一族が記録を保管するための道具として長く屋敷の奥に隠され繋がれた存在だった。男により解放されたものの、少女の在り方が変わることは難しい。
「欲を持てと言っているだろうに。自由になれたのだから、他者のために在ろうとするな」
ここにきてから何度も繰り返し言われた欲の言葉に、少女は目を瞬いた。
言葉としては知っている。だが形として、少女はそれを理解できなかった。
理解できないからこそ持ちようがない。少女は自身が保有する記録と経験の差異に気づき、微かに吐息を溢した。
「欲、とは何でしょうか?」
か細い声に、男の足が止まった。少女を見つめ、何かを考え込むように眉を寄せる。
ややあって男は視線を外すと、庭に植えられた一本の白梅の木に近寄った。
蕾は膨らみ、あと数日もすれば咲き始めるのだろう。咲き誇る白梅の姿を思い描き、少女の表情が僅かに綻んだ。
「この梅を咲かせるには何が必要だ?」
男に問われ、少女は首を傾げながらも、求められるままに口を開く。
「水と、陽の温もり」
「そうだな。俺たちが手を加えなくとも、花は咲くだろう。だが、この花を美しく咲かせようとしたら、俺たちには何ができる?」
できること。少女は目を瞬きながら空を見上げた。
雲ひとつない快晴。ここ数日、空には青が広がっていた。
陽の光は十分だろう。ならばと、少女は男に視線を戻しながら答えた。
「水を与えること。肥料を与え、周囲の不必要な草を抜き、剪定する」
「それが欲だ」
少女の目を見据え、男は告げた。一輪咲いていた花を愛でるように指先で触れ、静かに語る。
「望みのため行動を起こすこと。人間は欲を抱くことで生きている。無欲だといわれる聖人ですら持ち得る、必要不可欠なものだ。欲を持つことに善悪はない」
だが。そう続けながら、男は愛でていた花を躊躇なく手折る。無言で男の行為を見つめる少女の髪に花を挿し、悲しく微笑んだ。
「欲に呑まれた瞬間、それは煩悩に変わる。得たことに満たされず、手放せずに執着し、澱む感情が抑えきれなくなった時……俺みたいな化け物が出来上がる」
ひゅっと、少女は息を呑んだ。何かを言いかけ、けれども言葉が思いつかず、少女はただ男の目を見続ける。
ある日突然現れ少女を連れ出した男には、かつて出会った頃の面影は残っていなかった。目に激しい憎悪を宿し、破壊し傷つけることに躊躇をしない。少女の知る心優しく勤勉だった少年は僧として生きるのではなく、人から逸脱し獣に堕ちてしまっていた。
望みが断たれたのだと男は語った。謀反の兆しありという、たった一言ですべてを失ったのだと、冷たい目をして嗤っていた。
それ以上を少女は知らない。男も語ることはなく、歪な平穏の日々を共に過ごしている。
「一度呑まれてしまえば止まらない。本懐を遂げたというのに飢えが消えることはなく、こうしてあんたを今も繋ぎ留めている」
白梅の木の根元に座り込み、男は少女を掻き抱く。淡々とした声音と表情とは真逆の激しさに、少女はほんの僅か表情を歪めた。
少女の内に宿る、記録や知識とは違う何か。男から視線を逸らし、そっと胸に手を当てる。
「どうした?」
「分かりません。これは知らないもの、です」
眉を寄せ、少女は呟く。
男と共に過ごすようになり、時折感じることのあった気配。それが形になろうとしているような気がして、少女は目を閉じ意識を集中させる。
「あなたについて話を聞くと、感じるのです。もっと聞きたい、知りたいと強く思う……記録する必要はないと理解しているのに」
再び目を開けた少女は明らかに困惑した表情をして男を見た。
まるで迷子の幼子のようだ。そんなことを思いながら、男は少女の手を取る。自らの頬に触れさせ、柔らかく微笑んだ。
「聞きたいなら、いくらでも聞かせてやる。だが今はあんたの話を聞かせろ。こうして俺に触れて、何を感じる?」
伝わる熱に僅かに体を強張らせていた少女は、男の問いに小さく首を傾げた。触れている手に視線を向け、そしてゆっくりともう片方の手を反対の頬に添え、表情を綻ばせた。
「あたたかい」
微かな呟きに男は頷き、少女の頭を撫でる。その手つきはどこまでも優しく、幼子を褒めるような慈しみに満ちて少女はほぅと吐息を溢し男に凭れた。
「ずっと、あなたを知りたかった。思うのはあなたとの記憶だけだった……もう一度、会いたいと思っていた」
「何だ。ちゃんと欲を持ててるじゃないか」
「欲?」
目を瞬き、少女は内に宿るものについて考える。
望みはあった。だが自身は求めるのみで行動を起こしてはいない。
それに、と少女は思う。男と再会し、知ることで、果たして満たされるのだろうか。
ふっ、と笑みが浮かぶ。答えなど、考えずとも出ていた。
「欲、ではありません」
「違うのか?」
「これは、煩悩です。知れば知るほど、あなたに触れたいと思う。あなたを私に繋ぎ止められるのであれば、もう一度記録として在ることを望むほどに」
少女の微笑みに、頬を伝い落ちる滴に、男は息を呑んだ。
痛みを堪える目をして笑いながら、強く少女を掻き抱く。
「馬鹿な奴め。鼠に執着するなんざ、記録としての禁忌だろう。見境なく喰い散らかされて、何も残らなくなるぞ」
「私はもう、記録ではありませんから」
男の背に腕を伸ばし、少女もまた強く男を抱きしめた。
「それにあなたになら、すべて無くしても惜しくはありません」
「酷い殺し文句だな……ならば、あんたの未来を俺に寄越せ。俺の側で飢えを満たしてくれ」
「はい。あなたの側で教えてください。あなたのことを、その先もずっと」
寄り添う二人の影が、陽の光を浴びて伸びていく。
鼠の影と、一冊の本の影。だが二つの影は重なり解けて形を失っていく。
不意に風が吹き抜けた。少女の髪を揺らし、挿さる白梅を舞い上げる。
影が揺らぐ。空を舞う白梅が、ふわりと影に降り。
二人の影は獣と物ではなく、正しく男女の姿を取っていた。
20260301 『欲望』