「いいなぁ」
流れていく笹舟を見つめながら、無意識に呟いていた。
たくさんの願いを込めた形代が笹舟に乗って川を流れていく。
その一つに、懐かしい気配を感じた。大好きだった人と守りたかった人の血を継ぐ幼い子の無邪気な願い。吸い寄せられるようにふらふらと、笹舟を追って歩き出す。
幸せでいるのだろう。離れていても暖かな思いが伝わってくる。
「いいなぁ」
繰り返して、その言葉の響きの可笑しさに笑う。
まるで羨んでいるみたいだ。妹の側にいた時、いつも口にしていたことを思い出す。
お姉ちゃんなのだからと母に言われるたびに、何度も反発していた。妹ばかりずるいと駄々をこね、母を困らせていたのも今では大切な思い出だ。
そんなことを思いながら笹舟を追いかけていれば、いつの間にかその笹舟は他と離れてしまっていた。川の流れに乗り、時折逆らうようにふらふらと笹舟は揺れ、浅瀬に乗り上げて止まってしまう。
苦笑して、笹舟を拾い上げる。どこまでも自由な舟に、妹の姿が重なった。
「そういうところはお母さんじゃなくて、お父さんに似たらよかったのに」
妹ではなく先輩に似ていれば、しっかりとしてくれていただろうに。笹舟に対して思うことでもないが、つい考えてしまう。小さく溜息を吐いて、そっと笹舟を拾い上げた。
川の流れに戻してやらねば。形代に移した穢れが戻っていってしまう。
手のかかった妹の、手のかかる子。くすくす笑いながら川下へ移動し、身をかがめた。
「流しちゃうの?」
不意にかけられた言葉に、笹舟を流そうとした手を止め振り返る。どういう意味かと首を傾げれば同じように首を傾げて彼は笹舟を指差した。
「流す前に、読んであげればいいのに」
「読む?」
「だってお手紙だよ?君に宛てて言葉が書いてある」
目を瞬き、笹舟に視線を落とす。逡巡しながらも、そっと形代を取り出した。
雛人形の形をした形代を開き、書かれている文字に目を通す。
――みんなが笑ってくれますように。
まだ拙さが残る文字。
他と変わらない願い事だ。そう思ったが、続く願いに息を呑んだ。
――お母さんのお姉ちゃんが帰ってきますように。みんな待ってるよ。
どこまでも純粋な願い事に、泣きそうになるのを耐えて唇を噛んだ。
「酷いことを子供に書かせるなぁ」
「内緒で書き足したんじゃないかな?両親思いのいい子だね」
「いや、そうじゃなくて」
子供に親の願いを書かせることも気になるが、そうではないと首を振る。
少しだけ頬を膨らませ、不満を露わにして呟いた。
「体がないと帰ってきたと思われないのは、納得がいかない」
ここにいるのに、いないことになっている。気づかれることはないのだから仕方はないが、察するくらいはして欲しい。
ぶつぶつと文句を連ねていけば、彼は耐えきれなかったように吹き出した。
「ふふ。だったら夢枕にでも立てばいいのに。探さないでください。私はここにいますって」
くすくす楽しそうな彼に益々頬を膨らませた。
以前それを試して、全く気づかれずに落ち込んだのを慰めたのは彼だったろうに。
相変わらず彼は意地悪だ。それでいて優しいのだから、本当にたちが悪い。
形代を畳んで笹舟に戻しながら溜息を吐く。川の流れに戻そうとして、ふと思い立ち笹舟を持って立ち上がる。
「穢れを流さないの?」
「折角だから、持ち帰って引き受ける。ちゃんと元気でいてほしいし、厄を引き受けた方が確実だから」
「甘やかすねぇ。気づいてもらえないって怒るくせに」
笑う彼から目を逸らし、流れていく笹舟たちに視線を向けた。
次々と流れていく笹舟の数だけ子供の願いがあり、無病息災を願う親の思いがある。妹と二人で流した雛を思い出しながら、懐かしさに目を細めた。
あの日、妹は雛に何を書いたのだろうか。こっそりと書いた、妹が笑っていてくれますようにという願い事はちゃんと叶っているだろうか。
「そろそろ戻らない?彼岸にはまだ早いよ」
声をかけられ、確かにと頷いた。妹たちの様子は、彼岸の墓参りの時に眺めればいい。
「素直じゃないよね。お盆の時に戻ってあげればいいのに、墓参りにきた時に遠くから見ているだけなんてさ」
「――だって、母さんが泣くんだもの」
思い出して溜息を吐く。数年前に亡くなった母は、生きている時と変わらず盆に戻ってくると近所をうろうろと歩き回るのだ。
あの子は、お姉ちゃんはどこ。戻ってきていないか。どこかで動けなくなって泣いてはいないか。幽鬼のように泣きながら彷徨い歩く姿を見ているのが苦しくて、死んでもなお自分の姿が見えない母が寂しくて、一度戻ったきり盆には帰っていなかった。
「仕方ないよ。後悔に取り込まれて何も見えなくなっているんだから……あの人は君ではなく妹と手を繋ぐことを選んだ。その結果、君は帰れなくなった。その後悔と、長く探し歩いた記憶でいっぱいで、他が入らない状態だからね」
苦笑して彼は近づくと頭を撫でた。そして手を差し出し、笑う。
「ほら、戻ろう?引き受ける穢れの分、ゆっくりと休まないと」
「ん。分かってる」
ふい、と顔を逸らしながら、差し出される手を握る。離れないようにしっかりと繋ぎ、ゆっくりと歩き出す。
「そうだな。折角のひなまつりなんだから、軽くお祝いの真似事をしようか。ごちそうと白酒と……ちょうど梅が咲き誇っているし、花見をしながら楽しもう」
穏やかな声は、まるで慰めているかのように優しく響く。
気恥ずかしさはあるものの、甘やかされるのはとても心地がいい。姉として妹を守らなければと思っていたのがなくなって、ただの子供として優しくされるのが嬉しい。
そんなことを正直に口にする気はないけれど。
「雛壇のないひなまつりなんて、ひなまつりじゃないよ」
「我儘言わないの。今回は折り紙で作ったやつで我慢しなさい」
今回、ということは次回は用意するということだろう。
彼に気づかれないように、必死で浮かぶ笑みを隠す。ありがとうの言葉の代わりに、繋ぐ手に少しだけ力を込めた。
「ありがとうくらい、仕草じゃなくてちゃんと言葉にしてほしいんだけど。にやにやしてるのなんて、とっくに気づいているんだからさ」
溜息と共にぼやく言葉に、耐えきれず声を上げて笑う。
彼は意地悪だけれども、やっぱり優しい人だ。家が分からず彷徨っていた自分を帰してくれた時から知っていることではあるけれど、改めて思う。
「ありがとう」
笑いながら言葉にする。今回のことだけではなく、今までの全ての優しさに対する感謝を改めて口にする。
「どういたしまして」
素っ気なく、彼は言葉を返した。
けれども、その耳は僅かに赤い。それにまた笑いが込み上げる。
「ひなまつり、楽しみだな」
「さっきと言ってることが違うんだけど」
「それはそれ。これはこれ」
こちらを振り返り、呆れたような顔をする彼に笑ってみせる。
そうすれば溜息を吐きながら彼も笑う。
互いに笑いながら手を繋ぎ、歩いていく。
繋いだ手に温もりは感じられない。けれど離されることのない手に何より安心する。
手の中で、かさりと形代が音を立てた。
帰ってきて。そう書かれていたが、本当の意味で帰ることはないだろう。
母とは手を離した。妹のためになら、離してもいいと思った。
けれど彼と手を離すつもりは、この先もきっとないのだから。
20260303 『ひなまつり』
3/4/2026, 9:53:31 AM