「行ってらっしゃい。気を付けてね」
玄関先で見送る彼女に、いつものように笑ってみせる。
「分かってるって。行ってきます」
心配そうな彼女に背を向け、家を出る。
いつもの光景。いつもと変わらないやりとり。
足早にバス停まで向かうのも、いつもと同じ行動だ。
「いつまで続くんだろう」
バスを待ちながら嘆息する。
義姉になるはずだった、兄の婚約者である彼女。
兄がいなくなってからもこうして一緒に暮らしているのは、お互いに身寄りがないからでしかない。
「いつまで……」
彼女から離れるたびに考える。
いつまで彼女はいるのか。いつまで兄の行方は分からないままなのか。
いつまで自分は何も言わないのか。
彼女は優しい。まだ親の庇護がなければ生きていけない自分の世話を焼き、兄の、両親の代わりをしてくれる。
けれどそれが苦しい。彼女の笑顔を見るたび、家を出る時のあの不安げな表情を見るたび息が詰まる。
おそらく彼女は、自分に兄を重ねて見ているのだろう。
「言いたいなぁ」
呟いて苦笑する。
彼女には言えないこと。気づいていて黙っていること。
本当は気づいている。どうすればいつまでが終わるのかを。
兄がいなくなってしばらくして、偶然見てしまった。
夕暮れに伸びる彼女の影が、人ではない何かの姿をしていたことに。
「まだ言えないよなぁ」
近づくバスを見遣りながら、小さく息を吐いた。
兄はもう帰らない。自分が何も言わない限り、彼女はずっと自分の側にいる。
そして自分はまだ、彼女に全てを告げる勇気はない。
「早く言いたいなぁ」
ふふ、と笑いながらバスに乗る。
言ってしまえば、終わってしまうだろう。もしかしたら自分は兄と同じ末路を辿るのかも知れない。
自分にとってそれはとても魅力的で、たった一つの希望であり、救いだ。
一人で生きていくには、自分はあまりにも弱すぎる。彼女がいたことで、踏み留まれているだけに過ぎない。
だから、と思う。彼女がまだこの関係を望んでいる限りは、何も言わないでおこうと。
救いを与えてくれる彼女への、せめてもの恩返しだ。
いつまで。そう不安になるたびに、大丈夫だと自分自身に言い聞かせる。
そう遠くない先に、終わりが来るのだろう。
時折見るようになった、彼女の目の奥の光。まるで肉食の獣のように鋭さを孕んだそれが伝えてくれている。
最近は夢を見るようにもなった。誰かに手を引かれて逃げているのに、最後にはその誰かに捕まえられて、近づく獣の影に食べられてしまう夢。
逃げてはいるのに恐ろしさは感じない。まるで鬼ごっこをしているように楽しんですらいた。
早くその時が来ればいい。
そんなことを思いながら、また同じ一日を繰り返している。
「行ってらっしゃい」
姿が見えなくなったあの子に向けて、そっと呟いた。
今日も大丈夫。あの子はここにいて、笑ってくれている。
心の奥底で暴れる衝動を抑え込みながら、無理やりに笑みを形作る。
あの子は自分にとって最後の、たった一つの希望だ。彼とは違う。
数年前、好きだった人間を喰らった。
その時までは彼を信じていた。本来の姿を晒したとしても、彼なら受け入れてくれる。変わらない日々を過ごせるのだと、疑いもしなかった。
けれど彼も他の人間と同じ。醜く悍ましい姿を見た瞬間に彼は逃げてしまった。
その時の怒りと絶望は、決して忘れられはしない。
衝動が収まった後、最初に考えたのはあの子のこと。
まだあの子は年若く、家族の庇護が必要だった。それなのに、衝動に任せて彼を襲ってしまった。
あの子は戻らぬ兄を思い、悲しむのだろうか。その時にはすでに彼に対する思いは消え、あるのはあの子の未来に対しての不安だけ。どうすればいいのかを悩み、そしてあの子の姉として守ることに決めた。
「いつまで続けられるのかしら」
部屋の掃除をしながら考える。
いつまでこの日々を続けられるだろうか。いつまで黙っていられるだろうか。
いつまであの子はここで守られてくれるのだろうか。
優しいあの子。寂しさや不安で苦しいだろうに、それを隠して微笑み自分を姉と慕ってくれる。
全て気づいているだろうに何も言わず、気づかない振りをし続けてくれている。
「いつまでも続けばいいのに」
ほぅ、と息を吐いた。
夕暮れに伸びた本来の自分の姿を映した影を、あの子が見ていると気づいたのはいつだったか。
驚くでも、怯えるでもなく無心で見つめるあの子を見た瞬間、あの子は守るべき存在から、唯一の希望に変わった。
彼とは違い、あの子は受け入れてくれている。ずっと願っていたこの平穏な日々をこれからも続けていくことができる。
とても幸せで、だからこそ不安が込み上げる。
「大丈夫。ここはあの子の家だもの」
そう言い聞かせるも、このまま家に帰って来ないのではないかと考えてしまう。考える度に衝動が込み上げ、あの子に手を伸ばしそうになる。
だからだろうか。ここ最近、同じ夢を見るのは。
夢の中で、誰かに手を引かれ逃げるあの子を追いかけている。そして最後には、彼のようにあの子を喰らってしまう。
不思議なのは、あの子が怯えた様子を見せていないこと。そして手を引く誰かが、あの子を捕まえてしまうこと。
誰かの姿は目が覚めてしまえば忘れてしまう。影のように曖昧で、それでも笑っていたようにも思う。
これで一緒と囁くのは、誰だったのだろうか。
思わず苦笑して、頭を振った。
所詮は夢。あの子はいつもと変わらなかった。だからいつものように帰ってくるのだろう。
くだらない考えを、溜息と共に吐き出す。あの子が帰ってくる前に、家のことを終わらせておかなければ。
夕飯の内容を考えながら、いつもと変わらない一日を繰り返していた。
20260302 『たった1つの希望』
3/3/2026, 9:38:35 AM