「またそんな隅にいたのか」
部屋の片隅で微動だにせず座る少女に、男は呆れたように溜息を吐いた。
少女は男の言葉に視線を向けるものの、答える様子はない。感情の灯らない静かな目に男は舌打ちし、大股で少女へと近寄った。
「何をお求めでしょうか」
「それを止めろ。あんたはもう屋敷を出ているんだ。記録としての役目はとうに終わってる」
苛立つ男の様子にも、少女は表情を変えることはない。ただほんの僅か、戸惑うように瞳を揺らした。
それを見て男は嘆息し、動かない少女を抱き上げ外へ向かう。少女はやはり動くことなく男を見つめていた。
少女はかつて、とある一族が記録を保管するための道具として長く屋敷の奥に隠され繋がれた存在だった。男により解放されたものの、少女の在り方が変わることは難しい。
「欲を持てと言っているだろうに。自由になれたのだから、他者のために在ろうとするな」
ここにきてから何度も繰り返し言われた欲の言葉に、少女は目を瞬いた。
言葉としては知っている。だが形として、少女はそれを理解できなかった。
理解できないからこそ持ちようがない。少女は自身が保有する記録と経験の差異に気づき、微かに吐息を溢した。
「欲、とは何でしょうか?」
か細い声に、男の足が止まった。少女を見つめ、何かを考え込むように眉を寄せる。
ややあって男は視線を外すと、庭に植えられた一本の白梅の木に近寄った。
蕾は膨らみ、あと数日もすれば咲き始めるのだろう。咲き誇る白梅の姿を思い描き、少女の表情が僅かに綻んだ。
「この梅を咲かせるには何が必要だ?」
男に問われ、少女は首を傾げながらも、求められるままに口を開く。
「水と、陽の温もり」
「そうだな。俺たちが手を加えなくとも、花は咲くだろう。だが、この花を美しく咲かせようとしたら、俺たちには何ができる?」
できること。少女は目を瞬きながら空を見上げた。
雲ひとつない快晴。ここ数日、空には青が広がっていた。
陽の光は十分だろう。ならばと、少女は男に視線を戻しながら答えた。
「水を与えること。肥料を与え、周囲の不必要な草を抜き、剪定する」
「それが欲だ」
少女の目を見据え、男は告げた。一輪咲いていた花を愛でるように指先で触れ、静かに語る。
「望みのため行動を起こすこと。人間は欲を抱くことで生きている。無欲だといわれる聖人ですら持ち得る、必要不可欠なものだ。欲を持つことに善悪はない」
だが。そう続けながら、男は愛でていた花を躊躇なく手折る。無言で男の行為を見つめる少女の髪に花を挿し、悲しく微笑んだ。
「欲に呑まれた瞬間、それは煩悩に変わる。得たことに満たされず、手放せずに執着し、澱む感情が抑えきれなくなった時……俺みたいな化け物が出来上がる」
ひゅっと、少女は息を呑んだ。何かを言いかけ、けれども言葉が思いつかず、少女はただ男の目を見続ける。
ある日突然現れ少女を連れ出した男には、かつて出会った頃の面影は残っていなかった。目に激しい憎悪を宿し、破壊し傷つけることに躊躇をしない。少女の知る心優しく勤勉だった少年は僧として生きるのではなく、人から逸脱し獣に堕ちてしまっていた。
望みが断たれたのだと男は語った。謀反の兆しありという、たった一言ですべてを失ったのだと、冷たい目をして嗤っていた。
それ以上を少女は知らない。男も語ることはなく、歪な平穏の日々を共に過ごしている。
「一度呑まれてしまえば止まらない。本懐を遂げたというのに飢えが消えることはなく、こうしてあんたを今も繋ぎ留めている」
白梅の木の根元に座り込み、男は少女を掻き抱く。淡々とした声音と表情とは真逆の激しさに、少女はほんの僅か表情を歪めた。
少女の内に宿る、記録や知識とは違う何か。男から視線を逸らし、そっと胸に手を当てる。
「どうした?」
「分かりません。これは知らないもの、です」
眉を寄せ、少女は呟く。
男と共に過ごすようになり、時折感じることのあった気配。それが形になろうとしているような気がして、少女は目を閉じ意識を集中させる。
「あなたについて話を聞くと、感じるのです。もっと聞きたい、知りたいと強く思う……記録する必要はないと理解しているのに」
再び目を開けた少女は明らかに困惑した表情をして男を見た。
まるで迷子の幼子のようだ。そんなことを思いながら、男は少女の手を取る。自らの頬に触れさせ、柔らかく微笑んだ。
「聞きたいなら、いくらでも聞かせてやる。だが今はあんたの話を聞かせろ。こうして俺に触れて、何を感じる?」
伝わる熱に僅かに体を強張らせていた少女は、男の問いに小さく首を傾げた。触れている手に視線を向け、そしてゆっくりともう片方の手を反対の頬に添え、表情を綻ばせた。
「あたたかい」
微かな呟きに男は頷き、少女の頭を撫でる。その手つきはどこまでも優しく、幼子を褒めるような慈しみに満ちて少女はほぅと吐息を溢し男に凭れた。
「ずっと、あなたを知りたかった。思うのはあなたとの記憶だけだった……もう一度、会いたいと思っていた」
「何だ。ちゃんと欲を持ててるじゃないか」
「欲?」
目を瞬き、少女は内に宿るものについて考える。
望みはあった。だが自身は求めるのみで行動を起こしてはいない。
それに、と少女は思う。男と再会し、知ることで、果たして満たされるのだろうか。
ふっ、と笑みが浮かぶ。答えなど、考えずとも出ていた。
「欲、ではありません」
「違うのか?」
「これは、煩悩です。知れば知るほど、あなたに触れたいと思う。あなたを私に繋ぎ止められるのであれば、もう一度記録として在ることを望むほどに」
少女の微笑みに、頬を伝い落ちる滴に、男は息を呑んだ。
痛みを堪える目をして笑いながら、強く少女を掻き抱く。
「馬鹿な奴め。鼠に執着するなんざ、記録としての禁忌だろう。見境なく喰い散らかされて、何も残らなくなるぞ」
「私はもう、記録ではありませんから」
男の背に腕を伸ばし、少女もまた強く男を抱きしめた。
「それにあなたになら、すべて無くしても惜しくはありません」
「酷い殺し文句だな……ならば、あんたの未来を俺に寄越せ。俺の側で飢えを満たしてくれ」
「はい。あなたの側で教えてください。あなたのことを、その先もずっと」
寄り添う二人の影が、陽の光を浴びて伸びていく。
鼠の影と、一冊の本の影。だが二つの影は重なり解けて形を失っていく。
不意に風が吹き抜けた。少女の髪を揺らし、挿さる白梅を舞い上げる。
影が揺らぐ。空を舞う白梅が、ふわりと影に降り。
二人の影は獣と物ではなく、正しく男女の姿を取っていた。
20260301 『欲望』
3/2/2026, 10:46:06 AM