sairo

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――拝啓。

ペンを持つ手が止まる。
毎日顔を合わせている相手にふさわしい書き出しではない。ペンを置き、紙を丸めてゴミ箱に投げ入れた。
思わず溜息が溢れ落ちる。直接伝える勇気がないからと手紙を書こうとしたが、先程から何一つ言葉が出てこない。
やはり顔を見て、伝えるべきなのだろうか。けれど手紙の方が落ち着いて伝えたいことを伝えられるのではないだろうか。
同じ思考を繰り返している。そう分かってはいるものの、止めることができない。
ちらりと壁掛けのカレンダーに視線を向ける。一月、二月があっという間に終わり、この調子では三月もすぐに過ぎてしまうのだろう。
残された時間は少ない。焦る気持ちが空回りして、益々どうすればいいのか分からなくなってきた。

「悩むねぇ。そんなんだと、何も言えずにさよならするんじゃないのかい?」
「うるさい……」

呆れたように笑いながら、窓辺に一羽の鳥が降り立った。部屋に入るとその姿はぐにゃりと歪み、鳥から猫のような獣の姿に変化する。

「ちょっと、窓を開けたんならちゃんと閉めてってよ」
「今の姿じゃ、ムリ」

文句を軽くあしらわれて、眉が寄る。ベッドに乗りくつろぎだす猫を睨みつけながら、窓を閉めるため仕方なく立ち上がった。

「いっつも邪魔ばかりするんだから」
「僕が来ても来なくても変わらなかったじゃないか。結論の出ない悩み事ほどムダなものはないと思うけど?」

正論に何も言えなくなる。込み上げる苛立ちに、ぴしゃんと大きな音を立てて窓を閉めてしまった。
それに何かを言いかける猫をきつく睨みつけることで黙らせる。軽く舌打ちをし、足音荒く椅子に座って真っ白な便箋に視線を落とした。

「荒れてるねぇ」

ぼそりと呟く声にも、敏感に反応して苛立ってしまう。今すぐ出て行ってほしいが、言ってもムダなことは長い付き合いで分かっていた。
何もかもに苛立つ自分に、まだ冷静な思考がそれではいけないと忠告する。周りに八つ当たりをしても意味がないのだと、そう理解はしているものの、焦る気持ちはそう簡単に落ち着きを取り戻すことができない。

「まったく困った子だね。何がそんなに不安なんだい?」

呆れたような溜息に、苛立ちを通り越して段々と泣きたくなってくる。
それは自分が知りたいと、なりふり構わず叫びたいのを必死で堪えた。
時間がないのだ。こうして悩んでいる間にも、時計の針は進んでいく。もう残された時間は少ないのに、このままでは何も伝えられずに別れてしまう。

「本当に困った子だ。それじゃあ気ばかり急いて何もできないだろう。まずは深呼吸をしてごらん?」

とん、と猫が机の上に乗る。月の光のように煌めく瞳に見据えられ、びくりと肩が震えた。
動けなくなった自分の手に前足を乗せ、猫は目を細める。それだけで今まで焦り苛立っていたはずの気持ちが凪いで、促されるままに深呼吸を繰り返す。
二度、三度。繰り返す度に周りがはっきりと見えてくる。机もベッドも窓も、部屋すら消えて、まるで真っ白い空間に猫と自分だけが取り残されてしまったかのようだ。
目を瞬いて、ゆっくりと思い出す。何故焦るのか。時間がないと思うのか。
誰に何を書こうと、あるいは告げようとしていたのかを正しく思い出して、呆けたように小さく息を吐いた。

「あ、私……」
「焦っても意味はない。心配しなくとも時間はまだあるんだ。大丈夫、ちゃんと伝えらえるよ」

笑う猫の目は、どこまでも真っすぐだ。嘘や誤魔化しのない言葉に、ほんの僅か不安が解けて不格好に笑う。
もう一度深呼吸をして、震える唇を開いた。

「伝えたいことはたくさんあるの。全部伝えられるかな?」
「伝えられるさ。伝えたい気持ちと少しの勇気があればね」
「そっか……うん。そうだね」

手に擦り寄る猫を抱く。甘えるような鳴き声に、自然と足は動き出す。
大好きな人たちへ、大好きと伝えるために。
さっきまで悩んでいたのが嘘みたいだ。早く伝えたいと歩いていたはずが、気づけば駆け出していた。

世界が、がらがらと音を立てて崩れ落ちていく。腕の中の猫が鳥へと姿を変え、空高く舞い上がる。
それを追うようにして腕を大きく広げた。羽ばたけば腕は翼に変わり、風を纏い体を宙に浮かせる。
甲高く声を上げた。
空で待つ鳥の下へ、迷いなく飛び立った。





燻る煙を、青年は無言で見つめていた。
隣の部屋からは、母のすすり泣く声がする。仕事と言って家を出ている父は、今夜もまた帰らないのだろう。
煙の向こうの妹はまだ幼さが残る姿で、しかし感情の読めない目をしてこちらを見つめている。何年前の写真だろうか。家中探しても彼女の昔の写真しか出てこなかったことに、今更ながらに後悔が滲んだ。
決して蔑ろにしていたわけではないと、男は胸中で言い訳を繰り返す。それすら虚しくなり、妹から視線を逸らして隣の写真へと向けた。
男の双子の弟。妹とは対照的に、笑顔を浮かべた弟はどこまでも自由で、悪戯好きだった。それでも妹の面倒を積極的に見ていたのを思い出す。
妹を一番大切にし、愛していたのは彼だった。それこそ妹を守るためならば、自身の命すら投げ出すほどに。
彼が今の家の様子を見たら何というのだろう。
心配してくれるのか、それとも妹に目を向けなかったからだと呆れるのか。

「見てなかったわけじゃない。ただ少しだけ、忙しかったんだ」

胸中で抑えきれなかった思いが、言葉となって溢れ落ちる。
結局は言い訳だ。言葉にすれば、それがどれほど意味のないものかを男は思い知った。
実際、家族よりも妹の友人たちの方が、彼女の支えとなっていたことを男は知っている。今も妹に会いにきてくれるのには感謝してもし足りない。
だが同時に、友人たちの訪れは男を酷く落ち着かなくさせた。訪れる誰もが胸に挿している白い羽根を見るたびに、深く澱んだ感情が渦を巻くのを感じていた。
例えるのならばそれは嫉妬、だろうか。
羽根を持つ友人たちは言う。妹が会いに来てくれた。大好きだと笑ってくれたから、親愛の証に羽根を残してくれたから、これからも大切な友人として会いに来たいのだと。

「酷いな」

男の元にも、おそらくは両親の元にすら訪れなかった妹。
酷い酷いと繰り返し、疲れたように立ち上がり仏間を出る。
家族に別れも告げず一人きりで逝ってしまったことか。理由をつけて、あまり見舞いにもいかなかったことか。
何が酷いのか、男にはもうわからなかった。


20260304 『大好きな君へ』

3/5/2026, 10:02:44 AM