「追儺《ついな》を執り行う」
宮司の言葉に、集まった者たちが一様に騒めいた。
「鬼ではないのだぞ!?」
「神を相手に意味はあるのか?」
「誰が方相氏《ほうそうし》の役を行うというのだ」
誰もが皆、不安を口にする。疲弊した彼らには、これ以上足掻く力は残されていないのだろう。
それを理解していながらも、宮司の表情は変わらない。強い意志を湛えた澄んだ眼差しで一同を見つめ、誰もが口を閉ざした後、ゆっくりと口を開いた。
「方相氏の役は我が子が負う。招いた神を祀った責は、我が一族で果たそう」
酷く静かな声だった。そこに哀しみの色はない。表情と同じく澄んだ響きが、部屋に落ちる。
「本来ならば私が執り行うべきことなのだろうが、厄移しの形代《かたしろ》を作らねばならない。それにこの子の方が適役だ」
いつの間にか、宮司の背後には方相氏の四つ目の面を被った子供が控えていた。何も言わず、微動だにしない子供に方々で息を呑む音がし、次いで先程よりも大きく周囲の騒めき出す。
「馬鹿なことを!」
一人が叫ぶように宮司の言葉を否定する。それを皮切りに、宮司を止めようと皆が必死に声を上げた。
「考え直せ!責などと……神の恩恵を享受した我らも同罪だろうに」
「この神社は村の拠り所なのだ。どうかその血筋を途絶えさせないでくれ」
「どうしても追儺を行うというならば、わしらが方相氏の役を担う。だからどうか……!」
だが皆の懇願にも宮司の表情は変わらない。控える子供も姿勢を崩すことなく、困惑し嘆く者たちの姿を見据えていた。
「私が父に願いました」
不意に、沈黙を保っていた子供が告げた。宮司と似た静かで迷いのない声に、辺りは一瞬で静まり返る。
「追儺の形を取りますが、村から追いやった後は封じます。厄が漏れ出てくることがないようにしっかりと閉じます」
子供の覚悟に、誰も声を上げることはできない。
止められぬのだと、理解してしまったのだ。自身の無力さに誰もが唇を噛み締め、強く拳を握り締めた。
「私ならできます。私は――だから」
行燈の灯りが揺らぐ。中の蝋燭の芯がじじ、と音を立て、炎を揺らめかせる。
「三方を柊で囲い、残る一方を……」
炎の揺らぎに合わせて、方相氏の面に陰が落ちる。
悲壮な覚悟を決める子供の代わりに、怒り、哀しみに暮れているようだ。
「私が村を守ります。それが十年でも、百年でも……たとえ千年先であっても、鬼の厄を閉じてみせます」
部屋の隅で彼らの嘆く声を聞きながら、燈里《あかり》は目を伏せ、繋いだ睦月《むつき》の手を握りしめた。
「鬼はー外!福はー内!」
楽しげな子供たちの声に、燈里はびくりと肩を揺らした。
節分の今日は、あちらこちらで豆まきのイベントが行われている。楽しげな街の様子とは裏腹に、燈里の気持ちは重く沈んでいく。
今朝見た夢の内容が頭から離れない。宮司の目が、方相氏の面を被る子供の声が、節分を楽しむ街を見る度脳裏を過ぎていく。
嘆息して、燈里は手にした買い物袋を持ち直した。気分転換に一人で買い物に出たが、徒労に終わったようだった。
「燈里ねぇ!」
不意に睦月の呼ぶ声が聞こえて振り返る。学校帰りの睦月が燈里に駆け寄り、どこか沈んだ顔をしてごめん、と呟いた。
「朝も言ったけど、気にしないの。夢を見ただけで、特に何かが起こったわけじゃないんだから」
「でも、わたしが見た夢に燈里ねぇまで巻き込んで……」
俯く睦月の頭を撫でながら、燈里は大丈夫だと繰り返す。
ただどこかの村の、いつかの一場面を見ただけだ。朝から落ち込む睦月に何度か伝えるも、彼女の罪悪感は少しも軽くはならないらしい。
恐ろしい体験をしたのは睦月も同じ。むしろ燈里が方相氏の姿を見る時には側に睦月はいたが、一番初めの方相氏との接触の際には彼女は一人きりだった。
数日前の怯えていた睦月の姿を思い出し、燈里は表情を暗くする。
「私のことより、睦月は大丈夫なの?学校では何もなかった?」
睦月と共に帰路に就きながらの問いかれば、睦月は首を振って力なく笑った。
「何もなかったよ。ただ今日は節分だからあちこちで豆まきの声が聞こえて落ち着かなかったけど」
燈里も先程似たような経験をしたばかりだ。急に恥ずかしさが込み上げ、頬が赤く染まる。
「仕方ないよ。鬼は外って聞くと、あの方相氏が思い浮かぶから」
「燈里ねぇもなの?」
「ついさっきね。豆まきのイベントをしてたのを聞いて」
睦月と目を合わせて燈里は笑う。
張りつめていた空気が少しだけ和らぐのを感じて余裕ができたのか、燈里は手にした買い物袋を睦月に向けて掲げ軽く揺らした。
「今日は節分だから恵方巻を作るよ」
「やった!お手伝いは任せてね」
「気にしなくていいのに」
笑い合いながら、道の角を曲がる。見えた家の前で、冬玄《かずとら》が落ち着きなく待っている姿を認めて、睦月はどこか揶揄い交じりに声を上げて笑った。
「ちょっとだけ買い物にでただけなんだけどな」
「相変わらずの心配性だよね。それでいて肝心な所はぐずらもずら《ぐずぐず》先延ばしにするんだから」
「睦月……」
流石に言い過ぎだとは思うものの、あながち間違いではない。そう思い、燈里は何も言えずに苦笑して歩み寄ってくる冬玄に手を振った。
「燈里」
「心配しなくても――」
大丈夫。
そう続けるはずの燈里の言葉が不自然に止まる。
「燈里っ!」
目を見開き硬直する燈里を睦月ごと庇うように、冬玄は一瞬で二人の前に立ち振り返った。
「鬼は外、鬼は外」
「例の方相氏か」
誰にも気配を悟らせることなく、方相氏は佇んでいた。
手には柊の葉のついた枝を持ち、鬼は外と無感情に繰り返している。
「村から外へ、遠くへ追いやれ」
右側から声がした。視線を向ければ、同じように方相氏の姿をした子供が柊の枝を手に立っている。
「柊立てて、転じて内へ」
「四方を打ちて、閉じ込めよ」
左側と背後から、声がした。
「鬼は外」
正面の方相氏がざり、と音を立てながら一歩距離を詰める。一呼吸遅れて、三方から土を踏み締める音が聞こえた。
いつの間にか四方を囲われていることに、冬玄は忌々しげに舌打ちする。
せめて燈里と睦月だけでも。
そう考え、冬玄の影が揺らぎ始めた時だった。
「――違う」
正面の方相氏の動きが止まった。
「まだ堕ちてはいない。鬼ではない」
ざわ、と、三方の気配が揺れる。
戸惑いを露わに、それぞれから声が上がる。
「鬼と同じ匂いがする」
「気配も同じ。神と人と、混じっている」
「違うというならば、鬼はどこに?」
困惑する冬玄たちを気にかけることもなく、同じ、違うと方相氏たちは口にする。
ふと燈里の脳裏に浮かぶのは、今朝見た夢のこと。
神を相手にすると誰かが言っていた。厄が漏れ出ぬように閉じると方相氏の役を担う子供も言っていたはずだ。
同時に思い出すのは、去年の梅雨の時期のこと。とある寺で見せた冬玄の異様な姿に、燈里の口からあぁ、と呻くような声が漏れた。
「鬼は外」
騒めき、困惑する気配を静かだが鋭さを持った声が鎮める。正面の方相氏は冬玄を見据えたまま、声を上げる。
「鬼を追わなければ。漏れ出る厄を閉じなければ」
その声を合図に、三方の方相氏がそれぞれ散っていく気配がする。それを見届け、正面の方相氏もまた止める間もなく遠くへ駆けていってしまった。
「――どういうことだ?」
困惑を強める冬玄に、燈里は何も言えなかった。
冬玄が恐ろしいわけではない。
ただ、揺らぐ冬玄の影に、言いようのない何かを感じていた。
20260203 『1000年先も』
「子供の方相氏か」
眉を寄せ、冬玄《かずとら》は息を吐いた。
居間に沈黙が下りる。重苦しい空気に、睦月《むつき》は泣きそうに表情を歪めた。
「ごめんなさい。迷惑をかけて」
「睦月のせいじゃないよ」
俯く睦月の背を撫で、燈里《あかり》は優しく微笑んだ。
睦月の目覚めを待って、燈里たちは彼女から詳しい話を聞いた。
夕暮れの見知らぬ公園の夢。揺れる無人のブランコ。四つ目の面をつけた子供。
夢から目覚めたというのに、その子供が現れ告げた言葉。
「鬼を閉じろ、か。言葉通りなら、村から追いやった鬼をどこかに閉じ込めろってことだけど」
冬玄を見ながら楓《かえで》は首を傾げる。その視線の意味する所を知って、冬玄は嫌そうに眉を顰めた。
「その鬼が俺だって言いたいのか」
「もしくは僕かの二択だろうさ」
冬玄の視線を受け流し、楓は肩を竦めてみせる。
「一度堕ちかけた守り神に、人間の記憶に巣食う妖。燈里と睦月に厄はついていないんだから、それ以外に思い当たることはないだろう?」
「だとしたら、燈里の夢に入り込むはずだ。ちびの夢に方相氏が現れた理由が分からん」
「睦月の素質によるものじゃないかな。ヒガタの件で色々夢を見たらしいし……とはいえ、確かに理由としては弱いかな」
ちらりと俯く睦月に視線を向け、楓は溜息を吐いた。
睦月が見た夢の内容だけでは分からないことが多すぎる。方相氏の告げた言葉も曖昧であるが故に解釈が困難だ。
そもそも四つ目の面の特徴から方相氏だと認識しているが、それも本当かどうか判断はつかなかった。
「方相氏が鬼を追いやるのは、追儺《ついな》の方法として正しい。でも追儺では鬼を閉じ込めることはない。邪を払う柊を立てる、四方を打つってことは、つまり鬼を封じ込めているって意味にとれる……なんで鬼を封じなきゃならないんだろうね」
「元は方相氏ではないのかもな。子供を従え鬼を追うのが方相氏の認識だ。獣神として在ったこともあるらしいが、子供の方相氏は人間の認識に当てはまらないだろう。ヒガタのように混じりモノか、形を模しただけという可能性が高いな」
冬玄と楓の話に耳を傾けながらも、燈里は睦月が心配で堪らなかった。
俯き、必死で泣くのを耐えている姿。睦月のせいではないのだと何度言葉にしても、彼女には届いていないようであった。
「睦月……」
固く握り締めている睦月の手を繋ぐ。小さく肩を震わせ睦月は顔を上げて燈里を見た。
「燈里ねぇ」
「大丈夫。方相氏は鬼を追い払ってくれる存在だから、怖くないよ」
「でも……」
方相氏が本物ではなかったとしたら。そう言いかけて睦月は口を噤んだ。
代わりに力なく笑みを浮かべ、繋いだ手を握る。強がりながらも不安を隠せない睦月に燈里は安心させるように微笑み、繋ぐ手に力を込めた。
「燈里ねぇ。あのね……」
何かを言いかけた睦月の笑顔が消えた。
「睦月?」
燈里の呼びかけに答える余裕はないのだろう。表情を強張らせ辺りに視線を彷徨わせている睦月は、不意にびくりと肩を震わせて繋いだ手を離し、背後を振り返った。
「睦月、一体何が……っ!」
睦月を追って視線を背後に向け、燈里は息を呑んだ。
――鬼は外。
何故気づかなかったのか。無感情でありながら子供特有の高めの声音が辺りに響く。
居間の入口に立つ異形の姿から目を逸らせない。
黒い衣に朱の裳を着た小さな姿。鬼のような形相の面の、その金の目は四つ。
「方相氏……」
面の奥の黒い目が、逸らすことなく真っすぐに燈里たちを見据えている。息苦しさを覚えるほど、力強い意志を湛えた目。
燈里は喘ぐように浅い呼吸を繰り返しながら、救いを求めて冬玄たちの方へと振り返った。
「え……?」
冬玄、と名を呼ぼうとして、燈里は目を見張り硬直する。
冬玄と楓の姿がない。それどころか、そこは見慣れた居間ですらなかった。
「ここは……どこ……?」
一面に広がる青い花。空は厚い雲に覆われ、陽を見ることは叶わない。
ふと、遠くに誰かの姿を見た。
目を引く金の煌めき。稲穂を思わせる長い髪の誰かがゆっくりと去っていく。女なのか男なのかは分からない。その腕には何かが抱かれているように見えた。
「鬼は外。鬼は外」
背後で声がする。
その言葉を合図に、三人の方相氏の姿をした子供たちが去っていく誰かを追いかけていく。
「村から外へ、遠くへ追いやれ」
「柊立てて、転じて内へ」
「四方を打ちて、閉じ込めよ」
外だというのに声が反響し、まるで四方を囲われているような錯覚に燈里は強い眩暈を覚えた。
去っていく誰かが鬼なのだろうか。追いかける方相氏たちは、しかしその鬼との距離を縮められていない。
「鬼は外。外から内へ」
無感情に声は告げる。遠くから鬼は外、と声が返る。
背後で何かが崩れ落ちる音がした。
小さな呻く声。倒れる睦月の姿が思い浮かび、燈里はふらつくのも構わず立ち上がった。
「睦月!」
「――燈里?」
困惑した声。
はっとして、燈里は辺りを見回した。
いつの間にか辺りはあの青い花が咲き乱れる外ではなく、見慣れた居間に戻っていた。
振り返れば、脱力したように睦月が椅子に座っている。戸惑うように視線を彷徨わせ、燈里と目が合うと一筋の涙を流した。
「燈里ねぇ……」
「大丈夫。ここにいるから」
離れた手を再び繋ぐ。大丈夫だと繰り返せば、睦月は肩を震わせ静かに泣き出した。
「燈里。一体何があった?」
「僕には何も感じられなかった。急に動きが止まって、次の瞬間には立ち上がったんだよ。記憶を共有しているはずなのに、今も何も分からない……燈里は何を見たんだい?」
険しさを滲ませる冬玄と楓の声に、燈里は視線を向ける。
先程見たものを告げようと口を開き、だが溢れ落ちたのは全く別の言葉だった。
「勿忘草だ……」
一面に咲き乱れる青い花。浮かぶその名に、燈里はそっと目を伏せる。
忘却を恐れる小さな花は、何の記憶を留めようとしているのか。
金の髪の鬼。それを追う子供の方相氏。外から内へ、鬼を閉じ込めるという言葉の意味。
「燈里。何を見たのか教えてくれ」
側に寄り、冬玄はそっと燈里の肩に手を伸ばした。
だがその手は一瞬だけ止まる。
「冬玄?」
「いや、何でもない」
そう言って冬玄は笑うが、燈里は不安げな面持ちで唇を震わせる。けれど何も言えずに、睦月と繋いだ手に力を込めた。
「気にするな。一瞬だけ何かを感じたと思ったんだが、気のせいだったようだ」
燈里の頭を撫でながら、冬玄は気のせいだと繰り返す。
自身に言い聞かせるような響きを持つその言葉。感じた冬玄も違和感が拭えないのだろう。
「俺のことはいい。それよりも話を聞かせてくれ。勿忘草は何を意味しているんだ」
だが今は燈里の見たものが何であるのかの方が重要だ。そう結論付けて、冬玄は燈里に問いかける。
違和感が予感に変わる。
子供の声音で鬼は外と囁くようで、冬玄は密かに拳を握りしめた。
20260202 『勿忘草(わすれなぐさ)』
夕暮れに染まる公園には、誰の姿もない。
誰かが置き忘れたのだろうか。砂場に築かれた山には、スコップが刺さっている。滑り台には溶け残った雪が滑り面の終端部を濡らしていた。
とても静かだった。昼間は子供たちの笑い声で満たされている公園の別の顔に、訳もなく落ち着かなくなる。
早く帰らなければ。
帰りを待つ人がいる。帰りが遅いと心配させてしまうだろう。迎えに来てしまうのかもしれない。
帰らなければ。
焦燥感にも似た思いが込み上げ、公園から目を逸らして踵を返す。
一歩、足を踏み出した時だった。
――きぃ。
公園から、微かな音が聞こえた。金属の擦れるような、悲鳴のようにも聞こえるか細い音。
振り向きたくはないのに、体は意思に反してゆっくりと振り向いていく。
――きぃ。
公園の奥から音は聞こえてくる。大きな滑り台の後ろ。入口からは見えない場所から途切れ途切れに響いている。
気づけば足は勝手に奥へと向かい進んでいた。
帰らなければいけない。焦る気持ちとは裏腹に、奥へと進む足取りに迷いはない。確かめなければという強い思いが浮かび、焦りをじわりと塗りつぶしていく。
――きぃ。
滑り台を通り過ぎる。
そこで立ち止まり、視線を奥へと向けた。
「ブランコ……」
小さく呟けば、答えるようにブランコがきぃ、と音を立てる。
誰も乗ってはいない。風もないというのに、小さくブランコが揺れていた。
まるで、見えない誰かがブランコに座っているかのように。
――鬼は……。
不意に声が聞こえた。ブランコが立てる音に重なり、はっきりとは聞こえない。
――鬼は、外……鬼は外……。
次第に明瞭になる言葉。ブランコが揺れ、不自然な影が纏わりついていく。
それは次第に小さな子供の影を作り出した。ブランコにただ座り、深く俯いている。
――鬼は外。鬼は外……内へ……閉じ込め……。
歌だろうか。繰り返す言葉に思い浮かぶのは、数日後の節分のことだ。
鬼は外。福は内。豆をまきながら唱える言葉が過ぎていくが、何か違うような気もした。
ゆっくりとブランコに近づいていく。俯く影は顔を上げない。ただ鬼は外と繰り返すだけ。
何が違うのか。それを知るため、聞こえなかった言葉を拾おうと耳を澄ませる。
そしてブランコの前に立った時だった。
「鬼は外、鬼は外。村から外へ、遠くへ追いやれ。柊立てて、転じて内へ。四方を打ちて、閉じ込めよ」
影が顔を上げた。
「――っ」
息を呑む。
露わになったその姿。細い手足。黒い衣と赤い下衣。
金の四つ目の仮面の奥で、静かな目がこちらを見据えている。
「鬼は外」
幼さが滲む声。異様な姿をした子供がブランコから降りる。
ざり、と地面を擦り、子供が足を踏み出す。
「外から内へ。鬼を閉じろ」
そこで、目が覚めた。
「いやっ!」
小さく悲鳴を上げ、継枝《つぐえだ》睦月《むつき》はベッドから飛び起きた。
「ゆ、め……?」
かたかたと震える肩を抱きながら視線を巡らせる。慣れ親しんだ古めかしい和室ではなく、どこか殺風景な洋室に一瞬だけ混乱する。
「あ……そっか。燈里《あかり》ねぇと一緒に村から出たんだっけ」
緩く頭を振り、睦月は苦笑した。
村を出て二週間以上経つというのに、未だに実感は薄い。小正月前の数日間の濃い出来事を思い出す度、今の穏やかさが夢ではないかと疑ってしまう。
「慣れないとなぁ。こんなんじゃ、燈里ねぇに気を使わせちゃう」
優しい家主を思い、小さく息を吐いた。
睦月がこの家で暮らし始めてから、家主である宮代《みやしろ》燈里は何かと気にかけてくれている。
不便はないか。足りないものはないか。押しかけた身であると自認している睦月にとって燈里の気遣いが、逆に申し訳なく思う。せめてできることをしようと率先して家事を手伝っているが、それが燈里の庇護欲に拍車をかけていることに睦月は気づいていなかった。
「っと。ご飯の準備をしないと」
カーテン越しの仄かな明るさに気づいて、睦月はベッドを抜け出した。夢の残滓を消すように大きく伸びをして、深く息を吐き出した。
「それにしても何だったんだろう?あの夢」
見覚えのない公園だった。ブランコに乗っていたあの異形の面をつけた子供も、見たことはない。
所詮は夢だと思いながら気にかかるのは、睦月が故郷の村で起きた悲劇を夢に見ていたからだろうか。
ヒガタという、小正月の来訪神を思い出しながら、何気なく枕元の時計に視線を向けた。
聞こえた悲鳴に、目覚めたばかりで微睡んでいた燈里の意識は一瞬で覚醒した。
「睦月!?」
自室を飛び出し、隣の部屋の戸をノックもなしに開け放つ。薄暗い部屋の電気を点ければ、ベッドの脇で、楓《かえで》にしがみつきながら震えている睦月の姿が目に入った。
「睦月!」
「燈里ねぇ……」
睦月の体を抱きしめ背を撫でながら、燈里は楓に視線を向ける。何があったのかと視線で問いかけられ、楓はどこか困惑げに眉を寄せ口を開いた。
「四つ目の面をつけた子供がいたらしい」
「四つ目?」
燈里も同じように眉を寄せた。
四つ目の仮面で思いつくものはあるが、それが何故睦月の部屋に出るのかが分からない。
室内を見回すが、睦月のいう子供の姿はどこにもない。
「四つ目って……方相氏《ほうそうし》のことかな?」
「特徴からしてそうだろうね。金の四つ目。黒と赤の装束……大晦日は過ぎたけど、節分は数日後だ。関係はあるのかもしれない」
だとしても、何故睦月の元に現れたのかが分からない。そう言いたげな楓に、燈里はさらに困惑を強めた。
腕の中で震えている睦月を見る。彼女には酷だが、もう少し話を聞けば何かが見えてくるかもしれない。
そう思った時だった。
「何をしているんだ?ちびの部屋に集まって」
部屋の入り口で、冬玄《かずとら》は不思議そうに声をかけた。どうやら朝食の時間になっても誰も来ないため様子を見にきたらしい。
「四つ目の面をつけた子供が出たんだってさ」
燈里の元へと歩み寄る冬玄に、楓は簡潔に答えた。
「四つ目?方相氏のことか?」
予想もしていなかったのだろう楓の言葉に冬玄は目を瞬き、次いで訝しげに周囲を見る。何の気配も感じられないことに息を吐き、どこか呆れを滲ませて口を開いた。
「何も感じられないな。そもそも俺がいる限り、この家に何かが入り込めるはずはないだろう」
今は燈里の婚約者ではあるものの、冬玄は今も宮代の守り神だ。その冬玄が何も感じないというのであれば、本当に何もいないのだろう。
「節分も近いことだしな。何かの影響を受けて夢で見た可能性は否定できないが……」
特に問題はない。
そう続けるはずだった冬玄の言葉は、睦月の姿を見て途切れた。
膝をつき、目を合わせる。困惑と僅かな険しさを浮かべ、冬玄は低く呟いた。
「入ってきているな」
「え?」
「夢を介して入り込んできている」
冬玄の言葉に、途端に燈里は不安げに睦月を見つめた。かたかたと震え続ける睦月は、先程から一言も話してはいない。それ程に怖い思いをしたのかもしれないが、睦月の性格から考えれば不自然だった。
「それは悪いモノかい?」
楓の問いに、冬玄は首を振る。睦月の頭に触れ、目を細めた。
「方相氏は鬼を追いやる存在だろう?」
悪いモノであるはずがない。
言外に告げて手を握りしめ、何かを引き摺り出す仕草をした。
びくりと睦月の体が震え、脱力する。
「睦月!?」
反応のない睦月に燈里は慌てるが、穏やかな寝息に安堵の息を吐く。
睦月に何をしたのか分からず冬玄を見るものの、彼は自身の握った手に視線を向けたまま動かない。
「冬玄?」
「悪いモノではないが、良いことが起きるわけでもなさそうだな」
嘆息して、冬玄はゆっくりと握っていた手を開いていく。
「これって……」
「柊の葉……?」
冬玄の手の中に収まっていた、特徴的な棘のような葉。
一枚の柊の葉に、燈里は言いようのない不安が込み上げてくるのを感じた。
20260201 『ブランコ』
気づけば、足跡はここで終わっていた。
「ここで……終わり?」
呆然と辺りを見渡した。だが広がる雪原に、足跡は見当たらない。
ここで道は途切れている。それを理解して、思わず深い溜息を吐いてしまった。
「果てには、何もないんだ」
おとぎ話のような、願いが何でも叶うことを期待して旅に出たわけではない。けれど、最果てにはきっと何かがあると信じて旅を続けてきた。
旅の終わりが無であるというのなら、何故先人たちは何も語らなかったのだろう。そんなことを思いながら道を引き返し、旅人のために建てられた小屋へと足を踏み入れる。
とても疲れていた。長旅による疲れだけではない。旅が終わったこと、そして旅路の果てに得られるものは何もなかったことが、疲れを加速させていた。
小屋の中の、簡易的なベッドに横たわる。目を閉じれば、すぐにでも夢の世界へと落ちていった。
道の果て、旅の終わりを求めて歩いていた。
道すがら、見るものすべてが輝いて見える。出会う人々との会話が、心を弾ませる。
「どうして旅をしているのですか?」
そう問われ、歩いてきた道を振り返った。
長く続く一本道の先にあるはずの故郷は見えない。それだけ長く、旅を続けてきた。
「それはね。会いたい人がいるからだよ」
進むべき道の先を見ながら、笑顔で答える。
手を振り、再び歩き出した。
「会いたい人がいるんだ」
小さく呟いて、ふふと笑う。
驚くだろうか。今から会うのが楽しみで仕方がない。
足取りが軽い。道が煌めいて見えて、鼻歌でも歌ってしまいそうなほど気分がよかった。
目が覚めれば、陽はすでに落ちていた。
懐かしい夢を見ていた。旅を続けていた頃の、とても充実していた日々の夢。
現実との落差に、目を伏せる。溜息を吐いて、ゆっくりと体を起こした。
「誰に会いたかったのだろう」
火を起こしながら、夢の内容を思い出す。
旅の始まりは、確かに会いたい人がいるからだった。それがいつしか旅を続けること自体が目的となり、最後には果てを目指すことだけを考えていた。
「これからどうしようか」
果てには辿り着いた。長く続いた旅は終わりを迎えた。
そして会いたかった誰かは、記憶の中にはない。
目的をすべて失い、途方に暮れる。終わった後のことは、何一つ考えてはいなかった。
「明日、考えようか」
考えても何も思い浮かばず、嘆息する。食事を摂る気も起きず、ただぼんやりと揺れる火を見つめていた。
翌朝。
小屋を後にしながら、どこへ行くべきかを考える。
行きたい場所は思いつかない。ただ帰るべき故郷は残っている。
「帰ろうかな」
つけた足跡を逆に辿るように、ゆっくりと歩いていく。
見たことのある景色が過ぎていくが、今は何故か何も感じない。一度見たからなのか、それとも旅の終わりで疲れているからなのかは分からない。
旅をしていた時とは異なり、辺りには誰の姿もない。親切な老夫婦も、旅の理由を尋ねた子供も、挨拶を交わしたはずの人々と誰一人すれ違うことはなかった。
とても静かだ。人がいないというだけで、途端に寂れた感じがする。どこか寂しさを感じながら、只管に歩き続けていた。
そういえば、と今までの旅路を思い出す。
旅を続けていた時は、毎日が満たされていた。一人旅ではあったが、寂しさを感じたことは一度もない。
目的があったからだけではない。一期一会の出会いが、旅を豊かにさせていた。
――どうして旅をしているのですか?
ふと問われた言葉を思い出し、旅を終えた今はどう答えるだろうかと考える。
道の果てはきっと理由にならない。記憶にない会いたい人ならば尚更だ。
旅を続けていた理由。思い浮かぶのは、出会った人々の笑顔だけだ。
「出会いを楽しむため、かな」
記憶の中の子供に向けて、呟いた。
笑みを浮かべてみる。少しだけ体が軽くなったような気がした。
戻ってきた故郷は、旅に出た時と変わりはなかった。
しかし人の姿はない。物寂しさを感じながら、自宅に向かい戸を叩いた。
反応はない。鍵のかかっていない引き戸を開け、家の中へと足を踏み入れる。
「――ただいま」
旅に出た時と変わらない家。それに何かを思うこともなく、奥の自室へと向かう。
戸を開けて中へと入る。ベッドに腰掛け、目を閉じた。
「如何でございましたでしょうか」
声が聞こえた。
小さく息を吐き、口を開く。
「果てには何もなかった」
「左様ですか。会いたいと切望されたお方には会えましたでしょうか」
感情の伴わない、淡々とした声音。だが、酷く不快に感じ、眉が寄る。
「会えたのかもしれないし、会えなかったのかもしれない。覚えてないから分からない」
「では、このまま続けられますか」
その言葉に目を開けた。
いつの間にか、目の前に黒い影が佇んでいた。
揺れる影を見ながらふと、思い出す。旅に出るきっかけは、この影の甘言だったことを。
にたり、と影の口元が歪に弧を描く。黒の中に毒々しい赤が浮かび、答えを待っている。
嫌な笑い方だ。答えはすでに分かっているのだと言わんばかりの、そんな嘲るような感情が伝わり、思わず眉を顰めた。
感情的になるわけにはいかない。
影を見据え、静かに呼吸を繰り返す。旅を続けるのか、終わるのか。出会った人々の笑顔を思い浮かべながら考える。
間違えることがないように。後悔をしないように。
何度も自分自身に問いかけながら口を開いた。
「――続けない」
「よろしいのですか。会いたいお方がおられたのでしょう」
「対価として、その記憶を持っていったんだろう?ならば、続けるだけ無駄だ」
一つと交換で、旅ができる。
かつて影はそう言った。何を交換するのかは聞かず、かつての自分はその契約に乗ってしまった。
旅を続けるなら、また一つ差し出さなければならないのだろう。それはきっと、自分の中の大切なものだ。
失ったことに気づかずに何度も求め、その結果すべてを差し出してしまう。悪魔の取引を、これ以上続けることはできなかった。
「後悔はありませんか」
「たくさんの出会いがあり、語らいがあった。その記憶が、旅の終わりを悔いのないものにしてくれる」
そう告げれば、弧を描いていた影の唇が引き結ばれる。
無言。何を思っているのか。唇以外に感情を推し量れるものがないため、分からない。
「――分かりました」
微かな呟き。その瞬間に景色が一変した。
見慣れた室内が色を変える。幕が剥がれ落ちるように、朽ちた室内が露になっていく。
崩れ落ちた天井から、暗闇が覗いている。月や星はない。完全なる闇が広がっていた。
「残念ですが、致し方ありません。迷いがない方に契約はできかねます」
抑揚を欠いた声音。
影が部屋の外の闇に解けていく。目を逸らさず影が消えていくのを無言で見つめる。
「泡沫の夢をありがとう」
「とても残念です。なので、二度と会わぬことを願っていますよ」
消える間際、一瞬だけ影の唇が柔らかな笑みを形作った気がした。
気のせいかもしれない。確かめようもなく、あえて知りたいとも思わなかった。
「――いかないと」
小さく息を吐いて立ち上がる。
形が残っていた戸に手をかけ、躊躇うことなく開け放つ。その先に続く一本道を見て息を呑む。
この道の先、旅の果てが本当の終わりなのだろう。
旅に出る前とは違い、後悔はない。穏やかな気持ちで足を踏み出した。
「ありがとう」
消えた影に礼を告げる。影にとって本意ではないだろうが、最後に旅ができたことがとてもありがたかった。
迷いなく進める。笑みを浮かべ、最後の旅を楽しもうと歩き出した。
20260131 『旅路の果てに』
小さな箱に、ひとつひとつ星の欠片を入れていく。
赤や青、黄色に緑。鮮やかに箱が彩られていく様に、思わず笑みが溢れ落ちた。
くすくす、ひそひそ。
聞こえるのは欠片の囁く声。煌めく度に、様々な声が聞こえてくる。
笑い、歌い。時に泣いて、祈りの声を上げる。紡がれる言葉たちは、どれもが澄んだ感情を伴って部屋に響いていく。
「たくさん集めたのね」
声がして、欠片を入れる手を止め振り返る。
楽しそうに笑みを浮かべ、彼女は籠の中からそっと欠片の一つを手に取った。
「あなたのことだから、楽しい感情だけを詰めるかと思っていたわ」
「そうしようと思ったけど、こっちの方が箱に入れた時にとても綺麗に見えるから」
欠片で満ちる箱を見せれば、彼女は確かに、と頷いた。
一色だけでも、星の欠片は美しい。けれどもこうして様々な色を集めた方が、より綺麗に見える。
そのことを教えてくれた誰かがいた。それが誰だったのか、思い出せないのが少しだけ苦しい。
箱を閉じて、金色のリボンを巻いていく。
「ちゃんと届くかな」
この瞬間は、何度繰り返しても不安になる。
自分にできるのはこうして星の欠片を箱に入れ、リボンをかけるまでだ。届いているのかどうかまでは、分からない。
「届くと信じたら、ちゃんと届くわ」
そんな不安を、彼女の柔らかな声が解かしていく。頭を撫でられて、心地良さに目を細めた。
届けばいい。そんな思いを込めて、リボンを結ぶ。綺麗に仕上がった箱を見て、大丈夫だと言い聞かせるように強く頷いた。
ふわり。
風もないのにリボンが揺らめいた。端からゆっくりと、箱が霞んで消えていく。
届くべき所へ届くのだろう。消えていく箱を見ながら、届きますようにと密かに願う。
誰に届くのかは分からない。誰に向けて届けようとしているのかも分からなかった。
「届くといいな」
もう一度呟いて、新しい箱に手を伸ばす。
「大丈夫よ。でも無理はしないでね」
彼女は笑い、もう一度頭を撫でてから去っていく。
彼女はとても心配症だ。こうして何度も様子を見に来てくれる。
「もう大丈夫なんだけどな」
何がかは、もう覚えていない。忘れてしまったのだから、きっと大丈夫なのだろう。
じくりと痛む胸に気づかない振りをして、再び箱に星の欠片を入れていく。
もう大丈夫。
呪文のように繰り返せば、少しだけ呼吸が楽になれたような気がした。
煌めく星空の下。月明かりを浴びてふわりと舞い落ちる雪に手を伸ばし、男は静かに目を細めた。
微かな声。何かを願う言葉が響き、雪と共に溶けていく。
空を仰げば満天の星に混じり、風花が舞っている。幻想的な光景に、だが男の表情は変わらない。
星が一つ流れた。瞬く間に山の向こうへと過ぎていき、刹那の光を地に灯す。新たな命の芽吹く音が、風に乗り遠いこの場所まで届いていた。
「頑張っているな。生真面目なのは相変わらずか」
誰にでもなく呟いて、男は溶けた雪を惜しむかのように水となって流れたその跡をなぞる。
「健やかでありますように」
聞こえた祈りの言葉を口にする。辺りを舞う風花が、言葉に呼応するかのように淡く光を湛えて落ちてくる。
どうか、と願う囁きは、どれもが柔らかい響きを持っている。愛しい人にあてた祈りを宿した雪に、男はそっと息を吐く。
白く曇る吐息に、男もまた祈りの言葉を口にする。
「どうか、心穏やかに。再び出会える時まで、悲しみがその身を苛むことがないように」
懐かしく、愛おしい人へと向けて。届かぬと知りながら、届いてほしいと願いを込めた。
星が煌めいた。澄んだ音を立てるかのように、小さな光がいくつも瞬いていく。
星を見上げる男の口元が、微かに緩む。望郷の思いを宿した目が、静かに揺らいでいる。
「あとどれだけの夜を過ぎれば許され、帰ることができるのだろうな」
目を伏せ、男は呟いた。
星と雪に見守られながら、男は歩き出す。
当てもない旅を、一人続けていく。
ふと、誰かに呼ばれたような気がして顔を上げた。
辺りを見回すが、誰もいない。彼女が戻って来た様子もなかった。
「気のせいかな?」
そう思いながらも、一度止まった手は動かない。何かが気になり、心が落ち着かない。
無意識に胸元のペンダントを握り締める。いつの間にか持っていたこれは、輝きを失った星屑で作られている。
目を閉じて、深呼吸を繰り返す。次第に心が落ち着きを取り戻し、目を開けペンダントに視線を落とす。
思いや感情を宿さない、ただの抜け殻。それなのに、何故こんなにも愛おしく感じるのだろうか。
籠の中の星の欠片に手を伸ばす。中から赤く煌めく欠片を取り、箱に入れるでもなく掌に乗せて眺めた。
掌から伝わるのは、愛の詩。聞き入りながら、ペンダントの星屑にかつて宿っていたものは何だったのかと思いを馳せる。
忘れてしまった誰かからもらったのだろうペンダント。禁忌を犯してまで届けようとした思いは何だったのだろう。
手の中の赤い欠片を見つめながら、その誰かに届けられたらいいのにと密かに思う。
星の欠片を、私的に贈ることは許されない。それを知りながらもそう思うのは、誰かを愛しているからだろうか。
ふっと笑みを浮かべて、欠片を箱の中に入れる。
記憶から抜け落ちてしまった誰か。愛おしく、大切な人。
箱に思いを宿した星の欠片を入れながら、今日もまた、箱を誰かに届けたいと願っている。
20260130 『あなたに届けたい』