気づけば、足跡はここで終わっていた。
「ここで……終わり?」
呆然と辺りを見渡した。だが広がる雪原に、足跡は見当たらない。
ここで道は途切れている。それを理解して、思わず深い溜息を吐いてしまった。
「果てには、何もないんだ」
おとぎ話のような、願いが何でも叶うことを期待して旅に出たわけではない。けれど、最果てにはきっと何かがあると信じて旅を続けてきた。
旅の終わりが無であるというのなら、何故先人たちは何も語らなかったのだろう。そんなことを思いながら道を引き返し、旅人のために建てられた小屋へと足を踏み入れる。
とても疲れていた。長旅による疲れだけではない。旅が終わったこと、そして旅路の果てに得られるものは何もなかったことが、疲れを加速させていた。
小屋の中の、簡易的なベッドに横たわる。目を閉じれば、すぐにでも夢の世界へと落ちていった。
道の果て、旅の終わりを求めて歩いていた。
道すがら、見るものすべてが輝いて見える。出会う人々との会話が、心を弾ませる。
「どうして旅をしているのですか?」
そう問われ、歩いてきた道を振り返った。
長く続く一本道の先にあるはずの故郷は見えない。それだけ長く、旅を続けてきた。
「それはね。会いたい人がいるからだよ」
進むべき道の先を見ながら、笑顔で答える。
手を振り、再び歩き出した。
「会いたい人がいるんだ」
小さく呟いて、ふふと笑う。
驚くだろうか。今から会うのが楽しみで仕方がない。
足取りが軽い。道が煌めいて見えて、鼻歌でも歌ってしまいそうなほど気分がよかった。
目が覚めれば、陽はすでに落ちていた。
懐かしい夢を見ていた。旅を続けていた頃の、とても充実していた日々の夢。
現実との落差に、目を伏せる。溜息を吐いて、ゆっくりと体を起こした。
「誰に会いたかったのだろう」
火を起こしながら、夢の内容を思い出す。
旅の始まりは、確かに会いたい人がいるからだった。それがいつしか旅を続けること自体が目的となり、最後には果てを目指すことだけを考えていた。
「これからどうしようか」
果てには辿り着いた。長く続いた旅は終わりを迎えた。
そして会いたかった誰かは、記憶の中にはない。
目的をすべて失い、途方に暮れる。終わった後のことは、何一つ考えてはいなかった。
「明日、考えようか」
考えても何も思い浮かばず、嘆息する。食事を摂る気も起きず、ただぼんやりと揺れる火を見つめていた。
翌朝。
小屋を後にしながら、どこへ行くべきかを考える。
行きたい場所は思いつかない。ただ帰るべき故郷は残っている。
「帰ろうかな」
つけた足跡を逆に辿るように、ゆっくりと歩いていく。
見たことのある景色が過ぎていくが、今は何故か何も感じない。一度見たからなのか、それとも旅の終わりで疲れているからなのかは分からない。
旅をしていた時とは異なり、辺りには誰の姿もない。親切な老夫婦も、旅の理由を尋ねた子供も、挨拶を交わしたはずの人々と誰一人すれ違うことはなかった。
とても静かだ。人がいないというだけで、途端に寂れた感じがする。どこか寂しさを感じながら、只管に歩き続けていた。
そういえば、と今までの旅路を思い出す。
旅を続けていた時は、毎日が満たされていた。一人旅ではあったが、寂しさを感じたことは一度もない。
目的があったからだけではない。一期一会の出会いが、旅を豊かにさせていた。
――どうして旅をしているのですか?
ふと問われた言葉を思い出し、旅を終えた今はどう答えるだろうかと考える。
道の果てはきっと理由にならない。記憶にない会いたい人ならば尚更だ。
旅を続けていた理由。思い浮かぶのは、出会った人々の笑顔だけだ。
「出会いを楽しむため、かな」
記憶の中の子供に向けて、呟いた。
笑みを浮かべてみる。少しだけ体が軽くなったような気がした。
戻ってきた故郷は、旅に出た時と変わりはなかった。
しかし人の姿はない。物寂しさを感じながら、自宅に向かい戸を叩いた。
反応はない。鍵のかかっていない引き戸を開け、家の中へと足を踏み入れる。
「――ただいま」
旅に出た時と変わらない家。それに何かを思うこともなく、奥の自室へと向かう。
戸を開けて中へと入る。ベッドに腰掛け、目を閉じた。
「如何でございましたでしょうか」
声が聞こえた。
小さく息を吐き、口を開く。
「果てには何もなかった」
「左様ですか。会いたいと切望されたお方には会えましたでしょうか」
感情の伴わない、淡々とした声音。だが、酷く不快に感じ、眉が寄る。
「会えたのかもしれないし、会えなかったのかもしれない。覚えてないから分からない」
「では、このまま続けられますか」
その言葉に目を開けた。
いつの間にか、目の前に黒い影が佇んでいた。
揺れる影を見ながらふと、思い出す。旅に出るきっかけは、この影の甘言だったことを。
にたり、と影の口元が歪に弧を描く。黒の中に毒々しい赤が浮かび、答えを待っている。
嫌な笑い方だ。答えはすでに分かっているのだと言わんばかりの、そんな嘲るような感情が伝わり、思わず眉を顰めた。
感情的になるわけにはいかない。
影を見据え、静かに呼吸を繰り返す。旅を続けるのか、終わるのか。出会った人々の笑顔を思い浮かべながら考える。
間違えることがないように。後悔をしないように。
何度も自分自身に問いかけながら口を開いた。
「――続けない」
「よろしいのですか。会いたいお方がおられたのでしょう」
「対価として、その記憶を持っていったんだろう?ならば、続けるだけ無駄だ」
一つと交換で、旅ができる。
かつて影はそう言った。何を交換するのかは聞かず、かつての自分はその契約に乗ってしまった。
旅を続けるなら、また一つ差し出さなければならないのだろう。それはきっと、自分の中の大切なものだ。
失ったことに気づかずに何度も求め、その結果すべてを差し出してしまう。悪魔の取引を、これ以上続けることはできなかった。
「後悔はありませんか」
「たくさんの出会いがあり、語らいがあった。その記憶が、旅の終わりを悔いのないものにしてくれる」
そう告げれば、弧を描いていた影の唇が引き結ばれる。
無言。何を思っているのか。唇以外に感情を推し量れるものがないため、分からない。
「――分かりました」
微かな呟き。その瞬間に景色が一変した。
見慣れた室内が色を変える。幕が剥がれ落ちるように、朽ちた室内が露になっていく。
崩れ落ちた天井から、暗闇が覗いている。月や星はない。完全なる闇が広がっていた。
「残念ですが、致し方ありません。迷いがない方に契約はできかねます」
抑揚を欠いた声音。
影が部屋の外の闇に解けていく。目を逸らさず影が消えていくのを無言で見つめる。
「泡沫の夢をありがとう」
「とても残念です。なので、二度と会わぬことを願っていますよ」
消える間際、一瞬だけ影の唇が柔らかな笑みを形作った気がした。
気のせいかもしれない。確かめようもなく、あえて知りたいとも思わなかった。
「――いかないと」
小さく息を吐いて立ち上がる。
形が残っていた戸に手をかけ、躊躇うことなく開け放つ。その先に続く一本道を見て息を呑む。
この道の先、旅の果てが本当の終わりなのだろう。
旅に出る前とは違い、後悔はない。穏やかな気持ちで足を踏み出した。
「ありがとう」
消えた影に礼を告げる。影にとって本意ではないだろうが、最後に旅ができたことがとてもありがたかった。
迷いなく進める。笑みを浮かべ、最後の旅を楽しもうと歩き出した。
20260131 『旅路の果てに』
2/1/2026, 9:10:15 AM