sairo

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9/29/2025, 9:46:16 AM

空は黒く厚い雲が広がっている。雲の縁は傾く陽の光を吸って黄色に輝き、雲の間から見える青の色を薄くしていく。
きっとすぐに夜が訪れる。ぼんやりと空を見上げながら思った。
隣で同じように空を見上げる彼女を横目で見た。
口元は緩く微笑んでいるのに、その頬を一筋滴が伝い落ちていく。
訳もなく、胸が苦しくなった。慌てて視線を逸らす。
ふとした瞬間に流れる彼女の涙に気づいたのは、いつからだっただろうか。
声もなく、顔を顰めるでもなく流れ落ちる涙。
一度だけ、その理由を聞いたことがあった。
その時も彼女は穏やかに微笑んで、けれど静かに涙を流して言った。

「癖になってるの。ずっと泣くことでしか伝えられなかったから」

誰に、とは聞けなかった。あまりにも彼女が綺麗に笑うから。
胸を抑え、空を見る。
雲越しの陽が、辺りを黄金色に染め上げている。
燃えてしまう。溶けてしまう。
そんな取り止めのないことを思った。

9/28/2025, 9:14:40 AM

「はいどうぞ」

渡された缶コーヒーは温かく、収まり始めていた涙腺を再び刺激した。
ずび、と鼻を啜る。缶の温もりを抱きしめ、涙を溢す。

「相変わらず、泣き虫さんだねぇ」

くすくすと笑われる。
仕方がないだろう。分かっているというのにあえて指摘するなど、タチが悪い。
涙目で睨みつけながら、缶の蓋を開けた。ぷしゅと音を立てて、コーヒーの苦い香りが漂い始める。

「まあ、いいや。とりあえず、コーヒーが冷めないうちに飲んでしまいなさい。話はそれからにしよう」

そう言われ、おとなしく缶に口をつけた。ほろ苦い味が今の自分のようで、苦さを嚥下しながらまた泣いた。

9/27/2025, 9:26:48 AM

鏡の向こうに、幸せな世界を見た。
姿見に映る自分は眠たげな目をして身支度を整え、その後ろでは彼女が忙しなく準備を整えている。
ありきたりな日々の一コマ。けれどそれが、今は何より煌めいて見える。
爪が食い込むほど強く手を握り締め、唇を噛んで視線を逸らす。
これ以上は見ていたくない。
有り得たかもしれないもしもの世界など、心の傷を抉るだけで、慰めにもならないのだから。

9/26/2025, 9:32:52 AM

かちり、と時計の針の音が聞こえた気がした。
歪んだメロディーが流れ始める。顔を上げずとも、時計盤が回転し、中の人形たちが踊り始めているのが分かる。

――また、止められなかった。

傷つき疲れ果てた体は、指先すら動かない。
このまま、何度目かの始まりに戻るのだろうか。沈んでいく意識の中、そう思った。
あの子はこの繰り返しが無意味なことだと、いつ気づいてくれるのだろうか。
どうか、この体が朽ちる前までに気づいてほしい。残された時間は僅かしかなく、その後にはあの子自身の時間を消費することになるのだから。
気づいて。声には出さず、呟いた。
巻き戻り始めた時間を感じながら、ただそれだけを思っていた。





人の絶えたアーケード街の片隅。アーケードを跨ぐように、天井から吊り下げられた大時計がある。
時計の針は動かず、文字盤の周囲に並ぶ小さな扉は固く閉ざされたまま。
かつては街のシンボルとして時を人々に告げていた時計は、アーケードの廃れと共に、何年も前からその役目を終えていた。

いつからだろうか。誰が広めたのか、とある噂が囁かれるようになった。

――日付の切り替わる、午前0時。壊れた時計が時を刻み、中のからくりが動き出す。その時に願ったことは叶えられる、と。

噂を確かめに、何人もの人々が時計の元へと訪れた。様々な願いを胸に時計が動くのを待ち続け、去って行った。
何人もの人々の落胆が噂をただの作り話だと告げていたが、それでも噂は消えず囁かれ続けている。


そして彼女もまた、噂に縋り、時計が動くのを待つ一人だった。

「どうか、彼を救って……」

動かない時計の下で、願いを口にし続ける。
帰らなかった彼女の思い人の帰還を、奇跡を求めて祈っていた。


奇跡、あるいは悪夢が始まったのは、彼女が時計の下に通い続けた百日目のことだった。

かちり。かちり。
音を立てて文字盤の針が動き、十二時ちょうどに針が重なった。
もの悲しいメロディーが流れ始め、文字盤がゆっくりと回転し始める。
表から裏へ。船を模した人形がゆらゆらと揺れている。
文字盤の右。扉が開いて人形が現れた。修道僧を模した人形が、小さな鐘を鳴らしている。旅立ちを告げる鐘がメロディーに合わせて鳴り響く。
鐘の音と共に、文字盤の下の扉が開き始めた。松明を掲げた少年少女の人形が導の光を灯し、くるくると舞っている。
その動きに合わせて、文字盤の左の扉が開かれた。供物を掲げた人々が揺れ動き、その後から杖をついた老人が現れる。老人は文字盤の上を見上げ、人形たちは動きを止めた。
そして、文字盤の上。一際大きな扉が開かれ、中から巡礼者の人形が現れる。白の衣を纏い、手を胸の前で組んで祈りを捧げている。膝をつき、目を閉じたその姿は、微動だにしない。
他の人形たちは長い年月を経て劣化が進んで色はくすみ、所々塗装の剥げた部分もある。だが、巡礼者の人形は年月を感じさせない清廉な白を纏っていた。

不意に音楽が止まる。錆び付いた音を立てながら、巡礼者以外の人形は中へと戻り、扉が閉まっていく。文字盤が再び回転し、裏が表へと戻っていく。
その時、祈りを捧げていた人形の目が開かれた。無機質な黒の瞳が、こちらを見下ろしている。赤い唇が僅かに動き、時計の針が逆回転を始めた。

ぞわりとした、異様な空気。きゅるきゅると螺子を巻くような、何かを巻き戻しているかのような歪な音が響く。
強い目眩に襲われ、膝をつく。無機質な視線を感じながら、隣で同じように膝をついて目を閉じている彼女に視線を向けた。
刹那、感じたのは胸を焦がすような嫌な予感だった。震える膝に力を入れ起き上がり、人形の目から隠すように彼女の前に立ち塞がる。襲う目眩に顔を歪めながらも、人形の目を見据えた。

「お願いします。どうか」

背後で譫言のように、彼女が呟く。その言葉が届いたのか、人形の目が僅かに細められた。
音楽が鳴り響く。歪な、逆回転した不協和音が辺りを覆う。
巻き戻る時計の針が再び十二時で重なり。

気づけば、時間が巻き戻っていた。



荒い呼吸を繰り返しながら、目を開ける。
自分の部屋。巻き戻ってしまったことに、密かに嘆息した。
体が鉛のように重い。声を出そうにも、喉は震えず微かな吐息だけが溢れ落ちるだけだった。
これではもう、彼女を止められない。彼女が自力で気づかない限り、この結末の変わらない繰り返しは続くのだろう。
自分の命が終わった後、彼女の命を消費しながら。


静かに目を閉じる。彼女はきっと、いつものように旅立つ思い人の元へと向かうのだろう。思い人を引き留め、けれど最後には変わらない結末に怯えながら、束の間の安らぎを得るのだろう。
結末は変わらない。旅立ちを止め、どんなに危険を遠ざけた所で、思い人は彼女の前から去ってしまう。人の身で、過去を変えられなど不可能なのだ。

不意に、扉の開けられる音が聞こえた。重い瞼をこじ開けて、視線を向ける。

「――なんで」

微かな呟き。覚束ない足取りで、こちらへと向かう。

「何、これ……どうして、こんな。こんなことって……っ」

震える手が、頬に触れる。僅かな温もりを感じて、目を細めた。

「ごめんなさい……お姉ちゃん」

彼女の頬を伝い落ちる滴に、間に合ったのだと理解して、そっと吐息を溢した。





人の絶えたアーケード街の片隅に、壊れたからくり時計があった。
巡礼者の旅の軌跡を描いたその時計。過去の想いを未来へ紡ぐ直線上の祈りは、時計という円環に組み込まれている。誰かの命を消費して、ほんの僅か時間を戻すのだという。
夢幻のようなものだ。ある人はそう言った。
過去は変わらない。ある人は嘆いた。
悪魔が作ったのだろう。人々はいつしか、そう囁いた。


その時計はもう存在しない。



20250924 『時計の針が重なって』

9/25/2025, 3:43:29 AM

「一緒にいてよ。僕と一緒にここで遊ぼう?」

少年が笑って手を差し伸べる。
少女は俯き、ただ首を振った。

夕暮れに染まる教室には、二人以外に姿はない。
誰の声もしない。何の音もない。
二人だけの空間。

「ここにいて。僕と一緒に、ずっと」

少年は笑う。少女は俯いたまま。

二人の視線が合うことはない。



その日も、普段と何も変わらない朝だった。
穏やかな秋晴れの青空。暖かな陽射しと、冷えた空気。
何も変わらない。強いて言えば、その日の風はやけに湿っていたように感じられたことくらいだ。


「おはよう!」
「おはよう」

笑顔で駆け寄る少女に、少年ははにかんで答える。
両親が親友同士で家も近い二人は、気づけばいつも一緒にいた。
それが当たり前だった。そしてそれはこの先も変わらず続いていくのだと、当たり前のように信じていた。

「ねぇ、宿題やった?」
「終わってるけど……また忘れたの?」
「ごめん!だって難しくて」

両手を合わせ拝む少女に少年は、溜息を吐きながらも笑う。
いつもの光景。何も変わらない一幕だった。

「次はちゃんと一人で終わらせるから」
「はいはい。そういって毎回終わらないのは誰だっけ?」
「――わたしです」

しゅんと項垂れる少女の頭を、少年は優しく撫でる。
頭を上げた少女に笑いかけ、その手を引いて歩き出した。

「じゃあ、早く学校に行かないとね」
「やったぁ!ありがとう」
「どういたしまして」

笑い合いながら学校に向かう二人の背を、道行く人が微笑ましく見守る。
悲しいほどに。笑顔の溢れるような朝だった。



その日。何があったのか。少年は自身の身に起きたことを、正しく理解できなかった。
轟音。振動。悲鳴。混乱と痛み。
気づけば、辺りは土と瓦礫に埋もれ、黒い煙が充満していた。倒れ伏す少女の側で、土の中から突き出た手が少年自身のものであると気づいた時、彼は自分が死んだことに気づいた。
恐る恐る近づいた少女が胸が僅かに上下しているのを見て、安堵する。だが充満する黒い煙と遠くで見えだした赤い炎が、ここに留まることの危険さを告げている。少女を連れて逃げようにも、少年の透ける手は少女をすり抜けて届くことはなかった。
辺りに生者の気配はない。絶望的な状況に少年が唇を噛みしめた時、少女の瞼が僅かに震えた。
ゆっくりと少女の瞼が開かれていく。少年の見守る前で、ぼんやりとした目が次第に焦点を結び、その目が驚愕で見開かれた。

「あ……あ……」

少女の目は一点に注がれている。土の中から突き出た少年の腕。まるで少女を突き飛ばした後、土砂に埋もれたようなそれを見続けたまま、微動だにしない。
近づく炎に焦りを覚えて、少年が少女の肩に手を伸ばす。
その手はやはりすり抜けたが、その思いが通じたのか、少女はふらつきながらも立ち上がった。
辺りを見回す。教室の惨状を認めて、少女の目から光が消えていく。
ぱりん、と。
儚い音を立てて、少女の心が砕けた音が聞こえた気がした。



その後、助けられた少女は、しかし目覚める様子はなく眠り続けている。
体には異常はみられない。おそらく心の問題だろうと医者は言う。
無理もない。誰しもがそう思った。
前触れもなく土砂崩れが起きた。山を切り開いて建っていた少女たちの通う学校は、殆どが土砂で埋まってしまった。生徒や教師の殆どが土砂に埋まり、無事だったのはほんの僅か。当時校庭で授業を受けていた数人の生徒と教師、そして少女だけだった。

管に繋がれ、眠り続ける少女の頬に少年は触れる。すり抜ける手と沈んでいく意識。
次に目を開けた時、少年は少女の夢の中にいた。
割れた硝子。ひしゃげた柱。
赤く染まる土に埋まる教室の中。

少女は今も、あの日の悪夢に囚われている。


「ねぇ」

土の中から突き出た手を隠すように、少年は少女に前に立ち微笑んだ。
虚ろに座り込み、首に巻き付く紐を引いていた少女の目が僅かに開かれる。
紐から手を離し、少年から逃れるように俯いた。

「遊ぼうよ」

少女の肩が震えている。はらりと落ちた紐が跡形もなく消え、少女の周りがほんの僅かに在りし日の教室の姿を取り戻す。
変わりに少年の周りは一層赤黒く染まり、どろりとした何かが足下を埋め尽くした。
静かに燃え上がる炎が、空を夕焼けに変えていく。
あの日の悪夢の再現が、少女と少女を閉じ込める怪異の構図に成り代わった。
少女は、正しく少年を認識できていない。俯いた視線は少年の顔を見ず、だからこそこの均衡が保たれている。
すべてを正しく認識してしまえば、少女は今度こそ躊躇わず首の紐を引くのだろう。





「一緒にいてよ。僕と一緒にここで遊ぼう?」

少年が笑って手を差し伸べる。
少女は俯き、ただ首を振った。

夕暮れに染まる教室には、二人以外に姿はない。
誰の声もしない。何の音もない。
二人だけの空間。

「ここにいて。僕と一緒に、ずっと」

少年は笑う。少女は俯いたまま。
二人の視線が合うことはない。

どうかそのまま。少年は笑顔の裏で、只管に願う。
顔を上げないで。気づかないで。

炎が空を赤く染める、時が止まったままの教室。
生きているものの気配がない世界。
少女が顔を上げない限り、夕陽を模した炎よりも赤く染まった教室に気づかない限り、それが崩れることはない。
どうか顔を上げないでと、心の内で繰り返す。

「このままずっと、二人だけで」

少女を怯えさせることに苦しみながらも、彼女のために少年は、怪異を演じ続ける。



20250923 『僕と一緒に』

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