冷たい雨が降り頻る中、彼女は傘もささずに一人空を見上げていた。
雨粒が彼女の体を打ちつける。頬を伝う滴は雨なのか、それとも彼女の涙なのかはもう分からない。
時折走る稲光。遅れて轟く雷鳴にも、彼女は微動だにしない。まるで、彼女だけ時が止まってしまったかのように。
唇を噛み締め、泣くのを耐える。泣きたいのは彼女であって、自分ではないからだ。深く息を吸い込んで、静かに吐き出す。顔を上げ、傘の柄を強く握りしめて、ゆっくりと彼女の元へと歩き出す。
何も言わずに、傘を差し掛ける。灰色の空から彼女の目を奪い、雨から切り離す。
「……ねぇ」
それでも彼女は見えない空を向いたまま。
「もしも世界が終わるなら、きっと今日みたいな空なんだろうね」
淡々と紡がれる言葉が、雨に解けていく。
それに返せる言葉を持たないことが、苦しかった。
眠りについたはずだった。
眠る前の記憶はある。ベッドに入っても中々寝付けず、だらだらとスマホで動画を見ていたはずだ。
だとしたら、これは夢の中なのだろうか。
裸足の足に纏わり付く、じっとりと湿った土。辺りは深い霧が立ち込めて、伸ばした手の先も見えはしなかった。
見上げた空は厚い雲に覆われて、太陽の姿が欠片も見えない。暑くもなく、寒くもない。けれどどこか落ち着かない空間に、ふるりと肩を震わせた。
耳を澄ませても、何も聞こえない。
いや、微かに何かが聞こえていた。
泣き声、だろうか。しゃくり上げるような、子供の声。
繰り返し何かを言っているようだが、はっきりとは聞こえなかった。
「――っ」
ごくりと唾を飲み込み、声の聞こえる方へと歩き出す。
足に触れる土の湿った柔らかさも、纏わり付く霧の濡れた感触や匂いも、この場のすべてがやけにリアルだ。
夢のはずだと思いながらも、込み上げる不安に心臓が痛いくらいに動いていた。
声がはっきり聞こえるようになるにつれ、辺りの霧が薄くなっていく。
周囲に何があるのかは、まだ見えない。けれど歩く先に、蹲る小さな影が揺らいでいるのが見えて、何故か足を止めた。
霧が晴れていく。正しくは、自分と影の間の霧が薄くなっていく。はっきりと見えた影は、蹲る幼い子供の姿をしていた。
周りの景色は一切見えず、ただ子供の姿だけがはっきりと見える状況に困惑する。背筋に冷たいものが走り、これ以上足を進めることができない。
立ち尽くし、無言で子供の姿を見る。
「ほどけない……なんでっ、どうして……」
蹲る子供は、どうやら靴の紐を解こうとしているらしい。小さな手が紐を掴むが、硬く結ばれているようで少しも解ける様子はない。
「おねがい、ほどけて……いたい……いたいよぅ……」
しゃくり上げながら、必死に紐を掴む。離れたここからでも分かるほど、靴は子供の足のサイズと合っていなかった。
まるで拘束具のように小さな靴は、子供の足を締め付けている。靴紐がさらに強くきつく結ばれているせいで、痛みが生じているのだろう。
「いたい……ほどけて……だれか……」
助けて。
泣きながら靴紐を掴み、助けを求める子供。
ふと、ポケットの中に、裁ち鋏が入っていることを思い出した。
我が家で使われている、古い裁ち鋏。
普段は、母の裁縫道具の中に入っているそれが、都合良く、しかもポケットの中に入っているはずがない。
そう思いズボンのポケットに触れれば、服の上からも分かる鋏の感触。
これなら、靴紐を切れる。
でも、本当に切ってしまっていいのだろうか。
正反対の思考に眉が寄る。
見ている先の子供の様子を見る限り、切って解放してあげた方が明らかにいいだろう。靴紐を解かぬ限り子供は苦痛から解放されないのに、解ける様子はまったくない。
それでも、不安が込み上げる。
一度切ってしまえば、二度と元には戻らない。ふたつになったものをひとつに結んでも完全にひとつにはならず、その結び目もいつか解けてしまうだろう。
切るべきか、切らないべきか。
目の前では、まだ子供が泣いている。痛い痛いとしゃくり上げ、解けぬ靴紐を掴んでいる。
悩みながらも、一歩だけ子供に近づいた。
「だめ」
知らない声が聞こえた。
後ろから手を引かれ、蹈鞴を踏む。
「あれは切ってはいけない」
振り返る。しかし霧が濃くて、何も見えなかった。
背筋に冷たいものが走る。見えない誰かに対する恐怖より、切ってはいけない、その事実が怖ろしかった。
「言葉を交わしても、触れることもいけない。あれは、あの子自身が結んだ罪なのだから」
子供の泣き声はまだ聞こえる。泣きながら靴紐を、縄を解こうと必死になっている。
罪。縄。言われた言葉と、思い浮かんだ言葉に、掠れた悲鳴が喉に張り付いた。
そっと子供に視線を向ける。見つめる先で、蹲り泣いているその姿が形を変えていく。
幼い子供の姿から、大人の姿に。だが靴から伸びた紐が全身に絡みつき、男か女かの区別すらつかない。
縄だ。赤黒い縄が、幾重にも巻き付き締め上げているのだ。
「あそこまで酷いものは、始めてみる。どれだけ業を築き上げたら、全身を覆うほどの罪になるのか」
静かな声が淡々と響く。
その声音には同情や憐憫はなく、嘲笑も侮蔑もない。事実だけを述べる色のない無機質さに、今も縄に締められ苦しむ誰かの業の深さを知った気がした。
不意に、泣き声が途切れた。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、蹲っていた誰かが顔を上げる。
「見るな。走れ!」
顔すら縄に巻かれているのに、何故か目が合ってしまうと感じた。だがその前に、手を引かれ走り出す。
「――ホドイテ」
歪に割れた声を残して、深い霧の中へと飛び込んだ。
前も見えぬほど深い霧の中を走り続け、ようやく解放された時には足はふらつき、立ち上がれないほど疲弊していた。
地面に崩れ落ち、荒い息を整える。汗で滲む視界を拭い顔を上げると、解けるように霧が晴れていく。
そこは見慣れた神社の鳥居の前だった。横を見れば咲き終わったはずの藤が咲き乱れ、風に揺れて柔らかな音を立てている。
「いやぁ。危ないところだった」
声がして、振り返る。
「――え?」
思わず呆けた声を上げ、目を瞬いた。
石畳の中心に立つその姿は、自分と変わらぬ背丈で、同じ顔をしていた。
異なるのは、白い着物姿であることと、肩で切りそろえた黒髪くらいだろうか。
まるで市松人形のようだ。無表情な黒目が鳥居の向こう側から逸れ、こちらを向く。
「まじヤバってやつ?」
「――は?」
にひひ、と笑う市松人形に、再び間抜けな声が漏れた。
「にしても、何あれ。何股してんの?ちょーウケるぅ。ね、そう思うっしょ?」
同意を求められているのだろうが、理解が追いつかない。
自分と同じ顔の市松人形のような少女が、ギャルのような言葉で話している。
何が起こっているのだろうか。夢だから、仕方ないことなのだろうか。
「聞いてんの?おーい?……え、マジ?目ぇ、開けたまま寝てんの?ヤバくね?」
「いや、起きてる……けど」
目の前で手を振られ、何とかそれだけを告げる。
「何だ。起きてんじゃん。びっくりさせないでよねー」
「びっくりしてるのは、こっちというか……え?」
意味が分からず、一歩少女から距離を取る。きょとりと目を瞬かせた少女は、首を傾げて自身の姿を見下ろした。
「え?そんな引く?この格好、可愛いっしょ?……あ、あれか。まだ言葉が堅苦しいのか。可愛いって、マジむずいな」
多分、問題はそこではない。いや、一部そこもあるだろうけれど。
「あなた、誰?さっきのは何?」
気になることはたくさんあるが、気になる二つを聞いてみる。
しかし足は後ろに下げたまま。いつでも逃げ出せるように、警戒しながら。
問いかけに、少女は再びこてりと首を傾げた。不思議そうな顔が、次第に笑みを形作っていく。
「――ひみつ」
人差し指を唇に押し当て、にやりと笑う。
次の瞬間、強く風が吹き抜けた。目も開けていられぬほど、強い風。顔を手で覆い、目を閉じる。
「次会えたら、教えてあげてもいいよー?じゃねー」
笑う声が遠くなる。瞼の向こう側が暗くなり、意識が沈んでいく。
遠くで恨めしげに泣く声が風に掻き消され、後には何も聞こえなくなっていた。
次に目を開けた時、そこは自室のベッドの上だった。
体を起こす。窓に視線を向ければ、カーテン越しに朝の柔らかな光が溢れていた。
大きく伸びをして、ベッドから抜け出す。
変な夢を見た気がした。目覚めてしまった今となっては少しも思い出せない、そんな夢。
欠伸を噛み殺し、部屋を出るため歩き出す。
「――?」
何かが落ちた感覚に立ち止まり、足下を見た。
紐の切れた神社のお守り。厄除けと書かれたそれを拾い上げ首を傾げる。
鞄に下げていたはずだが、いつの間にポケットの中に入れていたのだろうか。
思い出せない記憶に、溜息を吐いてお守りをポケットにねじ込んだ。
それよりも早く準備をしなければ。折角の休みが無駄になってしまう。
急いで洗面台へと向かう。身支度を調え、パンを頬張り、出かける準備を澄ませていく。
「いってきます」
いつものように家を出る。
その時にはもう、夢のことも、お守りのことも忘れていた。
20250917 『靴紐』
誰もいない駅のベンチに座り、ぼんやりと空を見上げていた。
電車は来ない。それは分かっている。
先日の大雨で、線路が土砂で埋まってしまったのだ。元々何年も前の天災で壊れた駅と線路を直したばかりだというのに、今回の災害である。利用者も多くはなく、このまま廃線にしてはどうかという意見も出てきていた。
溜息を吐く。憂鬱な気分と相俟って、何もする気が起きない。
意味もなく流れていく雲を目で追いかけていれば、不意に視界が暗くなる。
「だーれだ?」
戯けた声がした。
「――先輩?」
子供じみた行動に、戸惑いつつ怖ず怖ずと呼びかけた。
視界を覆う手が外されて、にんまりと彼女は笑う。
「正解!」
くすくす笑いながら、ココアを手渡される。受け取る缶の暖かさに、ささくれだった心が落ち着いていくようだ。両手で缶を包み、ほぅと息を吐く。
「さて、何があったか聞いてもいいやつかな?それとも、何も言わないで黙って隣にいる方がいい?」
隣に座りながらそう言われ、視線を彷徨わせる。
特に聞かれたくない話という訳ではない。ただどう切り出せばいいのか分からず、彼女の視線から逃げるように空を見上げた。
「皆で駅を綺麗にしたのに、このまま使われなくなるのは寂しいなって……」
「そうだね。頑張ったもんね」
「電車がこの駅に入ってきたのを見て、なんだかドキドキして……すごく嬉しかったのに……バスなんかよりずっと早く街に出られるって思ったのに……」
「うんうん。バスよりもずっと簡単に街にいけるもんね」
「そうしたら……きっと……」
じわりと視界が滲む。彼女に優しく頭を撫でられて、何を言いたいのか分からなくなってきた。
浮かぶのは、大好きだった彼から送られた最後のメッセージ。
――ごめん。
たった一言。何に対する謝罪なのかも分からないまま、それきり連絡は途絶えてしまった。
「なんでって、聞きたかった……なんでごめんなんだろうって……謝らなきゃいけないのはわたしなのに。わたし、ずっと酷いことをしてたから……ずっと、車掌さんを重ねて見てたから……」
「車掌さん?それが初恋?」
目を瞬く。溜まっていた涙が落ちて、少しだけ世界が輪郭を取り戻した。
どう答えるべきかを迷う。記憶を辿るように目を細め、昔たった一度だけ見た夢のような一瞬の出会いを思う。
「小さい頃、家族と喧嘩をして、家出をしたことがあって。夜にこうして駅のベンチに座っていたら、電車が来たんです……不思議な電車で、乗客も人じゃなかったりしてたけど、怖くはなかった。駅に止まって、でも乗客は誰も降りなくて……ぼんやり電車を見てたら、その時……」
「車掌さんが降りてきたんだ?」
小さく頷いた。
電車から降りた車掌は、真っ直ぐにこちらに近づいて、目の前で膝をついた。黒のハンカチを取り出して、涙でぐしゃぐしゃになっていたわたしの顔を拭い、頭を撫でてくれたのだ。
「何も言わなかったけど、頭を撫でられたら嫌な気持ちが全部なくなった。帰りたくなかったはずなのに、帰りたいって思えるようになった」
「その時に、好きになっちゃったんだ」
何も言えずに俯いた。
好きなのかは分からない。憧れに近いのだろうとは思う。
けれど今もまだ忘れず、彼に車掌を重ねて見るくらいには想っていた。
「そっかそっか……じゃあ、こうしよう。列車に乗って旅に出よう!」
「――え?」
突然の言葉に、首を傾げて彼女を見る。
電車は来ない。それは彼女もよく知っているはずだ。
「車窓からの景色を見たり、乗客と会話をしたりしてたら、嫌な気持ちもなくなるよ。知らない駅で降りてみてもいいし、食べ歩きなんてのも悪くない……よし、そうしよう」
「え、いや、その……」
立ち上がり、笑顔で歩き出す彼女に困惑しかできない。そのまま何も言えずにいれば、プラットホームの白線まで向かい、彼女はくるりとこちらを振り返った。
「ほら、早く!そろそろ列車が来るよ」
「いや、だから……っ!?」
手招く彼女に声をかけようとして、遠くで警笛の音がした。
立ち上がり、彼女の元へと向かう。プラットホームの端から線路の先を見れば、見知らぬ電車の姿が小さく見えた。
「どういう、こと……?」
電車から視線を逸らせない。その電車に見覚えはないはずなのに、何故か懐かしい気持ちが込み上げてくる。
ずっと待っていた。そんな気がして、答えを求めて彼女を見た。
「まずはどこへ行こうか。海もいいけれど、今の時期は山かな。山全体が色づいて、とても綺麗だから」
彼女は笑う。言いたいことは察しているだろうに敢えて答えないのが、意地悪だけれど好きな所のひとつだった。
ふと考える。彼女を先輩と言ったけれども、部活の先輩に彼女はいなかった。
彼女は、誰なのだろう。
「――ほら、列車が来た。これでもう寂しくないよ。ごめんね」
「え?」
何故謝られたのか分からない。視線の先の彼女は、電車を見たままそれ以上何も言わない。
問いかけようとして、けれどその前に電車が駅に到着した。
一両だけの電車。とても古めかしく感じられるのに、傷や錆びはなく綺麗な姿をしていた。乗客は誰もいない。ドアが開くも、何の気配もしなかった。
「――あ」
前のドアから車掌が降りてくる。彼によく似た、あの夜出会った車掌だった。
車掌がゆっくりとこちらに歩み寄る。目深に被った帽子のせいで、その表情はよく見えない。
そのまま目の前で立ち止まり、帽子に手をかける。彼女が車掌の隣に立ち、楽しそうに手を振った。
「二人旅、楽しもうね。変な勘違いをして悲しい思いをさせてた分だけ、笑顔にしてあげる」
笑う彼女の姿が黒に染まる。突然の出来事に呆然としていれば、彼女は姿を黒く薄く変えて、車掌の影になってしまった。
それと同時に、車掌が帽子を取る。露わになった顔を見て動けない体を車掌は引き寄せ、強く抱き締められた。
「ごめん」
耳元で、聞き馴染んだ声が囁く。
懐かしい香り。顔も声も、間違えるはずはない。
会いたくて溜まらなかった彼が、そこにいた。
「下らない嫉妬をして、でもそれは俺が人間じゃないからなんだって、勝手に諦めようとした……結局諦められなくて、強引に隠そうとも考えてた……本当にごめん」
「嫉妬?」
「あの夜初めて出会ってから、ずっと好きだったんだ」
次々と紡がれる彼の言葉に、理解が追いつかない。少しだけ待って欲しいのに、震える声と、抱き締める腕の強さに、何も言えなくなってしまう。
「ごめんな。これからは、もう悲しい思いをさせたりなんてしないから。絶対に幸せにするから」
「あ、あのっ!」
勇気を出して制服を掴み、少しだけ体を離して彼を見上げる。泣きそうな彼の目を見て、同じように泣きそうになりながらも声を上げた。
「わたしこそ、ごめんなさい。ずっと車掌さんと重ねて見てて。たくさん傷つけて……本当に、ごめんなさい!」
ずっと思っていたことを告げると、彼は目を瞬かせてふわりと笑う。抱き締める腕を離して、代わりに頬を包まれた。
「全部知った今は、嬉しいだけだよ。最初から両思いだって分かったから……好きだよ」
そう言って、額に唇が触れた。
それだけで真っ赤になるわたしに彼は楽しそうに笑う。
再び唇が近づいて、しかしそれは警笛の音に止まった。
「続きは旅の途中にしようか。一緒に色々な所に行こう」
肩を抱かれて、電車の中へと彼と共に足を踏み入れる。
前の席に座らされて、彼はその向かいに座った。
少しだけ落ち着かない。額の熱と彼の視線の熱が混じり合い、じわりと全身に回って、くらくらする。
「行きたい所、見たいものがあったら何でも言ってくれ。どこでも連れて行く」
そう言われても、何も思いつかない。
彼と一緒なら、どこに行ってもいい。そんなことを考えてながら、そっと彼に手を伸ばした。
「どうした?」
首を傾げた彼が手を取る。軽く引けば、心得たように頷いて、向かいではなく隣に座り直した。
肩を抱かれて、その温もりに目を細める。さっきまでの憂鬱な気分がすっかり消えて、幸せだけが残っていた。
「どこでもいいの。一緒にこうしていられるなら、海でも山でも、どこでもいい。あのね……」
彼を見上げる。顔を寄せる彼の耳元で、内緒話をするように、思いを口にする。
「大好き」
顔を離せば、耳を赤くした彼が、卑怯だと呟いた。
「俺も、好きだ。愛してる」
引き寄せられて、頬を包まれる。
思いのすべてを伝えるように、そっと熱い唇が触れた。
20250915 『センチメンタル・ジャーニー』
蜜を煮詰めたような色をした、大きな満月が浮かんでいた。
周囲の空を白く染め上げ、時折赤くも見える月。見る者の心を奪っていくような、そんな怪しい美しさに、少女の唇からほぅと吐息が溢れ落ちる。
「――月が、綺麗ですね」
呟く言葉に、隣を歩く男は激しく咳き込んだ。
「えっ、先生?」
「お前……ここで、それを言うか」
少女に背をさすられながら、恨めしげに男は少女に視線を向ける。
遅れて、言葉の意味する所に気づいたのだろう。少女の頬が微かに朱に染まった。
「というか、なんで先生呼びなんだ。普通に呼べばいいだろうに」
「だって、皆先生って呼んでるから」
小説家として生業を立てている男を名で呼ぶ者はほどんどいない。家族、親族も両親を亡くしてからは、いつしか殆ど交流を持たなくなった。家を継いだ弟から、時折手紙が来る程度だ。
「気にせず呼べばいいだろうが」
「気が向いたらね」
少女の微笑みに、男の眉が寄る。
それに気づいていながらも、少女は何も言わず男から離れ、再び月を見上げた。
「でも、本当に綺麗。変な意味はなく、純粋に」
「分かってる。そんなに強調するな」
「いつまでも独り身だから、変な想像をするんだよ」
少女の指摘に男の眉が益々寄り、皺を刻み始める。その理由を知っているだろうに敢えて指摘する少女の残酷さに、溜息を吐いた。
男は今まで、深い間柄になるほどの相手を作らなかった。そしてこれからも、それは変わらない。
男の家には、人ならざるモノたちが住んでいる。妖と呼ばれる彼らと共に生きることを選択し、俗世から離れた。
それだけが理由ではない。だがそれを男は少女に告げることを良しとしなかった。
優しさからではない。男の矜持がそうさせた。
男を置いていってしまった少女に対する、せめてもの意地だった。
「――確かに、月が綺麗だな」
少女の隣で、男は月を見上げ呟いた。
人を惑わすほど美しい月。子供のころに少女と見上げた月を重ね、しかしあの日の月はより美しかったと密かに思う。
「どうかした?」
「別に、何もない……お前こそどうした。彼岸はまだ先だろう」
「ん。ちょっとね。とっても月が綺麗だったからかな」
そう言って、少女はくるりと回ってみせた。くるり、くるりと月明かりを浴びて、華麗に舞う。
いつか舞台に立つのが夢だと言っていた少女の動きは、あの日から変わらない。
声も、姿も。月明かりに伸びる影がないこと以外は、何一つ。
「――あ。お迎えがきたよ」
不意に少女の動きが止まる。
遠く小さな丸い灯りを認めて、目を細めた。
「お別れだ。じゃあ、元気でね」
「あぁ」
静寂。虫の音すら聞こえない、ただ二人の空間。
近づき、ぼんやりと輪郭を浮かばせた灯りに、男は足を向けた。ゆっくりと歩き出す。少女を振り返ることはない。
ふと、男の足が止まった。
「どうしたの?」
少女の問いに、男は何も答えない。ただ月を見上げ、呟いた。
「本当に、月が綺麗だ」
穏やかな声に、少女もまた月を見上げ。
「そうね。綺麗な月を一緒に見れて……死んでもいいわ、って思うわ」
少女の返しに、男は盛大に咳き込んだ。
「ふふ。じゃ、今度こそ本当にさよならね」
「おい。逃げるなっ」
振り返る男の視界の先には、すでに誰の姿もない。
ひとつ息を吐く。月を一瞥して、男は今度こそ灯りの下へと歩いていった。
「どうかしたんですかい?」
迎えにきた子供に、男は何もないと首を振る。
「満月に惹かれて、変な幻を見ただけだ」
「幻?」
首を傾げ、子供は手にした提灯を男がいた場所へと向ける。
誰もいない場所をしばし見つめ、何かに気づき子供は笑う。
「あぁ、ようやく先生にも見えたんですねぃ」
「何の話だ?」
「先生は、罪作りなお方だって話で御座いやすよぅ」
それ以上を語らず、子供は提灯を掲げて先導し、家路に向かう。
眉を寄せる男は、けれど何も言わずにその後に続いて歩き出した。
二人の間に会話はない。
聞こえるのは虫の声。そして一人分の足音。
月明かりに伸びる影も一人だけ。
ふと男が呟いた。
「――月が綺麗ですね」
「なんです?」
足を止めず、振り返りもせず子供が問う。
穏やかに響く声は、聞かずとも答えを知っているように感じられた。
「ある文豪が、異国の愛の言葉を訳したものと言われている。本当かどうかは分からん。それを確かめる術もない」
男もまた足を止めることはない。ただ目を細め、口元には緩やかな笑みが浮かんでいた。
まるで、過ぎ去った日々を懐かしむように。
「例え泡沫の夢だろうと、その意味が偽りだろうと。言葉が届いた……そんな夜だったというだけだ」
先を行く子供の足が止まる。
遅れて男も立ち止まる。
提灯の灯りと月の光に照らされ、男の影が揺れた。
「先生は、本当に罪作りなお方だ」
ゆっくりと子供が振り返る。手にした提灯が揺れ、隠れていた影が浮かぶ。
「幻なんかじゃあ、ありやせん。ずっと側におりやすよ……ちゃんと言葉を受け取って、返してもらったのですからねぃ」
影を追って振り返る男の目が、くるりと回る少女の影を認めた。
くるり、くるりと回る。立ち尽くす男の影に近づいて止まり、手を繋いで消えていった。
「――死んでもいいわ、ですかい。随分と熱烈だ」
笑う子供の言葉に、男は眉を寄せる。影が繋いだ手を目の前に掲げ、重苦しい溜息を吐いた。
「本当に死んでどうする……それに、その言葉を使うなら、せめて逢い引きを申し込んでからにするべきだ。何も言わなければ、伝わるものも伝わらん」
「おや、手厳しい」
「当たり前だ。そもそもあれは、あなたの、あるいはあなたのものだと言う意味であって、返しの言葉ではない……だが、まあ……これを見る限りは、間違ってはいない、のか?」
首を傾げ考え込みだした男に、子供は声を上げて笑う。
笑いながら男に近づき、もう片方の手に自らの手を繋いだ。
「――なんだ」
「そろそろ帰りやしょう。早く寝て、起きて……溜まっている原稿を仕上げてしまいやしょうねぇ」
途端に視線を逸らす男の手を引いて、子供は歩き出す。
男もまた、抵抗することなく歩き出した。
蜜を煮詰めたような色をした満月が浮かぶ、明るい夜。
虫の声が響く。一人分の足音に、手を繋いだ三人の影が伸びていく。
手を引かれて歩く男は何も言わず、ふてくされた子供のような表情で月を見上げた。
「――月が、綺麗だ」
思わず呟く。
どこかで、誰かの笑い声がした。
美しく、妖しい月が浮かぶ、そんな夜だった。
20250914 『君と見上げる月…』