手を繋ぐ。
互いに冷え切った指は、熱の一欠片も感じられない。
それでも繋いでいれば段々に熱を持つ手に、嬉しくなって目を細めた。
「あたたかいね」
「うん。あたたかい」
噛みしめるような言葉に、笑みが浮かぶ。
「寒くない?痛くない?」
「もう寒くもないし、どこも痛い所はないよ」
「寂しくはない?」
「一緒にいてくれるから、寂しくはないよ」
確かめるように問いかければ、優しい声が返る。
もっと嬉しくなって、手は繋いだままその胸元に擦り寄った。冷たい体を温めるように、隙間なく触れる。
「嫌な所や変な所はない?」
「嫌な所はないけど…変、というか、不思議な感じはしてる」
ほんの少し、戸惑いを乗せた声。
顔を上げて視線を向ける。穏やかで優しい微笑みの中に困惑が見て取れて、手を繋いでいない方の手で頭を撫でた。
「いい子、いい子」
「くすぐったいよ」
くすくす、と笑う声が漏れる。
大丈夫だと、何度も頭を撫でていれば、同じように頭を撫でられた。
優しい手。初めて会った小さな少女の時から、変わらない。
どんな苦しい事、悲しい事があっても、最後の時まで彼女は優しいままだった。
「本当に不思議。もう外には出られないんだって思ってた。二度と会えないんだって、諦めてたのに」
「約束したもん。またね、って」
「そうだね。また逢えて、嬉しい」
ふわり、と柔らかな微笑み。
陽だまりのようで、あたたかい。
彼女は、変わらない。それが少しだけ哀しかった。
「これから、どこに行けばいいのかな」
「還り道が分からないなら、待っていれば迎えに来てくれるけど。分かるのなら、一緒に行こうか」
「いいの?」
不安が浮かぶ目を見て頷く。静かなありがとう、の言葉に、どういたしまして、と笑顔で答えた。
手だけは繋いだまま、体を離して二人、歩き出す。
幼い頃のように、ゆったりとした足取り。周囲の景色を見ながら、少しだけ寄り道をしながら歩いて行く。
それでも還る場所へ向かう足が、大きく逸れる事はない。彼女の足取りに迷いはない。
「懐かしいね。小さい頃を思い出す」
「そうだね。あの時は外に出る事も、走る事も出来たから」
「お転婆さんだったものね」
「それは忘れてよ」
笑い合う。取り留めのない話をしながら、思い出に浸る。
変わったもの、変わらないもの。一つ一つがとても愛おしい。
「ねぇ、狸さん」
柔らかな声。幼い頃と変わらない、その呼び名。
「なあに?」
首を傾げて見つめれば、あのね、とか細い声が、続く言葉に迷っている。
立ち止まり、彼女の目を見る。恥じらうように頬を染めて、小さく腕を広げた。
くすり、と笑う。
繋いだ手を離し人の形から、元の小さな狸の姿に戻る。彼女の腕の中に飛び込めば、そっと抱きしめられた。
「狸さんは、あたたかいね」
ほぅ、と彼女の唇から吐息が漏れる。首元に擦り寄り、頬を舐めれば、くすぐったいよ、と小さな笑う声が漏れた。
抱かれたまま、彼女の足は再び歩き出す。
「還る場所って、どんな所なんだろうね」
「暗い場所だよ。皆そこで眠るからね。暗くて静かなんだ」
「眠るの?ちゃんと眠れるかな」
微かな不安に揺れる彼女の声に、大丈夫、と頬を寄せる。
眠れなかったのは、前の話だ。もう蝕む体の痛みなどなくなってしまったのだから、気にする事はないだろうに。
「皆眠るんだよ。新しく生まれるためだから、眠れる」
「新しく、か。次は元気にいられるかな」
「元気になるよ。そして今度は、よぼよぼのおばあちゃんになるんだ」
そうであれ、と思いを込めて口にする。
そこにきっと自分はいない。寂しさはあるけれど、敢えてそれは口にせず、優しい彼女の幸せだけを思った。
「また、会えるかな」
小さな、消え入りそうなほど微かな声。
応えるべきかを迷う。過去に敢えて捕らわれる必要はないはずだ。
「どうかな。きっと新しくなったら、全部忘れてしまうから。会えても会えなくても変わらないと思うよ」
「会いたいと思っちゃ駄目なの?」
彼女の笑みが陰る。泣きそうに膜を張りだした目を見て、慌てて宥めるように頬を舐めた。
「分かった。また会おう?待っていてあげるから」
「約束、してくれる?絶対だよ」
「ん。約束」
首元に擦り寄り、忙しなく脈打つ鼓動を鎮めるように、目を閉じる。
会いたいのは同じだ。彼女がほんの少しでもここに未練を残してくれたのなら、そのまま攫ってしまいたいと思うくらいには。
あたたかい。約束一つで、心が跳ねる。幸せに緩む口で約束、と繰り返した。
「じゃあ、早く行かないと。眠って、ちゃんと起きないとね」
「そうだね。少し急ごうか」
「どこに行くの?」
不意にかけられた声。
振り返れば、首を傾げた常世の迎え。
「還るのならば、そっちは違うけれど」
無言で彼女と見つめ合う。
「てっきり知っているのかと思ってた」
「何も言わないから、合ってるのかと思ってた」
迎えを見る。
何も言わずに、首を振られた。
もう一度、彼女を見つめ合い。腕の中から飛び出して人の形を取り、手を繋いだ。
迎えの元へ歩み寄る。
「よくいる。迷子」
「迷子」
「こっち。着いてきて」
促されるまま、迎えの後について歩き出す。
冷えてしまった手を温めるように、少しだけ強く手を握り。時折視線を合わせては、笑い合った。
別れは寂しくはない。またね、の約束が、心を軽くする。
晴れやかな、まるで陽だまりのようなあたたかさで、常世への道を一緒に歩いていた。
20250112 『あたたかいね』
扉の前へ立つ。
白い大きな扉。幼い頃から見てきたそれは、成長した今でも変わらない大きさで見るものすべてを圧倒する。
手にした鍵の束に目を落とす。
この家に生まれた者に、必ず与えられる鍵束。この中の一つを使い、扉を開けなければならない。
扉に視線を向ける。開けた者の、未来へ続くと言われている扉。
早い者は五つの頃から鍵を選び、扉を開ける。
そうして、ようやくこの家に認められるのだ。
「今日もそうやって、無駄な時間を過ごしていくのか」
けたけた、と背後で聞こえる嘲りや侮蔑を含んだ嗤い声に、僅かに眉を潜める。
声を返す事はしない。何かを言った所で何の意味もない事は、随分と前から理解してしまっていた。
「自分で未来も決められない泣き虫に、ここに来る資格はないよ。いつまでも居座ってないで、さっさと戻んな」
「そうですね」
冷たく険を帯びた言葉に、肯定を返す。
選べぬ者がこの場にいるだけで、業腹なのだろう。幼い頃はまだ優しさのあった声は、今はもう苛立ちを隠そうともしない。冷たい言葉ばかりを吐き捨てられる。
目を伏せる。最初から選べぬ事は分かっていた。
「十五になっても選べません。資格がないからなのでしょう」
手にした鍵束を一度強く握り、背後を振り返る。そして声の主に鍵束を放り投げた。
「どういう、つもりだ」
「お返しします。申し訳ありませんでした」
一礼して、扉へと向き直る。
迷いなく把手を掴み、押し開けた。
選べぬのならば、ただ受け入れればいい。
「馬鹿が。止せっ」
焦りを含んだ声を背後に聞きながら、扉の向こうへ足を踏み入れる。
不安も恐怖も、何一つなく。戻らぬ意思で、扉を閉めた。
星のない夜空に、丸く浮かぶ白い月。
月の光を反射してか、きらきらと光る水面。
寄せては返す波打ち際に、小舟が一つ。
とても静かだ。
選択をしない、与えられた未来とは、こうも静かで穏やかなものなのか。
裸足の足が砂に埋まる。その感触が心地好い。
ゆっくりと歩き出す。小舟に乗って海の向こうへ向かうために。
その先のあるのだろう終を思い、長い事忘れていた笑みを浮かべた。
「やり直しだ。これ以上アレに近づくな」
腕を掴まれ、強い力で引かれる。感情を削ぎ落としたかのような低い声に、体が強張り足が縺れた。
「戻るぞ。さっさとしろ」
半ば引き摺られる形で、扉へと戻される。振り返る視線の先の小舟が波に揺れるのを見て、思わず手を伸ばした。
「この馬鹿が」
忌々しげな舌打ちが聞こえ、腕を掴む力がさらに強くなる。その痛みに顔を顰め腕を放そうと踠くが、逆に掴む力が強くなるだけで、離す事は出来なかった。
「アレが何かも知らずに、軽率に求めるな。アレに喰われれば、二度と此処からは出られんぞ。還る事すら許されない」
冷たく吐き捨てる声に、逆らう事を諦め、腕を引かれるままに扉を潜り抜ける。
放り投げるようにして手を離され、耐えきれずに床に倒れ込んだ。
音を立てて扉が閉まる。倒れ込んだまま起き上がる事も出来ないでいる己の眼前に、扉を抜ける前に投げ渡した鍵束が晒される。
「選べ。いつまでも目を逸らすな」
体を引き起こされ、手に鍵束を握らされる。
首を振り、返そうとしても許されない。
「選べません。私には鍵の違いは分かりません」
「分かるはずだ。この家に生まれた者は、選べるように出来ている」
「私はこの家に相応しくありません。だから選べぬと言われています」
「何を言っているんだ」
俯く顔を無理矢理上げられ、目を合わせられる。
その表情に怒りはない。困惑を浮かべた目に、何も知らされていないのだと理解した。
「私は母を殺して生まれた忌み子です。呪われ穢れた私は、この家の障害にしかならない」
「何だ、その戯れ言は。まさかお前、それを本気にしているのか」
「未来など選ぶ権利はないと皆言っています。だから選ぶのではなく、受け入れろ、と」
「それは誰が言った」
口を閉ざす。
誰が、ではない。誰もが言っていた事だ。
それを察したのだろうか。幾分穏やかさを帯びた声が、問いかける。
「逆に、言わなかった者はいるか?お前を認めてくれる誰かはこの家にいるのか?」
目を逸らし、首を振る。
忌み子を認める者など、いるはずがない。
「鍵を使わずに扉を開ける事を教えたのは、誰か言えるか?」
「…父、が」
「そうか。あの男、贄を作り上げようとしたか」
冷たい声音に、肩が震える。
全てを知って、この家の者のように声の主も己を忌むのだろう。
忘れたと思っていたはずの悲しさや苦しさを、唇を噛む事で耐える。
少しの我慢だ。鍵を返し、もう一度扉を開ければ、それで終わる。
「選べぬ私には、鍵は不要です。ですから」
「それはお前のためだけの鍵だ。いいか、良く聞け」
逸らしていた目を、もう一度合わせられる。
「お前は忌み子ではない。呪われたというならば、それはこの家の血筋全てだ。遠き祖先の過ちから一族を守るため、私は鍵を作り、未来を選ばせる事でアレとの縁を断ち切っていた。そういう契約だ」
幼い頃に聞いていた優しい声で、言い聞かせるように言葉が紡がれていく。
知らない事、聞かされなかった事ばかりで、うまく理解が出来ない。
「契約?」
「そうだ。贄を作らぬ条件で、守り続けていた。だがお前の父は、お前を作った。何一つお前に教える事なく、お前を忌み子として扱う事で、選択を否定させた。そして扉を開けるよう、仕向けた」
混乱する己を抱き上げて、声の主は扉の前に歩み寄る。
鍵束のそれとは異なる深紅の鍵を差し込み鍵を開け、扉を開いた。
開いた先に海はない。代わりに地下へと続く長い階段が見えた。
「お前から扉を開く事で、お前の意思だとしたかったのだろうが。選択出来ぬよう作り上げたのならば、贄と変わらないからな。契約違反だ」
階段を下りていく。先の見えない恐怖に震え出す体を宥めるように、優しく背を撫でられる。
恐怖と、優しさと。相反する感情に何も考えられなくなっていく。手にしたままの鍵束が、階段を下りる度にじゃらじゃらと音を立てた。
未来を選ぶ鍵。守るための鍵。契約。
分からない。もう考えるのが苦しい。
「もう一度聞くが、この家にお前を愛した者はいないんだな?」
「分からない。愛されていたのかも、そうでないのかも。何も」
「そうか。どちらにしても、この先にあるもので分かるが…どうやら、はずれのようだな」
「何?」
立ち止まる気配に、背後を振り返る。
視界に入ったそれに、目を見開き息を呑んだ。
「…ぁ、やだ」
座敷牢。幼い頃、扉の前につれて行かれる以外に、押し込められていた場所。
体の震えが止まらない。泣いて叫んでも、誰にも届かない絶望を思い出し、涙が零れ出す。
「大丈夫だ。これはただの幻。本物は、後で私が壊しておいてやろう」
「ごめん、なさい。私、ごめんなさい。許してっ」
「聞こえていない、か。仕方がない。少し眠っているといい。その間に全て終わらせておく」
背を撫でていた手が、額に触れる。
「すまないな。気づいてやれなくて」
「待っ、て。いかない、で」
「契約違反の対価を払ってもらうだけだ。直ぐに終わる」
落ちていく意識に抗いながら、必死に声の主にしがみつく。
僅かに理解できる、契約違反と対価の言葉に、不安が募った。
「今まで与えていたものを返してもらうだけだ。選択した未来が、本来受け入れるべき未来に成り代わるだけだよ」
あの海の向こうに渡るだけ。
意識の途切れる間際に聞こえた言葉は、今まで聞いたどんな声よりも優しく、そして残酷に響いた。
20250111 『未来への鍵』
「じゃーん!はい、どうぞ」
にこにこ笑う少年が差し出した小瓶を受け取って、少女は不思議そうに首を傾げた。
「なぁに?これ」
「帚星の欠片!」
小瓶の中には、きらきらと燦めく光の粒。
宙を漂い、弾けるように点滅するそれらは、確かに星のようにも見えた。
「人間ってさ、流れる星に願いを言うんだろ?だからいつでも望めるようにって、取ってきたんだ!」
誇らしげに少年は胸を張る。そんな少年の姿に、少女は微笑んで少年の頭に手を伸ばし、いい子と撫でた。
撫でられて、少年は目を細める。もっとと強請るように、頭を撫でる手に擦り寄った。
「にひひ。喜んでもらえて良かった。頑張って一晩中、飛び回った甲斐があるってもんだな」
「無茶するのは、駄目だよ?」
心配する少女に、分かってる、と笑顔で返し。少年は小瓶を持つ少女の手を包み、引き寄せた。
間近で少女と目を合わせ、隠しきれない好奇心で問いかける。
「なぁ、何を望むんだ?」
星の欠片に。
問われた少女は、少年の目を見て、そして小瓶を見て目を瞬いた。
「望みは、特にないよ?」
その答えに、少年は分かりやすく頬を膨らませる。
「何かないの?折角取ってきたんだしさぁ」
「だって、望みはいつもあなたが応えてくれるでしょう?」
当然のように少女は告げる。
確かに、と少女の言葉に、少年は頷いた。
友達になってほしい、と望まれてからずっと、少女は少年にだけ望みを口にしている。
遊んで欲しい。側にいて欲しい。一緒に空を飛んでみたい。
今まで望まれた事を思い出す。
膨れた顔は一瞬で満面の笑顔になり、背の翼は嬉しさを表すかのように羽ばたいた。
「そっか!そうだな。俺がいるから、他に望む必要はなかったな!」
そうだった、そうだった、と少年は機嫌良く笑う。
それならば、少女に渡した星のかけらは必要ない。回収しようと少年は小瓶に手を伸ばし、だがその手を少女はするり、と躱した。
「望みはないけれど、あなたからもらったものだもん。返さないからね」
「むぅ。何か複雑。気に入ってもらえて嬉しいけど、何か思ってたのと違う」
「いつもありがとう。でもわたしばっかりが、もらってる。わたし、何もお返しが出来ていないのに」
少女の笑みに不安が混じる。与えてもらうばかりで、それが当たり前になってしまいそうになるのが怖いのだろう。
そんな少女に、少年は気にするなと笑いかける。先ほど少女が少年にしてくれたように手を伸ばし、少女の頭を優しく撫でた。
「俺があげたいからいいの!気になるなら、もっと俺に望んで。妖は人間の望みに応えて、ちゃんと正しい妖になれるんだからさ」
「よく分からない。でもこれからも一緒にいてくれると、いいな」
些細な望み。出会った時から幾度となく望まれてきたもの。
敢えて望み応える必要もないと苦笑しながら、少年は応えようと口を開き。
ちかり、と小瓶の中の欠片が瞬いた。
「あれ?何か光った?」
首を傾げ、少女は小瓶を目の前にかざす。
小瓶の中の欠片は、変わらずゆらゆら宙を漂い、燦めいている。けれども先ほどよりその煌めきは強くなっているように少女には感じられた。
「駄目。やっぱ返して」
顔を顰めた少年が、有無を言わさず少女の手から小瓶を奪う。
ちょっと、と取り返そうと手を伸ばす少女から小瓶を遠ざけながら、駄目、と少年は繰り返す。
「俺が望まれたんだ。おまえじゃない」
視線は小瓶の中の欠片に向けられ。少女には決して向けられる事のない、低く冷たい声音で欠片に告げる。
「ごめん。これ捨ててくるから、ちょっと待ってて」
「どういう事?」
「このままじゃ、妖になっちゃうから。だからその前に捨ててくる」
「待って」
翼を大きく羽ばたかせ飛ぼうとする少年の服の裾を掴み、少女はか細い声で引き止める。
その目は戸惑いと不安に揺れて。少年は眉を寄せ逡巡し、結局は留まる事を決めたのだろう。一つ息を吐いて、広げた翼を折りたたんだ。
「少しの間だけだからさ。すぐ戻って来るから、いい子に待っててよ」
「やだ。捨てないで。返してよ」
「駄目だって。こいつ、俺に望まれたものを横取りしようとしたんだから。しかもおまえの側にいるって望み。冗談じゃない」
忌々しいと小瓶の中の欠片を睨めつけた。
少女は意味が分からないまま、欠片に視線を向ける。
ちかちかと点滅を繰り返す光。ただ宙を漂っていただけの動きは今、忙しなく小瓶の中を駆け回っている。まるで外に出せと言わんばかりの激しさに、少年の表情がさらに険しくなった。
「一度個として認識すると、駄目だな。元は同じなのに、まったく違うモノだ。これは、俺じゃない」
小さな舌打ちに、少女の肩が跳ねる。
「あ。ごめん。怖がらせるつもりはなかった」
慌てて少女の背を撫でて。大丈夫、ごめんね、と繰り返す少年に、少女は緩く首を振り笑みを浮かべた。
控えめに少年の服の裾を掴み、視線は小瓶へと向けて呟いた。
「どうしても捨てに行くなら、せめて一緒に行きたい」
「そんなに気に入ったの?何か望みでも出来た?」
少年の問う言葉に、少女はだって、と口籠もる。
掴んだ裾を引いて、何かを言いかけては止める。何かを躊躇うかのように、小瓶と少年の間で視線が彷徨った。
「ん。言って。ちゃんと言葉にしてくれなきゃ、分かんない」
「だって。だってね。わたしのためだけの贈り物。捨てられるのは嫌だったの」
消え入りそうな声。
一つ瞬きをして。少年は幸せそうに微笑んだ。
裾を掴む少女の手を取り、小瓶の蓋に触れさせる。そしてそのまま蓋を開ければ、勢いよく中の星の欠片が飛び出した。
ちかちかと欠片が少女の前で燦めく。少女の周囲を飛び回り、擦り寄ろうと距離を詰める。
だが、星の欠片が少女に触れるより早く、少年は少女を抱き上げ高く飛び上がった。
「え?ちょっと」
突然の事に混乱する少女を、少年は落とさぬようにしっかりと抱え直す。
欠片から逃げるように速度を上げる少年は、とても楽しげだ。
「今から鬼ごっこをしよう!あいつが俺たちに追いついたら、あいつの勝ちで俺たちと一緒にいてもいい。でも追いつけなかったら、俺の勝ち。一緒にはいさせない」
速度が上がる。振り返り見る星の欠片は、少年に追いつく事が出来ず、遠ざかっていく。
「捨てるんじゃない。遊んでるんだから寂しくないだろ?」
悪戯が成功した時の子供の表情で少年は笑う。
追いつけるはずはない。少女以外でそこまで優しくなれはしない。
鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌な少年は。
少女を抱えたまま、流れる星よりも速く夜空を駆け抜けた。
20250110 『星のかけら』
どこか遠くで、電話が鳴っている。
時計の針の音が、心を急き立てる。
目を開けた。
真っ暗闇の中、手を伸ばす。
何もない。一歩、足を踏み出した。
やはり何も触れはしない。手が暗闇に彷徨った。
また一歩、足を踏み出した。彷徨う手が、何かに触れた。
冷たい壁。行き止まり。ぺたぺたとあちこちに触れ、その先を探す。
触れたのは、金属の冷たく硬い何か。形を確かめるように触れて、それがドアノブだと気づく。
ドア。部屋と部屋とを繋ぐ、境界。
鍵は掛かっていない。開けてしまっても良いものか暫し悩むが、ここにいるよりはと、ドアノブをひねった。
薄暗い部屋。
テーブルと椅子が一脚。テーブルの上には置き時計が一つ。
他には何もない。
――TickーTack..
時計の音。規則正しく、時を刻む。
――Tick-Tack.Tick-Tack..
テーブルに近づいて、時計の文字盤を覗き込んだ。薄暗い室内で僅かに見えた針は、ぐるり、くるりと回転し、時間を示す役割を放棄していた。
ふと、どこかで何か聞こえた気がした。
振り返る。そこに入ってきたはずのドアは何処にも見えず、代わりに大きなホールクロックが一つ。ゆったりと振り子を揺らしていた。
――Tick-Tack..
前と後ろから、時計の音が響く。その合間に、微かに何かの音がする。
ホールクロックに近づく。
扉に手をかけ開けば、そこに振り子はなく、別の部屋へと続いているようであった。
ここよりも明るい場所。その先から聞こえる、何かの音。
音に惹かれるようにして、その中へと足を踏み入れた。
先ほどの部屋よりも明るく、広い部屋。
その壁一面に、大小様々な壁掛けの時計がかけられている。
――Tick-Tack.Tick-Tack..
それぞれ別の時刻を指し示し、時計の針は動き続ける。
その音に紛れて、別の音。
遠く、どこかで電話が鳴っている。
――,,ng,Ri..
はっきりとは聞こえない。それでも電話は鳴り続けている。
早く電話に出なくては。そんな焦燥を抱えながら、部屋をぐるりと見渡した。
壁に掛かるのは時計ばかりで、ドアは見えない。
振り返る。入ってきた入口を見た。
入ってきた時と変わらない、入口。だがよく見れば、その先は先ほどいた場所とはまた異なっているようだ。
その先から、電話の音が聞こえてくる。
迷う事なく、潜り抜けた。
それからいくつもの部屋を抜け。
電話を求めて、彷徨い続けた。
――Ring Ring..
電話は途切れる事なく鳴っている。だがいくら部屋を抜けても、あるのは時計ばかりだ。
――Tick-Tack..
――Ring Ring..
どこかで電話が鳴っている。
早く取れと言わんばかりに、時計の針が心を急かす。
そしてまた、目の前のドアを躊躇いもなく開けた。
暗闇。最初の部屋のような、何一つ見えない闇の中。
――Ring Ring..
今までよりもはっきりと、電話の音が聞こえた。
一歩、足を踏み入れる。ゆっくりと、音を頼りに進む。
――Ring Ring..
音が近い。すぐそこに電話がある。
手を伸ばす。暗闇を掻き分け、電話を探した。
触れる、つるりとした無機質な感覚。指を伝わせ、それが電話であると理解する。
――Ring Ring..
音が鳴っている。この電話だ。
ゆっくりと受話器を取って、耳に当てた。
「もしもし」
反応はない。何も聞こえない。
「もしもし」
返る声はない。だが受話器の向こうで、微かにノイズが聞こえた。
ホワイトノイズ。その向こう側で誰かの声がする。
「……て」
聞き馴染む声。その言葉を聞き取ろうと、耳を澄ませた。
「…きて。…く……て」
段々と声がクリアになる。艶やかに微笑む、ビスクドールのように美しい少女が脳裏を過ぎた。
――Tick-Tack..
時計の針が、心を急かす。
――Ding-Dong..
部屋のあちらこちらから、鐘の音が鳴り響く。
「早く起きて。ねぇ、起きて」
電話の向こうの強請る声に、意識が浮上する。
「オハヨウ。ご機嫌はいかが?」
こちらを覗き込む、美しい少女と目が合った。
背中に手を差し入れられ、体を起こす。
窓の外は暗い。細い三日月が遠く、小さく見えていた。
「また、夢を」
「えぇ。Nightmareが纏わり付いているもの」
微笑んで、少女はサイドテーブルの上のティーカップを差し出した。
カップを受け取り、口を付ける。紅茶の香りと温もりに、曖昧だった意識が覚醒した。
「ありがとう。いつも助かるよ」
「ドウイタシマシテ。My dear」
艶やかに微笑む。異国から来たという少女は、今夜もとても美しい。
そしてとても怖ろしい。
「アナタは本当に好かれやすい。嫉妬、してしまうわ」
くすくす笑い。細くしなやかな指が頬に触れた。
「さぁ、アナタを守ったワタシにご褒美をちょうだい?Give and take.そうでしょう?」
「分かってる。お好きにどうぞ」
少女の指が頬を辿り、首筋を撫でる。
血のように赤い瞳が妖しく煌めくのを見て、目を伏せた。カップをサイドテーブルに置き、少女に向けて首を晒す。
「Thank you.愛しているわ」
瞳よりも血よりも紅い唇が弧を描く。首筋に突き立てられる牙の痛みと。血を啜られる不快な感覚に耐えながら、嘘つき、と胸の内だけで呟いた。
少女は人間など愛しはしない。
食料として、或いは愛玩用として愛でているだけだ。
「アナタの血は、今宵も芳醇でとても甘い。加減を忘れてしまいそう」
歌うような少女の囁きに、目を閉じてそうであれと、密かに願う。
加減を忘れ、いっそそのまま終わらせてくれれば。そうすれば、この飼い殺しの日々から抜け出せるのに。
強く握り締めた手が、少女の手によって解かれ、繋がれる。
まだ少女の手を冷たく感じている。己の体の熱は、今夜も失われる事はないのだろう。
どうか、と言葉にならない思いを溢す。意味のない事だと理解していながらも、繰り返す。
美しく、怖ろしい少女からの解放を。
奪われてしまった安らかな眠りを、滑稽にも目の前の少女に願い続けた。
20250109 『Ring Ring...』
風が吹いた。
背中を押された気がして、走り出す。
他には何も考えず。ただ前だけを見て、走る。
道行く人が、微笑ましげな顔をする。誰かの頑張れ、の声にさらに速度を上げた。
息が上がる。体が酸素を求めて、呼吸が苦しくなる。
それでも止まらない。道の終わりはまだ見えない。
走る。くらくらする頭で、それだけを考える。
目の前に現れた坂に、体が悲鳴を上げる。足が縺れ、ふらついた。
けれど風が背中を押しているから。
背後から吹き続けている風と共に、一気に坂を駆け上がる。
この坂が最後だ。その確信に、最後の力を振り絞る。
もう少し。あと少しで。
坂の終わりが見える。風がさらに強く背中を押した。
そして。
坂を登り切り。道の終わりで。
大地を強く踏んで、高く跳び上がる。
風を背に受けて。高く、遠く。
――空を、とんだ。
体に纏わり付く風に、顔を顰めて手で払う。
不快でしかないこの風は、おそらく最近噂になっている追い風だろう。
眉を寄せながら、風に背を押されるままに歩き出す。
気づけば周囲に人はなく、見慣れたはずの通学路はどこまでも続く一本道に変わってしまっている。
風に背を押され、一本道をどこまでも行く。
途中、道の端に黒の崩れかけた影がゆらゆらと揺れているのが見えた。耳障りなひび割れ声が頭に響き、不快さに益々眉が寄る。
風は変わらず背を押したまま。
「まったく。何処まで続くんだよ、これ」
舌打ちし、目の前の坂を睨み付ける。
長く急な上り坂に、苛立ちを隠しきれない。
いっそここで終わらせてしまおうか。そんな思いが過るが、それでは正しく終われないと首を振って思い直す。
風が、背を強く押す。
一つ溜息をついて、上り坂へと足を踏み出した。
坂の途中、誰かの靴が片方落ちていた。
よく見れば、それ以外にも鞄や上着などが、道のあちらこちらに散乱している。
邪魔になって置いていってしまったのか。落ちた事にすら気付けなかったのか。
深く息を吐く。立ち止まりかけた足を風が急かし、鬱々とした気持ちを抱えながら坂を上る。
そして、坂の終わり。道の終端で立ち止まる。
「ここで終わり、か」
風は背を押し続ける。
段々と強くなる風の勢いに、ポケットから取り出した水晶玉を強く地面に叩きつけた。
――ぱりん、と。
澄んだ音を立て、水晶が割れる。
粉々になった欠片が、風に舞い上がり。それは赤々とした炎となって、風の勢いを呑み込んでいく。
崩れて行く。壊れていく。
張りぼてが剥がれ落ち。その先に見えるのは、古びたコンクリートの地面だ。
ざり、と地面を靴底で擦る。
炎に呑まれ崩れ落ちた形の無いはずの風が、黒焦げの人型を取って崩れ落ちた。
「ィ、タイ…アツイ。イタイヨウ」
「お前が言うな」
鼻で笑い、視線だけで周囲を見る。
俯いたたくさんの人影が、風だったナニかを取り囲んでいた。
――痛い。足が、腕が、痛い。
――苦しい。呼吸が出来ない。
――どうして、こんな事に。
――とびたくなんてない。
――止めて。嫌だ。
声なき声が反響する。
ナニかに対して、延々と呪詛を口にする。
「ナンデ。ナンデ、トバナイノ?トボウヨ。トボウ?イッショニ、トンデヨッ!」
その呪詛すら聞こえていないのか、ナニかは黒い腕をこちらに伸ばし、頻りにとぼうと繰り返す。
それに顔を顰めつつ、ポケットの中に手を入れながら、数歩ナニかに近づいた。
「嫌だよ。飛ぶ趣味なんてないし、さっさと帰りてぇ」
至極面倒くさいと、溜息を吐き。
「そんな訳だから。さようなら」
取り出した水晶玉を、ナニかとナニかを取り囲む人影に投げつけた。
――今朝のニュース見た?
――見た見た。廃ビルの屋上に複数の遺体が、ってやつでしょ。
あちこちから聞こえる話し声を、机に伏したまま聞き流す。
話題は全て同じだ。退屈な日常に突如降りかかる非日常に、皆怖がりながらも楽しんでいる。
――見つかったのって、最近行方不明になってた人達なんでしょ?風に攫われたって噂の。
――そうそう。例の追い風さんに攫われた人だってさ。だから皆飛び降りした人みたいに、ぐちゃぐちゃだったんだって。
――マジで?噂って本当だったんだ。
怖い、と言いながらも、笑い声が響く。怖がりながらも非日常に非日常を重ねる辺り、恐怖すら娯楽の一種になっているのだろう。
はぁ、と溜息を吐く。
疲れはあるが、眠気はなくなった。体を起こして、欠伸を一つ。
「おはよう。このまま起きないのかと思ってたわ」
「うっせ。昨日も遅かったから、疲れてんだよ」
前の席の彼女が、呆れたように声をかける。
それに愚痴混じりの返答をしながら、周囲を見た。
いつもと変わらない教室。変わらない光景。
噂話を楽しむクラスメイト。辺りを漂う黒い靄。
今日も世界は変わらずに澱んでいる。
「一時限目、自習になりそうよ。先生達、対応に忙しそうだったし」
「皆、帰ってきたからな。そりゃあ、そうなるだろ」
「最近多くない?」
「仕方ないさ。そんだけ人の想像力がたくましくなったって事だろ。より具体的に、刺激を求めて猟奇的に、さ」
肩を竦めて立ち上がる。
「ちょっと、どこ行くの?」
「ん。ちょっとそこまで」
彼女に手を振り教室を出た。
廊下の先に見えた、両手にプリントを抱えた少女の元へと歩み寄り、その手からプリントを奪う。
「あ。えと。その…ありがとう」
「別に。たまたま見えたからで、気にすんなよ」
頬を染める少女を横目に、教室に戻る。
やはり自習になるらしい。
「あんた。本当にそういうとこ、何とかしてよ」
「何だよ急に。変な事はしてないだろ」
「自覚を持てって言ってんのよ」
教室の入り口から呆れた目をして彼女が溜息を吐く。
自覚だの何だのと、彼女から事ある度に言われるが、詳細を説明する気は一切ないらしい。
去年とは変わった光景。
これから日常になっていくだろうこのやりとりに、愚痴りながらも口角が上がる。
「何一人で笑ってんのよ。キモ」
「ほんと、お前って失礼な奴だな」
「そう、だよ。その言い方は、よくない、と思うよ」
――最近、あの三人仲良くない?
――クリスマス、三人でデートしてたんだって。
さっきまで、面白おかしく噂話をしていたクラスメイトの視線がこちらに向き、ひそひそと笑う。
居心地悪げに縮こまる少女を、その好奇な視線からさえぎりながら、そういえば、と口を開く。
「怖い話はほどほどにしとけよ。寄って来るぞ」
ざわり、と騒々しくなる教室内を気にせず、プリントを教卓に置いて。
「よく言うだろ?話をした所に来るってさ。今も来てるかもな」
不安や恐怖が浮かんだいくつもの視線を受けながら、周りを見渡して嗤った。
20250108 『追い風』