sairo

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どこか遠くで、電話が鳴っている。
時計の針の音が、心を急き立てる。


目を開けた。
真っ暗闇の中、手を伸ばす。
何もない。一歩、足を踏み出した。
やはり何も触れはしない。手が暗闇に彷徨った。
また一歩、足を踏み出した。彷徨う手が、何かに触れた。
冷たい壁。行き止まり。ぺたぺたとあちこちに触れ、その先を探す。
触れたのは、金属の冷たく硬い何か。形を確かめるように触れて、それがドアノブだと気づく。
ドア。部屋と部屋とを繋ぐ、境界。
鍵は掛かっていない。開けてしまっても良いものか暫し悩むが、ここにいるよりはと、ドアノブをひねった。


薄暗い部屋。
テーブルと椅子が一脚。テーブルの上には置き時計が一つ。
他には何もない。

――TickーTack..

時計の音。規則正しく、時を刻む。

――Tick-Tack.Tick-Tack..

テーブルに近づいて、時計の文字盤を覗き込んだ。薄暗い室内で僅かに見えた針は、ぐるり、くるりと回転し、時間を示す役割を放棄していた。

ふと、どこかで何か聞こえた気がした。
振り返る。そこに入ってきたはずのドアは何処にも見えず、代わりに大きなホールクロックが一つ。ゆったりと振り子を揺らしていた。

――Tick-Tack..

前と後ろから、時計の音が響く。その合間に、微かに何かの音がする。
ホールクロックに近づく。
扉に手をかけ開けば、そこに振り子はなく、別の部屋へと続いているようであった。
ここよりも明るい場所。その先から聞こえる、何かの音。
音に惹かれるようにして、その中へと足を踏み入れた。


先ほどの部屋よりも明るく、広い部屋。
その壁一面に、大小様々な壁掛けの時計がかけられている。
――Tick-Tack.Tick-Tack..

それぞれ別の時刻を指し示し、時計の針は動き続ける。
その音に紛れて、別の音。
遠く、どこかで電話が鳴っている。

――,,ng,Ri..

はっきりとは聞こえない。それでも電話は鳴り続けている。
早く電話に出なくては。そんな焦燥を抱えながら、部屋をぐるりと見渡した。
壁に掛かるのは時計ばかりで、ドアは見えない。
振り返る。入ってきた入口を見た。
入ってきた時と変わらない、入口。だがよく見れば、その先は先ほどいた場所とはまた異なっているようだ。
その先から、電話の音が聞こえてくる。
迷う事なく、潜り抜けた。


それからいくつもの部屋を抜け。
電話を求めて、彷徨い続けた。

――Ring Ring..

電話は途切れる事なく鳴っている。だがいくら部屋を抜けても、あるのは時計ばかりだ。

――Tick-Tack..
――Ring Ring..

どこかで電話が鳴っている。
早く取れと言わんばかりに、時計の針が心を急かす。

そしてまた、目の前のドアを躊躇いもなく開けた。


暗闇。最初の部屋のような、何一つ見えない闇の中。

――Ring Ring..

今までよりもはっきりと、電話の音が聞こえた。
一歩、足を踏み入れる。ゆっくりと、音を頼りに進む。

――Ring Ring..

音が近い。すぐそこに電話がある。
手を伸ばす。暗闇を掻き分け、電話を探した。
触れる、つるりとした無機質な感覚。指を伝わせ、それが電話であると理解する。

――Ring Ring..

音が鳴っている。この電話だ。
ゆっくりと受話器を取って、耳に当てた。

「もしもし」

反応はない。何も聞こえない。

「もしもし」

返る声はない。だが受話器の向こうで、微かにノイズが聞こえた。
ホワイトノイズ。その向こう側で誰かの声がする。

「……て」

聞き馴染む声。その言葉を聞き取ろうと、耳を澄ませた。

「…きて。…く……て」

段々と声がクリアになる。艶やかに微笑む、ビスクドールのように美しい少女が脳裏を過ぎた。

――Tick-Tack..

時計の針が、心を急かす。

――Ding-Dong..

部屋のあちらこちらから、鐘の音が鳴り響く。


「早く起きて。ねぇ、起きて」

電話の向こうの強請る声に、意識が浮上する。





「オハヨウ。ご機嫌はいかが?」

こちらを覗き込む、美しい少女と目が合った。
背中に手を差し入れられ、体を起こす。
窓の外は暗い。細い三日月が遠く、小さく見えていた。

「また、夢を」
「えぇ。Nightmareが纏わり付いているもの」

微笑んで、少女はサイドテーブルの上のティーカップを差し出した。
カップを受け取り、口を付ける。紅茶の香りと温もりに、曖昧だった意識が覚醒した。

「ありがとう。いつも助かるよ」
「ドウイタシマシテ。My dear」

艶やかに微笑む。異国から来たという少女は、今夜もとても美しい。
そしてとても怖ろしい。

「アナタは本当に好かれやすい。嫉妬、してしまうわ」

くすくす笑い。細くしなやかな指が頬に触れた。

「さぁ、アナタを守ったワタシにご褒美をちょうだい?Give and take.そうでしょう?」
「分かってる。お好きにどうぞ」

少女の指が頬を辿り、首筋を撫でる。
血のように赤い瞳が妖しく煌めくのを見て、目を伏せた。カップをサイドテーブルに置き、少女に向けて首を晒す。

「Thank you.愛しているわ」

瞳よりも血よりも紅い唇が弧を描く。首筋に突き立てられる牙の痛みと。血を啜られる不快な感覚に耐えながら、嘘つき、と胸の内だけで呟いた。
少女は人間など愛しはしない。
食料として、或いは愛玩用として愛でているだけだ。

「アナタの血は、今宵も芳醇でとても甘い。加減を忘れてしまいそう」

歌うような少女の囁きに、目を閉じてそうであれと、密かに願う。
加減を忘れ、いっそそのまま終わらせてくれれば。そうすれば、この飼い殺しの日々から抜け出せるのに。
強く握り締めた手が、少女の手によって解かれ、繋がれる。
まだ少女の手を冷たく感じている。己の体の熱は、今夜も失われる事はないのだろう。

どうか、と言葉にならない思いを溢す。意味のない事だと理解していながらも、繰り返す。

美しく、怖ろしい少女からの解放を。
奪われてしまった安らかな眠りを、滑稽にも目の前の少女に願い続けた。



20250109 『Ring Ring...』

1/10/2025, 4:40:31 AM