sairo

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1/9/2025, 3:27:04 AM

風が吹いた。

背中を押された気がして、走り出す。
他には何も考えず。ただ前だけを見て、走る。
道行く人が、微笑ましげな顔をする。誰かの頑張れ、の声にさらに速度を上げた。
息が上がる。体が酸素を求めて、呼吸が苦しくなる。
それでも止まらない。道の終わりはまだ見えない。

走る。くらくらする頭で、それだけを考える。
目の前に現れた坂に、体が悲鳴を上げる。足が縺れ、ふらついた。
けれど風が背中を押しているから。
背後から吹き続けている風と共に、一気に坂を駆け上がる。
この坂が最後だ。その確信に、最後の力を振り絞る。
もう少し。あと少しで。
坂の終わりが見える。風がさらに強く背中を押した。
そして。

坂を登り切り。道の終わりで。
大地を強く踏んで、高く跳び上がる。
風を背に受けて。高く、遠く。


――空を、とんだ。





体に纏わり付く風に、顔を顰めて手で払う。
不快でしかないこの風は、おそらく最近噂になっている追い風だろう。
眉を寄せながら、風に背を押されるままに歩き出す。
気づけば周囲に人はなく、見慣れたはずの通学路はどこまでも続く一本道に変わってしまっている。

風に背を押され、一本道をどこまでも行く。
途中、道の端に黒の崩れかけた影がゆらゆらと揺れているのが見えた。耳障りなひび割れ声が頭に響き、不快さに益々眉が寄る。
風は変わらず背を押したまま。

「まったく。何処まで続くんだよ、これ」

舌打ちし、目の前の坂を睨み付ける。
長く急な上り坂に、苛立ちを隠しきれない。
いっそここで終わらせてしまおうか。そんな思いが過るが、それでは正しく終われないと首を振って思い直す。
風が、背を強く押す。
一つ溜息をついて、上り坂へと足を踏み出した。

坂の途中、誰かの靴が片方落ちていた。
よく見れば、それ以外にも鞄や上着などが、道のあちらこちらに散乱している。
邪魔になって置いていってしまったのか。落ちた事にすら気付けなかったのか。
深く息を吐く。立ち止まりかけた足を風が急かし、鬱々とした気持ちを抱えながら坂を上る。

そして、坂の終わり。道の終端で立ち止まる。

「ここで終わり、か」

風は背を押し続ける。
段々と強くなる風の勢いに、ポケットから取り出した水晶玉を強く地面に叩きつけた。

――ぱりん、と。

澄んだ音を立て、水晶が割れる。
粉々になった欠片が、風に舞い上がり。それは赤々とした炎となって、風の勢いを呑み込んでいく。
崩れて行く。壊れていく。
張りぼてが剥がれ落ち。その先に見えるのは、古びたコンクリートの地面だ。

ざり、と地面を靴底で擦る。
炎に呑まれ崩れ落ちた形の無いはずの風が、黒焦げの人型を取って崩れ落ちた。

「ィ、タイ…アツイ。イタイヨウ」
「お前が言うな」

鼻で笑い、視線だけで周囲を見る。
俯いたたくさんの人影が、風だったナニかを取り囲んでいた。

――痛い。足が、腕が、痛い。
――苦しい。呼吸が出来ない。
――どうして、こんな事に。
――とびたくなんてない。
――止めて。嫌だ。

声なき声が反響する。
ナニかに対して、延々と呪詛を口にする。


「ナンデ。ナンデ、トバナイノ?トボウヨ。トボウ?イッショニ、トンデヨッ!」

その呪詛すら聞こえていないのか、ナニかは黒い腕をこちらに伸ばし、頻りにとぼうと繰り返す。
それに顔を顰めつつ、ポケットの中に手を入れながら、数歩ナニかに近づいた。

「嫌だよ。飛ぶ趣味なんてないし、さっさと帰りてぇ」

至極面倒くさいと、溜息を吐き。

「そんな訳だから。さようなら」

取り出した水晶玉を、ナニかとナニかを取り囲む人影に投げつけた。





――今朝のニュース見た?
――見た見た。廃ビルの屋上に複数の遺体が、ってやつでしょ。

あちこちから聞こえる話し声を、机に伏したまま聞き流す。
話題は全て同じだ。退屈な日常に突如降りかかる非日常に、皆怖がりながらも楽しんでいる。

――見つかったのって、最近行方不明になってた人達なんでしょ?風に攫われたって噂の。
――そうそう。例の追い風さんに攫われた人だってさ。だから皆飛び降りした人みたいに、ぐちゃぐちゃだったんだって。
――マジで?噂って本当だったんだ。

怖い、と言いながらも、笑い声が響く。怖がりながらも非日常に非日常を重ねる辺り、恐怖すら娯楽の一種になっているのだろう。
はぁ、と溜息を吐く。
疲れはあるが、眠気はなくなった。体を起こして、欠伸を一つ。

「おはよう。このまま起きないのかと思ってたわ」
「うっせ。昨日も遅かったから、疲れてんだよ」

前の席の彼女が、呆れたように声をかける。
それに愚痴混じりの返答をしながら、周囲を見た。

いつもと変わらない教室。変わらない光景。
噂話を楽しむクラスメイト。辺りを漂う黒い靄。
今日も世界は変わらずに澱んでいる。

「一時限目、自習になりそうよ。先生達、対応に忙しそうだったし」
「皆、帰ってきたからな。そりゃあ、そうなるだろ」
「最近多くない?」
「仕方ないさ。そんだけ人の想像力がたくましくなったって事だろ。より具体的に、刺激を求めて猟奇的に、さ」

肩を竦めて立ち上がる。

「ちょっと、どこ行くの?」
「ん。ちょっとそこまで」

彼女に手を振り教室を出た。
廊下の先に見えた、両手にプリントを抱えた少女の元へと歩み寄り、その手からプリントを奪う。

「あ。えと。その…ありがとう」
「別に。たまたま見えたからで、気にすんなよ」

頬を染める少女を横目に、教室に戻る。
やはり自習になるらしい。

「あんた。本当にそういうとこ、何とかしてよ」
「何だよ急に。変な事はしてないだろ」
「自覚を持てって言ってんのよ」

教室の入り口から呆れた目をして彼女が溜息を吐く。
自覚だの何だのと、彼女から事ある度に言われるが、詳細を説明する気は一切ないらしい。

去年とは変わった光景。
これから日常になっていくだろうこのやりとりに、愚痴りながらも口角が上がる。

「何一人で笑ってんのよ。キモ」
「ほんと、お前って失礼な奴だな」
「そう、だよ。その言い方は、よくない、と思うよ」

――最近、あの三人仲良くない?
――クリスマス、三人でデートしてたんだって。

さっきまで、面白おかしく噂話をしていたクラスメイトの視線がこちらに向き、ひそひそと笑う。
居心地悪げに縮こまる少女を、その好奇な視線からさえぎりながら、そういえば、と口を開く。

「怖い話はほどほどにしとけよ。寄って来るぞ」

ざわり、と騒々しくなる教室内を気にせず、プリントを教卓に置いて。

「よく言うだろ?話をした所に来るってさ。今も来てるかもな」

不安や恐怖が浮かんだいくつもの視線を受けながら、周りを見渡して嗤った。



20250108 『追い風』

1/7/2025, 11:47:08 PM

影で、あの子が酷い言葉を言われた。
あの子が密かに思いを寄せていた、同級生に。
ぎり、と奥歯を噛みしめた。皮膚が破れ血が滲んで、その不快さにさらに表情が険しくなる。

――表情の変わらない。人形のような女。

同級生は何も知らない。あの子がどんな思いでいるのかを。
表情をなくしてしまうほどの出来事があった事など、同級生達は知る由はないのだ。
分かっている。分かっていると己に言い聞かせる。
息を吸い、吐く。何度も繰り返す。
周囲に渦を巻き始めた風が誰かを傷つける前に、心を静める。

「大丈夫。私は、大丈夫だから」

優しい子は、そう言って己の背を撫でる。きっと泣きたいだろうに、泣く事も忘れてしまった子が、只々哀しい。

「そんな事言わないでよ。全然大丈夫なんじゃないんだから」
「大丈夫だよ。本当にもう気にしていないから」

そこまで言われてしまえば、それ以上は何も言えなくなってしまう。少しばかり恨めしげに優しい子を睨めば、背を撫でていた手が頭を撫で始めた。

「ありがとう。一人でないから、頑張れるんだよ」

――一緒にいて。一人にしないで。

幼い頃の子が望んだ、たった一つの望み。
それ以外は望まない。今も同級生に対して何かを望む事はない。
いっそ望んでくれたのなら、己のこのどろり、と濁る胸の内もいくらか晴れる事だろうに。
ふっ、と短く息を吐く。頭を撫でる子の手を取り、両手で包み込みながら目を合わせた。

「今日はこれからお家に帰って、お外には出ないでいてくれる」
「また、あっちに出かけるの?」
「うん。このままだと抑えきれないから」

僅かに瞳を揺らす子に笑いかけ、そのまま手を引いて家路を急ぐ。
離れたくないと、いつもよりも強く繋がれる手に、ごめんね、と囁いた。





はぁ、と深く息を吐いた。
空を見上げれば、大分明るくなっている。あの子は一人で眠れているだろうか。
首を緩く振り、辺りを見た。
何もない。文字通り、木の一本から草一つも、何もかも泣くなってしまっている。

「こりゃあ、また。随分と派手に暴れたもんだな」

ばさり、と翼をはためかせ、男が呆れたように笑った。
引き攣った笑みを一瞥して、仕方がない、と言い訳をする。

「だってあいつ、あの子の事人形みたいだっていったんだもん」
「その度に戻って暴れんなよ。禁域を作り過ぎだ」
「現世で暴れてもいいなら、そうする」
「止めてやれ。今だって開けた穴から、漏れ出してんだろうが」

だって、だって、と言い訳を重ね。その度に反論が返ってきて、次第に何も言えなくなる。
横目で見える、何もない空間にいくつも空いたひび割れから、目を逸らすように空を見上げた。

「もう帰る。あの子が待っているから」
「さっさと帰んな。んで、もうこっちにくんな」

追い払うように手を振られ、ふん、と鼻を鳴らして空を舞う。
まだ荒れる風を掻き分けて、あの子の待つ家まで只管に急いだ。





「昨日の夜、家から南の地区で激しい暴風と雷雨があったんだって」

眉を寄せて何かを言いたげな子を、笑顔で誤魔化す。誤魔化されてはくれていないのだろうが、小さな溜息の後に何かを言われる事はなかった。


「あ。あいつだ」

校門前。どこか草臥れた顔をして歩く同級生が視界に入り、僅かに眉を寄せる。立ち止まりかけた子の手を引き、その横を追い抜いた。
それでも気にしてしまう、優しい子を先に教室へ行かせ、同級生に振り返る。

「おはよう。昨日は大変だったみたいだね」

冷めた声音に、何故か傷ついた表情をされる。
慰めの言葉でもほしいのか。自分は簡単に誰かを傷つけているというのに。
込み上げる激情を、手を握り締める事で耐え。同級生を見据えて、でも、と言葉を続けた。

「よかったね。家族は無事だったんでしょ。あの子の時は、あの子以外は駄目だったのに、運が良かったね」

言いたい事だけを言って、くるりを踵を返し教室へ向かう。
背後で同級生が何かを言っているが、既に興味はなかった。
急がなくては。教室で一人でいるあの子が、寂しがってしまう。
もしかしたら、先ほどの同級生のような酷い事を言う誰かが現れるかもしれない。
それを思うと、自然と足は速くなる。昇降口を抜けて、教室までを駆け抜けた。

「おまたせ」
「廊下は走っては駄目だよ。危ないから」
「ごめんね」

叱られて謝罪の言葉を口にしつつ、席に着く。

「彼と、何話してたの?」

小さな声に、視線を向ける。揺れる瞳の奥に不安が見えて、安心させるように笑いかけた。

「昨日は大変だったねって」
「それだけ?」

それだけ、と笑う。
言いたい事は山ほどあるが、昨日の雨風で気持ちは大分収まった。望まれていない事に、手を出しはしない。

「あっちでは禁域をまた一つ作っちゃったけど、こっちの影響は抑えていたから大丈夫だよ。これでも成長しているからね」
「成長しているっていうなら、まず暴れないようにしないと」
「これでもたくさん我慢しているんだって」

我慢して、鎮められるものは鎮めて。抑えきれなくなれば、その前に現世から離れる。
それだけで現世への影響は殆どなくなる。
今回のは偶々だ。暴れる尾が偶然空間を引き裂いて、それが偶然同級生の住む場所に繋がっただけ。

「こんな事、もうしちゃ駄目だからね」
「分かってるよ。大丈夫」
「誰も私みたいにはなってほしくないもの」

本当に優しい子だ。そして誰よりも強い子だ。
傷つけるだけの風と雨に全てを奪われ。その風雨を憎むのではなく、共にいて欲しいと望む、何処までも優しい可愛い子。
望まれたその時に、妖として目覚めたばかりのこの身はまだ、内で荒れ狂う風を制御しきれない。
その度に怖ろしい記憶を思い起こさせているというのに。最初の望みは、ずっと変わらない。

「私にはあなたがいるから、大丈夫なの。だからずっと一緒にいてね」
「いいよ。応えてあげる。一緒にいようね」

差し出された小指に、小指を絡める。
指切りげんまん、と可愛い子が歌うのに合わせて手を揺らす。
段々と賑やかになる教室。先ほどの同級生も来たようだ。
また一日が始まる。どんなに風が強くとも、雷雨が来ようとも、それは変わらない。

僅かに綻ぶ愛しい子の表情に、思わず吹き抜けた風が窓を叩く。
驚き目を見張る子に叱られる前に、誤魔化すように笑った。



20250107 『君と一緒に』

1/7/2025, 4:15:58 AM

早朝。赤から青へと変わる空の下、腕を伸ばして伸びをする。
とても静かだ。普段は日が昇る前より鳴く鳥達の声すら、今は聞こえない。
きん、と冷えた空気を吸い込む。年末年始の宴に浮かされていた意識がようやく醒めて、はぁ、と気怠い思いと共に吐き出した。

とてもいい日だ。それこそ何かを始めるには最高の。
一歩、足を踏み出した。さくり、と足下の霜柱が、軽い音を立てる。
一歩、二歩。そして三歩。
さく、さく、さくり。
音と感覚を楽しみ、当てもなく歩く。己以外の存在がなくなったかのような錯覚に、けれども恐怖はない。
今なら何処へでも行ける。制限などなく、好きな所へと。
足取りは軽い。心の冷静な部分が、そろそろ戻らなくてはと忠告しているが、聞こえないふりをした。
どうやら、冷めたと思っていた熱は、まだ醒めていないようだ。



――きぃん、と。
不意に、何かが聞こえた気がした。
金属を擦り合わせたような、酷く不快な音。遠く微かであった音は次第に大きくなり、眉を潜める。
辺りを見渡せど、何も見えず。音だけが、取り囲むように四方で鳴り続けている。

――きぃ、きぃ。ぎ。ぎぃ、ぎぃん。

思わず耳を塞ぐ。けれど意味はない。
鼓膜に張り付いた音が、耳を塞いだ事で反響し、直接脳を揺さぶっていく。

――ぎぃん。ぐゎん、ぐわん。うわん。

最早立っている事も出来ず膝をつく。それでも止まない音が体の中で反響し、増幅する。
内から外へと出るために。邪魔なものをすべて、こわして。


「なぁにやってんだ。クソ餓鬼」

低く呆れを含んだ声音。
反響する音の中でも、はっきりと聞こえた、男の声。
耳を塞いでいた手を剥がされる。音が外へと飛び出て、うわん、と遠くで鳴り響く。

「こそこそ勝手に抜け出して、番犬にちょっかいかけて。ほんと何してんだ、おめぇ」
「ばん、けん?」

くらくら歪む視界の中、確かに男の他に誰かがいた。
木の枝に腰掛け、こちらを見ている。口を開けば、うわん、と声が響く。
番犬だ。ではこの先は禁域か。

「甘酒くせぇな。まさか甘酒で酔っ払ってんのか」

嘘だろ、と言いたげに男が眉を寄せる。
酔ってはない。広間で死屍累々に転がっていたモノのように、昼夜飲めや歌えやの大騒ぎをしていたわけではない。
だが立ち上がりかけてふらつき、男に抱えられているこの状況では説得力がない事くらいは知っている。

「甘酒で酔う奴なんざ、初めてみたな。まあなんだ。来年からは、茶でも飲んでろ」
「酔ってない」
「酔ってる奴は、だいたいそう言うんだよ」

憐みの籠もった男の言葉に、拗ねて思わず反論する。
やはり信じてはもらえないのは分かっていたが、男に諭されるのは釈然としない。つい数刻前まで、広間の中心で赤い顔をして酔って寝ていたのは男の方である。

「酔っ払いがいっちょ前に説教すんな」
「俺ぁ、分かって飲んでんだからいいんだよ。正体なくして、ふらふらするような餓鬼と一緒にすんな」
「だから酔ってない」
「へいへい。甘酒で酔ったなんて、認めたくねぇもんな」

片手だけで抱き上げられる。そのまま歩き出し、その振動に慌てて男の首にしがみついた。
にやにやと、嫌な笑みを浮かべる男から視線を逸らす。遠くなる禁域と番犬を見つめながら、何で、と声なく呟いた。

禁域。立ち入りを禁ずる場所。
理由は様々だ。
喧嘩で大穴が空いたとか、燃えて何もなくなったとか。
ここは何故、禁域になったのだろうか。

「寝てろ。酔った頭で考える事なんざ、大概はくだらねぇ」

呆れた声に窘められる。
男に指摘されるのは癪でしかないが、確かにそうだと目を閉じた。

「正月も終わったんだ。しゃんとしろ。飛び方も知らねぇ餓鬼が、地を歩けるようになった位で浮かれるな」
「少しくらい、いいじゃん」
「阿呆が。飛べん奴の負け惜しみだな」

はぁ、と溜息を吐かれる。
それに何かを言い返そうとして、けれどそれより早く一陣の風が吹いた。
風が髪や頬を撫でていく。冷えた風と日の暖かさを感じ、目を開けた。
視界に広がるのは、青の空。雲一つない、果てしなく続くその青に、気づけば手を伸ばしていた。

「早く飛び方を覚えろ。いつまでも迎えに来てもらえると思うなよ」

男の言葉に何も返さず、ただ空を見る。。
太陽が今は、あんなにも高い。あそこまで高く飛べたのならば、とても気持ちがいいのだろう。
風が心地良い。澄んだ匂いを目一杯に吸い込んだ。

今日は本当にいい日だ。

「っ、おい。何やって」

空を見上げる。男の肩を押しやって、身を乗り出した。
背の翼を意識する。
一度、二度。そして三度。
翼を羽ばたかせ、さらに身を乗り出して。

――空を、飛ぶ。

体が浮き上がる。それに気を良くして、さらに翼を大きく羽ばたかせる。
だがそれも一瞬。
飛べたと思っていた体は、地に引かれて落ちていく。

「酔っ払いが、いい加減にしろ!そんなんで飛べるか、ド阿呆」

そのまま真っ逆さまに落ちていく体を、男が足首を掴む事で引き止める。
ぶらり、と体が揺れる。逆さまになった景色が、気持ち悪い。

「吐きそう」
「我慢しろ。直ぐに屋敷につく」

僅かに男の飛ぶ速度が速くなる。逆さになった屋敷が見えて、安堵からかさらに頭痛がし始めた。

「気持ち悪い。頭痛い。吐く」
「ったく。仕方ねぇな」

足首を掴んでいた男の手が持ち上がり、逆さまから横抱きへと運ばれ方が変わる。それだけで幾分か頭痛は和らぐものの、気持ち悪さは変わらない。
目を閉じて、意識を落とす。

「お、おちたか。酒に酔うわ、歩くわ、飛べずに落ちるわで新年早々騒がしいもんだ。ま、元気があるのはいい事か」

男の声を遠くに聞きながら、微睡みの中で冬の晴天を飛ぶ夢を見る。

あぁ、本当に。
今日は何て最高の晴れの日なのだろう。



20250106 『冬晴れ』

1/5/2025, 9:58:29 PM

猫は迷っていた。
道に、ではない。猫は好きな時に、好きな場所へ行くのモノであるから、道に迷う事はない。

「右か、左か。何故両方という選択肢はないんだ」
「そりゃあ、どっちもあげたら、飼い主の二人に怒られるから。俺が」

右手にまたたびの原木を、左手に鰹節の袋を持った男が、困ったように眉を下げる。猫の背後、少し離れた場所でこちらを見守る二人の人影に、視線だけで助けを求めた。

「悩ましいな。どちらも猫の好みだ。さては、猫に対する嫌がらせか?」
「そんなわけないだろう。早く決めてくれ。可愛い甥っ子達のための海の幸が腐ってしまう」

そうは言われても、決められないものは決められない。
即決したいのならば、両方の選択肢を新たに作るべきだと、猫は恨めしげに男を見上げた。

「ああ、もういい。こうしよう」

嘆息して男は立ち上がり、猫の横を通り過ぎて背後で見守る人影の方へと歩み寄る。二人にそれぞれ原木と袋を手渡すと、晴れ晴れした表情でそれじゃ、と猫に手を振る。白銀の毛を持つ狼へと姿を変えると、山の向こうへ一陣の風と共に駆け抜けていった。

「押しつけていったな」
「急いでいたみたいだしね」

男にそれぞれ押しつけられたものを見て、二人は顔を見合わせ苦笑する。
急いでいた男を引き止め、ものを強請ったのは猫の方である。新年だからな、と文句も言わず、尚且つこちらの意図を汲んで一つを選択してもらおうとしていたのはありがたい事だ。結局決められぬ猫のために、こうして両方を二人に手渡したのも、急いでいた事もあろうが男の優しさ故だろう。

「悪い事してしまったね。今度何かお礼をしなくては」
「そうだな。まったく俺らの猫は我が儘が過ぎる、なっ」

手にしたもの目がけ、飛びかかる猫をいなしながら、二人はこれからの話を続ける。
ちりん、ちりん、と猫が飛ぶ度に首輪に付けられた真鍮の鈴が澄んだ音色を響かせた。

「銅藍《どうらん》!瑪瑙《めのう》!猫にいじわるをするのは良くない事だぞ」
「なら、どっちかに決めろ。両方はなしだからな」
「何故だ。両方の選択肢があってもいいだろうに!」
「ごめんね。でも一つだよ」

猫の尾が、したん、と苛立たしげに地面を打つ。それでも二人の意思が変わらない事を知ると、低く唸る声を上げ体制を低くした。

「ようやく決めたか」

猫の目が一つの目的を捉え、瞳孔が広がる。
風のように素早く、一人の手から獲物であるまたたびの原木を取り地に降り立つ。原木に体を擦り付け、時折加えて振り回しては喉を鳴らして十分に堪能した。

「良かったね。日向《ひなた》」
「あぁ。猫は今、とても幸せだ。明日の楽しみもあるしな」
「安い幸せだな」

猫の満足そうな声に苦笑を漏らせば、何を言っているんだ、と呆れた声が返る。
体を起こし、ゆらり、と尾を揺らして座ると、猫は二人を真っ直ぐに見上げた。

「幸せが安いはずがないだろう。たくさんの奇跡の上に成り立つものだぞ」
「奇跡?」

猫の言葉の意味を図りかねて、一人が首を傾げる。そうだ、と大きく猫は頷いて、抱き上げろと言わんばかりに足下に擦り寄った。

「まず出会いというのが奇跡だ。ほんの少しずれるだけで、会う事は叶わなくなる。猫が銅藍と瑪瑙に会えた事が最初の奇跡だ」

抱き上げられ、喉を擽られ、猫は満足そうに目を細め喉を鳴らす。
確かに、と猫の言葉に頷く二人を見て、だろう、と満足げに頷いた。

「出会ったとしても、そのまま別れず共にいられる事もまた奇跡だ。猫は自由な生き物であるから、相手を考える事は苦手だ。それでも二人は側にいて、離れた時も猫を探してくれた。凄い奇跡だろう」

くふくふ笑う猫に、そうか、と一人は首を傾げ、そうかもね、ともう一人は笑う。
永く独りであった猫にとって、誰かといられる事は何よりも奇跡なのだろう。

「好きな二人に囲まれる幸せに、さらに今日は奇跡が起きた。猫の好きなものを持った奴と出会い、猫の好きなものをくれた。偶然という名の奇跡が重なって、幸せになったんだ。これが安い訳があるものか」

奇跡が重なる。
誇らしげに胸を張る猫をそれぞれ撫でながら、二人は猫の言う奇跡を想う。

死にたくない。その想いだけで妖に成った二人が出会った猫。オヤとして妖の在り方を教え、世界を知った。
独り立ちだと離れてしまった事もあったが再び出会い、違う形でこうして今も共に在る。
奇跡が重なっている。一つが崩れてしまえば、それに続くものは跡形もなくなくなってしまっていたことだろう。

「そうだね。奇跡だ。重なって、こうしてここに在る」
「安くはないわな。価値なんざ、決められねぇ」
「そうだろう。幸せなんだからな」

もっと撫でろと言わんばかりに手に頭を押し当て、猫は告げる。
ちりん、と鈴を鳴らし、穏やかな声音で二人の名を呼んだ。

「世界は残酷だ。不平等だ。何かを失ったたくさんの誰かがいて、その上に何かを得る事が出来た誰かがいる。そんな底意地が悪いのが世界というモノだ。だからな、奇跡や幸せを当たり前だと思ってはいけないぞ。落っことしてしまったら、どんなに戻そうと手を尽くした所で、元の形には戻らないのだからな」

目を閉じて、猫は最後に一言、寝る、とだけ告げて、それきり沈黙する。
寝入った猫の頭を一度撫で、二人は互いに頷き合い、静かに歩き出した。

遠く微かに、幼子達の笑い歌う声が聞こえた。
楽しそうに、幸せそうに。

今日が何処までも続いていくのだと信じて疑わない、無垢な声が響いていた。



20250105 『幸せとは』

1/5/2025, 6:28:50 AM

まだ暗い空の先を、睨むようにして見上げていた。

「日の出はまだだ。そのような顔をするものじゃない」
「そんな顔って、どんな顔よ」

隣から聞こえる声に、憎まれ口を返す。
姿は見えない。もう見えなくなってしまった。

「いつにも増して機嫌が悪いな。何かあったか?」
「別に。ただ来年の事を思うと、ちょっと落ち着かないだけ」
「そうか。十八になるのか。もう巣立ちの時期なのだな」

感慨深げな声に、手を強く握り締める。
その声音は酷く穏やかで、別れを惜しむ感情は一切含まれていない。
私だけだ。別れを怖れ、泣いて縋ってしまいたいのは。


小さい頃から見えていた、人ではないモノ達が見えなくなり、声が聞こえなくなってきたのはいつからだろう。
最初は、祖母の家の奥座敷にいた少女だったように思う。
最初の友達。皆には見えないモノを見る、変わった子として周りから爪弾きにされていた私に優しくしてくれた、可愛い女の子。おはじきやかるたなど、昔の遊びをたくさん教えてくれた、優しい子。
彼女に手を引かれ、家の中や周囲の皆に紹介してもらったからこそ、一人の寂しさに耐える事が出来た。
それなのに、数年前から彼女の姿が見えなくなった。戸惑い泣く私に、仕方がない事だと宥めてくれた優しい声すら、今はもう思い出す事が出来ない。
彼女が消え、家の中にいた皆が次々に消えて、声を残して他のモノは見えなくなった。
きっと今年が最後だ。

「ね。あの子はまだ奥座敷にいてくれているの?」
「ああ。彼女はいつもお前の帰りを待ち、見守っているよ」
「いつもありがとうって、伝えてくれる?」
「それは直接伝えるといい。屋敷では常にお前の側にいるのだから」

声は優しく、それでいて何よりも残酷な事を言う。
姿が見えず、声も聞こえないのに、どこに向かって言えというのか。
鼻の奥がツンとする。気を抜けば直ぐにでも泣いてしまいそうだ。

「なんでそう、酷い事が言えるかな」
「酷い、か。そういうつもりではないのだが」
「そうね。これっぽっちも考えた事はないよね」
「やはり機嫌が悪いな。俺といるのは苦痛か?」

声はまた、酷い事を簡単に言葉にする。
耐えきれなくなり、膝を抱えて俯いた。

「少し、疲れた。日の出が近くなったら起こして」

声が何かを言うよりも早く、適当に言い訳をして目を閉じる。泣くなと自分自身に言い聞かせ、声が漏れないように唇を噛んだ。
声はすべて分かっているのかもしれない。泣くのを我慢している事も、別れを怖がっている事も。
これはただの強がりだ。私の精一杯の見栄だ。
それでも良い。
最後に残った声の主である彼には、弱い所は見せずにさよならを言いたかった。



ふと、呼ばれた気がして顔を上げる。
暗い空の向こう。一筋の白を認めて目を細めた。
日の出だ。新しい一年が始まったのだ。

「きれい」
「毎年見ているだろうに」

隣から呆れた声がして、ほっとする。
まだ聞こえている。彼が隣にいる事を感じられる。
こうして最後に一緒に彼と一緒にいられる事が、泣きたいくらいに幸せだった。

「今年で、きっと最後だ」
「すでに決めているのか?」
「まだ。進学も就職も、何にも決めてない。でも働く事になるだろうね。おばあちゃんはもういないから」

祖母は去年の秋に亡くなった。眠るように、穏やかに逝ってしまった。
両親から愛されなかった私を、唯一愛してくれた祖母。子供の私を守ってくれる大人は、もういないのだ。

「ごめんね。おばあちゃんが残してくれた家、きっとお母さん達に取られちゃう。私じゃ、守れないから」

祖母の遺志だとしても。
子供の私の言葉を、大人達は聞いてくれない。適当に宥めすかされ、言い聞かせられて大人の都合のいいように事を進めていくのだろう。

「気にするな。仕方のない事だ」

仕方がない。軋む心に手を当てた。
彼が冷たいのか、そう思えない私がおかしいのか。
白む空を見つめ、その先の昇る日を睨んだ。
朝が来る。泣いて嫌だと叫んだ所で、時は止まらない。
あぁ、嫌だ、と手を握りしめた。
好きなものを守れない私も。さよならに怯える私も。彼を酷いと思ってしまう私も。
弱い私が、私は大嫌いだ。

「夜が明けるな。そろそろ戻るとしようか」
「そうだね」

頷くも、視線は朝日に向けたまま。
丸く、欠けた所のない太陽に嫉妬した。
いいなぁ、と小さく溢し。嫌いな私と比較して、笑った。

大嫌いな私なんて、このまま消えてしまえばいいのに。
声を出さずに呟いた。



ぱちんっ。と。
何かの割れる音がした。代わりに周りの音が消えた。

「え?」

振り返る。そこにいた皆の姿を認めて、声が漏れた。
赤い振り袖をきたあの子。家を軋ませて笑っていた小さい子達。
近くの淵に引きこもってばかりだったはずの青年。踊るのが好きな猫や狸達。
そして、彼。
皆がいた。一人ぼっちの私を支えてくれた、優しい彼らがそこにいた。
焦ったように、困惑し必死で誰かを探している。声は聞こえないけれど、皆誰かの名前を呼んでいる。

「どうしたの?」

声をかけても、誰も私に気づかない。
そこでようやく理解した。

私は、いなくなってしまったのだ。

口元が無意識に緩む。くすくす、と声が漏れてしまう。
彼らが私を探してくれている。それが何より嬉しかった。
彼の側に寄る。久しぶりに見る事の出来た彼の姿に、初めて見る焦りを含んだその表情に、益々彼を好きになる。
大好き、と小さく呟いて、彼に手を伸ばす。
彼に触れる事なくすり抜けた手を、少しだけ残念に思いながら。手を引いて、数歩下がる。
彼を見て、皆の事を見て。

「ありがとう。さようなら」

笑う。皆が好きだと言ってくれた、とびきりの笑顔を浮かべた。
くるりと彼らに背を向けて、歩き出す。
これからどうすればいいのかは、何一つ分からない。けれど何とかなるだろう。
不思議と怖くはなかった。大丈夫、と弾む声音で囁いて、飛び跳ねるように道を行く。
何だか楽しくて仕方がない。

「こ、のっ!大丈夫なわけがあるか!」

ぐい、と腕を引かれた。バランスを崩して背後に倒れ込む体を、大きな影が包み込む。

「お前、日の出に何を望んだ!何を望めばこうなるんだ!馬鹿なのか?いや、馬鹿だからこうも気楽なのだろうが。あぁ、まったく!」
「え?えと、あれ?」

背後から降り注ぐ声に、訳も分からず目を瞬く。

「さっさと何を望んだのか説明しろ、この阿呆。呆けている暇があるなら、この消えかけている状況を何とかする努力をしろ。本当にお前は、昔から突拍子もない事ばかりするのだから」
「いや、そんな変な事ばかりしてないし。というか、何が起こっているのか私にも分からないし」
「おい、黙ってないで何とか言ったらどうだ。いつまで黙りを続けているつもりだ」

おや、と首を傾げる。
ねぇ、と体を抱き留めている彼の腕を叩き声をかけるが、反応はない。
伝わらない事にどうしようかと悩んでいれば、小さな手が腕に触れた。
はっとして視線を向ける。柔らかな、それでいてどこか哀しげな笑みを浮かべた赤い振り袖の少女が、腕から手首へと手を這わせ、そのまま強く手を繋いだ。確かめるように、離れないように繋がれた手に、思わずごめん、の言葉が零れる。

「声。聞こえていないのかも。さっきより姿も薄くなっている。わたしたちが分からないのかもしれない」
「そう、だな。先に隠してしまった方が良いか。また消えられてしまったら、探す事も叶わんからな」
「お屋敷は、こちらで隠しておくから。それじゃあ、彼方で」
「あぁ。後でな」

するり、と手が離れ、少女は背を向け去って行く。
名残惜しげに手が彼女を追うが、きゅっと強くなった彼の腕に、身じろぎして彼を見た。
目線は合っているはずなのに、視線が合わない。彼の目の中に私の姿が見えない。

「世話の焼ける子だ。精々、軽率に俺らに望む事の愚かさを、彼方で悔いる事だな」

呆れを乗せた声音で呟く彼の周りを、風が舞う。
ざわり、ざわ、と渦を巻いて、周りの景色を歪めていく。
怖くて彼にしがみつけば、小さく笑う気配がした。

「お前のほとんどが消えた原因の説明を聞いた後は、説教だな。言いたい事がある奴らで、順にしてやろう。足のしびれで立てなくなるだろうが、自業自得というやつだな」

久々に見る、彼の怒りの込められた凶悪な笑み。
最後に見たのは、夜の冒険に憧れて一人家を抜け出した時だったか。
あの時は泣いた。涙が涸れるくらい泣いて、謝って。一日二日で終わらない説教に、もうしませんと固く誓う程の恐怖は、決して忘れる事は出来ない。
ひぃ、と声が漏れる。逃げようと暴れる私に気づいて、彼の笑みがさらに深く、怖ろしくなっていく。

「今までは泣くお前が不憫になって、手心を加えてやっていたが、今回ばかりはそうもいかない。俺を含めた皆の説教が終わるまで何日かかるか分からんが、まあ気にするな。彼方は時の流れなど、あってないようなものだからな。存分に泣いて、叱られろ」

もうすでに涙目である。
彼の笑顔をこれ以上見ているのが怖くて、必死で顔を背け、目を瞑る。

「本当に、何を望めばこうなるんだか。これだけ狭間に近づいても、お前の姿がほとんど見えないとは。烏の気まぐれにも困ったものだ」
「からす?」
「まだいるな。折角だ。元に戻してくれと、望んでみたらどうだ?」

促されて目を開け、太陽を見る。
大分高く昇った太陽は、歪む周囲の景色に逆らって変わらずまん丸で綺麗だ。
かぁ、と鳴く声。僅かに残っていた木の一番高い枝に、一羽の烏が留まっていた。
こちらを見下ろしかぁ、と鳴き。金色の翼を広げて飛び上がる。

――嫌いなあなたはいなくなった。好きなあなたは好きなように生きればいい。

優しい声音でそれだけを告げ、太陽を目指し飛んでいく。

「嫌い?好き?一体何の事だ」

困惑する彼の声を聞きながら、歪んで消えていく太陽と烏をただ見つめていた。



20250104 『日の出』

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