早朝。赤から青へと変わる空の下、腕を伸ばして伸びをする。
とても静かだ。普段は日が昇る前より鳴く鳥達の声すら、今は聞こえない。
きん、と冷えた空気を吸い込む。年末年始の宴に浮かされていた意識がようやく醒めて、はぁ、と気怠い思いと共に吐き出した。
とてもいい日だ。それこそ何かを始めるには最高の。
一歩、足を踏み出した。さくり、と足下の霜柱が、軽い音を立てる。
一歩、二歩。そして三歩。
さく、さく、さくり。
音と感覚を楽しみ、当てもなく歩く。己以外の存在がなくなったかのような錯覚に、けれども恐怖はない。
今なら何処へでも行ける。制限などなく、好きな所へと。
足取りは軽い。心の冷静な部分が、そろそろ戻らなくてはと忠告しているが、聞こえないふりをした。
どうやら、冷めたと思っていた熱は、まだ醒めていないようだ。
――きぃん、と。
不意に、何かが聞こえた気がした。
金属を擦り合わせたような、酷く不快な音。遠く微かであった音は次第に大きくなり、眉を潜める。
辺りを見渡せど、何も見えず。音だけが、取り囲むように四方で鳴り続けている。
――きぃ、きぃ。ぎ。ぎぃ、ぎぃん。
思わず耳を塞ぐ。けれど意味はない。
鼓膜に張り付いた音が、耳を塞いだ事で反響し、直接脳を揺さぶっていく。
――ぎぃん。ぐゎん、ぐわん。うわん。
最早立っている事も出来ず膝をつく。それでも止まない音が体の中で反響し、増幅する。
内から外へと出るために。邪魔なものをすべて、こわして。
「なぁにやってんだ。クソ餓鬼」
低く呆れを含んだ声音。
反響する音の中でも、はっきりと聞こえた、男の声。
耳を塞いでいた手を剥がされる。音が外へと飛び出て、うわん、と遠くで鳴り響く。
「こそこそ勝手に抜け出して、番犬にちょっかいかけて。ほんと何してんだ、おめぇ」
「ばん、けん?」
くらくら歪む視界の中、確かに男の他に誰かがいた。
木の枝に腰掛け、こちらを見ている。口を開けば、うわん、と声が響く。
番犬だ。ではこの先は禁域か。
「甘酒くせぇな。まさか甘酒で酔っ払ってんのか」
嘘だろ、と言いたげに男が眉を寄せる。
酔ってはない。広間で死屍累々に転がっていたモノのように、昼夜飲めや歌えやの大騒ぎをしていたわけではない。
だが立ち上がりかけてふらつき、男に抱えられているこの状況では説得力がない事くらいは知っている。
「甘酒で酔う奴なんざ、初めてみたな。まあなんだ。来年からは、茶でも飲んでろ」
「酔ってない」
「酔ってる奴は、だいたいそう言うんだよ」
憐みの籠もった男の言葉に、拗ねて思わず反論する。
やはり信じてはもらえないのは分かっていたが、男に諭されるのは釈然としない。つい数刻前まで、広間の中心で赤い顔をして酔って寝ていたのは男の方である。
「酔っ払いがいっちょ前に説教すんな」
「俺ぁ、分かって飲んでんだからいいんだよ。正体なくして、ふらふらするような餓鬼と一緒にすんな」
「だから酔ってない」
「へいへい。甘酒で酔ったなんて、認めたくねぇもんな」
片手だけで抱き上げられる。そのまま歩き出し、その振動に慌てて男の首にしがみついた。
にやにやと、嫌な笑みを浮かべる男から視線を逸らす。遠くなる禁域と番犬を見つめながら、何で、と声なく呟いた。
禁域。立ち入りを禁ずる場所。
理由は様々だ。
喧嘩で大穴が空いたとか、燃えて何もなくなったとか。
ここは何故、禁域になったのだろうか。
「寝てろ。酔った頭で考える事なんざ、大概はくだらねぇ」
呆れた声に窘められる。
男に指摘されるのは癪でしかないが、確かにそうだと目を閉じた。
「正月も終わったんだ。しゃんとしろ。飛び方も知らねぇ餓鬼が、地を歩けるようになった位で浮かれるな」
「少しくらい、いいじゃん」
「阿呆が。飛べん奴の負け惜しみだな」
はぁ、と溜息を吐かれる。
それに何かを言い返そうとして、けれどそれより早く一陣の風が吹いた。
風が髪や頬を撫でていく。冷えた風と日の暖かさを感じ、目を開けた。
視界に広がるのは、青の空。雲一つない、果てしなく続くその青に、気づけば手を伸ばしていた。
「早く飛び方を覚えろ。いつまでも迎えに来てもらえると思うなよ」
男の言葉に何も返さず、ただ空を見る。。
太陽が今は、あんなにも高い。あそこまで高く飛べたのならば、とても気持ちがいいのだろう。
風が心地良い。澄んだ匂いを目一杯に吸い込んだ。
今日は本当にいい日だ。
「っ、おい。何やって」
空を見上げる。男の肩を押しやって、身を乗り出した。
背の翼を意識する。
一度、二度。そして三度。
翼を羽ばたかせ、さらに身を乗り出して。
――空を、飛ぶ。
体が浮き上がる。それに気を良くして、さらに翼を大きく羽ばたかせる。
だがそれも一瞬。
飛べたと思っていた体は、地に引かれて落ちていく。
「酔っ払いが、いい加減にしろ!そんなんで飛べるか、ド阿呆」
そのまま真っ逆さまに落ちていく体を、男が足首を掴む事で引き止める。
ぶらり、と体が揺れる。逆さまになった景色が、気持ち悪い。
「吐きそう」
「我慢しろ。直ぐに屋敷につく」
僅かに男の飛ぶ速度が速くなる。逆さになった屋敷が見えて、安堵からかさらに頭痛がし始めた。
「気持ち悪い。頭痛い。吐く」
「ったく。仕方ねぇな」
足首を掴んでいた男の手が持ち上がり、逆さまから横抱きへと運ばれ方が変わる。それだけで幾分か頭痛は和らぐものの、気持ち悪さは変わらない。
目を閉じて、意識を落とす。
「お、おちたか。酒に酔うわ、歩くわ、飛べずに落ちるわで新年早々騒がしいもんだ。ま、元気があるのはいい事か」
男の声を遠くに聞きながら、微睡みの中で冬の晴天を飛ぶ夢を見る。
あぁ、本当に。
今日は何て最高の晴れの日なのだろう。
20250106 『冬晴れ』
1/7/2025, 4:15:58 AM