sairo

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猫は迷っていた。
道に、ではない。猫は好きな時に、好きな場所へ行くのモノであるから、道に迷う事はない。

「右か、左か。何故両方という選択肢はないんだ」
「そりゃあ、どっちもあげたら、飼い主の二人に怒られるから。俺が」

右手にまたたびの原木を、左手に鰹節の袋を持った男が、困ったように眉を下げる。猫の背後、少し離れた場所でこちらを見守る二人の人影に、視線だけで助けを求めた。

「悩ましいな。どちらも猫の好みだ。さては、猫に対する嫌がらせか?」
「そんなわけないだろう。早く決めてくれ。可愛い甥っ子達のための海の幸が腐ってしまう」

そうは言われても、決められないものは決められない。
即決したいのならば、両方の選択肢を新たに作るべきだと、猫は恨めしげに男を見上げた。

「ああ、もういい。こうしよう」

嘆息して男は立ち上がり、猫の横を通り過ぎて背後で見守る人影の方へと歩み寄る。二人にそれぞれ原木と袋を手渡すと、晴れ晴れした表情でそれじゃ、と猫に手を振る。白銀のケを持つ狼へと姿を変えると、山の向こうへ一陣の風と共に駆け抜けていった。

「押しつけていったな」
「急いでいたみたいだしね」

男にそれぞれ押しつけられたものを見て、二人は顔を見合わせ苦笑する。
急いでいた男を引き止め、ものを強請ったのは猫の方である。新年だからな、と文句も言わず、尚且つこちらの意図を汲んで一つを選択してもらおうとしていたのはありがたい事だ。結局決められぬ猫のために、こうして両方を二人に手渡したのも、急いでいた事もあろうが男の優しさ故だろう。

「悪い事してしまったね。今度何かお礼をしなくては」
「そうだな。まったく俺らの猫は我が儘が過ぎる、なっ」

手にしたもの目がけ、飛びかかる猫をいなしながら、二人はこれからの話を続ける。
ちりん、ちりん、と猫が飛ぶ度に首輪に付けられた真鍮の鈴が澄んだ音色を響かせた。

「銅藍《どうらん》!瑪瑙《めのう》!猫にいじわるをするのは良くない事だぞ」
「なら、どっちかに決めろ。両方はなしだからな」
「何故だ。両方の選択肢があってもいいだろうに!」
「ごめんね。でも一つだよ」

猫の尾が、したん、と苛立たしげに地面を打つ。それでも二人の意思が変わらない事を知ると、低く唸る声を上げ体制を低くした。

「ようやく決めたか」

猫の目が一つの目的を捉え、瞳孔が広がる。
風のように素早く、一人の手から獲物であるまたたびの原木を取り地に降り立つ。原木に体を擦り付け、時折加えて振り回しては喉を鳴らして十分に堪能した。

「良かったね。日向《ひなた》」
「あぁ。猫は今、とても幸せだ。明日の楽しみもあるしな」
「安い幸せだな」

猫の満足そうな声に苦笑を漏らせば、何を言っているんだ、と呆れた声が返る。
体を起こし、ゆらり、と尾を揺らして座ると、猫は二人を真っ直ぐに見上げた。

「幸せが安いはずがないだろう。たくさんの奇跡の上に成り立つものだぞ」
「奇跡?」

猫の言葉の意味を図りかねて、一人が首を傾げる。そうだ、と大きく猫は頷いて、抱き上げろと言わんばかりに足下に擦り寄った。

「まず出会いというのが奇跡だ。ほんの少しずれるだけで、会う事は叶わなくなる。猫が銅藍と瑪瑙に会えた事が最初の奇跡だ」

抱き上げられ、喉を擽られ、猫は満足そうに目を細め喉を鳴らす。
確かに、と猫の言葉に頷く二人を見て、だろう、と満足げに頷いた。

「出会ったとしても、そのまま別れず共にいられる事もまた奇跡だ。猫は自由な生き物であるから、相手を考える事は苦手だ。それでも二人は側にいて、離れた時も猫を探してくれた。凄い奇跡だろう」

くふくふ笑う猫に、そうか、と一人は首を傾げ、そうかもね、ともう一人は笑う。
永く独りであった猫にとって、誰かといられる事は何よりも奇跡なのだろう。

「好きな二人に囲まれる幸せに、さらに今日は奇跡が起きた。猫の好きなものを持った奴と出会い、猫の好きなものをくれた。偶然という名の奇跡が重なって、幸せになったんだ。これが安い訳があるものか」

奇跡が重なる。
誇らしげに胸を張る猫をそれぞれ撫でながら、二人は猫の言う奇跡を想う。

死にたくない。その想いだけで妖に成った二人が出会った猫。オヤとして妖の在り方を教え、世界を知った。
独り立ちだと離れてしまった事もあったが再び出会い、違う形でこうして今も共に在る。
奇跡が重なっている。一つが崩れてしまえば、それに続くものは跡形もなくなくなってしまっていたことだろう。

「そうだね。奇跡だ。重なって、こうしてここに在る」
「安くはないわな。価値なんざ、決められねぇ」
「そうだろう。幸せなんだからな」

もっと撫でろと言わんばかりに手に頭を押し当て、猫は告げる。
ちりん、と鈴を鳴らし、穏やかな声音で二人の名を呼んだ。

「世界は残酷だ。不平等だ。何かを失ったたくさんの誰かがいて、その上に何かを得る事が出来た誰かがいる。そんな底意地が悪いのが世界というモノだ。だからな、奇跡や幸せを当たり前だと思ってはいけないぞ。落っことしてしまったら、どんなに戻そうと手を尽くした所で、元の形には戻らないのだからな」

目を閉じて、猫は最後に一言、寝る、とだけ告げて、それきり沈黙する。
寝入った猫の頭を一度撫で、二人は互いに頷き合い、静かに歩き出した。

遠く微かに、幼子達の笑い歌う声が聞こえた。
楽しそうに、幸せそうに。

今日が何処までも続いていくのだと信じて疑わない、無垢な声が響いていた。



20250105 『幸せとは』

1/5/2025, 9:58:29 PM