※ホラー
気づけば電車に乗っていた。
周囲の乗客は皆俯き、動かない。
車内は薄暗く、静かだ。外は夜の暗闇が広がり、遥か遠くに微かな灯りが点在しているのみで、何処を走っているのかは分からない。
この電車は何処へ向かうのだろうか。
随分と凪いだ意識の中、考える。
最近は公私共に忙しく、たとえ移動途中であろうとこうしてゆっくりとした時間を取ることが出来なかった。規則正しい電車の揺れが心地よく、眠気を誘う。
少し眠ってしまってもいいのかもしれない。
終点は分からない。だが着いてからどうするかを考えてもいいのではないかとそう思い、ゆっくりと目を閉じて。
電車の速度が緩やかになっていくのを感じた。
アナウンスは聞こえない。周囲の乗客はまだ、誰一人として動く様子もなく。
ただ漠然と、次が終点なのだという意識に、閉じていた瞼を開けた。
外は暗闇が広がり、しかし夜の群青とは異なる暗い緑に山奥を走っている事を察する。
さらに速度は緩やかになり、進む先に駅の姿を捉えた。近づくにつれはっきりと見えてくる駅は小さく寂れているようで、やはり見覚えはない。どうやら無人駅のようだが、果たして近くに泊まる所はあるのだろうかと、視線を窓の外から車内へと戻し。
自分を取り囲む乗客達に、声にならない悲鳴が漏れた。
変わらず乗客達は俯いたまま、表情を窺う事は出来ず。微動だにせずこれ以上近づく事もないため、どうにか脇を通り抜けられないかと苦慮し。
ぱちん、と何かが弾けるような音を立て、意識が鮮明になる。
「なっ、あ、なん、で」
何故。どうして。
いつ電車に乗ったのか。
ここは何処なのか。
何故疑問を持たなかったのか。
自分は何処へ向かおうとしているのか。
目の前の乗客は誰だ。
次から次へと疑問が溢れ出し。声にならない呻きが漏れ。
電車が駅に止まり、小さく音を立てて扉が開いた。
「っやめろ!離せ!」
扉が開いた瞬間、微動だにしなかった乗客が一斉に手を伸ばし。腕を体を掴んで、扉へと向かう。
抵抗するも、それは数の前では意味をなさず。ずるずると引き摺られ、駅へと連れられ。
その最中、座席に座ったままでこちらを見つめる、制服姿の少女と目が合った。
「助けてくれ!お願いだ。頼むからっ!」
必死で助けを求めるも、少女が動く事はなく。表情はなく黙したまま、駅へと連れ出されるまでを見られていた。
ホームに降り改札を抜け、引き摺られながら駅を出て。
広がる光景に、一層抵抗を強くした。
「離せっ!嫌だ、嫌だぁぁぁ!」
墓地。墓標が並ぶその先。一つだけ空いた墓石。
なりふり構わず暴れようと、それでも手が離れる事はなく。少しずつ距離が近づいていく。
やめろ、離せと叫んでも、誰も聞かず。
何故、どうしてと嘆いても、誰も答えず。
距離が近づく。どんなに拒んでも止められない。
そして墓石の前まで引き摺られ。
無理やり体を詰められていく。
逃れようと暴れても意味をなさず、足から順に詰められ。
最後に残った頭を見て、詰めていた一人の女が笑った。
その女の顔に、見覚えがあった。
先週死んだ女。電車に飛び込んだとニュースで知った。
結婚すると言いながら金を貢がせ、捨てた女。
視線だけを動かし、周囲を見る。
あぁ、と声にならない吐息が漏れた。
ここにいるのは皆、自分が騙してきた奴らじゃあないか。
引き摺られていく男を見送り、隣で眠る少女の肩を揺する。
「んっ、なに…?」
「こんな所で寝たらまた悪い夢を見るよ。ほら、ちゃんと起きて」
「わかっ、た」
寝ぼけ眼で頷く少女の姿が、霞んで消えていく。それを見届けて、立ち上がる。
相変わらず、彼女は変なものに巻き込まれ易い。無事に戻れたようであるし、己も戻るべきかと逡巡し、結局は駅に降りる。
改札を抜け、駅を出る。
ちょうど骨壷に収められた先ほどの男が墓に入れられる所を見遣り、僅かに表情を険しくする。
立ち並ぶ墓石に腰掛ける己と同じ姿をした誰かが、こちらを見て笑いかけた。
「気にしないでイイよ。ちょっとだけ姿を借りているだけだから。それよりもアレを食べに来たんでしょう?」
あれ、と奥の墓石を指差され、不快さに眉根が寄る。
人の魂を喰らうなど、あってはならない事だ。
思わず言い返そうと口を開きかけ。
「喰らわぬよ。そこまで堕とす訳にはいかぬ」
背後から口を塞がれ、声を出す事を封じられた。
「邪魔しないでよ」
「それは常世の主に対する叛逆となるが良いのか、獏よ」
静かに諭す声に、目の前の誰かの顔が僅かに歪む。
「ちょうど主の子も来たようであるが、如何する?」
「?何の、話」
気づけば隣には幼い少女の姿。無感情な眼がこちらを見上げ、誰かを見つめ近づいていく。
「別に。何もナイよ」
視線を逸らし、その姿が掻き消える。
立ち止まり、少女は首を傾げる。しばらくして何かに納得したのか小さく頷くと、奥の墓石の方へと歩き出した。
「行くぞ、娘」
それと同時に塞がれた口はそのままに、駅へと引き摺られる。
ホームまで戻り、ようやく解放されて大きく息を吐いた。
「何、急に…というか、知り合い?」
「知らぬ」
随分と機嫌が悪い。
知っているのか、それとも視ていたのかは分からないが、聞いても答えてはくれないのだろう。
仕方がないと目を閉じ、意識を浮上させる。
「神様」
「何だ」
「さっきはありがとう」
目が覚める直前、小さく礼を言う。詳しくは分からないものの、庇われた事には変わらないはずだ。
「ありがとう」
もう一度呟いて、目が覚める。
こちらを覗き込む少女に、心配させぬよう笑いかけ。
ふと巻き込まれているのはこの子ではなく。
己の方ではないのかと、嫌な胸騒ぎを覚えた。
20240811 『終点』
鶴を折り、空へと放つ。
ぎこちなく翼を羽ばたかせ、ふらふらと飛ぶ折り鶴を真剣な面持ちで見守り。やがて力尽き、地に落ちた鶴に詰めていた息を吐き出す。
飛べるようになってきている。以前よりもずっと。
その事実に胸が高鳴り、隠しきれない笑みが浮かぶ。今度こそはと何十回目かの鶴を折り。
そして目が覚めた。
気づけば布団の中。寝起きの曖昧な意識で、寝る前の記憶を辿る。
確か、机に向かって式を打っていたはずだった。
ともすれば落ちそうになる意識を、頭を振る事で繋ぎ止め起き上がる。
辺りは暗く、静まり返り。けれども今のこの迷い家には昼も夜も関係がない。
おそらく寝落ちしてしまった自分を寝かせる際に、周囲を暗くしていったのだろう。裏があると言いながら、どこまでも自分に甘い屋敷の主に苦笑が漏れた。
「馬鹿だなあ」
自分も。屋敷の主も。
常連だからという特別を理由にし、甘え、利用し、言い訳にする。
まるで化かし合いだ。
己の本心は隠し、それでいて言葉巧みに相手を誘惑し本心を暴こうとするなんて。
「本当に、馬鹿みたいだ」
「まったくだね。大人しく惰眠を貪っていればいいのに」
背後から聞こえた呆れを含んだ声。次いで明るくなった部屋に、眩しさで目を細める。
「寝起きでどうせ頭が働かないんだから、諦めて寝てなよ」
「いいだろ、別に。好きな事をしろと言ったのはそっちだ」
言い返せば、屋敷の主はあからさまに顔を顰めた。それを横目に、明るさに慣れた目を瞬かせながら寝所から抜け出し、机に向かう。作りかけの式は一旦横に置くと、新たな紙を手に取り折り始める。
折鶴。祖父に教えてもらった、最初の式の作り方。式札ではないから、呪をかく必要はない。子供騙しの簡単な術。
「懐かしいね。昔はよくここで飛んだ、飛ばないって騒いでたっけ」
「うっさい。しょうがないだろ。あの時は褒めて励ましてくれる、優しい誰かさんがいたんだから」
幼い頃。祖父以外には理解されない事に反発し、森を彷徨い辿り着いた小さな屋敷を思い出す。あの頃は臆病で人見知りであったのに、と感傷に浸るのは、懐かしい夢を見たからなのかもしれない。
折った鶴に息を吹き膨らませ、空に放つ。翼を広げ優雅に空を舞う鶴を静かに見つめ。壁をすり抜ける事が出来ずに地に落ちる様を見届けて、小さく笑みを溢した。
「やっぱダメか」
「当たり前。こんな玩具で抜けられるわけがないでしょ」
言葉は素気無いものの、落ちた鶴を拾い上げるその手は、眼差しはとても優しい。
「でも綺麗に飛べていたね。基礎はしっかりしているようだ」
虚をつかれて、言い返そうとした言葉を呑み込む。ややあって視線を逸らしながらも出した声は、面白いほどに小さく掠れていた。
「だって、褒めてくれたから」
昔からずっと。上手に出来た日も、上手くいかない時だろうと、こうして褒めてくれていたからこそここまで来れたのだ。少しずつでも成長しているのだと、だから上手くいかないとしても大丈夫なのだと。諦めそうになる度に褒められた事を思い、毎日欠かさず繰り返して来たのだから。
その言葉が嬉しくて、また聞きたいと期待して、こうして式を打っている事は決して伝えはしないけれども。
気恥ずかしさにじわじわと頬が熱くなるのを感じ、耐えきれずに布団へ潜り込んだ。
「寝るの?」
「寝る!んでしっかり寝て、起きてすっきりしたら、今度こそ境界を越える」
「…そっか。じゃあ、おやすみ」
穏やかな声と共に、部屋が暗くなる。
気配が消えて、一人きり。布団から顔を出して辺りを見回して、目を閉じた。
「昔は、俺だけの迷い家《とくべつ》だったのに」
愚痴を溢して自嘲する。
これだけの特別待遇だというのに、どうしても屋敷の主が不在になるだけで不満が出てしまう。
どうしようもない馬鹿だ、と胸中で呟いて、それ以上考えるのをやめた。
起きたら式を打たなければ。何度も繰り返す事になるのだから、休息は必要だ。
微睡む意識の片隅で、あの日の折鶴が屋敷を出て青空に解ける幻想を見た。
20240810 『上手くいかなくたっていい』
※ほんのりホラー
一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かがちらついた気がして視線を向ける。
右の電柱。街灯に惹かれた蛾が、ふらふらと灯りの周囲を漂っていた。
ふう、と息を吐いて視線を戻し、歩き出す。先ほどよりも僅かに速い速度で。
誰もいない夜道を一人、歩いていく。やがて十字路に辿り着き、立ち止まる。
帰宅するには、ここで右に曲がらなければならない。
考える事なく、右へ曲がった。
一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かが横切った気がして視線を向ける。
右の電柱。街灯に引かれた蛾が、灯りを求めてその白い翅を懸命に揺らし、力尽きて地に落ちた。
はあ、と息を漏らして視線を戻し、歩き出す。先ほどよりも速い速度で。
誰もいない夜道を一人、歩いていく。やがて十字路に辿り着き、立ち止まる。
かえるには、ここで右に曲がらなければならない。
深く考える事なく、右へ曲がった。
一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かが揺らいだ気がして視線を向ける。
左の暗がり。影が伸びた闇が形を作り、ゆらゆらと揺れて手招いていた。
ああ、と声を漏らして視線を逸らし、歩き出す。先ほどよりも速い速度で。
誰もいない夜道を一人、歩いていく。やがて十字路に辿り着き、立ち止まる。
返るには、ここでどの道を行けばよかったのか。
少し考えて、左へ曲がった。
一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かが蠢いた気がしたが視線を向けず。
右の街灯がちかちかと点滅を繰り返し、その度に左の暗がりが色を濃くしていくような気配がした。
ひゅっ、と息を呑んで俯いて、走り出す。先ほどよりも速く、逃げ出すように。
誰もいない夜道を一人、走っていく。ようやく十字路に辿り着き、立ち止まる。
ここでどの道を往けばよかったのか。
悩み考えて、正面を進んだ。
一人夜道を歩く。
誰かとすれ違うはずはない。静かな道をただ歩く。
視界の隅で何かが見えた気がしたが視線は向けず、足を止める事もなく。
左の街灯がぱちんと音を立て灯りが消える。色を濃くした暗闇が、ざわざわ、くすくすと音を立てこちらに近づいてくる。
声を殺して耳を塞ぎ、走り出す。脇目もふらず、逃げ出すために。
誰もいないはずの夜道を一人、走っていく。ようやく四つ辻に辿り着き、けれど立ち止まらずに。
どの道も変わらない。何度繰り返しても出られない。
諦めそうになる気持ちを押し殺し、ただ真っ直ぐの道を駆け抜けた。
一人夜道を走る。
誰かとすれ違う事に怯えながら。騒めく道をただ走る。
左の、あるいは右だったはずの街灯は二度とつかず。蠢き近づく暗闇が、こちらの反応を愉しむように、おいでおいでと手招いている。
この道は何度目なのか。変わらない道。同じ景色。
走る先にまたあの四つ辻が現れる。道の選択は疾の昔に諦め、また真っ直ぐに駆け抜けようとして。
道の先に昏い森がある事に気づく。
四つ辻で立ち止まる。
正面の道の先に森。左右の道の先は暗闇に覆われ見えず。
どの道が正解なのか。それとも正解など最初からなかったのか。
どれを選択していった所で、最初からこの結末は決まっていたのか。
思わず数歩後ずさる。その足が何か固いものに触れ。
それを確認する前に何かに腕を引かれ、よろめいた。
「運ガ良かったね。おめでとう」
無感情な声。気づけばいつもの帰り道。
こちらに背を向け去って行く誰かの後ろ姿。
待って、と慌てて声をかけるも、その誰かは振り返る事はなく。けれど立ち止まり、やはり無感情な声音で忠告された。
「今日の話は誰にもしない方がいい。本来は後戻リが出来ないのだから…まったク、ドコで話が広がったンだか」
話。そういえば数日前に見た掲示板で似たような実況スレを見たような。
最後に森に行くと書き残し、それ以降現れなかったスレ主を思い出していると、目の前の誰かは盛大なため息を吐き肩を落とした。
「そウか。それは手遅レだな」
どういう意味だろうか。
「話を聞けばその人ノ所にやって来る。よく聞くダろう?話に引き込まれて、いつの間にか取リ込まれる。気づいても誰かに腕を引かれないと戻れなイから、タチが悪い」
再びため息を吐いて去って行く誰かに、けれども引き止める余裕はなく。
それが本当であるならば、戻れたのは奇跡ではないか。
あの時、気づいて立ち止まらなければ。偶然目の前の誰かがいてくれなければ。気づいて腕を引いてくれなければ。
もしもを想像して、ぞっとした。
ふるりと頭を振って恐怖を掻き消し、歩き出す。
夜も遅い。早く帰らなければ。
しばらく歩き、ふと立ち止まる。
先ほどから、誰かに見られているような気がした。
速度を落とし始めた電車に気づき、顔を上げる。
終点だ。降りなければと立ち上がり、ドアへと向かう。
いつもと変わらぬ駅に着き、改札を抜ける。
外は暗く、人通りもほとんどなく。
珍しいなと思いはしたが、終電などそんなものかとさほど気にする事はせず。人も車もいないならばと、スマホを取り出した。
ロックを解除し、小説の続きを読み始める。
日が暮れても気温の下がらぬこんな夜には、少し背筋が寒くなるような話がちょうどいい。
助かるのか、助からないのか。繰り返す十字路の選択に、自分ならばと想像しながら文字を追いかけた。
ふと視界の隅で、何かがちらついた気がして視線を向ける。
右の電柱。街灯に惹かれた蛾が、ふらふらと灯りの周囲を漂っていた。
まさか、と嫌な汗が背筋を伝う。
偶然だ、と必死に否定して、帰り道を急いだ。
そんなはずはない。ここは現実なのだから。
似ている状況を同じだと錯覚しているだけだ。
歩く速度は段々に速くなり。いつしか走り出して。
だがその足は、目の前に現れたそれにぴたりと止まる。
正面の道の先に森。左右の道の先は暗闇に覆われ見えず。
いつの間にか、帰れぬ四つ辻に迷い込んでいた。
20240808 『最初から決まってた』
愛されている事を、少女は自覚していた。
両親には蝶よ花よと愛でられ、何不自由なく生活が送る事ができ。教師には信頼され、友人達にも恵まれている。
異国の祖父の血を濃く継いだ容姿は、精巧に作られた西洋人形を思わせ。玉を転がすような声は、より一層少女の美しさを引き立てる。
それはとても幸せな事だと、少女は知っている。どれか一つ欠けるだけで、今の自分はいないと分かっている。
だからこそ恵まれたこの状況に驕る事なく、皆の望む優しさを、聡明さを維持出来るように努力を続けていかなければならない。
与えられるものが当然であると思った時点で、きっと終わってしまうのだろう。
「瑠璃」
「お姉様。どうかされましたか」
そしてきっと、その終わりを連れて来るのは、この姉なのだろう。
二つ年上の姉に呼ばれ、ふわりと笑みを湛えて返事をする。側に寄れば優しく手を取られ、白くしなやかな指先に手首をなぞられ。
「あなたに似合うと思って、ね」
手首につけられたのは、深い青の色をした石のついた銀色のブレスレット。
「努力を怠らない瑠璃に、ご褒美よ」
「ありがとうございます。大事に致しますね」
艶やかに口元に笑みを浮かべ囁く姉に、嬉しくてたまらないと頬を染め礼を言う。その反応に満足したのか、姉は少女を抱き寄せその額に唇を触れさせた。
「これからも励みなさい。決して驕る事のないように」
「はい、お姉様」
頷き、返事をする。
その返答に姉もまた頷くと、少女から離れ自室へと戻っていく。後ろ姿を見送って、少女も自室へと戻り。
深く息を吐き、崩れ落ちた。
力の抜けた体が、思い出したかのように恐怖で震える。姉の冷たい眼差しを振りきるように膝を抱え、きつく目を閉じた。
姉であるはずの存在は、少女にとって違和感でしかなかった。いつの頃からか家族の中に入り込み、けれども記憶の中では紛う事なく姉として在る異分子。
それに気づいた幼い頃に、泣き喚いて拒絶した事がある。
幼いが故に泣く事でしかその違和感を訴える事が出来ず、両親は困惑しながらも宥めようと必死になり。
その背後で、姉は表情もなくこちらをただ見つめていた。
その時に感じたのは純粋な恐怖だった。死を前にしたような恐怖。救いのない終わりを目にしたような絶望。
戦慄く唇で必死に違うと繰り返し、知らないと姉を指差して。
その後の記憶は、随分と朧げだ。
ただそれからは、幾分か姉を姉だと違和感なく認識出来るようになっていた。
頭を振り、のろのろと立ち上がる。ふらつきながらもベッドへと辿り着き、そのまま横になった。
少しだけ眠ろうと、目を閉じる。
蝶よ花よと愛でられて生きてきた。
少女が蝶だとするならば、その蝶を捕食する蜘蛛が姉なのだろう。
人として正しくあれと、姉は言う。
与えられるものを当然と思わず、それ以上を相手に与えよと。上に立つ者の義務を全うせよと。
その言葉が、少女《瑠璃》を形作っている。
唇を噛み締め、小さく蹲る。
胎児のように丸くなり眠るその様は。姉の手で着飾られていく少女の姿はまるで。
蜘蛛の巣に囚われ、少しずつ糸を絡められていく蝶を思わせた。
20240809 『蝶よ花よ』
「おたたさま」
呼びかければ、濡縁に座り赤子を抱いた術師はふわりと微笑んだ。
「満月《みつき》。次に私を母と呼ぶのなれば、貴女を封じてあれの社に捨置きますよ」
「…すまなかった」
案外心の狭い男である。
元よりただの嫌がらせだ。それ以上食い下がるつもりはなく、大人しく謝罪をする。
「暇なのであれば、大人しく眠っていれば良いでしょうに」
「いつまでも私の体を弄り回されて眠れるものか」
苦言を呈すれば、目の前の術師は瞬きを一つし赤子を見遣る。ああ、と納得したような吐息が溢れるが、その手はまだ赤子を解放する事はないらしい。
赤子の髪を一つ抜き、手にした人型に巻きつける。人型に呪符を貼り付け放てば、それは幼い童女の形を取り。
されど刹那にその式は銀の焔に包まれ、灰も残らず消え去った。
「これも駄目ですか」
「満理《みつり》。先程から何をしている」
答えは返らぬであろうが、何度目かの問いを繰り返す。
髪や血、皮膚。体の一部を用いて人型を顕現しては燃やす、この行為は何度目か。その度に呪符を作り直しているようだが、術師ではない己にはこの行為に意味を見出す事が出来ない。
「満理」
「貴女の御母堂は随分と複雑な呪を組み上げたようでございますね。よほど己の血を残したくないらしい」
呟く言葉の意味を分かりかね、首を傾げる。
「陽に焼かれるこの呪がある限り、制限を受けます故に。この箱庭から出るためにはまず呪を解かねばなりますまい」
「半端者の血を現世が厭うたのかと思っていたが、違うのか」
そういうものだと疑問に思いもせず受け入れていたが、根底からして違うようだ。
思わず溢れた感嘆に、何故か術師は胡乱げな視線を向ける。
「妖混じりを現世が厭うなれば、現世で生きていたあれも陽に焼かれるはずでございましょう?」
言外に愚か者と断じられ、視線を逸らす。言い返した所でそれ以上の罵りを受ける事が容易に想像でき、大人しく口を噤んだ。
「しかし随分と緻密に組まれておりますね。何度試しても綻びすら見えませぬ」
口調こそは穏やかだが、隠しきれぬ苛立ちを含ませ術師は吐き捨てる。横目で様子を伺えば、冷たい深縹と視線が交わり息を呑んだ。
手招かれ逆らう事なく近くに寄れば、無言のまま胸元の呪符を剥がされる。
一瞬の暗転。眼を開き、赤子である元の体に戻った事を確認して息を吐いた。
「仕方がありません。箱にでも入れて持ち運ぶ事に致しましょう」
短気故の極論に、顔を顰めて腕を伸ばす。ささやかな抗議は容易くあやされ、幾分か機嫌を直した術師はくすくすと笑った。
「箱に収まらぬ程に成長致しましたら封印符でも貼り、運びましょうか。手間ではありますが致し方ありませぬ」
愉しげに歪む深縹がゆらりと揺れて、意識が落ちていく。抗えぬ赤子の身に歯噛みしながら、おたたさま、と最大限の皮肉を込めて胸中で呟いた。
眠る赤子の髪を撫ぜ、それにしても、と術師は思う。
血の一滴、髪一本すら陽の光の元にある事を許さぬ呪。
人間であった頃の記憶をなくし、ただ子殺しの罪だけを持つ妖。
人間でありし頃の赤子の母は、随分と苛烈であったようだ。
「己が罪を忘れさせず、新たな生が陽の元を歩む事を決して許さず…貴女の御母堂は何故その選択をなされたのでしょうね」
思いを馳せど詮無き事かと自嘲して。眠る赤子を起こさぬようにと、音を立てず寝屋へ移動する。
その様はどこか、赤子が揶揄うように母を思わせる慈しみを宿していた。
20240807 『太陽』
零れ落ちた椿の花を拾い集め。愛しむように優しい夜の歌を口遊む。
「意外だな」
ぽつりと溢れた微かな呟きに、歌声が止む。
「呪い、厄、穢れ…見境なく取り込んでおるのかと思っていたが」
「何を言っているんだ。流石にこれは取り込んではいけないだろう?」
ほら、と差し出されたのは、純白の花。小さな魂を内包した椿の花。
僅かに眉根を寄せた声の主に、歌声の少女は小さく笑って花弁に唇を寄せた。刹那花は光へと変わり、夜の空を漂い消えていく。
「本来ならば人知れずに咲き零れて還れるのだろうけれど。今回は椿が荒れて、その拍子に厄と共に零れて還れないみたいだからね」
「これは椿が喰らった魂なのか?」
「まさか。椿が人を喰らう事などありえない」
白の椿の花すべてを光に変えて、少女はゆるりと首を振る。優しく、そして悲しい目をして光の消えた空を見上げ、昔話をしようか、と囁いた。
「昔、大きな争いに人々が巻き込まれた時の事。炎から逃れてここへ辿り着いた人達がいた。辺りは燃えて灰になり、残ったのは小さな学び舎と小さな椿の木が一本のみ」
歌うような囁きは夜に溶け、風の代わりに椿の葉を騒めかせる。
「ある少女がいた。母とはぐれ、幼い弟の手を引いてここまで逃れてきた。その少女はただ一本残った椿を見て、持っていた飲み水を椿に与えてただ願った。助けてほしい、守ってほしい…そして安らかに眠らせてほしい、と」
騒めく椿の根元に、気づけば小さな少女の姿が一つ。目を閉じ手を合わせて、必死に何かを願っていた。
「少女の母親の故郷には、村を守る藤があるのだと言っていた。その藤の物語を聞いて育ったあの子は、椿をその藤に見立てたんだ。毎日水を与え、願う。純粋な願いは祈りとなり、ただの椿に意味を持たせた。椿は迫る炎から学び舎に籠る人々を守り、生き残った人々は椿を守るモノだと認識し、こうして今も椿はこの場所を守っている」
毎日与えられる水を対価として。その意味を忘れた子らを厄や穢れから守り、傷つき迷った魂を内に取り込み眠らせている。
願う小さな少女の幻が、ゆらりと揺れて霞消えていく。それを見届けて、少女は振り返り笑みを浮かべた。
「まぁ、ただの昔話さ。本当かどうかはもう分かりはしない。祈る誰かはいなかったかもしれないし、椿も最初からそういうモノだったのかもしれない。あるいは椿のある場所が校舎の丑寅に位置していたために、猿が辻になったからなのかもしれない…どれが理由だとしても、この椿は人を守るモノで人を喰らうモノではないよ」
「娘」
何、と笑みを浮かべたまま少女は首を傾げる。どこまでも素直ではない少女に、声の主は呆れたように一つ息を吐いた。
「見届けたのか?その祈る者の生を」
静かなその言葉に、少女の笑みが消える。真っ直ぐに声の主を見つめ、頷いた。
「見届けたよ。少女が女性になり、妻になり、母になって。最期の夜を共に過ごして、狭間まで供をした…それがあの子の願いだったから」
「まるで妖のような生き方をするものだな」
「そう?妖を知らないから、実感はないな」
穏やかに微笑んで。
新たに零れ落ちた椿の花を拾い集め、再び歌を口遊む。静かで優しい、夜の子守唄。
歌を口遊み、合間に椿の花に唇を触れ。空に淡い光が舞う。
不意に、学校の鐘の音が鳴り響く。
「神様?」
困惑する少女に何も告げず。視線は空を漂う光に向けられ。
響く鐘の音が次第に歪み。それはいつしか荘厳な梵鐘の音に変わる。
「…懐かしいな」
最後の花を変え、空を漂う光を見届けて。
響く鐘の音に静かに目を閉じる。
鐘の音の向こう。懐かしい笑い声を聞いた気がした。
「正直、視るだけの神様かと思ってた」
「我を何だと思うているのか…まあ良い。娘、暫し休め」
休息は皆等しく必要だ、と声の主は笑う。
「この体はもう、眠りは必要ないのだけど」
「文句を言うな。そこの鎮まった椿も在るのだから、眠る事は出来るであろう?」
確かに、と理解はするも納得は出来ず。渋る様子に有無を言わさず、声の主は半ば引きずりながら少女を椿の隣、いつの間にか用意されていた絹敷物に座らせた。
「我は暫し戻る。それまで大人しくしているといい」
「っ、横暴」
「本当に口の減らぬ娘よな」
呆れたように呟いて、声の主の姿が掻き消える。
一人残された少女は盛大に溜息を吐き、仕方なしに横になった。
「何なんだ、あの神は」
愚痴を溢す少女の側に、ぽとり、と椿の花が落ちる。
視線を向けると、赤い花。椿が控えめに騒めいた。
「あぁ、うん。大丈夫だよ。何とかやっていくさ…皆のためにも」
小さく笑い、花を喰む。還れるようにと鎮魂を唄ったために消費した身に、椿が溜め込んだ厄が染み渡る。少しだけ胎が満たされ、ほぅ、と吐息が溢れた。
鐘の音はまだ止まない。閉じたこの空間は、少女には開く事が出来ない。
ならば言われるがままに、少しだけ眠ってしまおうかと目を閉じる。
おやすみなさい。
誰かの優しい声が、鐘の音に乗って聞こえた。
20240806 『鐘の音』