※ほんのりホラー
一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かがちらついた気がして視線を向ける。
右の電柱。街灯に惹かれた蛾が、ふらふらと灯りの周囲を漂っていた。
ふう、と息を吐いて視線を戻し、歩き出す。先ほどよりも僅かに速い速度で。
誰もいない夜道を一人、歩いていく。やがて十字路に辿り着き、立ち止まる。
帰宅するには、ここで右に曲がらなければならない。
考える事なく、右へ曲がった。
一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かが横切った気がして視線を向ける。
右の電柱。街灯に引かれた蛾が、灯りを求めてその白い翅を懸命に揺らし、力尽きて地に落ちた。
はあ、と息を漏らして視線を戻し、歩き出す。先ほどよりも速い速度で。
誰もいない夜道を一人、歩いていく。やがて十字路に辿り着き、立ち止まる。
かえるには、ここで右に曲がらなければならない。
深く考える事なく、右へ曲がった。
一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かが揺らいだ気がして視線を向ける。
左の暗がり。影が伸びた闇が形を作り、ゆらゆらと揺れて手招いていた。
ああ、と声を漏らして視線を逸らし、歩き出す。先ほどよりも速い速度で。
誰もいない夜道を一人、歩いていく。やがて十字路に辿り着き、立ち止まる。
返るには、ここでどの道を行けばよかったのか。
少し考えて、左へ曲がった。
一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かが蠢いた気がしたが視線を向けず。
右の街灯がちかちかと点滅を繰り返し、その度に左の暗がりが色を濃くしていくような気配がした。
ひゅっ、と息を呑んで俯いて、走り出す。先ほどよりも速く、逃げ出すように。
誰もいない夜道を一人、走っていく。ようやく十字路に辿り着き、立ち止まる。
ここでどの道を往けばよかったのか。
悩み考えて、正面を進んだ。
一人夜道を歩く。
誰かとすれ違うはずはない。静かな道をただ歩く。
視界の隅で何かが見えた気がしたが視線は向けず、足を止める事もなく。
左の街灯がぱちんと音を立て灯りが消える。色を濃くした暗闇が、ざわざわ、くすくすと音を立てこちらに近づいてくる。
声を殺して耳を塞ぎ、走り出す。脇目もふらず、逃げ出すために。
誰もいないはずの夜道を一人、走っていく。ようやく四つ辻に辿り着き、けれど立ち止まらずに。
どの道も変わらない。何度繰り返しても出られない。
諦めそうになる気持ちを押し殺し、ただ真っ直ぐの道を駆け抜けた。
一人夜道を走る。
誰かとすれ違う事に怯えながら。騒めく道をただ走る。
左の、あるいは右だったはずの街灯は二度とつかず。蠢き近づく暗闇が、こちらの反応を愉しむように、おいでおいでと手招いている。
この道は何度目なのか。変わらない道。同じ景色。
走る先にまたあの四つ辻が現れる。道の選択は疾の昔に諦め、また真っ直ぐに駆け抜けようとして。
道の先に昏い森がある事に気づく。
四つ辻で立ち止まる。
正面の道の先に森。左右の道の先は暗闇に覆われ見えず。
どの道が正解なのか。それとも正解など最初からなかったのか。
どれを選択していった所で、最初からこの結末は決まっていたのか。
思わず数歩後ずさる。その足が何か固いものに触れ。
それを確認する前に何かに腕を引かれ、よろめいた。
「運ガ良かったね。おめでとう」
無感情な声。気づけばいつもの帰り道。
こちらに背を向け去って行く誰かの後ろ姿。
待って、と慌てて声をかけるも、その誰かは振り返る事はなく。けれど立ち止まり、やはり無感情な声音で忠告された。
「今日の話は誰にもしない方がいい。本来は後戻リが出来ないのだから…まったク、ドコで話が広がったンだか」
話。そういえば数日前に見た掲示板で似たような実況スレを見たような。
最後に森に行くと書き残し、それ以降現れなかったスレ主を思い出していると、目の前の誰かは盛大なため息を吐き肩を落とした。
「そウか。それは手遅レだな」
どういう意味だろうか。
「話を聞けばその人ノ所にやって来る。よく聞くダろう?話に引き込まれて、いつの間にか取リ込まれる。気づいても誰かに腕を引かれないと戻れなイから、タチが悪い」
再びため息を吐いて去って行く誰かに、けれども引き止める余裕はなく。
それが本当であるならば、戻れたのは奇跡ではないか。
あの時、気づいて立ち止まらなければ。偶然目の前の誰かがいてくれなければ。気づいて腕を引いてくれなければ。
もしもを想像して、ぞっとした。
ふるりと頭を振って恐怖を掻き消し、歩き出す。
夜も遅い。早く帰らなければ。
しばらく歩き、ふと立ち止まる。
先ほどから、誰かに見られているような気がした。
速度を落とし始めた電車に気づき、顔を上げる。
終点だ。降りなければと立ち上がり、ドアへと向かう。
いつもと変わらぬ駅に着き、改札を抜ける。
外は暗く、人通りもほとんどなく。
珍しいなと思いはしたが、終電などそんなものかとさほど気にする事はせず。人も車もいないならばと、スマホを取り出した。
ロックを解除し、小説の続きを読み始める。
日が暮れても気温の下がらぬこんな夜には、少し背筋が寒くなるような話がちょうどいい。
助かるのか、助からないのか。繰り返す十字路の選択に、自分ならばと想像しながら文字を追いかけた。
ふと視界の隅で、何かがちらついた気がして視線を向ける。
右の電柱。街灯に惹かれた蛾が、ふらふらと灯りの周囲を漂っていた。
まさか、と嫌な汗が背筋を伝う。
偶然だ、と必死に否定して、帰り道を急いだ。
そんなはずはない。ここは現実なのだから。
似ている状況を同じだと錯覚しているだけだ。
歩く速度は段々に速くなり。いつしか走り出して。
だがその足は、目の前に現れたそれにぴたりと止まる。
正面の道の先に森。左右の道の先は暗闇に覆われ見えず。
いつの間にか、帰れぬ四つ辻に迷い込んでいた。
20240808 『最初から決まってた』
愛されている事を、少女は自覚していた。
両親には蝶よ花よと愛でられ、何不自由なく生活が送る事ができ。教師には信頼され、友人達にも恵まれている。
異国の祖父の血を濃く継いだ容姿は、精巧に作られた西洋人形を思わせ。玉を転がすような声は、より一層少女の美しさを引き立てる。
それはとても幸せな事だと、少女は知っている。どれか一つ欠けるだけで、今の自分はいないと分かっている。
だからこそ恵まれたこの状況に驕る事なく、皆の望む優しさを、聡明さを維持出来るように努力を続けていかなければならない。
与えられるものが当然であると思った時点で、きっと終わってしまうのだろう。
「瑠璃」
「お姉様。どうかされましたか」
そしてきっと、その終わりを連れて来るのは、この姉なのだろう。
二つ年上の姉に呼ばれ、ふわりと笑みを湛えて返事をする。側に寄れば優しく手を取られ、白くしなやかな指先に手首をなぞられ。
「あなたに似合うと思って、ね」
手首につけられたのは、深い青の色をした石のついた銀色のブレスレット。
「努力を怠らない瑠璃に、ご褒美よ」
「ありがとうございます。大事に致しますね」
艶やかに口元に笑みを浮かべ囁く姉に、嬉しくてたまらないと頬を染め礼を言う。その反応に満足したのか、姉は少女を抱き寄せその額に唇を触れさせた。
「これからも励みなさい。決して驕る事のないように」
「はい、お姉様」
頷き、返事をする。
その返答に姉もまた頷くと、少女から離れ自室へと戻っていく。後ろ姿を見送って、少女も自室へと戻り。
深く息を吐き、崩れ落ちた。
力の抜けた体が、思い出したかのように恐怖で震える。姉の冷たい眼差しを振りきるように膝を抱え、きつく目を閉じた。
姉であるはずの存在は、少女にとって違和感でしかなかった。いつの頃からか家族の中に入り込み、けれども記憶の中では紛う事なく姉として在る異分子。
それに気づいた幼い頃に、泣き喚いて拒絶した事がある。
幼いが故に泣く事でしかその違和感を訴える事が出来ず、両親は困惑しながらも宥めようと必死になり。
その背後で、姉は表情もなくこちらをただ見つめていた。
その時に感じたのは純粋な恐怖だった。死を前にしたような恐怖。救いのない終わりを目にしたような絶望。
戦慄く唇で必死に違うと繰り返し、知らないと姉を指差して。
その後の記憶は、随分と朧げだ。
ただそれからは、幾分か姉を姉だと違和感なく認識出来るようになっていた。
頭を振り、のろのろと立ち上がる。ふらつきながらもベッドへと辿り着き、そのまま横になった。
少しだけ眠ろうと、目を閉じる。
蝶よ花よと愛でられて生きてきた。
少女が蝶だとするならば、その蝶を捕食する蜘蛛が姉なのだろう。
人として正しくあれと、姉は言う。
与えられるものを当然と思わず、それ以上を相手に与えよと。上に立つ者の義務を全うせよと。
その言葉が、少女《瑠璃》を形作っている。
唇を噛み締め、小さく蹲る。
胎児のように丸くなり眠るその様は。姉の手で着飾られていく少女の姿はまるで。
蜘蛛の巣に囚われ、少しずつ糸を絡められていく蝶を思わせた。
20240809 『蝶よ花よ』
8/8/2024, 9:58:05 PM