「おたたさま」
呼びかければ、濡縁に座り赤子を抱いた術師はふわりと微笑んだ。
「満月《みつき》。次に私を母と呼ぶのなれば、貴女を封じてあれの社に捨置きますよ」
「…すまなかった」
案外心の狭い男である。
元よりただの嫌がらせだ。それ以上食い下がるつもりはなく、大人しく謝罪をする。
「暇なのであれば、大人しく眠っていれば良いでしょうに」
「いつまでも私の体を弄り回されて眠れるものか」
苦言を呈すれば、目の前の術師は瞬きを一つし赤子を見遣る。ああ、と納得したような吐息が溢れるが、その手はまだ赤子を解放する事はないらしい。
赤子の髪を一つ抜き、手にした人型に巻きつける。人型に呪符を貼り付け放てば、それは幼い童女の形を取り。
されど刹那にその式は銀の焔に包まれ、灰も残らず消え去った。
「これも駄目ですか」
「満理《みつり》。先程から何をしている」
答えは返らぬであろうが、何度目かの問いを繰り返す。
髪や血、皮膚。体の一部を用いて人型を顕現しては燃やす、この行為は何度目か。その度に呪符を作り直しているようだが、術師ではない己にはこの行為に意味を見出す事が出来ない。
「満理」
「貴女の御母堂は随分と複雑な呪を組み上げたようでございますね。よほど己の血を残したくないらしい」
呟く言葉の意味を分かりかね、首を傾げる。
「陽に焼かれるこの呪がある限り、制限を受けます故に。この箱庭から出るためにはまず呪を解かねばなりますまい」
「半端者の血を現世が厭うたのかと思っていたが、違うのか」
そういうものだと疑問に思いもせず受け入れていたが、根底からして違うようだ。
思わず溢れた感嘆に、何故か術師は胡乱げな視線を向ける。
「妖混じりを現世が厭うなれば、現世で生きていたあれも陽に焼かれるはずでございましょう?」
言外に愚か者と断じられ、視線を逸らす。言い返した所でそれ以上の罵りを受ける事が容易に想像でき、大人しく口を噤んだ。
「しかし随分と緻密に組まれておりますね。何度試しても綻びすら見えませぬ」
口調こそは穏やかだが、隠しきれぬ苛立ちを含ませ術師は吐き捨てる。横目で様子を伺えば、冷たい深縹と視線が交わり息を呑んだ。
手招かれ逆らう事なく近くに寄れば、無言のまま胸元の呪符を剥がされる。
一瞬の暗転。眼を開き、赤子である元の体に戻った事を確認して息を吐いた。
「仕方がありません。箱にでも入れて持ち運ぶ事に致しましょう」
短気故の極論に、顔を顰めて腕を伸ばす。ささやかな抗議は容易くあやされ、幾分か機嫌を直した術師はくすくすと笑った。
「箱に収まらぬ程に成長致しましたら封印符でも貼り、運びましょうか。手間ではありますが致し方ありませぬ」
愉しげに歪む深縹がゆらりと揺れて、意識が落ちていく。抗えぬ赤子の身に歯噛みしながら、おたたさま、と最大限の皮肉を込めて胸中で呟いた。
眠る赤子の髪を撫ぜ、それにしても、と術師は思う。
血の一滴、髪一本すら陽の光の元にある事を許さぬ呪。
人間であった頃の記憶をなくし、ただ子殺しの罪だけを持つ妖。
人間でありし頃の赤子の母は、随分と苛烈であったようだ。
「己が罪を忘れさせず、新たな生が陽の元を歩む事を決して許さず…貴女の御母堂は何故その選択をなされたのでしょうね」
思いを馳せど詮無き事かと自嘲して。眠る赤子を起こさぬようにと、音を立てず寝屋へ移動する。
その様はどこか、赤子が揶揄うように母を思わせる慈しみを宿していた。
20240807 『太陽』
8/8/2024, 6:05:10 AM