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8/8/2024, 9:58:05 PM

※ほんのりホラー


一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かがちらついた気がして視線を向ける。
右の電柱。街灯に惹かれた蛾が、ふらふらと灯りの周囲を漂っていた。
ふう、と息を吐いて視線を戻し、歩き出す。先ほどよりも僅かに速い速度で。
誰もいない夜道を一人、歩いていく。やがて十字路に辿り着き、立ち止まる。
帰宅するには、ここで右に曲がらなければならない。
考える事なく、右へ曲がった。



一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かが横切った気がして視線を向ける。
右の電柱。街灯に引かれた蛾が、灯りを求めてその白い翅を懸命に揺らし、力尽きて地に落ちた。
はあ、と息を漏らして視線を戻し、歩き出す。先ほどよりも速い速度で。
誰もいない夜道を一人、歩いていく。やがて十字路に辿り着き、立ち止まる。
かえるには、ここで右に曲がらなければならない。
深く考える事なく、右へ曲がった。



一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かが揺らいだ気がして視線を向ける。
左の暗がり。影が伸びた闇が形を作り、ゆらゆらと揺れて手招いていた。
ああ、と声を漏らして視線を逸らし、歩き出す。先ほどよりも速い速度で。
誰もいない夜道を一人、歩いていく。やがて十字路に辿り着き、立ち止まる。
返るには、ここでどの道を行けばよかったのか。
少し考えて、左へ曲がった。



一人夜道を歩く。
誰かとすれ違う事はない。静かな道をただ歩く。
ふと視界の隅で、何かが蠢いた気がしたが視線を向けず。
右の街灯がちかちかと点滅を繰り返し、その度に左の暗がりが色を濃くしていくような気配がした。
ひゅっ、と息を呑んで俯いて、走り出す。先ほどよりも速く、逃げ出すように。
誰もいない夜道を一人、走っていく。ようやく十字路に辿り着き、立ち止まる。
ここでどの道を往けばよかったのか。
悩み考えて、正面を進んだ。



一人夜道を歩く。
誰かとすれ違うはずはない。静かな道をただ歩く。
視界の隅で何かが見えた気がしたが視線は向けず、足を止める事もなく。
左の街灯がぱちんと音を立て灯りが消える。色を濃くした暗闇が、ざわざわ、くすくすと音を立てこちらに近づいてくる。
声を殺して耳を塞ぎ、走り出す。脇目もふらず、逃げ出すために。
誰もいないはずの夜道を一人、走っていく。ようやく四つ辻に辿り着き、けれど立ち止まらずに。
どの道も変わらない。何度繰り返しても出られない。
諦めそうになる気持ちを押し殺し、ただ真っ直ぐの道を駆け抜けた。



一人夜道を走る。
誰かとすれ違う事に怯えながら。騒めく道をただ走る。
左の、あるいは右だったはずの街灯は二度とつかず。蠢き近づく暗闇が、こちらの反応を愉しむように、おいでおいでと手招いている。

この道は何度目なのか。変わらない道。同じ景色。
走る先にまたあの四つ辻が現れる。道の選択は疾の昔に諦め、また真っ直ぐに駆け抜けようとして。


道の先に昏い森がある事に気づく。

四つ辻で立ち止まる。
正面の道の先に森。左右の道の先は暗闇に覆われ見えず。

どの道が正解なのか。それとも正解など最初からなかったのか。
どれを選択していった所で、最初からこの結末は決まっていたのか。
思わず数歩後ずさる。その足が何か固いものに触れ。


それを確認する前に何かに腕を引かれ、よろめいた。



「運ガ良かったね。おめでとう」

無感情な声。気づけばいつもの帰り道。
こちらに背を向け去って行く誰かの後ろ姿。

待って、と慌てて声をかけるも、その誰かは振り返る事はなく。けれど立ち止まり、やはり無感情な声音で忠告された。

「今日の話は誰にもしない方がいい。本来は後戻リが出来ないのだから…まったク、ドコで話が広がったンだか」

話。そういえば数日前に見た掲示板で似たような実況スレを見たような。
最後に森に行くと書き残し、それ以降現れなかったスレ主を思い出していると、目の前の誰かは盛大なため息を吐き肩を落とした。

「そウか。それは手遅レだな」

どういう意味だろうか。

「話を聞けばその人ノ所にやって来る。よく聞くダろう?話に引き込まれて、いつの間にか取リ込まれる。気づいても誰かに腕を引かれないと戻れなイから、タチが悪い」

再びため息を吐いて去って行く誰かに、けれども引き止める余裕はなく。

それが本当であるならば、戻れたのは奇跡ではないか。
あの時、気づいて立ち止まらなければ。偶然目の前の誰かがいてくれなければ。気づいて腕を引いてくれなければ。

もしもを想像して、ぞっとした。


ふるりと頭を振って恐怖を掻き消し、歩き出す。
夜も遅い。早く帰らなければ。


しばらく歩き、ふと立ち止まる。
先ほどから、誰かに見られているような気がした。





速度を落とし始めた電車に気づき、顔を上げる。
終点だ。降りなければと立ち上がり、ドアへと向かう。

いつもと変わらぬ駅に着き、改札を抜ける。
外は暗く、人通りもほとんどなく。
珍しいなと思いはしたが、終電などそんなものかとさほど気にする事はせず。人も車もいないならばと、スマホを取り出した。
ロックを解除し、小説の続きを読み始める。
日が暮れても気温の下がらぬこんな夜には、少し背筋が寒くなるような話がちょうどいい。
助かるのか、助からないのか。繰り返す十字路の選択に、自分ならばと想像しながら文字を追いかけた。

ふと視界の隅で、何かがちらついた気がして視線を向ける。
右の電柱。街灯に惹かれた蛾が、ふらふらと灯りの周囲を漂っていた。

まさか、と嫌な汗が背筋を伝う。
偶然だ、と必死に否定して、帰り道を急いだ。

そんなはずはない。ここは現実なのだから。
似ている状況を同じだと錯覚しているだけだ。

歩く速度は段々に速くなり。いつしか走り出して。


だがその足は、目の前に現れたそれにぴたりと止まる。

正面の道の先に森。左右の道の先は暗闇に覆われ見えず。


いつの間にか、帰れぬ四つ辻に迷い込んでいた。



20240808 『最初から決まってた』












愛されている事を、少女は自覚していた。
両親には蝶よ花よと愛でられ、何不自由なく生活が送る事ができ。教師には信頼され、友人達にも恵まれている。

異国の祖父の血を濃く継いだ容姿は、精巧に作られた西洋人形を思わせ。玉を転がすような声は、より一層少女の美しさを引き立てる。

それはとても幸せな事だと、少女は知っている。どれか一つ欠けるだけで、今の自分はいないと分かっている。
だからこそ恵まれたこの状況に驕る事なく、皆の望む優しさを、聡明さを維持出来るように努力を続けていかなければならない。

与えられるものが当然であると思った時点で、きっと終わってしまうのだろう。

「瑠璃」
「お姉様。どうかされましたか」

そしてきっと、その終わりを連れて来るのは、この姉なのだろう。

二つ年上の姉に呼ばれ、ふわりと笑みを湛えて返事をする。側に寄れば優しく手を取られ、白くしなやかな指先に手首をなぞられ。

「あなたに似合うと思って、ね」

手首につけられたのは、深い青の色をした石のついた銀色のブレスレット。

「努力を怠らない瑠璃に、ご褒美よ」
「ありがとうございます。大事に致しますね」

艶やかに口元に笑みを浮かべ囁く姉に、嬉しくてたまらないと頬を染め礼を言う。その反応に満足したのか、姉は少女を抱き寄せその額に唇を触れさせた。

「これからも励みなさい。決して驕る事のないように」
「はい、お姉様」

頷き、返事をする。
その返答に姉もまた頷くと、少女から離れ自室へと戻っていく。後ろ姿を見送って、少女も自室へと戻り。

深く息を吐き、崩れ落ちた。


力の抜けた体が、思い出したかのように恐怖で震える。姉の冷たい眼差しを振りきるように膝を抱え、きつく目を閉じた。


姉であるはずの存在は、少女にとって違和感でしかなかった。いつの頃からか家族の中に入り込み、けれども記憶の中では紛う事なく姉として在る異分子。

それに気づいた幼い頃に、泣き喚いて拒絶した事がある。
幼いが故に泣く事でしかその違和感を訴える事が出来ず、両親は困惑しながらも宥めようと必死になり。
その背後で、姉は表情もなくこちらをただ見つめていた。

その時に感じたのは純粋な恐怖だった。死を前にしたような恐怖。救いのない終わりを目にしたような絶望。
戦慄く唇で必死に違うと繰り返し、知らないと姉を指差して。

その後の記憶は、随分と朧げだ。
ただそれからは、幾分か姉を姉だと違和感なく認識出来るようになっていた。


頭を振り、のろのろと立ち上がる。ふらつきながらもベッドへと辿り着き、そのまま横になった。
少しだけ眠ろうと、目を閉じる。


蝶よ花よと愛でられて生きてきた。
少女が蝶だとするならば、その蝶を捕食する蜘蛛が姉なのだろう。
人として正しくあれと、姉は言う。
与えられるものを当然と思わず、それ以上を相手に与えよと。上に立つ者の義務を全うせよと。
その言葉が、少女《瑠璃》を形作っている。

唇を噛み締め、小さく蹲る。
胎児のように丸くなり眠るその様は。姉の手で着飾られていく少女の姿はまるで。

蜘蛛の巣に囚われ、少しずつ糸を絡められていく蝶を思わせた。



20240809 『蝶よ花よ』

8/8/2024, 6:05:10 AM

「おたたさま」

呼びかければ、濡縁に座り赤子を抱いた術師はふわりと微笑んだ。

「満月《みつき》。次に私を母と呼ぶのなれば、貴女を封じてあれの社に捨置きますよ」
「…すまなかった」

案外心の狭い男である。
元よりただの嫌がらせだ。それ以上食い下がるつもりはなく、大人しく謝罪をする。

「暇なのであれば、大人しく眠っていれば良いでしょうに」
「いつまでも私の体を弄り回されて眠れるものか」

苦言を呈すれば、目の前の術師は瞬きを一つし赤子を見遣る。ああ、と納得したような吐息が溢れるが、その手はまだ赤子を解放する事はないらしい。
赤子の髪を一つ抜き、手にした人型に巻きつける。人型に呪符を貼り付け放てば、それは幼い童女の形を取り。
されど刹那にその式は銀の焔に包まれ、灰も残らず消え去った。

「これも駄目ですか」
「満理《みつり》。先程から何をしている」

答えは返らぬであろうが、何度目かの問いを繰り返す。
髪や血、皮膚。体の一部を用いて人型を顕現しては燃やす、この行為は何度目か。その度に呪符を作り直しているようだが、術師ではない己にはこの行為に意味を見出す事が出来ない。

「満理」
「貴女の御母堂は随分と複雑な呪を組み上げたようでございますね。よほど己の血を残したくないらしい」

呟く言葉の意味を分かりかね、首を傾げる。

「陽に焼かれるこの呪がある限り、制限を受けます故に。この箱庭から出るためにはまず呪を解かねばなりますまい」
「半端者の血を現世が厭うたのかと思っていたが、違うのか」

そういうものだと疑問に思いもせず受け入れていたが、根底からして違うようだ。
思わず溢れた感嘆に、何故か術師は胡乱げな視線を向ける。

「妖混じりを現世が厭うなれば、現世で生きていたあれも陽に焼かれるはずでございましょう?」

言外に愚か者と断じられ、視線を逸らす。言い返した所でそれ以上の罵りを受ける事が容易に想像でき、大人しく口を噤んだ。

「しかし随分と緻密に組まれておりますね。何度試しても綻びすら見えませぬ」

口調こそは穏やかだが、隠しきれぬ苛立ちを含ませ術師は吐き捨てる。横目で様子を伺えば、冷たい深縹と視線が交わり息を呑んだ。
手招かれ逆らう事なく近くに寄れば、無言のまま胸元の呪符を剥がされる。
一瞬の暗転。眼を開き、赤子である元の体に戻った事を確認して息を吐いた。

「仕方がありません。箱にでも入れて持ち運ぶ事に致しましょう」

短気故の極論に、顔を顰めて腕を伸ばす。ささやかな抗議は容易くあやされ、幾分か機嫌を直した術師はくすくすと笑った。

「箱に収まらぬ程に成長致しましたら封印符でも貼り、運びましょうか。手間ではありますが致し方ありませぬ」

愉しげに歪む深縹がゆらりと揺れて、意識が落ちていく。抗えぬ赤子の身に歯噛みしながら、おたたさま、と最大限の皮肉を込めて胸中で呟いた。



眠る赤子の髪を撫ぜ、それにしても、と術師は思う。

血の一滴、髪一本すら陽の光の元にある事を許さぬ呪。
人間であった頃の記憶をなくし、ただ子殺しの罪だけを持つ妖。

人間でありし頃の赤子の母は、随分と苛烈であったようだ。


「己が罪を忘れさせず、新たな生が陽の元を歩む事を決して許さず…貴女の御母堂は何故その選択をなされたのでしょうね」

思いを馳せど詮無き事かと自嘲して。眠る赤子を起こさぬようにと、音を立てず寝屋へ移動する。
その様はどこか、赤子が揶揄うように母を思わせる慈しみを宿していた。



20240807 『太陽』

8/6/2024, 5:06:40 PM

零れ落ちた椿の花を拾い集め。愛しむように優しい夜の歌を口遊む。

「意外だな」

ぽつりと溢れた微かな呟きに、歌声が止む。

「呪い、厄、穢れ…見境なく取り込んでおるのかと思っていたが」
「何を言っているんだ。流石にこれは取り込んではいけないだろう?」

ほら、と差し出されたのは、純白の花。小さな魂を内包した椿の花。
僅かに眉根を寄せた声の主に、歌声の少女は小さく笑って花弁に唇を寄せた。刹那花は光へと変わり、夜の空を漂い消えていく。

「本来ならば人知れずに咲き零れて還れるのだろうけれど。今回は椿が荒れて、その拍子に厄と共に零れて還れないみたいだからね」
「これは椿が喰らった魂なのか?」
「まさか。椿が人を喰らう事などありえない」

白の椿の花すべてを光に変えて、少女はゆるりと首を振る。優しく、そして悲しい目をして光の消えた空を見上げ、昔話をしようか、と囁いた。

「昔、大きな争いに人々が巻き込まれた時の事。炎から逃れてここへ辿り着いた人達がいた。辺りは燃えて灰になり、残ったのは小さな学び舎と小さな椿の木が一本のみ」

歌うような囁きは夜に溶け、風の代わりに椿の葉を騒めかせる。

「ある少女がいた。母とはぐれ、幼い弟の手を引いてここまで逃れてきた。その少女はただ一本残った椿を見て、持っていた飲み水を椿に与えてただ願った。助けてほしい、守ってほしい…そして安らかに眠らせてほしい、と」

騒めく椿の根元に、気づけば小さな少女の姿が一つ。目を閉じ手を合わせて、必死に何かを願っていた。

「少女の母親の故郷には、村を守る藤があるのだと言っていた。その藤の物語を聞いて育ったあの子は、椿をその藤に見立てたんだ。毎日水を与え、願う。純粋な願いは祈りとなり、ただの椿に意味を持たせた。椿は迫る炎から学び舎に籠る人々を守り、生き残った人々は椿を守るモノだと認識し、こうして今も椿はこの場所を守っている」

毎日与えられる水を対価として。その意味を忘れた子らを厄や穢れから守り、傷つき迷った魂を内に取り込み眠らせている。
願う小さな少女の幻が、ゆらりと揺れて霞消えていく。それを見届けて、少女は振り返り笑みを浮かべた。

「まぁ、ただの昔話さ。本当かどうかはもう分かりはしない。祈る誰かはいなかったかもしれないし、椿も最初からそういうモノだったのかもしれない。あるいは椿のある場所が校舎の丑寅に位置していたために、猿が辻になったからなのかもしれない…どれが理由だとしても、この椿は人を守るモノで人を喰らうモノではないよ」
「娘」

何、と笑みを浮かべたまま少女は首を傾げる。どこまでも素直ではない少女に、声の主は呆れたように一つ息を吐いた。

「見届けたのか?その祈る者の生を」

静かなその言葉に、少女の笑みが消える。真っ直ぐに声の主を見つめ、頷いた。

「見届けたよ。少女が女性になり、妻になり、母になって。最期の夜を共に過ごして、狭間まで供をした…それがあの子の願いだったから」
「まるで妖のような生き方をするものだな」
「そう?妖を知らないから、実感はないな」

穏やかに微笑んで。
新たに零れ落ちた椿の花を拾い集め、再び歌を口遊む。静かで優しい、夜の子守唄。
歌を口遊み、合間に椿の花に唇を触れ。空に淡い光が舞う。


不意に、学校の鐘の音が鳴り響く。

「神様?」

困惑する少女に何も告げず。視線は空を漂う光に向けられ。

響く鐘の音が次第に歪み。それはいつしか荘厳な梵鐘の音に変わる。

「…懐かしいな」

最後の花を変え、空を漂う光を見届けて。
響く鐘の音に静かに目を閉じる。

鐘の音の向こう。懐かしい笑い声を聞いた気がした。


「正直、視るだけの神様かと思ってた」
「我を何だと思うているのか…まあ良い。娘、暫し休め」

休息は皆等しく必要だ、と声の主は笑う。

「この体はもう、眠りは必要ないのだけど」
「文句を言うな。そこの鎮まった椿も在るのだから、眠る事は出来るであろう?」

確かに、と理解はするも納得は出来ず。渋る様子に有無を言わさず、声の主は半ば引きずりながら少女を椿の隣、いつの間にか用意されていた絹敷物に座らせた。

「我は暫し戻る。それまで大人しくしているといい」
「っ、横暴」
「本当に口の減らぬ娘よな」

呆れたように呟いて、声の主の姿が掻き消える。

一人残された少女は盛大に溜息を吐き、仕方なしに横になった。

「何なんだ、あの神は」

愚痴を溢す少女の側に、ぽとり、と椿の花が落ちる。
視線を向けると、赤い花。椿が控えめに騒めいた。

「あぁ、うん。大丈夫だよ。何とかやっていくさ…皆のためにも」

小さく笑い、花を喰む。還れるようにと鎮魂を唄ったために消費した身に、椿が溜め込んだ厄が染み渡る。少しだけ胎が満たされ、ほぅ、と吐息が溢れた。


鐘の音はまだ止まない。閉じたこの空間は、少女には開く事が出来ない。

ならば言われるがままに、少しだけ眠ってしまおうかと目を閉じる。

おやすみなさい。

誰かの優しい声が、鐘の音に乗って聞こえた。



20240806 『鐘の音』

8/5/2024, 10:14:38 PM

緑化委員には、必ずやらなければならない活動がある。
夕方四時、校舎の隅に植えてある椿に銀の如雨露で水をやる事。曜日は関係なく、天気も関係なく。休みの日も、雨の日も、雪の日だろうと毎日、必ず。
逆を言えば緑化委員は、この椿の水やりが唯一の活動であった。


「めんどくせー」

愚痴をこぼしつつ、如雨露に水を入れる。
空を見上げれば、曇天。予報では夜には一雨来るという。
意味がないと思いながらも、手は止めず。これが委員会の活動だと理解して入ったのだから、文句も言えず。
溜息を吐き水を止めると、如雨露を持って歩き出した。


校舎の裏。敷地の隅に、その椿はある。
花の咲かない椿。先輩や先生の誰もが、咲いたところを見た事がないという。咲いてはいけないと、咲けば良くない事が起きるのだという噂すらあるほどだ。
その椿の根元に水を撒く。これで委員会の活動は終わりだ。
時間の無駄だなと内心で愚痴を溢し、如雨露を片付けに踵を返す。次は二週間後だ。
楽ではあるが面白みのかけらもない委員会に、入った事を少しだけ後悔した。



今日は朝から騒がしい。生徒だけでなく、先生方も落ち着かない様子で動き回る様子に、何かあったのかとつられて落ち着かなくなりながらも教室に入る。

「はよ。何かあったのか?」
「知らねえの?椿が咲いたんだとよ!」
「水やりサボった奴が、行方不明なんだと!」

水やり。昨日の担当は確か、隣のクラスの奴だったと思いながらもクラスメイト達の話の続きを聞く。

「最近、何かやべー事続くよな。この前は二年のクラスでも色々あったじゃねーか。まだ目が覚めないんだろ?」
「ころも様、だっけ?ほんと女子ってそーゆーの好きだよな」
「その前にもあったよな。何かの呪いだか、儀式だかをやって狂った女子」
「もう呪われてんじゃね?この学校」

怖いと言いながらも笑って会話を続けるクラスメイト達に、無言で教室の扉を指差す。そのタイミングで険しい顔をした先生が教室に入り、慌てて席に着く彼らを見ながらも、ふと椿の水やりは儀式に似ているなと、そんな事を思った。



放課後。今朝の椿の件があり、校舎内には誰もおらず。
けれども水やりの活動は変わらず。よりにもよって、今日の担当である事に自分の運の無さを嘆いた。

如雨露に水を入れ、椿の元へと向かう。
校舎にも校庭にも誰一人いない。静まり返った学校はまるで違う場所のようで。帰りたいと、足を速めた。


「……ぁ」

目の前の光景に、足が止まる。
咲くはずのない椿。その花が。
赤く、紅く。瑞々しく、艶やかに咲き誇り。
その側で椿を見上げる、一人の女生徒。
こちらに気づき、笑みを浮かべた。

「今日の担当か。ご苦労な事だね」
「誰…?」

問いには答えず。ただ笑みを浮かべたまま、手にしていた如雨露を指差す。

「つまらない事、退屈な事だからといって疎かにすると、足元を掬われる事もあるから気をつけて」

その言葉に何故か水やりをサボり、行方不明になった委員の顔が浮かんだ。

「水やりをしないと、椿に殺される…」
「確かな理由がなければ。そしてそれが続けばそうなるね…あれは一度も来なかったみたいだから。他にも何人かいるらしいけど、今回のこれでどうなるやら」

呆れたように肩を竦めて椿を見上げる。その視線は優しく、どこか憐れんでいるように見えた。

「昔の誰かが、ただの椿に意味を持たせたんだ。祈りを込めて、毎日椿に水を与えた。その人が死ぬまで欠かす事なく、死んだ後も他の誰かがそれを引き継いでここまできた。長い時間の中で意味は忘れられ、形だけが残った…ここまで大きいと、もうどうにも出来ないね」
「……その、意味って。祈りっていうのは」
「さてね。どうだったかな」

忘れてしまったよ、と素知らぬ顔をしながら、彼女は立ち竦む自分の横を通り過ぎ、去っていく。

「それよりも覚悟をしておいたら?しばらくは椿の専属になるだろうから」
「えっ?」
「だって怖くて近づけないだろう?特に今日は誰も来れないと思っていたよ」

唐突にかけられた言葉に慌てて振り返ると、足は止めずに後ろ手で手を振られた。その意味を理解して、思わず肩を落とし溜息を吐く。


振り返り椿を見る。
一瞬だけ、焼けた町を背後に黒く煤けた幼い少女が、椿の根元に手にした水を撒き必死で祈る幻を垣間見た。そんな気がした。



20240805 『つまらないことでも』

8/5/2024, 1:48:16 AM

「やあ。久しぶり」

気がつくと、懐かしい社の前。
最初の自分を模した姿をした少女が、変わらずにこにこと笑いながら手を振っている。

「随分とダイタンだったね」

その言葉に今までを思い出し。

耐えきれずに膝をつき、顔を覆って声にならない叫びを上げた。

「やってしまった。何で、どうして、っ!」
「ジョシコウセイ?って、何だかとってもスゴイね。驚いたよ」
「それ以上っ、言わないで、下さい!」

今更ながらに羞恥心が込み上げ、赤面する。
何がしたかったのか、今となっては分からない。自分の気持ちに気づいての行動にしては、明らかにやり過ぎである。あんなに狼狽た狐の姿を見たのは初めてで、哀れみすら感じさせた。

まあ、結局今更な事ではあるのだが。

「一応聞くけど、もらっておく?」
「…もう手遅れですので、遠慮します」

狐に対してだけではない。学校でも酷かった。
旦那が出来たなどと吹聴し、事あるごとに狐の話題を出し。
話に付き合わされた親友には、本当に迷惑をかけてしまった。

「でも狐の記憶を抜く事は…その、一部だけでも」
「断られたよ。恥ずかしかったし驚いたけど、それでも嬉しかったみたい」

せめて狐の記憶がなければまだ救いはあるのかもしれないと思ったが、現実は非常である。
知らない方が良かった事実も知ってしまい、後戻りの出来ない状況にあの日の行動を心底悔やんだ。

「分かっています。分かっていましたとも!後戻りなど出来はしない事は、十分過ぎるほどにっ!」

繰り返す生の中で、選択を誤った事など何度もある。そのすべてでやり直しは出来なかったのだから、やはり今更だ。
深く息を吐き、立ち上がる。真っ直ぐに少女と視線を交わせば、満足したように頷いて手を差し出された。

「それじゃあ、サヨナラかな?楽しかったよ」
「はい。さようなら、です」

差し出された手に、同じように手を伸ばし。これで最後になると、微笑んで。
けれど、ふと親友の姿が思い浮かび。

その手を重ねる寸前、思い止まり手を下ろした。

「どうしたの?」

首を傾げる少女に、僅かに言い淀む。
一度目を閉じ、頭を振る。目を開け、祈るような気持ちで口を開いた。

「私の親友の夢の中に入る事は可能でしょうか?」
「ん?まあ、縁があるなら出来なくもないよ」

だけど、と少女は続けて忠告する。

「その理由如何によっては、否、と答えるね。対価が必要になってしまうもの」

さて、どうする?と、何処か冷たい目をして笑い尋ねられる。
初めて見る少女の表情に思わず視線を逸らしかける。怖い、と逃げ出したくなる感情を、手を強く握る事で抑え込み。少女から視線を逸らす事なく、その理由を口にする。

「よく原因不明の発作が起きるんです。そのせいか最近は学校でもよく寝てて。一週間以上学校にも来なくなって。発作が起きて、意識が戻らないって……親友、なんだ。大事な。大切な。一番の親友」

狐に怯え、それでも狐を探して挙動不審になる自分に、気にせず話しかけて来た彼女を今も覚えている。色々な場所に連れ出され、たくさんの思い出をくれた彼女がいないのは耐えられない。

「溺れている感じに近いって。水がないのに溺れるなんて、そんなの…っ!だから夢の中なら分かるかもって…」
「そうだね。呪いか、化生か、はたまた妖か…いずれにしても、それが理由ならば答えは是、だよ。夢に入る事は難しいけれど、見せてあげるくらいなら出来る」

先程とは異なる優しい笑みを浮かべ、少女は社の扉を開けた。
薄暗く狭い室内の奥。一つだけ置かれた丸い鏡の元へ行くとこちらに振り返り、おいで、と手招かれる。

「この鏡に触れて、その子の事を考えて。そうしたら見えてくるよ」

手招かれるまま、促されるままに、社に入り鏡に触れた。
ゆらりと鏡面が揺れて、暗い何処かを映し出す。

「水の、底?」
「井戸…違うな。見立てているだけで、これは池か」

揺蕩う底で、髑髏が首のない骸骨に向けて語りかける。声は聞こえない。
骸骨の手が髑髏へと伸びて。

何故かそれは、それだけは駄目だと思った。

「駄目!行かないで」

思った瞬間には、叫んでいた。理由は分からず、届かないと知りながらも必死で鏡の向こう側へと手を伸ばす。

「行かないでよ。お願いだからっ!」

叫んで、泣いて、手を伸ばして。

声が聞こえたのか、それとも偶然か。
骸骨が手を下ろし。黒いいくつかの影が、骸骨を抱き竦めるかのように覆い、髑髏の目と口を覆う。

そうしてまたゆらりと鏡面が揺れ、視界が黒く染まる。

気づけば、背後から少女に抱き竦められ、手で視界を覆われていた。


「…もう大丈夫かな」
「ありがとう…ごめんなさい」

力が抜ける。それを確認して、視界を覆う手が外されそのまま優しく頭を撫でられた。

「親友。意識が戻ったみたいだね。会えるかは分からないけど、行ってみるといいよ」
「でも……うん。分かった」

言いかけて、何も言えず。大人しく目を閉じる。
薄れていく意識の中、何かを抜き取られる感覚がした。




「思ったより深刻だな」

手にした彼女の記憶を片手に、少女は小さく息を吐く。

原因不明だと彼女は言ってはいたが、先程の光景を見る限りその原因は明らかだ。

「狂骨。しかも意図的に作られたとか…業が深いねえ」

井戸に見立てられた池の底に沈む数多の骨。その妖の核になるはずの魂が、何故か人間として生きている。
偶然か。必然か。どちらにしても妖としてすでに成ってしまっているモノが、人間として生きられるわけがない。水の底から還ってくるようにと引かれ続けているせいで、何度も倒れるのだろう。
最後に見た影が鎖となって縛り付けているのだろうけれど、それも時間の問題だ。あれはもう、どうにもならない。


「一応、長様に話しておかないと、かな」

手にした彼女の記憶を、彼女の親友の夢の記憶を飲み込んで手を振るう。
辺りの光景がどろりと溶けて、暗闇だけが続く空間へと変わり。
常世へと繋げた道に、迷いなく足を進めた。



20240804 『目が覚めるまでに』

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