「やぁ。ちゃんと休んでる?」
疑問の形を取りながらも、屋敷の主は部屋を見て満面の笑みを浮かべる。
惨状。全くもって酷い状況だ。
俗に言う人をダメにするクッションに身を預け、そのまま菓子を貪り茶を啜る。堕落を極めたその様に我ながら焦りが生まれるが抜け出す事が出来ず、時間だけが無意味に過ぎてしまった。
「これは酷くね?畳にクッションは邪道だって」
「だからいいんじゃん。余計な事は考えず、欲に従順になればいいよ」
無邪気な笑顔を浮かべながらも、その言葉は悪意でしかない。いや、そのつもりはないのだろうが。
「そもそも仕事しすぎなんだよ。というか摩耗しながらする仕事って何?そういう趣味なの?」
「…人を変態扱いしないで」
酷い。言いたい放題である。
反論しようにも、やはりこの場からは動けず。手はさりげなく用意された新たな菓子に伸び。
末期だ。何とかしなければ。
「村のため。民のため。責務のため。誇りのため…使い古しの物語じゃあないんだし、誰かのためになら、の自己犠牲精神なんて犬にでも食わせればいい。結局は自己満足でしかないそれが、本当の意味で自分以外を満たせるはずなんてないんだから」
「なら、迷い家はどうなんだ?」
「え?」
不思議そうに首を傾げる屋敷の主を手招きして呼び寄せる。自ら動く事は取り敢えずは諦めて。
大人しく近づいてきたその口に煎餅をねじ込み、腕を伸ばして乱雑に頭を撫でた。
「人を招き入れ、もてなし、富を与えて帰らせる…それってさ、招き入れた『誰か』のための行為だろ?現に俺は今、最大限の贅沢をさせてもらってるけど?」
「それは前提が違うよぉ」
瞬いた目が楽しそうに細められる。
ねじ込まれた煎餅をぱりぱり音を立て咀嚼しながら、器用にくふくふと声を漏らして笑う。
「すべてはね、俺さんを認識してもらうためだもの。下心あってのおもてなしだし、与えたものも、その人間が本来その先で得られるはずのものを、因果をいじって与えているだけに過ぎないからね。対価は十分もらっているんだよ」
まるで我儘を言う子を宥めるように優しく頭を撫でられ、薄手のタオルケットをかけられる。冷えると良くないからねと言うものの、肌触りが絶妙に好みのものを与えてくるあたり、絶対にここから移動させないという意思が感じられ、末恐ろしさに思わず身を震わせた。
「俺だって、仕事に見合う報酬は貰ってるつもりだけど?」
「この前の婆さんからは何も貰ってないでしょう?」
この前の婆さん。その言葉に先日叱られた日の事を思い出す。
まだ怒っているのかと苦笑して、ゆるりと首を振って否定した。
「ちゃんと前払いで、しかも迷惑料込みで貰いました。なので今頃、遺産相続で修羅場が発生しているはずですー」
諦めてもらいたい気持ちも込めて普段の倍以上を提示したにも関わらず、即金で払ってもらったのには驚いた。だがそのためにいらぬ苦労をしたし、叱られたのだからもう少し高めでも良かったのかもしれない。
「というかさ。俺も対価というか、下心ありで仕事してるんだよ。主に俺の打つ式がどこまでやれるかの研究込みでやってんの」
だからそろそろ仕事をしたいと訴えるも、屋敷の主は笑みを浮かべたまま。
このやりとりを何日繰り返したか。当初の約束の十日は既に過ぎ、もう一月が経とうとしている。
堕落し、そのために腕が鈍るのだけは許せず外に向けて何度か式を打つも、隔離された空間の先には行けず。
そろそろ限界だった。
「別にこのままでいいじゃん。ここで仕事すれば?」
「だからさ、隔離されてるせいで現世に式が行けないんだって。何度式を打ったと思ってるんだよ」
思わず愚痴れば、屋敷の主の笑みはますます深くなり。
「それは式が弱いせいだよ。術師が未熟だと、当然式もそれ相当になる。術師の真似事をしたいんなら、最低限でも境界を越えられるくらいの式を打たないとね」
正論で煽られた。
思わず身を起こし、その拍子にクッションから転げ落ちる。背中は痛むが、動けるようになった事に密かに安堵した。
「大丈夫?気分転換に温泉でも入ったら?」
「また誘惑…!」
もう嫌だ、とは思いながらも差し出された手に素直に手を重ね。
立ち上がり大人しく連れられる様に、半ば諦めるように溜息をついた。
「まずは意志を強く持つところから始めたら?俺さんとしては見ていて楽しいからそのままでもいいけど」
上機嫌にもっともな事を言われ、何も言い返せず項垂れる。
明日こそはと何度目かの決意をしながら、繋いだ手に僅かに力を込めた。
「あぁ、ちなみに」
不意に立ち止まり、屋敷の主はこちらを見上げ楽しげに囁いた。
「一葉《いつは》の場合はね。お礼半分と、実験が半分かな…まぁとにかく、思う存分好きな事をしなよ」
「ちょっと待て。何か今、流しちゃいけない単語が出なかった?」
実験とはなんだ。
さぁ?と、はぐらかす屋敷の主はやはり上機嫌で。
少しだけ、この屋敷に来た事を後悔した。
20240727 『誰かのためになるならば』
月のない夜。枯れた桜の洞の前。
音もなく歩み寄る、狩衣姿の大男。その肩には幼子を乗せて。
「…ここか?」
「そうだな。ここだ……間違いない。ここに、いる」
男の問いに答える幼子の表情は硬く。視線は洞から離れる事はない。
「兄貴は入るのは俺でもいいって言ってたが、どうする?姉ちゃん」
「お前で構わない。だが気を抜くな」
幼子の言葉に微かに笑みを浮かべ、男は洞に手を差し入れる。
幼子一人が身を屈めてようやく入れる程の小さな洞の中を、差し入れた手で探るように動かし。
「あった」
その刹那洞がぐにゃりと歪み、形を変え。木を、男と幼子を呑み込んで。
気づけば暗闇の中。
中心に半透明の膜に覆われた何かがある以外には何もない、小さな場所。
「姉ちゃん、これ」
「そうだな。この中だ」
男の肩から降りて膜に触れ、幼子は頷く。膜の内側にいるそれに意識を向ければ、触れていた指先が膜に沈む。
「やっぱ俺じゃ駄目だな。姉ちゃんだけで行けるか?」
「問題ない」
膜に弾かれる男には目もくれず、幼子は己の身を沈めていき。けれどもその表情は何処か険しく、男を一瞥する。
「それより黄の言っていた事が気にかかる。あいつは「逃すな」と言った…私の他に何かがいるはずだ」
幼子にとっては弟であり、男にとっては兄である神の言葉を思い出し、男もまた表情を険しくする。
千里を視る神は、この場所を告げる際に確かにこう言っていた。
卵が割れる時には気をつけろ。逃すな。姉者達を連れ帰ってくれ。
この膜が卵だとするならば、この中には姉しか入れぬ事も理解は出来る。そして膜を破る事も内側に入った姉にしか出来ぬ事も。
どこか歯痒さを感じつつも、男はただ膜が破られるのを待った。
ぴしり、と。
幼子が膜の内側に沈んでから暫く、微かな音を立て膜に亀裂が生じる。
ぴしり、ぴしり、と。
亀裂は広がり、その内側を垣間見せ。
背後で微かに暗闇が揺らぐ気配がして。
その気配に男が振り返るよりも早く。
ぱりん、と。
乾いた音を立て、膜が砕け散った。
「これは…」
膜が破られた事で露わになったものを見、男は息を呑む。
「私と…私の半身だ」
顔を顰め頭を押さえながら、幼子は寄り添い眠る二人の赤子に近づき片方を抱き上げた。
「寒緋、半身を頼む。乱暴にするなよ。陽に焼かれて脆くなっているからな」
「…姉ちゃんは、大丈夫なのか?」
「庇われたからな。この通り、綺麗なもんだ」
腕に抱いた赤子を見せ、幼子は自嘲する。それに複雑な顔をしながらも、もう片方の黒く焦げた赤子に男は手を伸ばし。
だがその手は赤子に触れる事はなく。
「寒緋!」
「さっきのか!」
背後に揺らめいた影が、赤子を抱き上げ距離を取り。その身に赤子を取り込んで。
「待てっ!行くな」
引き止める声は届かず。
影は揺らぎ、姿を消した。
「やはりか」
すべてを視ていた神は、変えられぬ結末に眼を伏せた。
分かってはいた。変えられぬだろう事は。
姉の存在を認識していないあの二人では、彼女を引き止める事は出来ない。特に半身である姉は、認識した事で制限のなくなった記憶に翻弄され、それどころではないだろう。
無駄だと知りながらも逃げた先を視るが、何も視えず。
社から遠く離れる事の許されぬ我が身を恨めしく思った。
ようやく生まれ落ち目覚めた雛は、鳥籠から飛び立ち行方は知れず。
鳥籠に残されたもう一羽の雛は、戻らぬ雛を想って声もなく泣き。
残された雛を慕う大樹は、己の無力さに嘆きながらも雛と共に鳥籠を出て。
飛び立った雛の行方を辿るのだろう。
もう二度と戻らぬとしても。せめて。
生きてくれればと、切に願った。
20240726 『鳥かご』
「親友だからねっ!」
そう言って、あの子はいつも勝気に笑う。
楽しい時も、嬉しい時も。
寂しい時も、悲しい時も。
裏表のない性格は、常に周りを惹きつけ。同じように周りから妬まれる。
どんな時でも笑みを絶やす事はなく。その強い眼差しは揺らぐ事はない。
例え謂れのない悪意に晒されたとして、傷つき苦しみながらも前に進む事を止めようとはしなかった。
それは側から見れば、使い古された物語のようにありきたりで滑稽ですらあり。
それでもそれを終わらせるには惜しい程に、気に入ってはおり。
つまりは、少しばかりは手を出しても良いかと思える位には、あの子に情があるという事だ。
深夜。誰もいない教室で。
「ねぇ、本当にやるの?」
「あたりまえじゃない。今更何言ってんのよ」
「何、怖気付いたの?かっこわるぅ」
ひそひそと囁き合う少女達。
机の上には、人型に切り取られた紙が置かれており、その紙の中心には誰かの名が書かれている。
「先輩達に気に入られてるからって、調子に乗りすぎだっつぅの。少しは痛い目を見れば良いんだ」
「大丈夫なのこれ?ヤバくない?」
憎々しげに吐き捨てる声。怯えを含んだ声。
もう一人は何も言わず。ただ早く終わらせるために、準備を進めていく。
暗い教室。光源は机に立てられた五本の蝋燭のみ。
中心に紙の人形を据え、四肢と頭部に蝋燭を立て。
四隅には赤く染めた、獣と虫を模った人形を置き。
「これで終わりだっけ?」
「そ。あとはお呪いを唱えるだけ」
準備を終え、少女達は机を囲うように手を繋ぐ。目を閉じ、覚えた呪いを口にして。
一つ、獣の頸を並べ。
二つ、四肢をもがれた羽虫を晒し。
不意に締め切ったはずの教室内に、生温い風が吹き込んだ。けれど少女達は気づかず、さらに言葉を紡ぐ。
三つ、欠けた星を地に堕とし。
四つ、呪い巫女の血を撒いて。
五つ、
吹き荒れる風。蝋燭の火が消えて。
「えっ?何、なんで風が」
「やだっ、もぅおうちに帰る!」
「待って!途中で止めないで!中途半端にするとっ!」
「ソウだネェ。自分ラに返ってシまうネェ」
ざらつき、ひび割れた声。少女達のものではなく。
悲鳴をあげて彼女達は逃げようと踠くが、いつのまにか四肢と首に絡みつく何かに阻まれ身動きが取れない。
「アァ、まったク。あまリ喋ラセないデ欲しイものダ。呪イを唄うのモ存外疲レルんだヨゥ」
少女の背後。いつの間にか現れた、人の形をした影がゆらりと揺れ腕を伸ばす。
蝋燭を避け、中心の人形を手にし。
声もなく、影が嗤った気がした。
「喰っテもイイガ、少ぉしオイタが過ぎルから、コノまま返ソうネェ。チゃあント反省するンだヨゥ?」
最早声も出せず、泣く少女達にそれだけを告げ。
一歩影が下がると同時、消えていた蝋燭が再び火を灯した。
「!?アンタ、あいつの」
光源を得て、影の姿を認識した少女が目を見開く。憎しみに顔を歪めて声をあげようとするが、しかし口から漏れ出たのは声にもならない呻き声だけだった。
「ぅぐ…が、ぁ……っ」
「いっ、た…いぃ…!」
「ぁ……ぁあ…」
苦痛に、あるいは恐怖に顔を歪め、その場に崩れ落ち。焦点の合わぬ目が虚空を見つめ、涙を流し続ける。
その様を無感情に眺めつつ、影は手にした人形を飲み込んだ。
「ンっ……まったく。嫉妬だかなんだか知らないが、馬鹿馬鹿しい。こんな歯抜けだらけの呪いなんぞ、旨みの一つもないっていうのに」
呆れるその声は、先程とは異なり少女のそれ。
壊れた少女達をそのままに、踵を返し教室から出て。
一つ伸びをして、その姿は夜の闇に紛れて消えた。
「なんか変な夢を見た気がするんだよねー」
朝。教室に入るなり、挨拶もそこそこに屋上へと半ば引きずられ連れられた。
サボりになってしまうだろうが、話を聞く限りでは今日の一限は自習になるらしいから問題はないだろう。
「夜の教室とか、蝋燭とか…あとは黒いバケモノ?とか」
首を傾げて夢の内容を思い出そうとする彼女に、内心で笑みを浮かべる。
必死になる彼女の表情を眺めるのは、存外愉しいもので。
「…何で笑ってんの?」
隠していたつもりではあったが、表情に出てしまったらしい。ごめんと謝れば、膨れた顔がそっぽを向いた。
「こっちは結構真剣に悩んでるのに。ずっと調子が悪かったのに、今日は絶好調だし。教室入ったら、何か机が変わってるし…おまけに今朝の話とか、さ」
翳りのある笑みを浮かべ、彼女は小さく息を吐く。
まぁ無理もない。
直接見たわけではないが、自分の机に変なものを乗せられて、しかもその周りに気が触れたクラスメイトの三人が倒れていたという話を聞かされれば、彼女であろうといくらかは堪えるのだろう。
「気にしなきゃいいさ。夢は夢。現実は現実。あの三人は馬鹿をやっただけ…気になるなら学校に戻ってきた時に聞けばいいよ」
乱雑に頭を撫で笑ってみせる。
「せっかくの自習なんだ。ありがたく昼寝の時間にさせてもらおうか」
「ちょっと!あたしの話はどうすんの!?」
乱れた髪を直しつつ、翳りながらも強さを失わない瞳が、咎めるようにこちらを射抜く。
それを遮るように手を振って、くるりと背を向け横になった。
「大丈夫大丈夫。いつものように何とかなるって」
文句を言う彼女の声を聞きながら、静かに喉を撫でる。
どこまでも真っ直ぐな眼をしたこの子は、何故か私を親友と呼び慕ってくれる。昨夜飲み込んだ彼女の人形からも、それが嘘偽りない事を示していた。
慕われて悪い気はしないし、何より愉しませてもらっているのだから、それなりの見返りはしようと。
彼女に対する情を見て見ぬふりをして。ただの暇つぶしだと嘯いて。
嘘を吐き続ける行為に、馬鹿馬鹿しいと自嘲した。
20240725 『友情』
「もしもさ、過去か未来に行けるとしたら何がしたい?」
「…あぁ、昨日のドラマにタイムマシンが何とかってやってたな」
「見てないの?語りたかったのに」
頬を膨らませ不機嫌さを露わにする彼女に溜息を一つ吐く。
「残念でした…で?過去か未来に行けたらだっけ?そっちはどうなの」
「私?そりゃあもちろん、未来に行って宮司様とどうなっているか見に行く」
当然と笑う彼女はこの前の連休で出かけた先でいい出会いがあったらしい。とても生き生きとしている。青春だな、と微笑ましく見守りながら、次の授業まで少し寝ようと机に伏した。
「ちょっと。答えたんだから、寝ないで答えてよ」
「えー?」
体を揺さぶられながらそう言われてしまえば、このまま寝る事なんて出来やしない。仕方なしに顔だけを彼女の方へと向けた。
「そうだねぇ……過去に行って会いたい人は、いるかな」
それだけを呟いて、今度こそ寝に入る。さらに詳しく聞き出そうとする彼女の声は、聞こえないふりをした。
「夕食の時間ですよ」
静かな声に目を覚ました。
体を伸ばして欠伸を一つする。頬についた畳の跡や乱れた髪をそのままに、与えられた部屋から出る。
相変わらず辛気臭い場所だ。そう思ってしまうのは、この寺で行われた事を知っているからか。それとも寺の裏にある池の底に沈んでいるものを知っているからか。
ちゃんと歩きなさい、と誰かが窘め。
法師様に失礼のないようにね、と誰かが囁く。
そんなこと分かってる、と声に出さずに呟いた。
「変わりはありませんか」
「はい。何も」
二人きりの夕食後、茶を入れながら住職に尋ねられる。
それに何もないと答えるが、ここに連れられた時点で何かがあった事は彼にも分かっているはずだ。
「少なくとも、私自身には何も。いつもの発作が起きたくらいです』
父がどこまでを知って住職に話しているか分からない。当たり障りのない事実だけを報告し、手渡された湯呑みに口をつけた。
ちゃんとお話ししないと駄目でしょう、と背後から声がする。
法師様、この子の偽物が出た様ですよ、と影が告げる。
法師様、法師様、法師様、法師様。
私のものではない、私にしか聞こえない四つの声が慕う様に目の前の住職を呼ぶ。
「貴女のそれは特殊なものなのですよ。いつもの事だと甘く見ては行けません」
「申し訳ありません、住職様」
静かな、穏やかな声。心配そうに曇る表情。
誰からも好かれる、優しい住職。
友人である父は知らない。おそらく住職自身も覚えてはいない。
遠い昔、この場所で法師だった住職が行った事。国のためと大義を抱え、たくさんの孤児を人柱や生きた形代として使い潰した過去を。法師のためと呪を胎に施し、呪いを撒いた少女達がいた事を。
私と四人の声だけが覚えている。
私だけが住職を今も憎んでいる。
「どうかしましたか?顔色が優れないようです」
「いえ、大丈夫です…少し疲れているので、これで失礼させて頂きます」
これ以上住職の顔を見れず、部屋を出る。
思い出す必要のない記憶に、頭が痛くなりそうだ。
声は聞こえない。
心配しているのか、呆れているのか。
自分や他の子らにされた事を分かっていても尚、声は住職を慕い続ける。孤児だった自分達には他に選択肢はなく、そもそも彼に拾われなければ飢えて一人死ぬのを待つのみだったからだ。
愛されて、必要とされて死んでいける事が幸せだと誰かが言っていた事を覚えている。
それでも。
例え皆が納得していたとしても、どんな大義名分があろうとも、私だけは住職がした事を許せない。許してはいけない。
ふと、ここに来る前にした友人との会話の内容を思い出す。
もしもタイムマシンがあったなら、過去に行けるとしたら。
そんなの、やる事は決まっている。
法師様に出会う前の自分を連れて、どこか遠くに逃げるか。或いは。
いっそこの手で してしまうか、だ。
「……っ?」
ぐにゃりと歪む視界。いつもの発作だと気づいた時にはすでに、体は床に倒れ込んでいた。
目の前が青く、碧く、黒く塗りつぶされて。
息が出来ない。もがく事も出来ずに沈んでいく。
誰かの声。泣くような、嘆くような。
「彩《さい》っ!?」
どこか遠くで、法師様が。
昔の、何も知らないで笑っていた私の名を呼んだ気がした。
20240723 『もしもタイムマシンがあったら』
「私は幸せ者よ。こうして皆に愛されているのだもの」
人柱に選ばれた少女は、幸せだと微笑う。
「どっちみち死ぬんだからさ。それなら大切な人の役に立ちたいだろ?」
形代としてその身を苛む厄に苦しむ少年は、それでも役に立てるならばと笑う。
「法師様のためならば」
「法師様の邪魔をするやつなんて、いなくなってしまえばいい」
「大丈夫ですよ。法師様の敵はすべて呪いますから」
「ねぇ。次は誰を呪えばいいの?法師様」
呪いを唄う少女達は、皆口を揃えて法師様のためにと嗤う。
最後まで笑みを絶やさず。
最期まで死を厭わず。
「終わりは変わらない。一人孤独に飢えて死ぬか、皆に愛され看取られて死ぬかならどちらを選ぶかなんて決まっているだろう?蕾にもならず枯れるより、花咲いて散っていく方が素敵だと思わないかい?」
そう言って頭を撫でてくれたのは誰だったか。顔も思い出せないその人がくれたのは、優しさと慈しみだけだった。
「咲き終えて散った私をお願いするよ。他の散った子と同じように沈めて」
形代として生きたその人は、それだけを残し。しばらくして尊き方の厄を引き受け、散っていった。
散ったその人を棺に収め、沈めていく。
荼毘には伏せない。生きた形代はその身に溜めた厄が還らぬよう、封をされて水の底に留め置かれる。
法師様と二人。法師様と共に御務めを終えられた皆を見届けるのが、私に与えられた役目。
沈んでいく誰よりも優しかった人を見送り、ただ祈る。
「彩《さい》。儂を許すな」
祈る私に、法師様は告げる。
「どんな大義を掲げようと、皆が許そうと、儂の行いは外法でしかないのだ」
「はい。法師様」
頷いて、法師様の望む答えを口にする。ただの気休めにしかならず、本心ではない言葉と知りながら、法師様は何も言わず。優しく頭を撫でる、その手の温もりに目を伏せた。
一人きり。皆花咲いて、散っていってしまった。
法師様ももういない。
水面を見つめ、見届けた皆の最期を想う。
この水の底に沈むのは、人柱の腕。形代と呪いの亡骸。そして法師様。
合わせて三十。私を入れて三十一。
あぁ、と納得する。
法師様のくれた『彩』の意味。最後に施された最大の外法。
「許すな」と言った、その言葉の真意。
ようやく法師様の望みが。
法師様を許さず、憎む事が出来る気がした。
法師様はいない。昨夜、御祈祷半ばで亡くなられてしまった。
だからきっと、この術は完成していない。
それでも、と。
例え不完全であろうと、今ならばあるいは。
数は揃い、この身に負の想いを抱き。条件の揃った今ならば。
一歩足を踏み入れる。
恐怖はない。一人ではない事を知っている。
だから大丈夫。
口元に笑みを浮かべ、目を閉じて。
ただ、沈んでいく。
20240724 『花咲いて』
「こちらをどうぞ」
ことり、と小さく音を立て、小箱を置いた。
「貴女がお求めになった物です」
その言葉に女性は皺の刻まれた細い腕を伸ばし、小箱を引き寄せ緩慢な動作で蓋を開ける。
中から取り出されたのは、ひび割れ時を刻む事を止めた金の懐中時計。
慈しむ様に震える手で時計を抱きしめ、一筋涙を流した。
「ありがとう、ございます。これで…これで、もう。思い残す事はありません」
一礼し去っていくその背を見送り。
その姿が、気配がなくなった事を確認し、溜息と共に倒れ込んだ。
井草の匂いを堪能しつつ、目を閉じる。このまま少しだけ眠ってしまってもいいかもしれない。
「何やってんの?」
呆れた様な声が聞こえるが、疲れた身では何もする気が起きず。聞こえていない、と寝たふりをする。
「休みが欲しい、って言ってたよね?仕事したくないって、三食昼寝付きを強請ったよね?だから俺さん、現世に置いてきた迷い家《俺》を少し弄ってあげたよね?特別に別荘仕様にしてあげたよね?」
正論。反論を一切許さない程の言葉の羅列。
仕方なしに目を開ければ、こちらを覗き込む屋敷の主の満面の笑みが視界を覆う。
怒っている。我儘を言った手前何も言う事は出来ないが、それでも何か言わなければと焦りが生じ。
不意にその浮かんでいた笑みが消えた。
「何してんの?本当に」
これは非常によろしくない、気がする。
「ここまでお膳立てしてやってんのに何で仕事してんの?休むって意味分かってる?あれなの?本当は仕事するための場所が欲しかったの?だったら最初から言えよ嘘つき」
あまりの恐ろしさに、素早く身を起こし正座する。こんなもので態度が軟化する事はないが、せめてもの態度として。
「いや、仕事、したく、ない、です」
「だったらさっきのは何?」
無表情で問い詰められて答えに詰まる。だが答えなければ誤解は解けないし、この説教はいつまで経っても終わらない。答えに詰まった事でさらに刺々しくなった空気に冷や汗を流しながら、何とかか口を開いた。
「だって…だってさ。あの婆さん、しつこいんだぜ?ここまで憑いてきて、昼も夜もずっとあの時計を探してくれって五月蝿くて五月蝿くて」
「早く言えよ。対策ぐらいするってば」
知っている。
仕事疲れで思わず出た愚痴を、こうして本当にしているのだから。
空調の整った座敷。三食豪勢な和食が出、夜には床が敷かれ。しかも源泉掛け流しの温泉付きときた。常連だからという理由だけで、ここまでの贅沢。それなのに、老婆の霊に憑かれて怖いので何とかして欲しいなんて言える訳がなかった。
それと目の前の屋敷の主が極端な事だというのが少しだけ怖いというのもあるが。
「よし、分かった。隔離しよう。存在ごと隠してしまえば、失せ物探しを依頼する馬鹿もいなくなるはず」
「………ちなみに、どれくらい隠すつもりで?」
「一生」
何故そうなった。
昔からこの屋敷の主は両極端な所がある。それが子供の形をしているために思考もそちらに引きずられているからなのか、人間でないからなのかは分からないが。
「大丈夫。三食昼寝付きだし、欲しいものがあったら言ってくれれば用意できるし」
「いや働かせて?適度には労働させてくれないと困るんだが?」
「え?何で?」
心底不思議だというように首を傾げられる。
何故こうも軽率に人を隠そうとする選択肢が出てくるのか。長い付き合いではあるが、未だに理解ができない。
「そっちだって『マヨヒガ』を閉じて、ここで一緒にいてくれって言われても困るだろ?そういう事だよ」
「…それは……うん。じゃあ最初の約束通り十日だけ隔離しておくね」
にこにこと機嫌良く姿を消した屋敷の主を見送り、畳に寝転がる。
疲れた。本当に疲れた。
ただでさえあの女性の失せ物を探すのに、数日寝ずに式で海の底を探し続けていたのだから。しばらくは何もしたくはない。
ごろごろと寝返りを打つ指先が、煎餅が盛られた皿に触れる。三食以外におやつ付きだ。本当に贅沢である。
体を起こす気にもならず、行儀が悪いと思いながらも寝転がったまま煎餅を齧った。
変わらない味。昔から好きだった醤油味の煎餅。
好きな場所で好きなものを食べる。
これ以上の幸せはないな、と口元が緩んだ。
20240722 『今一番欲しいもの』