「なんでだ」
「何が?…って言うか、起きて第一声がそれってどうなの?」
知らず漏れた言葉に、目が覚めた。
前の席に座って起きるのを待っていてくれた友人は、その言葉に首を傾げて笑う。
放課後。気付けば外は夕暮れ時で。
「おはよう。随分とぐっすりだったね」
「マジか。起こしてくれたらよかったのに」
「起きなかったんだよ」
呆れる彼女にごめんと一言。
待っている間にすっかり寝入ってしまったらしい。
慌てて帰る準備をしようとすれば、まあまあと宥められ椅子に座らされた。
「で?何が『なんで』なの?」
顔を近づけ、寝起きの言葉の意図を追求される。
出来れば聞かなかった事にして欲しかった。
「…さあ?よく分かんない夢を見たような気もするし。見てない気もするし。むしろ何がなんでなのかこっちが聞きたいんだけど」
とりあえず誤魔化してみる。
本当の事など、今世と前世の違いを夢で見ていたなんて、言えるはずがないのだから。
「思い出してよ。あんだけ辛気臭い顔で言われたら気になるってば」
「無茶言うな。夢なんてすぐに忘れるわ」
今日はやけに食いついてくる。
だけど言えないものは言えないのだ。前世のなんて信じてはもらえないだろうし。そもそもこのもやもやした気持ちを言葉になんて出来るわけがない。言えて精々が「なんで」である。
不満に彼女は頬を膨らませ。
不意に閃いたかのように、満面の笑みを浮かべて身を乗り出した。
「じゃあさ。思い出せそうなイイトコロ、行ってみる?」
「………は?」
彼女の意図するものが分からず、首を傾げる。
その反応に彼女は笑みを更に深めて、内緒話のように囁いた。
「今度の連休にさ。何でも視える神様が祀られている神社に行こうよ。夢の内容だって見てもらえるかもよ」
電車とバスを乗り継いで、ようやく辿り着いたのは懐かしい景色。
神社、と聞いて嫌な予感はしていた。
けれども同時に、心の何処かで期待もしていた。
繰り返してきた前世の中で、必ずと言っていいほど生まれてきた場所。
案内などされなくとも、神社へ行く道は知っている。それに神社の宮司の事も。
思わず胸に手を当て、目を閉じる。
早鐘を打つ鼓動。友の声が遠くに感じる。
私は宮司に、狐に逢いたいのだろうか?
初めての事だった。
狐と出会う事のない生は。
最初はいつ出会うのかと怯えていた。七つを過ぎても出会う事がなく、ようやく解放されたと喜んだ。
この場所以外で生まれた事もあって、余計に毎日が輝いているようだった。
学校で学び、友と遊び、日々を謳歌して。
それなのに。
ふと気づけば、狐を探している自分がいた。狐のいない日々に違和感を感じ始めていた。
狐に怯えながらも、狐を求めてしまう。
理由は分からない。分かりたくないのかもしれない。自分の気持ちが分からない。
正に「なんで」であった。
「大丈夫?調子が悪いなら、行くのやめとこうか?」
目を開ければ、心配そうにこちらを見る友の顔。それに緩く首を振って石段に足をかける。
この石段を登れば、狐のいる神社だ。
一歩。また一歩。
逢いたいのか、逢いたくないのか。
気持ちの整理がつかないまま、それでも足を止める事なく。
あと数段。
後ろにいる友は、もう何も言わず。
息が上がる。足は止まらない。
最後の段を登り切り。
鳥居を潜り抜けて。
そして懐かしいその姿を認めた瞬間。
「おや?見慣れない方ですね。ようこそ…っ!?」
駆け出して、その勢いのままに抱きついた。
「は?え?な、何で?」
珍しく混乱しながらも振り解かれない事に、何故か安堵して。更にきつく、離れないように擦り寄った。
「紺。取り敢えず落ち着きましょうか?いえ、今世も紺なのかは分かりませんが。とにかく、落ち着きましょう?」
「……やだ」
落ち着いてはいる。何故か、とても。
「なんで?意味分かんない。納得いかないんだけど。ほんとになんで?」
「何がなんでなのかは分かりませんが、まずは少し離れましょう?それからワタクシの匂いを嗅がないで下さいな」
「やだ」
更に強くしがみつく。離すつもりはない。
悲しい事ではあるが、私の生は狐がいるのが当たり前らしい。
胡散臭くて、意地悪で。時々怖い狐ではあるが結局の所、私は最初の頃から狐に恋をしているのだ。
本当に不本意な事ではあるのだけれど。
「面白い事になっているなぁ、駄狐。良かったではないか。心優しき姉者に感謝し崇めるとよい」
「今立て込んでおりますので、アナタ様に構う暇はないのです。後にして頂けますか!…紺も。分かりましたから、このまま社務所に行きますよ?落ちないで下さいね」
引き離す事を諦めた狐に抱えられ、社務所へと連れられる。
狐の肩越しににんまり笑う神様と、その隣に立ち笑顔で手を振る友に見送られ。
「何ですか。何なんですか、もう。今世は諦めろと言われて、漸く…漸く納得出来たばかりだといいますのに」
文句を言いながらも、抱えるその腕は強く離れる事なく。狐の口元は柔らかく弧を描いて。
何故だか無性に腹が立ち、その頬に口付けた。
「っ!?な、何をなさっているのですっ?」
「宮司様、大好き」
「紺っ!?」
精々振り回されてくれればいい。
せっかく逢いに来たのだから。自覚してしまったのだから。今までの事を含めて責任を取ってもらいたい。
「大好き」
囁いて、赤くなるその表情の変化を見て笑う。
狐のいる日々が当たり前なんて、まったく不本意《ぜいたく》な事。
楽しまなければ、損である。
20240710 『私の当たり前』
夜の帳が下りれども、街は眠る事なく。
「明るいね。ちょっと前は暗かったのに」
昼と然程変わらぬ明るさを保つ街並みを横目に、猫は足取り軽く歩いていく。
目的は特になく。気の向くままに進路を変える。
「おい待て、猫。勝手にふらふらするんじゃねぇ。それと百年以上前は、ちょっととは言わん」
「確かに。人間にしてみれば、五十年すら長いな」
猫を追う影は二つ。深い蒼の瞳を持つ、人の形をとった蜘蛛が二人。
早足で近寄り、猫の首を掴んで持ち上げた。
「こら、猫を子猫のように持ち上げるな」
「うっせぇ。だったらおとなしくしてろ。着いてく方の身にもなれよ」
蜘蛛の言葉に、猫は不機嫌そうに激しく尾を揺らす。
小さく唸りを上げれば、もう一人の蜘蛛は手慣れた様子で猫を抱き上げ喉を擽る。途端に唸りは機嫌良く喉を鳴らす音に変わり、尾もゆらゆらと穏やかに揺れ出した。
「今日は何処に行くの?」
喉を擽る指はそのままに、蜘蛛が問う。それに猫は知らぬと答え。けれどもその眼は街の端、明かりの潰えた空き家に向いている。
「あのボロ屋か?物好きだな」
「行こうか」
猫を抱いたまま、蜘蛛は歩く。
道行く人々は未だ眠らず。けれど誰一人として、猫と蜘蛛らを気にかける者はない。
端に近づくにつれ騒めきは遠く、明かりは乏しく。
その家の周囲だけ、時が止まったかのように暗く静けさを保っていた。
「瑪瑙、猫を下ろせ。銅藍と待ってて」
「分かった」
地に降り立つと同時。猫の姿から人へと化ける。
一つ伸びをして、呼び鈴を押した。
「…はい」
「夜にごめんなさい。道に迷ってしまったの」
暫しの静寂。
近づく人の気配。かちり、と玄関の明かりが点いて。
その瞬間、遠くの明かりがすべて潰えた。
「こんな所に人が来るなんてねぇ。迷ったといってはいたが、誰かに会いに来たのかい?」
「昔の知り合いを訪ねに来たのだけれど。家には行けないし、暗いしで。どうしてしまったのかしら?」
街を振り返り、首を傾げて猫は言う。
その言葉に出てきた初老の女性は息を呑み、次いで悲しげに目を伏せた。
「ここはねぇ。数年前に大きな事件があって。街の中の人はだぁれもいなくなったんだよ。今残っているのは、あたしら端に住む年寄りぐらいなものさ…だからあんたの知り合いも、いないだろうねぇ」
「そうですか。教えてくれてありがとうございます」
「気を落とすんじゃないよ…それより今日はもう遅いからね。何もないが泊まっていくかい?」
気遣わしげな女性に、猫は笑って首を振る。
「大丈夫。少し立ち寄っただけだから、迎えはあるの。それじゃあ、さようなら」
「気をつけるんだよ」
女性に見送られながら、蜘蛛の元へ。
迎える二人を連れて歩き出す。
街の中は暗く。遠く微かに呻く声が聞こえ。
「何がどうなってんだよ。これ」
街の端。ぽつりぽつりと灯る明かりに、不可解さを隠さず蜘蛛は言う。
猫は欠伸を一つして。元の猫に戻るとゆらりと尾を揺らす。
「見るものすべてが正しくはないだけさ。よぉく覚えておくといいよ…世界はたまに逆しまになるからねぇ。迷い込んだら、気づくまでそのままさ」
くつくつ笑う猫はとても上機嫌で。
再び足取り軽く歩き出す。
目的はなく。気の向くまま、好きな方へ。
「そろそろ出会って半年だ。色々覚えて、立派なイチニンマエになるんだよ?」
「何だそれ?つか、出会って半年じゃなくて、五百年じゃねぇのか?」
問いかけに、猫は立ち止まり蜘蛛を見る。
「人間と猫を一緒にしてはいけないよ。五百年だろうと千年だろうと、猫が思えば半年だ」
「屁理屈か…なら一人前っつうのはなんだよ?」
「半年過ぎれば立派な大人だろう?独り立ちをしなければ」
当然の事だと告げる猫は、その言葉に表情を険しくする蜘蛛の二人に気づかない。
猫は自由気まま。思うまま。
誰かの機微になど気にかける事もない。
「さて、次は何処に行こうか」
「それなら今度は人のいる街で、美味しいものでも食べないかい?」
「それはいいな。猫は今、肉が食べたい気分だ」
「じゃあ行こうか。おいで、猫」
呼ばれ差し出された手に擦り寄り、大人しく抱かれる。顎を擽ぐられれば、すぐに喉がなった。
猫は気づかない。
優しく抱かれ、喉を擽るその指が。
少し乱雑に頭を撫ぜるその手が。
猫を縛る糸を巻きつけている事を。
猫を飼い慣らす為の呪いを施されている事を。
猫は気づかない。
ただ蜘蛛といるこの時を、猫なりに楽しんでいるだけだ。
20240709 『街の明かり』
「初めまして。こんばんは」
静寂を乱す、囁き。
前触れなく、気配なく聞こえたその声に、黒い化生の男は反射的に距離を取る。
「っ誰だ」
問うても、声の主は黙したまま。
その異様な風姿に、知らず眉根が寄った。
小柄で華奢な体躯。腰まである長く艶やかな黒髪。灰梅色の紬。
女、だとは思われる。
だがしかし、紬から覗く肌を余す事なく覆うように巻かれた呪符が容貌を隠しているが為に断ずる事が出来ない。
気配が薄い。まるでそこに何もいないような曖昧さに、巻かれた呪符が封印符だと気づく。
封じられているのであれば、見る事も、聞く事も、況してや話す事も出来ぬはず。
なれば、先ほどの声は、と。
その違和感に周囲を警戒するが、既に手遅れであった。
「陰陽捕縛。急急如律令」
呪符の巻かれた何かとは対角の。黒の化生の男の背後より聞こえた声に、男が身構えるより早く。放たれた呪が男を縛り、その場に縫い止める。
「無礼をお詫び申し上げまする。されど今宵は言葉を交わす刹那すら惜しい故に」
ゆるりと歩み寄る影。月明かりに浮かぶその姿は、化生の男よりなお黒い。
黒髪、黒眼。身に纏うすべても黒く。柔和な表情が異様さを際立たせていた。
「時とは有限刹那。況や今日という夜に於いてをや」
笑みを湛えた影からは敵意も悪意も感じない。だがその凪いだ気配が逆に警鐘を駆立てる。
距離を取ろうにも動かぬ体。声すら出す事も許されず、男は胸中で歯噛みした。
このまま祓われるのか。術師の装いをした、目の前の影に。
不意に影が立ち止まる。距離にして五歩。
その視線は男ではなく、その背後へと向けられて。
「痛みなどはありませぬ。刹那に終わりますれば」
影の言葉が終わると同時。
ぷつり、とナニカが切られる感覚。
痛みは、ない。ただ切られたという感覚と、喪失感。一つに混じり合っていた歪が、正しく二つに戻るような。
「解」
呪が解け、崩れ落ちる二つの体。
黒の男。白の少年。
惚けたように男を見つめる少年の金の左眼が次第に膜を張り、一筋涙を溢す。
「兄、さん…兄さん。兄さんっ!」
泣きながら縋りつく。
久方ぶりに感じる愛しい熱に、男はその小さな背に触れ、搔き抱いた。きつく、離さぬように。
そして弟を抱いたままに跳躍し、距離を取る。
「何が目的だ?」
「ただの密やかな礼だ。妹の眼を引き受けてくれた事への、な」
問いに答えたのは、影。
しかしその声音も口調も、先程までの影とは程遠く。最初に聞いた、女のそれだった。
「オマエ達は何だ?」
「さてな。死したもの。生の残滓…好きに断ずれば良い。敢えて付け加えるとすれば、愚弟から逃げ回る姉だったもの、か」
女の声音で淡々と言葉を紡ぎながら、影は呪符の女へと近づき、呪符越しに頬を撫ぜた。
「斯様な詮無き事などよいでしょう。大切なのは、この呪は今宵限りのものであるという事です」
振り返り、白と黒の兄弟に視線を向けながら、今度は男の声音で影は語る。
「今宵は別たれた者らが逢瀬を許された、唯一の日。その呪は伝承を擬えております故、日が昇れば呪は消え、再び一つと成る事で御座いましょう。故に私らに心を傾けるよりも、御兄弟で語る事の方が有意義ではありませぬか?」
影の言葉に息を呑む。
互いを抱く腕に、知らず力が籠り。
しかし白の少年は呪符の女を見つめ、微笑んだ。
「あの子の、お姉さん。ありがとう。兄さん、いっしょ、嬉しい。ありがとう」
「泡沫の夢を楽しむといい…あぁ、それと」
影を介して言葉を紡ぎ。呪符に封ぜられながらも、隙間から覗く金の瞳は確かに兄弟を見据え。
その金がゆらり、と揺らめいた。
「妹より先に鴉を探すといい。あれは名付け親だ。あれを納得させねば妹には逢えぬ…心配ならば愚弟共を使え。対価として今宵の話を出せば喜んで応じてくれるだろうよ」
「…いいの?あの子、いっしょ。いいの?」
期待と不安を混ぜ、白の少年は尋ねる。黒の男は何も言わず、ただ食い入るように呪符の女を見つめていた。
「それは妹御にお聞きくださいませ…それではこれにて失礼させて頂きます。参りましょうか、愛しき吾妹」
影は笑い、呪符の女を抱き上げる。
何か声をかけるより早く、その姿は夜の闇に消え。
後には、何も残らずに。
「兄さん」
ぽつりと呟く声。
しがみついたその腕は、離れる事はなく。
「お話、聞きたい。昔、昔のように。たくさん、たくさん」
「そうだな。話そうか…夜が明けるまで」
二人でいられる間は、と。
兄は弟に語る。いつかのように。
夜の静寂に、か細く甲高い鳥の声が響いていた。
20240708 『七夕』
約束をした。
夜に生きる友に青空を見せると。
初めての、そして唯一の友だった。たくさんの事を教えてくれた。与えてもらうばかりだった。
だからせめてもの恩返しとして。優しい友を光の元へ連れ出したかった。
それだけが願いだった。
「それで?我に如何しろと?」
腕を組み、不機嫌そうにこちらを睨め付ける神様に伏して願う。
「長様が。欠落が多い、と。人の形には戻せない、から…なので、どうか…」
「具体的に言え。何が『なので』だ」
吐き捨てられる言葉に、思わず身をすくめた。
ぎゅっと、目を閉じる。手にした小箱を胸に抱いて。
目を開けて、小箱を差し出した。
「友を、助けて下さい。ぼくを待って、陽に焼かれてしまった友に、どうかもう一度生を与えて下さい」
友との約束を果たすため、千里を駆けた。
けれど結局、友を青空の下へ連れ出す術は見つからず。仕方なしに代価品を手に友の元へ戻れば。
笑って迎え入れてくれる友の姿はなく。
物言わぬ亡骸が、陽の光に焼かれていた。
忘れていたのだ。人の生は短いのだと。
いくら妖の血が混じっていようと、友は人だという事を。
忘れて、友を夜に置いていったのだ。
「長様が。血縁であり神である御衣黄《ぎょいこう》様ならば、あるいは、と…願います。どうか友の魂を元にお戻し下さい」
「無理だ」
否定の言葉に、伏していた顔を上げる。
小箱に視線を向けるその表情は、どこまでも険しい。
「魂魄の修復なぞ、我が出来るわけないだろうに。それは常世のモノの領分よ。彼奴等が出来ぬというなら、他の誰にも出来ん」
力が、抜けていく。
友に二度と逢う事が出来ない。否、逢えなくてもいい。せめて新たな生は、と。
望みは絶たれ。ただ後悔と虚無感に、すべての感覚が遠くなる。
「おい。話を最後まで聞かんか。勝手に完結するな」
頭に衝撃を感じ。ぐらついた拍子に、手にした小箱の中身が微かに音を立てた。
「まったく…いいか?人間としての生は叶わぬ。だが此奴は妖混じりだ。欠片と灰しか残るものがないとはいえ、魂魄はある。器さえあれば、妖として在る事は出来よう」
「器…妖……」
「鏡を持っているだろう?」
鏡。言われて、取り出す。
望むものを映し出す術が刻まれた鏡。せめて青空を見せたいと持ち帰った代価品。
「妖として在る事を望めば定着し、成る。望まねば…そのままよ」
望まれれば。けれど望まれなかったとしたら。
不安を押し殺し、小箱の蓋を開ける。
灰と、埋もれる欠片。友の魂のすべて。
あの日。燃える亡骸に、魂に手を伸ばして届いたのはたったこれだけだった。
震える指で欠片を摘み、鏡に落とす。
波紋を広げながら沈んだ欠片に息を呑む。
小箱を持ち、中の灰を鏡に撒いて。跡形もなく呑み込まれていく様子を、ただ見ていた。
「定着までに時間を要するな。待つと良い」
「ありがとう、ございます」
一礼し、鏡を胸に抱く。
「本当に、ありがとうございました」
「勘違いをするな。我は可能性の一つを提示したまでの事。礼を言うべきは、望んだ子にだろう」
眉間に皺を寄せ、指を差される。
鏡は黙したまま。
最後まで不機嫌な様子で社に消えていく神を見送り、詰めていた息を吐いた。
鏡の縁をそっと撫でてみる。
いつ、目覚めてくれるのだろう。
勝手をした事を怒るだろうか。もう一度友になってくれるだろうか。
不安は尽きない。
それでも一言だけ。
ありがとう、と。
そう告げられる日を、目覚める時を待って、目を閉じた。
20240707 『友だちの思い出』
星降る空に手を伸ばす。
届かないと知っている。それでも手を伸ばさずにはいられない。
あの懐かしい日々の面影が、今は只々愛おしい。
約束は果たされないだろう。時間は有限だ。きっと間に合わない。
待てずに逝くこの身を許してほしい。これでも人としては長く生きたのだから。
だからどうか。
願わくば、記憶の片隅にでも留めておいてくれる事を。
終わりが近い。心穏やかにいられる事が、唯一救いだった。
「シロ?」
呼ばれ、目が醒める。
「…寝てた?」
「少しだけ」
覗き込む彼の指に目尻を拭われ、泣いていた事に気づいた。
恥ずかしくなって、身体を起こす。背を支えてくれる彼の手から感じる温もりに、何故だかとても泣きたくなった。
「大丈夫?」
「たぶん…何だろ?私じゃないけど、私のような?近い?感じの夢、だった。気がする」
首を傾げ、薄れていくその内容を思い出そうとする。
もう既に殆どが霞んで思い出す事が出来ないけれど、誰かを待っていた事は覚えていた。約束を待ち続けて。一人きりで星空を見上げて。
けれど待ちきれなかった。そんな、夢。
「クロノ。手、繋ぎたい」
「いいけど。ほら」
差し出される左手。右手を重ねて、そっと繋ぐ。
温かな、手の温もり。感じる、彼の優しさ。
「こうやって、手を繋ぎたかった。そんな気がする」
「夢の話?」
「うん。夢の話。それか、」
誰かの、思い出。
小さく呟くと、彼は優しく笑ってくれた。
手は、まだ繋いだまま。
「それなら、夢の誰かが満足するまで繋いでる?」
「いいの?」
「いいよ」
いつもの事だし、と続いた言葉に、少しだけむくれる。
それでも手は離さず。
気恥ずかしさから、誤魔化すように空を見上げれば、広がる星空に思わずため息が溢れた。
「…綺麗」
「ん。そうだね」
どこまでも続く、星の海の向こう側。
約束をした誰かは、今もこの星空を見ているのだろうか。何を思っているのだろうか。
ほんの少し。少しだけでいいから。
待つ事が出来ずに、置いていく事を悔やんだいつかの誰かを。二人手を繋いで過ごした日の事を。
想って欲しいと、そう願った。
20240706 『星空』