sairo

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「初めまして。こんばんは」

静寂を乱す、囁き。
前触れなく、気配なく聞こえたその声に、黒い化生の男は反射的に距離を取る。

「っ誰だ」

問うても、声の主は黙したまま。
その異様な風姿に、知らず眉根が寄った。

小柄で華奢な体躯。腰まである長く艶やかな黒髪。灰梅色の紬。
女、だとは思われる。
だがしかし、紬から覗く肌を余す事なく覆うように巻かれた呪符が容貌を隠しているが為に断ずる事が出来ない。
気配が薄い。まるでそこに何もいないような曖昧さに、巻かれた呪符が封印符だと気づく。
封じられているのであれば、見る事も、聞く事も、況してや話す事も出来ぬはず。

なれば、先ほどの声は、と。
その違和感に周囲を警戒するが、既に手遅れであった。

「陰陽捕縛。急急如律令」

呪符の巻かれた何かとは対角の。黒の化生の男の背後より聞こえた声に、男が身構えるより早く。放たれた呪が男を縛り、その場に縫い止める。

「無礼をお詫び申し上げまする。されど今宵は言葉を交わす刹那すら惜しい故に」

ゆるりと歩み寄る影。月明かりに浮かぶその姿は、化生の男よりなお黒い。
黒髪、黒眼。身に纏うすべても黒く。柔和な表情が異様さを際立たせていた。

「時とは有限刹那。況や今日という夜に於いてをや」

笑みを湛えた影からは敵意も悪意も感じない。だがその凪いだ気配が逆に警鐘を駆立てる。
距離を取ろうにも動かぬ体。声すら出す事も許されず、男は胸中で歯噛みした。

このまま祓われるのか。術師の装いをした、目の前の影に。

不意に影が立ち止まる。距離にして五歩。
その視線は男ではなく、その背後へと向けられて。

「痛みなどはありませぬ。刹那に終わりますれば」

影の言葉が終わると同時。
ぷつり、とナニカが切られる感覚。
痛みは、ない。ただ切られたという感覚と、喪失感。一つに混じり合っていた歪が、正しく二つに戻るような。

「解」

呪が解け、崩れ落ちる二つの体。
黒の男。白の少年。
惚けたように男を見つめる少年の金の左眼が次第に膜を張り、一筋涙を溢す。

「兄、さん…兄さん。兄さんっ!」

泣きながら縋りつく。
久方ぶりに感じる愛しい熱に、男はその小さな背に触れ、搔き抱いた。きつく、離さぬように。

そして弟を抱いたままに跳躍し、距離を取る。

「何が目的だ?」
「ただの密やかな礼だ。妹の眼を引き受けてくれた事への、な」

問いに答えたのは、影。
しかしその声音も口調も、先程までの影とは程遠く。最初に聞いた、女のそれだった。

「オマエ達は何だ?」
「さてな。死したもの。生の残滓…好きに断ずれば良い。敢えて付け加えるとすれば、愚弟から逃げ回る姉だったもの、か」

女の声音で淡々と言葉を紡ぎながら、影は呪符の女へと近づき、呪符越しに頬を撫ぜた。

「斯様な詮無き事などよいでしょう。大切なのは、この呪は今宵限りのものであるという事です」

振り返り、白と黒の兄弟に視線を向けながら、今度は男の声音で影は語る。

「今宵は別たれた者らが逢瀬を許された、唯一の日。その呪は伝承を擬えております故、日が昇れば呪は消え、再び一つと成る事で御座いましょう。故に私らに心を傾けるよりも、御兄弟で語る事の方が有意義ではありませぬか?」

影の言葉に息を呑む。
互いを抱く腕に、知らず力が籠り。

しかし白の少年は呪符の女を見つめ、微笑んだ。

「あの子の、お姉さん。ありがとう。兄さん、いっしょ、嬉しい。ありがとう」
「泡沫の夢を楽しむといい…あぁ、それと」

影を介して言葉を紡ぎ。呪符に封ぜられながらも、隙間から覗く金の瞳は確かに兄弟を見据え。
その金がゆらり、と揺らめいた。

「妹より先に鴉を探すといい。あれは名付け親だ。あれを納得させねば妹には逢えぬ…心配ならば愚弟共を使え。対価として今宵の話を出せば喜んで応じてくれるだろうよ」
「…いいの?あの子、いっしょ。いいの?」

期待と不安を混ぜ、白の少年は尋ねる。黒の男は何も言わず、ただ食い入るように呪符の女を見つめていた。

「それは妹御にお聞きくださいませ…それではこれにて失礼させて頂きます。参りましょうか、愛しき吾妹」

影は笑い、呪符の女を抱き上げる。
何か声をかけるより早く、その姿は夜の闇に消え。
後には、何も残らずに。


「兄さん」

ぽつりと呟く声。
しがみついたその腕は、離れる事はなく。

「お話、聞きたい。昔、昔のように。たくさん、たくさん」
「そうだな。話そうか…夜が明けるまで」

二人でいられる間は、と。
兄は弟に語る。いつかのように。


夜の静寂に、か細く甲高い鳥の声が響いていた。




20240708 『七夕』

7/9/2024, 2:43:37 AM