「長」
囁く声に振り返る。
「 」
名を呼べど、名は言葉にはならず。
それが意味するものを知り、静かに目を伏せた。
「長。そんな顔をしないで?私が選んだのだから」
穏やかで、どこまでも澄んだ声音。
これから消えゆくモノとは思えぬ程に凪いでいながらも、その内に内包された隠しきれない幸せを感じ。
不思議に思い顔を上げれば、幸せそうに頬を染めて微笑う少女のような子と視線が合った。
あぁ。と納得する。
子は一人ではないのだと。恋う者と共に逝く事が出来るのだと。
「良い顔をする。汝は一人ではないようだな」
「そうね。今、とても満たされているの。これから消えてしまうというのに、とっても可笑しな事」
くすくすと鈴の音を転がすように、子は微笑う。
「名をあげたの。欲しいと望まれたから最後に応えた。ただ、それだけ。私と共に消えていく名をあの人に呼ばれた」
搔き抱いた布の中身が、小さく音を立てた。
「それだけで幸せ。名を呼ばれて最後にもう一度だけ触れ合えた、それだけで…本当に可笑しな事ね。妖が人に恋するなんて」
「可笑しな事はないさ。妖を恋う人がいるように、妖が人を恋うても良いだろう?」
元より妖は乞うモノなのだから。
人に応える事で己の存在を乞う。認識を乞い、人を恋う。何も可笑しな事はない。
笑みを浮かべ伝えれば、やはり子は鈴の音のような声音で泣くように笑った。
「そっか。そうね…ずっとそうだったね。私はずっとあの人だけだった」
腕に抱いた布を一度抱き、差し出される。
「長。最後にお願い出来る?集められるものは集めたのだけれど。全ては無理だった」
布の中身を見れば、粉々に砕けた黒曜の欠片。
子が恋う人の、魂の残骸。
砕けてしまったが故に足りぬ部分は確かにある。元の通りとはいかぬものの、一つの形として戻せぬ事はないだろう。
「汝の最後の頼みよ。時間は要するが人の子としてまた流してやろう」
「ありがとう、長」
慈しむように布ごしに黒曜を撫で、静かに下がる。
笑みを湛えたままの子の姿が、解けるように形を崩し。
まるで初めから何もなかったかのように。何一つ残るものはなく。
ただ一つ。手にした黒曜が、子が確かにここにいたのだと声なく告げていた。
20240627 『君と最後に会った日』
空を焦がす星よりも、綺麗で儚い存在を初めて見た。
「名付け親…此《これ》が……」
差し出した指を両手で握り、にこにこ笑う赤子。
未だ眼も開かぬ小さな存在から目を離す事が出来ない。
「頼めるか。この子は鬼《私》の血が濃い故に、繋ぎ止める楔が必要なんだ」
「いや、でも此が名付けなんてッ」
名は縛るものだ。
彼女の言う楔の意味も理解は出来る。妖にも人にも成り得ないこの不安定で小さな光を留めるには、名で縛るしかないだろう。
けれど。いや、だからこそ。此が名を与えるべきではないはずで。
「花曇はそれでいいのか?誉も何で黙ッてる!」
少し離れた場所に座る彼を睨め付けても何も語りはせず。穏やかな微笑みを湛えてただこちらを見つめていた。
「納得しているよ。だからこそ人である誉はこの場では何も言わない…それに東風を選んだのは私達ではなく、この子自身だ」
「ッ…この子、が?」
子に視線を戻す。
握られたままの指をそっと引き抜けば、笑みを浮かべていた顔がくしゃりと歪み、声を上げて泣き出した。慌てて指を戻しその小さな両手に握らせれば、途端に泣き止み笑みを浮かべ。その姿に何故かどうしようもなく胸がざわついた。
「ほらな。東風が良いそうだ」
楽し気に笑われながらそう告げられれば、それ以上は何も言えず。握られている指はそのままに、空いている手で子の柔らかな雪のように白い髪を撫ぜ考える。
花のように笑う小さな白い子に相応しい名を。
「…本当に後悔はしないな?」
最後にもう一度だけ二人に問えば、返る言葉の代わりに頷き微笑まれた。
一つ息を吸い、吐く。
握られた指を引き抜き、脇の下に手を差し入れ抱き上げる。
羽のように軽く、小さなその身体を壊してしまわぬよう気を配りながら。そっと胸に抱き留めて。
「銀花」
溢れ出た名に、異を唱えるものはなく。
愛しい名付け子は、変わらず笑みを浮かべ此を求めるように手を伸ばした。
20240626 『繊細な花』
あの日の悪夢を今も見る。
雨が降っていた。
ざあざあ、と激しい雨が。床板を打ち、戸や壁を濡らし。
臥した家族を、冷たく打ち据えていた。
父。母。妹。続き間の向こうに重なるのは祖父母。廊下の先には従姉妹と叔父叔母が臥している。
異様な光景だった。在り得るはずのない事だった。
家の中、激しく降る雨。
臥して動かない家族や親戚。
そして、部屋の中心でこちらに背を向け佇む、黒い着物姿の女。
雨の降り頻る中でも、決して濡れる事はなく。背後を振り返る事なく、何かを口遊む。
それは只管に異様な光景だった。
雨が更に強くなる。口遊む声は雨音に掻き消え、視界が烟る。
女が振り返り、嗤った気がした。
「…!……っ!」
目が覚めた。
詰めていた息を吐き、身を起こす。
見慣れた天井。軋むベッド。
心配そうな顔の幼馴染。
「大丈夫?すごくうなされていたけど」
額に伸ばされた手を振り払う。
傷付いた眼をしながらごめん、と謝るその姿を視界に入れる事さえ煩わしい。
幼馴染は何も知らない。
あの日、自分と血の繋がりのある人は誰もいなくなった。
父も。母も。妹も。雨が上がると、皆姿を消していた。雨が降った形跡もなく、まるで最初から何もなかったかのように。誰一人、何一つ残るものはなかった。
幼馴染は誰も知らない。
いなくなってしまった人達の事を、誰も覚えてはいなかった。
なかった事にされた。雨を降らす現人神《妹》の存在を、それに傾倒していた家族、親族を消されてしまった。
自分だけが覚えている。皆の事を。あの日の恐怖を、自分だけが。
「…シズク」
存在を消された妹の名を呼ぶ。
その名に幼馴染が困惑するが、それを気にするつもりはなかった。
「っ、待って」
立ち上がり、幼馴染の横をすり抜けようとすれば、袖を引かれ呼び止められる。
「もう少し休んだ方がいいよ。顔色も悪いし、ふらついてる。ずっと探しものをしているみたいだけど、このままじゃ身体を壊しちゃうよ。だからもっと、」
「うるさい」
引かれた腕を振り解く。
視線を向ければ、泣きそうに琥珀の瞳が揺れていた。
けれど今はそれすらも、苛立って仕方がない。
何も知らないくせに。
あの日感じた死の恐怖を。続く悪夢を。何一つ分からないのに。
こうして無遠慮に吐き出される言葉が、態度が酷く癇に触る。
「うるさい。俺の邪魔をしないで。いらいらするから」
「だけど…」
尚も食い下がるその様子に、更に苛立ちが募る。
もう我慢の限界だった。
「いい加減にして。もう二度と俺に関わるな!」
琥珀が揺れる。
唇を噛み締め俯く幼馴染から視線を外し、部屋を出る。
しばらくは邪魔をされないですむだろう。
調べる事は、やるべき事はまだたくさんある。
雨の事。黒い着物の女の事。生き残る事。
あれから一年。まだ一年だ。
自分だけが生きている理由は分からない。またあの女が来て、今度は自分が殺されてしまうのか。それとも二度と現れず、これからも生きる事が許されるのか。
まだ何も分かってはいない。だからこそ生きる為に必要な情報を、手段を探さなければ。
死ぬのは怖かった。置いていくのが恐ろしかった。
忘れ去られ、なかった事にされるのが許せなかった。
ぐらつく意識を押し留め、外に出る。
晴れ渡る青空に、どうかこのまま雨が降らないでと胸中で呟いた。
20240625 『1年後』
「花曇」
愛しい彼女の名を呼ぶ。
「どうした?」
振り返る彼女の腕の中には、泣き疲れて眠ってしまった子。先程まで激しく泣いていたとは思えない程、今は穏やかに眠っている。
起こさぬように気をつけながら、そっと頬に触れる。柔らかで暖かなその温もりに、知らず笑みが浮かんだ。
「代わります。花曇は少し休んだ方がいい」
「問題ない。気にするな」
けれど、と続けようとした言葉は、彼女の表情に形を無くす。
困ったように、けれどとても幸せそうな微笑み。
我が子を腕に抱ける事が何より幸せだと、離れたくないのだと伝える眼差し。
そんな表情《かお》をされたのでは、もう何も言う事など出来る筈がなかった。
「すまないな。だが少しでも長く側に在りたいんだ…この子も人の血が強いから、すぐに成長してしまう」
幸せそうな微笑みが僅かに陰る。
「そうなれば、あの子と同じように現世で生きていく選択をするのだろうから」
あの子。一番最初に産まれた長男《子》。
活発で好奇心が旺盛で。急に現世に行くと言い、そのまま帰る事はなかった。
そういえばあの子が子供の頃は、甘えたがりですぐ彼女や自分に擦り寄っていたなと、取り留めのない事を思い出した。
「その選択が悪いわけではないんだ。だが、やはり寂しくなるからな」
この先の別れを想像して、寂しがりな彼女は小さく笑う。
何を思っているのか。誰を想っているのか。
子供の頃には気づく事のなかった彼女の一面に、耐えきれず笑みが溢れてしまう。
「すみません。花曇がとても可愛らしいなって」
「…誉」
「ごめんなさい、おにさま。でも、忘れないでくださいね」
笑ってしまった事に気分を損ねてしまった愛しい彼女の髪を撫でて。
謝罪の言葉と共に、告げる。
「僕はいつだって貴女の側にいます。何があっても離れたりしません」
それは初めて会った時から願っていた事。共にいる事を許された時に誓った事。
「っ、主は相変わらずだな」
「はい。相変わらずです」
それだけは、相変わらず変わらない。
子供の頃から想い続けているのだから。言葉にし続けているのだから。
「忘れないでくださいね、おにさま?」
頬を染め俯いてしまった彼女と、その腕の中で変わらず穏やかに眠る我が子を見ながら。
今の幸せを、ただ愛おしく思った。
20240624 『子供の頃は』
「一番目」
感情の乗らない声音で妹が呟く。
「お兄ちゃん、の方がいいんだけどなぁ」
「お兄ちゃん…?」
無表情のまま首を傾げる姿はとても幼げだ。
巻くのに手間取っていた葛《かずら》を代わりに巻く。無感情なありがとうの言葉に、思わず頭を撫でてしまった。
白い花弁が散る。けれど触れた部位の葛は解けていない事を確認し、安堵した。
「なぁ、にい」
二番目。
俺と同じく、産まれる事の出来なかった胎児《妹》。
「なに?お兄ちゃん」
「ここから出ないか?」
妹を形作る葛が伸びる先。大杉に巻きついた大元の蔓に触れながら尋ねる。
この葛は妹をこの地に繋ぎ止める楔だ。この葛がある限り、妹はここに在る事は出来るが、代わりにどこにも行く事が出来ない。
「姑獲鳥《うぶめ》が産んでくれるから。だから兄ちゃん達と一緒に行かないか?」
「…行かない」
静かな否定。
予想はしていた返答に苦笑する。
「そっか…ごめんなぁ、ワガママ言って」
葛から手を離し、妹の隣に座り込む。
小さなごめんなさいの言葉に、緩く頭を振って気にするなと告げる。
無理強いをするつもりは最初からなかった。
「にいが嫌ならそれでいいんだ。これは兄ちゃんの自己満足だから」
「自己満足?」
「そ。妹弟《きょうだい》が穏やかな日常を過ごして笑ってくれれば、って。ただの自己満足」
幸せでいてほしいから。
だけどそれは、俺が一方的に与えたいワケではない。妹弟の幸せのカタチは違うのだから。
妹がここにいる事を選択したのだ。その選択を尊重したかった。
本音で言えば、今すぐ葛を切って連れ出してしまいたい。
姑獲鳥に産んでもらう事で妖の子に成ってしまうが、それでも産まれてほしかった。自分の足で好きな場所に行き、いろいろなものを見て触れて。美味いものを食べて、悪夢を見る事なく穏やかに眠る。
笑って、泣いて、怒って。そんな些細な日常を過ごしてもらいたかった。
「じゃあ、兄ちゃんはそろそろ行くな」
そんな押し付けがましい思考に蓋をして、立ち上がる。
「また来てもいいか?」
「いいよ。また来て」
否定はされず、受け入れられた事に少しだけ気分が高揚する。
単純だと自嘲しながらも、振り返らずに歩き出す。
しかし、
「…ねえ、お兄ちゃん」
「どうした?」
静かな声音で呼ばれ、足を止めた。
振り返れば、珍しく言い淀んでいる妹の姿。言葉を探してゆっくりと口を開いた。
「夢に、聞いてみる…葛を巻いたのは夢だから」
息を呑む。
「だから、夢がいる時にまた来て」
「分かった。ちゃんと来るから」
約束して、踵を返す。
優しい妹だ。幸せにしたいと思って、逆に幸せをくれる。
もう一人の妹《銀花》も同じだ。一緒にいてくれて、同じように幸せを与えてくれる。
一番幸せになっているのは俺なのかもしれない。
20240623 『日常』