「花曇」
愛しい彼女の名を呼ぶ。
「どうした?」
振り返る彼女の腕の中には、泣き疲れて眠ってしまった子。先程まで激しく泣いていたとは思えない程、今は穏やかに眠っている。
起こさぬように気をつけながら、そっと頬に触れる。柔らかで暖かなその温もりに、知らず笑みが浮かんだ。
「代わります。花曇は少し休んだ方がいい」
「問題ない。気にするな」
けれど、と続けようとした言葉は、彼女の表情に形を無くす。
困ったように、けれどとても幸せそうな微笑み。
我が子を腕に抱ける事が何より幸せだと、離れたくないのだと伝える眼差し。
そんな表情《かお》をされたのでは、もう何も言う事など出来る筈がなかった。
「すまないな。だが少しでも長く側に在りたいんだ…この子も人の血が強いから、すぐに成長してしまう」
幸せそうな微笑みが僅かに陰る。
「そうなれば、あの子と同じように現世で生きていく選択をするのだろうから」
あの子。一番最初に産まれた長男《子》。
活発で好奇心が旺盛で。急に現世に行くと言い、そのまま帰る事はなかった。
そういえばあの子が子供の頃は、甘えたがりですぐ彼女や自分に擦り寄っていたなと、取り留めのない事を思い出した。
「その選択が悪いわけではないんだ。だが、やはり寂しくなるからな」
この先の別れを想像して、寂しがりな彼女は小さく笑う。
何を思っているのか。誰を想っているのか。
子供の頃には気づく事のなかった彼女の一面に、耐えきれず笑みが溢れてしまう。
「すみません。花曇がとても可愛らしいなって」
「…誉」
「ごめんなさい、おにさま。でも、忘れないでくださいね」
笑ってしまった事に気分を損ねてしまった愛しい彼女の髪を撫でて。
謝罪の言葉と共に、告げる。
「僕はいつだって貴女の側にいます。何があっても離れたりしません」
それは初めて会った時から願っていた事。共にいる事を許された時に誓った事。
「っ、主は相変わらずだな」
「はい。相変わらずです」
それだけは、相変わらず変わらない。
子供の頃から想い続けているのだから。言葉にし続けているのだから。
「忘れないでくださいね、おにさま?」
頬を染め俯いてしまった彼女と、その腕の中で変わらず穏やかに眠る我が子を見ながら。
今の幸せを、ただ愛おしく思った。
20240624 『子供の頃は』
「一番目」
感情の乗らない声音で妹が呟く。
「お兄ちゃん、の方がいいんだけどなぁ」
「お兄ちゃん…?」
無表情のまま首を傾げる姿はとても幼げだ。
巻くのに手間取っていた葛《かずら》を代わりに巻く。無感情なありがとうの言葉に、思わず頭を撫でてしまった。
白い花弁が散る。けれど触れた部位の葛は解けていない事を確認し、安堵した。
「なぁ、にい」
二番目。
俺と同じく、産まれる事の出来なかった胎児《妹》。
「なに?お兄ちゃん」
「ここから出ないか?」
妹を形作る葛が伸びる先。大杉に巻きついた大元の蔓に触れながら尋ねる。
この葛は妹をこの地に繋ぎ止める楔だ。この葛がある限り、妹はここに在る事は出来るが、代わりにどこにも行く事が出来ない。
「姑獲鳥《うぶめ》が産んでくれるから。だから兄ちゃん達と一緒に行かないか?」
「…行かない」
静かな否定。
予想はしていた返答に苦笑する。
「そっか…ごめんなぁ、ワガママ言って」
葛から手を離し、妹の隣に座り込む。
小さなごめんなさいの言葉に、緩く頭を振って気にするなと告げる。
無理強いをするつもりは最初からなかった。
「にいが嫌ならそれでいいんだ。これは兄ちゃんの自己満足だから」
「自己満足?」
「そ。妹弟《きょうだい》が穏やかな日常を過ごして笑ってくれれば、って。ただの自己満足」
幸せでいてほしいから。
だけどそれは、俺が一方的に与えたいワケではない。妹弟の幸せのカタチは違うのだから。
妹がここにいる事を選択したのだ。その選択を尊重したかった。
本音で言えば、今すぐ葛を切って連れ出してしまいたい。
姑獲鳥に産んでもらう事で妖の子に成ってしまうが、それでも産まれてほしかった。自分の足で好きな場所に行き、いろいろなものを見て触れて。美味いものを食べて、悪夢を見る事なく穏やかに眠る。
笑って、泣いて、怒って。そんな些細な日常を過ごしてもらいたかった。
「じゃあ、兄ちゃんはそろそろ行くな」
そんな押し付けがましい思考に蓋をして、立ち上がる。
「また来てもいいか?」
「いいよ。また来て」
否定はされず、受け入れられた事に少しだけ気分が高揚する。
単純だと自嘲しながらも、振り返らずに歩き出す。
しかし、
「…ねえ、お兄ちゃん」
「どうした?」
静かな声音で呼ばれ、足を止めた。
振り返れば、珍しく言い淀んでいる妹の姿。言葉を探してゆっくりと口を開いた。
「夢に、聞いてみる…葛を巻いたのは夢だから」
息を呑む。
「だから、夢がいる時にまた来て」
「分かった。ちゃんと来るから」
約束して、踵を返す。
優しい妹だ。幸せにしたいと思って、逆に幸せをくれる。
もう一人の妹《銀花》も同じだ。一緒にいてくれて、同じように幸せを与えてくれる。
一番幸せになっているのは俺なのかもしれない。
20240623 『日常』
赤。青。黄色。緑。白。
硝子の瓶を満たす、色鮮やかな何か。
「あげる」
柔らかな笑みと共に渡された、きらきらとした瓶の中身。
初めて見る、それ。
綺麗だけれど何に使うものか分からず首を傾げれば、目の前の彼は驚いたように眼を瞬かせた。
「飴。食べた事ないの?」
「食べれるの、これ?」
疑問に疑問で返せば小さく笑われ、その手が瓶の蓋へと伸びる。ぽんっ、と軽い音を立て蓋を外すと、中の小さな粒を一つ摘み上げた。
「はい。あーん」
促されるままに開いた口に入れられる粒。途端に口の中に広がる甘さに、思わず頬が緩んだ。
「甘いっ!クロノ、これすっごく甘くて美味しいよ!」
「気に入った?」
「うんっ!とっても!」
飴、は固く噛む事が難しい。代わりに舐めて転がせば、その甘さが口いっぱいに広がって何だか幸せな気持ちになってくる。
「それ、色ごとに味が違うんだ。シロは何味…何色が好き?」
好きな色を尋ねられ、瓶を見ながら考える。
好きな色。好きなもの。
からころ、と飴を転がしながら。
それはやっぱり、と胸中で付け加えながら呟いた。
「ん…と。青、とか…空色、かな」
写真の中で見る、あのどこまでも澄んだ空の青は好きだ。これからもきっと変わらない。
「そっか。青、だとソーダ味かな。これも甘いから気にいると思うよ」
くすくすと笑い、彼は瓶の中の空色を指さす。
初めから答えが分かっていたようなその態度に、少しだけ気分を損ねながらも。
でも、と言葉にはせずに付け加えた。
空を思わせる青は好きだ。
けれど。それよりも。
楽し気に笑う彼のその、夜を溶かしたような紺青が。優しい彼の艶やかな髪色が。
今は他の何よりも大好きなのだと。
心の内に留めながら。
にやり、と彼に笑い返してみせた。
20240622 『好きな色』
「痛い?痛い?ごめんなさい。ごめんなさい…望んだの、ごめんなさい」
謝罪の言葉を繰り返す彼に、大丈夫の一言さえ伝わらない。
身体が重い。あまり間を置かずに応えた反動なのか、何をするにも酷く億劫だ。
「嬉しい。嬉しい…ごめんなさい、ありがとう」
望まれ差し出した左手で、ぎこちなく髪を撫でられる。不器用な優しさに段々と意識が微睡んでいく。
「待っていた。ずっと。ずっと。あなたがいた。来てくれた…だから、一緒。一緒に。ごめんなさい。ごめんなさい」
繰り返される謝罪の言葉。微睡み上手く働かない思考の中で、どうすれば彼に伝わるかをぼんやりと考える。
大丈夫だと。気にする事はないのだと。
差し出した場所の痛みはなく。出会う前に強く感じていた焦燥感や衝動も収まり、とても穏やかだ。
だからもう謝らないでほしい、と。重い右腕を必死て動かし、頬に触れた。
「相変わらずだな。オマエは」
揺らめいて、彼の姿が白から黒へと変わる。
呆れたような言葉とは裏腹に、その表情はとても楽しげだ。
大丈夫だから、もう謝らないで。
声なき言葉で彼に伝える。
伝わったのだろう。僅かに目を見張った彼は次の瞬間には薄く笑い、頭を軽く叩いてきた。
「その見目で大丈夫とは言えないだろうが」
今の姿を自覚させるように、左手が伽藍堂の左眼の縁をそっと撫でる。
「あまり気軽に応えるな。さらに望みたくなる…諦められなくなるだろうが」
微かな呟き。
思わず身を起こそうとすれば、左腕がそれを許さずに。逆に引き寄せられ、彼に身を預ける格好になる。
「逃げるな、ここにいろ。オマエがここにいる限り、オレ達はこれ以上を望まない。弟がオマエを損ねる事を嫌がるからな」
顎を掬われ、視線を合わせて告げられる。元は自分の左眼だというのに、強い光を湛えた金から視線を外す事が出来ない。
「オマエがいる事で、弟は希望を見出した。だがオレは諦観を否定された。その責任を取ってくれ……あぁ、違うな。オマエにはこう言った方が満たされるか」
一つしかない金が、弧を描く。顔を寄せ、互いに触れ合いそうな距離で彼は囁くように告げた。
「オレ達とこの先も共に在る事を、オレ達は何より望んでいる」
望まれる。私の中の妖の衝動が応えろと声を上げる。
霞む意識の中、望みに応えようと言葉を形作る為に口を開いて。
けれど、それよりも速く。
それ以上を許さぬように吹いた一陣の風が。
視界を覆い、そのまま意識をも隠していく。
「返せ」
それは誰の声か。
確かめる事は出来ぬまま、意識が落ちる。
「ーーー銀花」
懐かしい声が名前を呼んだ気がした。
20240621 『あなたがいたから』
「鋏」
雨に濡れながら佇む小さな姿に声をかける。
返事は、ない。
近づき傘を差し掛ける。雨の冷たさがなくなったか、酷く緩慢な動作で傘を見、藤《私》を見た。
「ふじさま」
「このままだと錆びてしまうよ」
「ふじさま」
くしゃりと顔を歪ませて、泣くように笑う。
「いま、ひどいことをおもいました。かさをさしかけるのはあのこがいいと。そうおもいました」
ごめんなさい、と頭を下げる。傘を打つ雨の音が泣くように響く。
「さいしょに、ながきえました。つぎにこえ…いまは、すがたもきえています。もうあのこがだれなのか、わからない」
あの子。ただ一人の望みに応え、一人の終わりと共に消えた妖。
思い出せるものは何もなく、けれども確かにここに『在った』事実だけが残っている。
「わからないのに、おぼえているんです。こうしてあめにぬれていると、かならずかさをさしかけてくれて。ひとつのかさにふたりで。てをつないで。おささまのところにかえるんです……わからないけど、ちゃんとおぼえている」
「在った事はなくならないからね。それが妖だ」
頭を上げた鋏はやはり泣きそうに笑う。
「あやかしはなぜあるのでしょうか?にんげんがいなければ、あることもできない。そのいみはなんでしょう?」
「さあね。藤《私》には難しい事は分からない。でも」
鋏の頭を撫でながら、今まで見てきた人の子らを思い出す。
藤《私》を愛でる人の笑顔を。村に生きる人の声を。村に害なす人の最期を。
様々な人の生を思い出し、人と共に在った妖を想う。
「妖は人と共にあるモノだよ。藤《私》も鋏も人がいるからこそ愛される」
「…あい、される」
「そうだろう。人に愛され大切に使われてきたからこそ、鋏がここにいるのだから」
九十九《つくも》とはそういうものだ。
使い捨てられたならば、こうして妖となる事もない。人に愛されたが故に、こうして在れるのだから。
「そうですね。あい、されてきました。ずっと。ずっと」
呟く鋏の頭をもう一度撫で、そのまま手を繋ぐ。
「帰ろうか」
「はい…かえりましょう」
手を繋いだまま歩き出す。
雨は、まだ止まない。
鋏の求める妖は、傘を差し掛けることはない。
それでも横目に見る鋏の表情は、先ほどよりも穏やかに見えた。
20240620 『相合傘』