「痛い?痛い?ごめんなさい。ごめんなさい…望んだの、ごめんなさい」
謝罪の言葉を繰り返す彼に、大丈夫の一言さえ伝わらない。
身体が重い。あまり間を置かずに応えた反動なのか、何をするにも酷く億劫だ。
「嬉しい。嬉しい…ごめんなさい、ありがとう」
望まれ差し出した左手で、ぎこちなく髪を撫でられる。不器用な優しさに段々と意識が微睡んでいく。
「待っていた。ずっと。ずっと。あなたがいた。来てくれた…だから、一緒。一緒に。ごめんなさい。ごめんなさい」
繰り返される謝罪の言葉。微睡み上手く働かない思考の中で、どうすれば彼に伝わるかをぼんやりと考える。
大丈夫だと。気にする事はないのだと。
差し出した場所の痛みはなく。出会う前に強く感じていた焦燥感や衝動も収まり、とても穏やかだ。
だからもう謝らないでほしい、と。重い右腕を必死て動かし、頬に触れた。
「相変わらずだな。オマエは」
揺らめいて、彼の姿が白から黒へと変わる。
呆れたような言葉とは裏腹に、その表情はとても楽しげだ。
大丈夫だから、もう謝らないで。
声なき言葉で彼に伝える。
伝わったのだろう。僅かに目を見張った彼は次の瞬間には薄く笑い、頭を軽く叩いてきた。
「その見目で大丈夫とは言えないだろうが」
今の姿を自覚させるように、左手が伽藍堂の左眼の縁をそっと撫でる。
「あまり気軽に応えるな。さらに望みたくなる…諦められなくなるだろうが」
微かな呟き。
思わず身を起こそうとすれば、左腕がそれを許さずに。逆に引き寄せられ、彼に身を預ける格好になる。
「逃げるな、ここにいろ。オマエがここにいる限り、オレ達はこれ以上を望まない。弟がオマエを損ねる事を嫌がるからな」
顎を掬われ、視線を合わせて告げられる。元は自分の左眼だというのに、強い光を湛えた金から視線を外す事が出来ない。
「オマエがいる事で、弟は希望を見出した。だがオレは諦観を否定された。その責任を取ってくれ……あぁ、違うな。オマエにはこう言った方が満たされるか」
一つしかない金が、弧を描く。顔を寄せ、互いに触れ合いそうな距離で彼は囁くように告げた。
「オレ達とこの先も共に在る事を、オレ達は何より望んでいる」
望まれる。私の中の妖の衝動が応えろと声を上げる。
霞む意識の中、望みに応えようと言葉を形作る為に口を開いて。
けれど、それよりも速く。
それ以上を許さぬように吹いた一陣の風が。
視界を覆い、そのまま意識をも隠していく。
「返せ」
それは誰の声か。
確かめる事は出来ぬまま、意識が落ちる。
「ーーー銀花」
懐かしい声が名前を呼んだ気がした。
20240621 『あなたがいたから』
「鋏」
雨に濡れながら佇む小さな姿に声をかける。
返事は、ない。
近づき傘を差し掛ける。雨の冷たさがなくなったか、酷く緩慢な動作で傘を見、藤《私》を見た。
「ふじさま」
「このままだと錆びてしまうよ」
「ふじさま」
くしゃりと顔を歪ませて、泣くように笑う。
「いま、ひどいことをおもいました。かさをさしかけるのはあのこがいいと。そうおもいました」
ごめんなさい、と頭を下げる。傘を打つ雨の音が泣くように響く。
「さいしょに、ながきえました。つぎにこえ…いまは、すがたもきえています。もうあのこがだれなのか、わからない」
あの子。ただ一人の望みに応え、一人の終わりと共に消えた妖。
思い出せるものは何もなく、けれども確かにここに『在った』事実だけが残っている。
「わからないのに、おぼえているんです。こうしてあめにぬれていると、かならずかさをさしかけてくれて。ひとつのかさにふたりで。てをつないで。おささまのところにかえるんです……わからないけど、ちゃんとおぼえている」
「在った事はなくならないからね。それが妖だ」
頭を上げた鋏はやはり泣きそうに笑う。
「あやかしはなぜあるのでしょうか?にんげんがいなければ、あることもできない。そのいみはなんでしょう?」
「さあね。藤《私》には難しい事は分からない。でも」
鋏の頭を撫でながら、今まで見てきた人の子らを思い出す。
藤《私》を愛でる人の笑顔を。村に生きる人の声を。村に害なす人の最期を。
様々な人の生を思い出し、人と共に在った妖を想う。
「妖は人と共にあるモノだよ。藤《私》も鋏も人がいるからこそ愛される」
「…あい、される」
「そうだろう。人に愛され大切に使われてきたからこそ、鋏がここにいるのだから」
九十九《つくも》とはそういうものだ。
使い捨てられたならば、こうして妖となる事もない。人に愛されたが故に、こうして在れるのだから。
「そうですね。あい、されてきました。ずっと。ずっと」
呟く鋏の頭をもう一度撫で、そのまま手を繋ぐ。
「帰ろうか」
「はい…かえりましょう」
手を繋いだまま歩き出す。
雨は、まだ止まない。
鋏の求める妖は、傘を差し掛けることはない。
それでも横目に見る鋏の表情は、先ほどよりも穏やかに見えた。
20240620 『相合傘』
落ちる。
どこまでも深く。深く。
暗闇。鼓動。水音。
微睡みの中。水中でも感じる浮遊感に。
『ごめんなさい』
聞こえる謝罪の言葉に。
あぁ、またか。と。
幾度目かの悪夢に辟易しながら。
意識が浮上するのを、刹那に訪れる衝撃を、ただ待った。
「…っ!」
痛みと共に覚醒した意識に、詰めていた息を吐く。
「あ。おはよー」
気の抜けた挨拶に視線を向ければ、にこにこと笑う少女の姿。
「夢。まだその姿なんだ」
「んふふ。ちょっとね」
会う度に姿が変わる夢には珍しい。気に入ったのか同じ姿を取り続ける夢はとても上機嫌だ。
「大丈夫?またいつものヤツだね」
「まぁ、ね。コレばっかりは仕方ない」
苦笑し、立ち上がる。
足、腕、胴、首、頭。自身の体を確認する。左腕の葛《かずら》が少し解けてしまっているが、それ以外は問題なさそうだ。
「ソレ、抜いてあげられたらいいのに」
解けた葛を巻き直しながら、少し悲しげに夢は俯く。
夢はいつも優しい。気にかけてくれているだけでもありがたいというのに。
「死の記憶《悪夢》がないと身体を保てないからね。しょうがないよ」
どうしようもない事なのだ。
あの記憶がなければ、わたしはわたしを認識出来ない。例えそれが最期の記憶だったとしても。
「鬼に成れればなくなるのかなぁ。花さんの記憶はなさそうだからなぁ」
「どうだろう?でも代わりにあの方はずっと罪の意識を持っているから」
二度の子殺しの罪を。
一度目は堕した。二度目は胎の子ごと身を投げた。
その罪の意味を抱いていたが為に、彼女は人として終わる事を許さず鬼と成った。
「そもそも、わたしは鬼に成れないよ」
鬼とは罪の象徴だ。
ならば、罪を知らないわたしは鬼には成れない。
「そうだよね。でもこのままは苦しいよ。ねぇ、一番目のように産まれ直せないの?」
「やった事ないから分からない。それに一番目みたいな執念は持てないよ」
執念。あるいは執着。
母から産まれる事だけを望んでいた一番目を思う。
他の妖を巻き込んで、認識すらも変えて産まれたその執念は、わたしには存在しないものだ。
生も死も、ただ受け入れるだけだと思っているわたしが、今こうしてここに中途半端な存在でいる事が不思議で仕方ない。
「ありがとう。いつもごめんね」
「ごめんはいらないかな?ありがとう、お姉ちゃんがいいな」
「え、お姉ちゃん?」
しっかりと巻き直された葛のお礼と、手間をかけさせている事の謝罪をすれば、笑ってお姉ちゃんを呼びをお願いされる。
お姉ちゃん。何故とは思うが、期待した目で見られては拒否する事は出来るはずもない。
「ありがとう、お姉ちゃん…?」
「どういたしましてっ!」
とりあえず求められるまま口にすれば、満足げに頷かれる。
「一番初めに見つけたのは夢《わたし》なんだから、ちゃんと最後まで面倒みるつもりだよ。何でも言ってね」
にこにこと、満面の笑みを浮かべ。優しく葛を撫でる夢に、そういえばわたしに葛を巻いたのは夢だったと思い出す。
息絶える間近の胎児に葛を巻いて人の形を作り、こうして生かしたのは夢だったと。
お姉ちゃんに浮かれている夢を見ながら。どちらかといえば、お母さんの方が状況的にあっているのではと。
胸中で、そっと呟いた。
20240619 『落下』
「どうか応えてくれ」
繰り返し、望む。
「その望みには応えない」
視線すら合わせず、妖は否定する。
幾度目かのやりとり。
期限が迫る中、変わらぬ状況に歯噛みした。
「聞分けてくれ。後生だ」
「断るわ。私の在り様は私が決める。貴方が与えられるべき未来を選ばないのと同じことよ」
冷たく吐き捨てられた言葉。
変える事の出来ぬ互いの覚悟を垣間見て、握りしめた拳に力が籠る。
理解はしている。譲れない事だ。
だが、それでも、
「頼む。応えてくれ」
誰でもいい。人の望みに、どうか。
透けるその身に手を伸ばせど、最早触れる事は叶わず。
虚しく空を切るこの手は、酷く滑稽だった。
「俺はお前に消えてほしくはない。この先の未来もこの地で藤と共に永久であってもらいたいのだ」
「未来、ねぇ」
くすり、と笑うその声は鈴のように軽やかで。
「妖には過去も未来もない。永久に続く現在を繰り返しているだけよ。消えて仕舞えば、何一つ残るものはない」
終わりを前にしてまだ、笑う事が出来る強さに息を呑んだ。
「最初から決めていた事よ。貴方で最期にすると。今更なかった事にはしない。させるわけがない」
「っ、それでも」
「そうね。でも、」
今まで合う事がなかった視線が交わり。酷く凪いだ瞳が、柔らかく笑みを形作る。
まるで夢を語る少女のように。
「貴方の未来に血を繋げていたのなら。その子に応えてあげてもよかったわ。妻と子に囲まれて、平凡な幸福を享受していたのなら、その先に在ってもいいかとは思っていたの」
鈴の音のような声音で妖は笑った。
叶わぬ未来を夢想し、楽しげに、愛おしげに。
「だから無駄よ。諦めて?それとも貴方は、あの子ではなく未来を選択してくれるの?」
無言で首を振る。
雨の龍に愛されてしまった子が隠されるのを、ただ見ているだけなど出来るはずがない。
たとえ万に一つの可能性がないとしても。所詮は無駄な足掻きだとしても。目を閉じ、耳を塞ぐなど、神事に携わる者としてあってはならぬ事だ。
「すまない」
「気にしないで。分かっていたから…だから藤にはもう話を通してあるの」
妖の手が己の胸に翳される。
その手に己が手を重ねても、決して触れられぬ事が口惜しい。
「もうすぐ藤が、鋏を携えてここに来る。貴方の縁を切る為に」
「そうか。最期まで面倒をかけたな」
縁を切れば、おそらく己の命一つで抑え切れるだろう。
他を巻き込むつもりはない。雨の龍《神》を相手に、こんな愚行を犯すのは己だけで十分だ。
「縁切りには立ち会ってあげる。ちゃんと見届けてあげるわ」
「感謝する……なあ」
最期に一つだけ。
そう告げれば、妖は仕方がないと笑って首を傾げた。
「一つだけでいい。望んでもいいだろうか」
「応えるかどうかは私が決めても良いのであれば」
触れられぬ頬に触れる。
何も感じられなくとも、その熱を感覚を覚えている事に酷く安堵した。
「お前の名が欲しい」
瞬く瞳。
意味を理解して次第に赤く染まる頬に笑えば、慌てたように距離を取られた。
何かを言いかけた唇からは、何の言葉も紡がれず。
愛おしい。この妖のすべてが。
応えなくてもいい。ただ己の想いだけは知ってほしい。
鈴の音のように澄んだ声が、花開くように笑う姿が。何も言わずとも己を理解しているその聡明さが。
誰よりも、何よりも愛しいと思っている事を。
「狡いね、本当に……仕方がないから、縁切りが終わったら教えてあげるよ」
微かな囁き。視線を外したまま告げられた言葉に息を呑む。
あぁ、本当に愛おしい。
後悔はない。終わる事に恐怖もない。
愛しきものの名を抱いて逝けるのなら、それだけで十分だ。
20240618 『未来』
雨は嫌いだ。
雨を降らせる事が出来るようになった自分自身が大嫌いだった。
変わってしまった家族を思い、目を伏せる。
以前の両親はとても穏やかで優しい人だった。少なくとも娘を様付けで呼び、恭しく接する事はしなかった。況してや他人にもそれを強要する事など、あり得なかったはずだった。
両親と同じように親戚のみんなも段々と変わっていってしまった。
傲慢で欲深い、醜く浅ましい大人達の姿。
気が狂いそうな毎日の中で、それでも兄は、兄だけは変わらなかった。戸惑いを隠しきれない様子で、家族から距離を取り始めた兄。それでも二人きりでいられる時には、変わらず優しい兄のままで接してくれていた。
変わらなかったのはきっと、兄の隣に幼馴染の少女が常にいてくれたからなのだろう。
だから、
「父さん。次の祭りの事で、お話があります」
私の言葉一つでひれ伏す父を冷めた眼で見下ろしながら。
小さく息を吐き、出来る限り平静を装って、告げる。
「神楽舞は巫女ではなく、兄ヒサメとその友シオンに舞わせて下さい」
これは一つの賭け、だ。
兄を助ける為の、巻き込まない為の賭け。
「そしてその最後に、二人の婚約をとり行って下さい。雨龍の血を継ぐ者と導の鬼灯の血を継ぐ者の婚約は、これからの村の発展に大きな意味を持つ事でしょう」
いずれ私達には裁きが来るのだろう。それがいつになるのかは分からないけれど。
人の身で雨を降らせる事は、明らかに理を超えてしまっている。そしてそれを私欲で使用する事などあってはならない事だ。
覚悟は出来ている。後戻りはもう出来ない。
神事を変える。そうすれば龍は気づくだろう。私の、私達の逸脱に。
「兄さん」
変わらず優しい兄を思う。
鬼灯の血を引いた幼馴染と契りを結ぶ事が、兄を守る事になるのかは本当は分からない。確かでない事に彼女を巻き込んでしまう事に負い目を感じるが、これ以外に方法を思いつかなかった。
「ごめんなさい。兄さん」
後戻りは出来ない。
今の私の言葉は絶対だ。きっと父は動き始めているだろう。
この選択がどんな結末になるのか分からない。
けれど最悪にはならない事を。救いがある事を、ただ祈る。
そんなものは、無意味でしかないなんて。
一年後の終わりの日に、兄を壊してしまう事なんて。
何一つ、気づけないまま。
20240617 『1年前』