「どうか応えてくれ」
繰り返し、望む。
「その望みには応えない」
視線すら合わせず、妖は否定する。
幾度目かのやりとり。
期限が迫る中、変わらぬ状況に歯噛みした。
「聞分けてくれ。後生だ」
「断るわ。私の在り様は私が決める。貴方が与えられるべき未来を選ばないのと同じことよ」
冷たく吐き捨てられた言葉。
変える事の出来ぬ互いの覚悟を垣間見て、握りしめた拳に力が籠る。
理解はしている。譲れない事だ。
だが、それでも、
「頼む。応えてくれ」
誰でもいい。人の望みに、どうか。
透けるその身に手を伸ばせど、最早触れる事は叶わず。
虚しく空を切るこの手は、酷く滑稽だった。
「俺はお前に消えてほしくはない。この先の未来もこの地で藤と共に永久であってもらいたいのだ」
「未来、ねぇ」
くすり、と笑うその声は鈴のように軽やかで。
「妖には過去も未来もない。永久に続く現在を繰り返しているだけよ。消えて仕舞えば、何一つ残るものはない」
終わりを前にしてまだ、笑う事が出来る強さに息を呑んだ。
「最初から決めていた事よ。貴方で最期にすると。今更なかった事にはしない。させるわけがない」
「っ、それでも」
「そうね。でも、」
今まで合う事がなかった視線が交わり。酷く凪いだ瞳が、柔らかく笑みを形作る。
まるで夢を語る少女のように。
「貴方の未来に血を繋げていたのなら。その子に応えてあげてもよかったわ。妻と子に囲まれて、平凡な幸福を享受していたのなら、その先に在ってもいいかとは思っていたの」
鈴の音のような声音で妖は笑った。
叶わぬ未来を夢想し、楽しげに、愛おしげに。
「だから無駄よ。諦めて?それとも貴方は、あの子ではなく未来を選択してくれるの?」
無言で首を振る。
雨の龍に愛されてしまった子が隠されるのを、ただ見ているだけなど出来るはずがない。
たとえ万に一つの可能性がないとしても。所詮は無駄な足掻きだとしても。目を閉じ、耳を塞ぐなど、神事に携わる者としてあってはならぬ事だ。
「すまない」
「気にしないで。分かっていたから…だから藤にはもう話を通してあるの」
妖の手が己の胸に翳される。
その手に己が手を重ねても、決して触れられぬ事が口惜しい。
「もうすぐ藤が、鋏を携えてここに来る。貴方の縁を切る為に」
「そうか。最期まで面倒をかけたな」
縁を切れば、おそらく己の命一つで抑え切れるだろう。
他を巻き込むつもりはない。雨の龍《神》を相手に、こんな愚行を犯すのは己だけで十分だ。
「縁切りには立ち会ってあげる。ちゃんと見届けてあげるわ」
「感謝する……なあ」
最期に一つだけ。
そう告げれば、妖は仕方がないと笑って首を傾げた。
「一つだけでいい。望んでもいいだろうか」
「応えるかどうかは私が決めても良いのであれば」
触れられぬ頬に触れる。
何も感じられなくとも、その熱を感覚を覚えている事に酷く安堵した。
「お前の名が欲しい」
瞬く瞳。
意味を理解して次第に赤く染まる頬に笑えば、慌てたように距離を取られた。
何かを言いかけた唇からは、何の言葉も紡がれず。
愛おしい。この妖のすべてが。
応えなくてもいい。ただ己の想いだけは知ってほしい。
鈴の音のように澄んだ声が、花開くように笑う姿が。何も言わずとも己を理解しているその聡明さが。
誰よりも、何よりも愛しいと思っている事を。
「狡いね、本当に……仕方がないから、縁切りが終わったら教えてあげるよ」
微かな囁き。視線を外したまま告げられた言葉に息を呑む。
あぁ、本当に愛おしい。
後悔はない。終わる事に恐怖もない。
愛しきものの名を抱いて逝けるのなら、それだけで十分だ。
20240618 『未来』
6/18/2024, 4:04:04 PM