「鋏」
雨に濡れながら佇む小さな姿に声をかける。
返事は、ない。
近づき傘を差し掛ける。雨の冷たさがなくなったか、酷く緩慢な動作で傘を見、藤《私》を見た。
「ふじさま」
「このままだと錆びてしまうよ」
「ふじさま」
くしゃりと顔を歪ませて、泣くように笑う。
「いま、ひどいことをおもいました。かさをさしかけるのはあのこがいいと。そうおもいました」
ごめんなさい、と頭を下げる。傘を打つ雨の音が泣くように響く。
「さいしょに、ながきえました。つぎにこえ…いまは、すがたもきえています。もうあのこがだれなのか、わからない」
あの子。ただ一人の望みに応え、一人の終わりと共に消えた妖。
思い出せるものは何もなく、けれども確かにここに『在った』事実だけが残っている。
「わからないのに、おぼえているんです。こうしてあめにぬれていると、かならずかさをさしかけてくれて。ひとつのかさにふたりで。てをつないで。おささまのところにかえるんです……わからないけど、ちゃんとおぼえている」
「在った事はなくならないからね。それが妖だ」
頭を上げた鋏はやはり泣きそうに笑う。
「あやかしはなぜあるのでしょうか?にんげんがいなければ、あることもできない。そのいみはなんでしょう?」
「さあね。藤《私》には難しい事は分からない。でも」
鋏の頭を撫でながら、今まで見てきた人の子らを思い出す。
藤《私》を愛でる人の笑顔を。村に生きる人の声を。村に害なす人の最期を。
様々な人の生を思い出し、人と共に在った妖を想う。
「妖は人と共にあるモノだよ。藤《私》も鋏も人がいるからこそ愛される」
「…あい、される」
「そうだろう。人に愛され大切に使われてきたからこそ、鋏がここにいるのだから」
九十九《つくも》とはそういうものだ。
使い捨てられたならば、こうして妖となる事もない。人に愛されたが故に、こうして在れるのだから。
「そうですね。あい、されてきました。ずっと。ずっと」
呟く鋏の頭をもう一度撫で、そのまま手を繋ぐ。
「帰ろうか」
「はい…かえりましょう」
手を繋いだまま歩き出す。
雨は、まだ止まない。
鋏の求める妖は、傘を差し掛けることはない。
それでも横目に見る鋏の表情は、先ほどよりも穏やかに見えた。
20240620 『相合傘』
落ちる。
どこまでも深く。深く。
暗闇。鼓動。水音。
微睡みの中。水中でも感じる浮遊感に。
『ごめんなさい』
聞こえる謝罪の言葉に。
あぁ、またか。と。
幾度目かの悪夢に辟易しながら。
意識が浮上するのを、刹那に訪れる衝撃を、ただ待った。
「…っ!」
痛みと共に覚醒した意識に、詰めていた息を吐く。
「あ。おはよー」
気の抜けた挨拶に視線を向ければ、にこにこと笑う少女の姿。
「夢。まだその姿なんだ」
「んふふ。ちょっとね」
会う度に姿が変わる夢には珍しい。気に入ったのか同じ姿を取り続ける夢はとても上機嫌だ。
「大丈夫?またいつものヤツだね」
「まぁ、ね。コレばっかりは仕方ない」
苦笑し、立ち上がる。
足、腕、胴、首、頭。自身の体を確認する。左腕の葛《かずら》が少し解けてしまっているが、それ以外は問題なさそうだ。
「ソレ、抜いてあげられたらいいのに」
解けた葛を巻き直しながら、少し悲しげに夢は俯く。
夢はいつも優しい。気にかけてくれているだけでもありがたいというのに。
「死の記憶《悪夢》がないと身体を保てないからね。しょうがないよ」
どうしようもない事なのだ。
あの記憶がなければ、わたしはわたしを認識出来ない。例えそれが最期の記憶だったとしても。
「鬼に成れればなくなるのかなぁ。花さんの記憶はなさそうだからなぁ」
「どうだろう?でも代わりにあの方はずっと罪の意識を持っているから」
二度の子殺しの罪を。
一度目は堕した。二度目は胎の子ごと身を投げた。
その罪の意味を抱いていたが為に、彼女は人として終わる事を許さず鬼と成った。
「そもそも、わたしは鬼に成れないよ」
鬼とは罪の象徴だ。
ならば、罪を知らないわたしは鬼には成れない。
「そうだよね。でもこのままは苦しいよ。ねぇ、一番目のように産まれ直せないの?」
「やった事ないから分からない。それに一番目みたいな執念は持てないよ」
執念。あるいは執着。
母から産まれる事だけを望んでいた一番目を思う。
他の妖を巻き込んで、認識すらも変えて産まれたその執念は、わたしには存在しないものだ。
生も死も、ただ受け入れるだけだと思っているわたしが、今こうしてここに中途半端な存在でいる事が不思議で仕方ない。
「ありがとう。いつもごめんね」
「ごめんはいらないかな?ありがとう、お姉ちゃんがいいな」
「え、お姉ちゃん?」
しっかりと巻き直された葛のお礼と、手間をかけさせている事の謝罪をすれば、笑ってお姉ちゃんを呼びをお願いされる。
お姉ちゃん。何故とは思うが、期待した目で見られては拒否する事は出来るはずもない。
「ありがとう、お姉ちゃん…?」
「どういたしましてっ!」
とりあえず求められるまま口にすれば、満足げに頷かれる。
「一番初めに見つけたのは夢《わたし》なんだから、ちゃんと最後まで面倒みるつもりだよ。何でも言ってね」
にこにこと、満面の笑みを浮かべ。優しく葛を撫でる夢に、そういえばわたしに葛を巻いたのは夢だったと思い出す。
息絶える間近の胎児に葛を巻いて人の形を作り、こうして生かしたのは夢だったと。
お姉ちゃんに浮かれている夢を見ながら。どちらかといえば、お母さんの方が状況的にあっているのではと。
胸中で、そっと呟いた。
20240619 『落下』
「どうか応えてくれ」
繰り返し、望む。
「その望みには応えない」
視線すら合わせず、妖は否定する。
幾度目かのやりとり。
期限が迫る中、変わらぬ状況に歯噛みした。
「聞分けてくれ。後生だ」
「断るわ。私の在り様は私が決める。貴方が与えられるべき未来を選ばないのと同じことよ」
冷たく吐き捨てられた言葉。
変える事の出来ぬ互いの覚悟を垣間見て、握りしめた拳に力が籠る。
理解はしている。譲れない事だ。
だが、それでも、
「頼む。応えてくれ」
誰でもいい。人の望みに、どうか。
透けるその身に手を伸ばせど、最早触れる事は叶わず。
虚しく空を切るこの手は、酷く滑稽だった。
「俺はお前に消えてほしくはない。この先の未来もこの地で藤と共に永久であってもらいたいのだ」
「未来、ねぇ」
くすり、と笑うその声は鈴のように軽やかで。
「妖には過去も未来もない。永久に続く現在を繰り返しているだけよ。消えて仕舞えば、何一つ残るものはない」
終わりを前にしてまだ、笑う事が出来る強さに息を呑んだ。
「最初から決めていた事よ。貴方で最期にすると。今更なかった事にはしない。させるわけがない」
「っ、それでも」
「そうね。でも、」
今まで合う事がなかった視線が交わり。酷く凪いだ瞳が、柔らかく笑みを形作る。
まるで夢を語る少女のように。
「貴方の未来に血を繋げていたのなら。その子に応えてあげてもよかったわ。妻と子に囲まれて、平凡な幸福を享受していたのなら、その先に在ってもいいかとは思っていたの」
鈴の音のような声音で妖は笑った。
叶わぬ未来を夢想し、楽しげに、愛おしげに。
「だから無駄よ。諦めて?それとも貴方は、あの子ではなく未来を選択してくれるの?」
無言で首を振る。
雨の龍に愛されてしまった子が隠されるのを、ただ見ているだけなど出来るはずがない。
たとえ万に一つの可能性がないとしても。所詮は無駄な足掻きだとしても。目を閉じ、耳を塞ぐなど、神事に携わる者としてあってはならぬ事だ。
「すまない」
「気にしないで。分かっていたから…だから藤にはもう話を通してあるの」
妖の手が己の胸に翳される。
その手に己が手を重ねても、決して触れられぬ事が口惜しい。
「もうすぐ藤が、鋏を携えてここに来る。貴方の縁を切る為に」
「そうか。最期まで面倒をかけたな」
縁を切れば、おそらく己の命一つで抑え切れるだろう。
他を巻き込むつもりはない。雨の龍《神》を相手に、こんな愚行を犯すのは己だけで十分だ。
「縁切りには立ち会ってあげる。ちゃんと見届けてあげるわ」
「感謝する……なあ」
最期に一つだけ。
そう告げれば、妖は仕方がないと笑って首を傾げた。
「一つだけでいい。望んでもいいだろうか」
「応えるかどうかは私が決めても良いのであれば」
触れられぬ頬に触れる。
何も感じられなくとも、その熱を感覚を覚えている事に酷く安堵した。
「お前の名が欲しい」
瞬く瞳。
意味を理解して次第に赤く染まる頬に笑えば、慌てたように距離を取られた。
何かを言いかけた唇からは、何の言葉も紡がれず。
愛おしい。この妖のすべてが。
応えなくてもいい。ただ己の想いだけは知ってほしい。
鈴の音のように澄んだ声が、花開くように笑う姿が。何も言わずとも己を理解しているその聡明さが。
誰よりも、何よりも愛しいと思っている事を。
「狡いね、本当に……仕方がないから、縁切りが終わったら教えてあげるよ」
微かな囁き。視線を外したまま告げられた言葉に息を呑む。
あぁ、本当に愛おしい。
後悔はない。終わる事に恐怖もない。
愛しきものの名を抱いて逝けるのなら、それだけで十分だ。
20240618 『未来』
雨は嫌いだ。
雨を降らせる事が出来るようになった自分自身が大嫌いだった。
変わってしまった家族を思い、目を伏せる。
以前の両親はとても穏やかで優しい人だった。少なくとも娘を様付けで呼び、恭しく接する事はしなかった。況してや他人にもそれを強要する事など、あり得なかったはずだった。
両親と同じように親戚のみんなも段々と変わっていってしまった。
傲慢で欲深い、醜く浅ましい大人達の姿。
気が狂いそうな毎日の中で、それでも兄は、兄だけは変わらなかった。戸惑いを隠しきれない様子で、家族から距離を取り始めた兄。それでも二人きりでいられる時には、変わらず優しい兄のままで接してくれていた。
変わらなかったのはきっと、兄の隣に幼馴染の少女が常にいてくれたからなのだろう。
だから、
「父さん。次の祭りの事で、お話があります」
私の言葉一つでひれ伏す父を冷めた眼で見下ろしながら。
小さく息を吐き、出来る限り平静を装って、告げる。
「神楽舞は巫女ではなく、兄ヒサメとその友シオンに舞わせて下さい」
これは一つの賭け、だ。
兄を助ける為の、巻き込まない為の賭け。
「そしてその最後に、二人の婚約をとり行って下さい。雨龍の血を継ぐ者と導の鬼灯の血を継ぐ者の婚約は、これからの村の発展に大きな意味を持つ事でしょう」
いずれ私達には裁きが来るのだろう。それがいつになるのかは分からないけれど。
人の身で雨を降らせる事は、明らかに理を超えてしまっている。そしてそれを私欲で使用する事などあってはならない事だ。
覚悟は出来ている。後戻りはもう出来ない。
神事を変える。そうすれば龍は気づくだろう。私の、私達の逸脱に。
「兄さん」
変わらず優しい兄を思う。
鬼灯の血を引いた幼馴染と契りを結ぶ事が、兄を守る事になるのかは本当は分からない。確かでない事に彼女を巻き込んでしまう事に負い目を感じるが、これ以外に方法を思いつかなかった。
「ごめんなさい。兄さん」
後戻りは出来ない。
今の私の言葉は絶対だ。きっと父は動き始めているだろう。
この選択がどんな結末になるのか分からない。
けれど最悪にはならない事を。救いがある事を、ただ祈る。
そんなものは、無意味でしかないなんて。
一年後の終わりの日に、兄を壊してしまう事なんて。
何一つ、気づけないまま。
20240617 『1年前』
ふと気づくと、目の前は本の山。
図書館、だろうか。
広い部屋にたくさんの書架。それを隙間なく埋める、本。
「お待ちしておりました」
背後から聞こえた声に振り返れば、すぐ後ろには空色の妖の姿。
喜色満面の笑みを湛え、手を握られた。
「え、と…ここは?」
「わたくしの書庫にございます。貴女様に来て頂きたくて」
連れてきてしまいました。と頬を染めて告げられる。
「ここにはわたくしが集めた本や、炎のお話を書き留めたものを収めてあるのです。ここで貴女様とたくさんお話ができればと、そう思っておりました」
随分と好かれてしまったようだ。
とはいえ、私はあまり話す事が得意ではなく、むしろ不得手な方なのだが。聞き役でも問題ないのだろうか。
上機嫌な空色に手を引かれ椅子に座らされながら、少しだけ不安になる。
「わたくし、貴女様に感謝しているのです。炎のお話を聞いてくださいまして。とても、とても」
そう言って、自らも椅子に座りながら一冊の本をテーブルの上に置いた。
達筆な文字で書かれている為に、その本の内容がどんなものかは分からない。
「これはわたくしが炎が紡ぐお話を書き留めたものです。わたくしが一番好きな、恋の物語」
愛おしげに本の表紙に触れながら、空色の妖は詠うように言葉を紡ぐ。
「炎のお話はすべて本当にあった事なのですよ。鬼も、龍も、そしてその愛し子も。本当に存在しているのです」
「…うん。そんな気は、してた」
緋色は何も言わなかったけれど。それでもどこかで気づいていた。
紡がれていく物語はきっと、兄達と一緒になって遊んだあの山のいつかの記憶だ。
誰かが言っていた。昔は山奥に村があったと。誰にも辿り着けない、隠された不思議な村があるのだと。
「わたくし達妖は、人間と違い永久にあるモノです。しかしそれは絶対ではない…貴女様は妖が人間の望みに応える理由をご存知ですか?」
首を振る。
緋色には聞いた事はあったが、その理由までは知らなかった。ただ漠然とそういうモノなのだと認識していた。
「妖という存在は、人間の認識によって成り立つのです。人間から忘れられた、認識されない妖が消えていく様をわたくしは数多見てきました。ですから妖は人間が妖を認識する事を対価にその望みに応えるのです」
「認識…」
空色の着物を揺らし、妖は微笑む。
「わたくしは本が好きです。言葉よりも文字は永く残り、多くに広めてくださる。そしてだからこそわたくしは貴女様が好きです。妖と知っても恐れず、炎のお話を覚えていてくださる、優しい貴女様の事が大好きなのですよ」
真っ直ぐな好意の言葉に頬が熱くなる。けれど視線を逸らす事は出来ず。
恥ずかしさはあるけれど、その好意を、感謝を視線を逸らす事で否定してしまいたくはなかった。
「少々湿っぽい話になってしまいましたね。申し訳ありません。わたくしこんな話ではなく、もっと好きな本などの楽しいお話をしようと思っていたのですけれど」
「今から、でも。良いんじゃない?」
「お心遣いありがとうございます。ですが時間が来てしまいました」
その言葉の意味を聞くより早く。急な浮遊感と背後から伸ばされた腕に、誰かに抱きかかえられた事に気づく。
「荷葉」
いつもより低い声音。
振り返れば、どこか険しい顔をした緋色の妖の姿。
「少しお話をしていただけです。申し訳ありません」
「うん。本の、話を、してた」
張り詰めたような雰囲気に、何か言わなければと水色の妖の言葉を肯定する。
いつもより鋭い鈍色に、それでも視線を逸らす事はせずに。
「まだ、話していて、だめ?」
「……もう終わりになさい。これ以上は帰れなくなるわよ」
深い溜息を一つ吐いて。
緋色の纏う空気が緩み、いつものような気怠さを纏い始める。
「分かった。え、と。また、ね?」
出口に向かう緋色の肩越しに、そう言葉をかければ。
「!はいっ!また」
「本当に、馬鹿な仔ね」
対照的な緋色と空色の妖の言葉に、思わず笑みが浮かぶ。
今日の事にまだ少し心が浮ついているようだ。
だから、
「あまり深入りするものではないわ。戻り方を忘れてしまえば、壊れるのを待つだけなのだから」
緋色の微かな声を、苦々しく吐き出された言葉を、理解する事が出来なかった。
20240616 『好きな本』