雨は嫌いだ。
雨を降らせる事が出来るようになった自分自身が大嫌いだった。
変わってしまった家族を思い、目を伏せる。
以前の両親はとても穏やかで優しい人だった。少なくとも娘を様付けで呼び、恭しく接する事はしなかった。況してや他人にもそれを強要する事など、あり得なかったはずだった。
両親と同じように親戚のみんなも段々と変わっていってしまった。
傲慢で欲深い、醜く浅ましい大人達の姿。
気が狂いそうな毎日の中で、それでも兄は、兄だけは変わらなかった。戸惑いを隠しきれない様子で、家族から距離を取り始めた兄。それでも二人きりでいられる時には、変わらず優しい兄のままで接してくれていた。
変わらなかったのはきっと、兄の隣に幼馴染の少女が常にいてくれたからなのだろう。
だから、
「父さん。次の祭りの事で、お話があります」
私の言葉一つでひれ伏す父を冷めた眼で見下ろしながら。
小さく息を吐き、出来る限り平静を装って、告げる。
「神楽舞は巫女ではなく、兄ヒサメとその友シオンに舞わせて下さい」
これは一つの賭け、だ。
兄を助ける為の、巻き込まない為の賭け。
「そしてその最後に、二人の婚約をとり行って下さい。雨龍の血を継ぐ者と導の鬼灯の血を継ぐ者の婚約は、これからの村の発展に大きな意味を持つ事でしょう」
いずれ私達には裁きが来るのだろう。それがいつになるのかは分からないけれど。
人の身で雨を降らせる事は、明らかに理を超えてしまっている。そしてそれを私欲で使用する事などあってはならない事だ。
覚悟は出来ている。後戻りはもう出来ない。
神事を変える。そうすれば龍は気づくだろう。私の、私達の逸脱に。
「兄さん」
変わらず優しい兄を思う。
鬼灯の血を引いた幼馴染と契りを結ぶ事が、兄を守る事になるのかは本当は分からない。確かでない事に彼女を巻き込んでしまう事に負い目を感じるが、これ以外に方法を思いつかなかった。
「ごめんなさい。兄さん」
後戻りは出来ない。
今の私の言葉は絶対だ。きっと父は動き始めているだろう。
この選択がどんな結末になるのか分からない。
けれど最悪にはならない事を。救いがある事を、ただ祈る。
そんなものは、無意味でしかないなんて。
一年後の終わりの日に、兄を壊してしまう事なんて。
何一つ、気づけないまま。
20240617 『1年前』
ふと気づくと、目の前は本の山。
図書館、だろうか。
広い部屋にたくさんの書架。それを隙間なく埋める、本。
「お待ちしておりました」
背後から聞こえた声に振り返れば、すぐ後ろには空色の妖の姿。
喜色満面の笑みを湛え、手を握られた。
「え、と…ここは?」
「わたくしの書庫にございます。貴女様に来て頂きたくて」
連れてきてしまいました。と頬を染めて告げられる。
「ここにはわたくしが集めた本や、炎のお話を書き留めたものを収めてあるのです。ここで貴女様とたくさんお話ができればと、そう思っておりました」
随分と好かれてしまったようだ。
とはいえ、私はあまり話す事が得意ではなく、むしろ不得手な方なのだが。聞き役でも問題ないのだろうか。
上機嫌な空色に手を引かれ椅子に座らされながら、少しだけ不安になる。
「わたくし、貴女様に感謝しているのです。炎のお話を聞いてくださいまして。とても、とても」
そう言って、自らも椅子に座りながら一冊の本をテーブルの上に置いた。
達筆な文字で書かれている為に、その本の内容がどんなものかは分からない。
「これはわたくしが炎が紡ぐお話を書き留めたものです。わたくしが一番好きな、恋の物語」
愛おしげに本の表紙に触れながら、空色の妖は詠うように言葉を紡ぐ。
「炎のお話はすべて本当にあった事なのですよ。鬼も、龍も、そしてその愛し子も。本当に存在しているのです」
「…うん。そんな気は、してた」
緋色は何も言わなかったけれど。それでもどこかで気づいていた。
紡がれていく物語はきっと、兄達と一緒になって遊んだあの山のいつかの記憶だ。
誰かが言っていた。昔は山奥に村があったと。誰にも辿り着けない、隠された不思議な村があるのだと。
「わたくし達妖は、人間と違い永久にあるモノです。しかしそれは絶対ではない…貴女様は妖が人間の望みに応える理由をご存知ですか?」
首を振る。
緋色には聞いた事はあったが、その理由までは知らなかった。ただ漠然とそういうモノなのだと認識していた。
「妖という存在は、人間の認識によって成り立つのです。人間から忘れられた、認識されない妖が消えていく様をわたくしは数多見てきました。ですから妖は人間が妖を認識する事を対価にその望みに応えるのです」
「認識…」
空色の着物を揺らし、妖は微笑む。
「わたくしは本が好きです。言葉よりも文字は永く残り、多くに広めてくださる。そしてだからこそわたくしは貴女様が好きです。妖と知っても恐れず、炎のお話を覚えていてくださる、優しい貴女様の事が大好きなのですよ」
真っ直ぐな好意の言葉に頬が熱くなる。けれど視線を逸らす事は出来ず。
恥ずかしさはあるけれど、その好意を、感謝を視線を逸らす事で否定してしまいたくはなかった。
「少々湿っぽい話になってしまいましたね。申し訳ありません。わたくしこんな話ではなく、もっと好きな本などの楽しいお話をしようと思っていたのですけれど」
「今から、でも。良いんじゃない?」
「お心遣いありがとうございます。ですが時間が来てしまいました」
その言葉の意味を聞くより早く。急な浮遊感と背後から伸ばされた腕に、誰かに抱きかかえられた事に気づく。
「荷葉」
いつもより低い声音。
振り返れば、どこか険しい顔をした緋色の妖の姿。
「少しお話をしていただけです。申し訳ありません」
「うん。本の、話を、してた」
張り詰めたような雰囲気に、何か言わなければと水色の妖の言葉を肯定する。
いつもより鋭い鈍色に、それでも視線を逸らす事はせずに。
「まだ、話していて、だめ?」
「……もう終わりになさい。これ以上は帰れなくなるわよ」
深い溜息を一つ吐いて。
緋色の纏う空気が緩み、いつものような気怠さを纏い始める。
「分かった。え、と。また、ね?」
出口に向かう緋色の肩越しに、そう言葉をかければ。
「!はいっ!また」
「本当に、馬鹿な仔ね」
対照的な緋色と空色の妖の言葉に、思わず笑みが浮かぶ。
今日の事にまだ少し心が浮ついているようだ。
だから、
「あまり深入りするものではないわ。戻り方を忘れてしまえば、壊れるのを待つだけなのだから」
緋色の微かな声を、苦々しく吐き出された言葉を、理解する事が出来なかった。
20240616 『好きな本』
初めて会った時から、兄は不思議だった。
『ごめんなぁ。兄ちゃんのワガママで、銀の鬼事に勝手に混じっちまって』
そう言って、私を白と黒の兄弟から隠してくれた。
すべて自分の我儘なのだと言いながら、それからずっと一緒に逃げてくれている。
強くて優しい、私のお兄ちゃん。になるはずだった存在の彼。
産まれなかったのだと、そう言っていた。鬼《母》の血が濃い兄は、現世に産まれ出たその瞬間に銀の焔に焼かれたのだと。
『でもな。お袋も親父も俺に生きてほしいと望んだんだ。だから俺はそれに応えて、姑獲鳥《こかくちょう》に望んだんだ』
姑獲鳥は子供を攫い、育てる妖だから。と兄は笑っていた。背後に佇む妖は何も言わず、ただ兄を見つめていた。
「銀。兄ちゃん、銀と散歩に行きたいな」
曇天の下。兄に望まれて、二人手を繋いで当てもなく歩く。
望みに応えたい衝動に駆られる事がないように、兄はいつもこうしてたわいない望みを口にする。
兄は優しい。妹として全力で甘やかしてくれる、兄妹という関係が心地良い。
繋いでいた手を軽く引く。立ち止まり、こちらに目線を合わせて屈んでくれる兄に微笑みかけて。
いつもありがとう。お兄ちゃん、大好き。
声なく、感謝を口にした。
「っ、銀」
僅かに目を見張り。次の瞬間にはくしゃりと顔を歪めて、泣きそうな顔で兄は笑う。
「ありがとうは俺の方だ。銀花。俺を兄ちゃんにしてくれて、ありがとうな」
優しく頭を撫でられて、そのまま抱き上げられる。
少しだけ近くなった空は、変わらず曖昧なまま。
晴れるわけではなく。かと言って雨が降るでもない。
まるで自分達のようだと、空を見上げ思う。
人にも妖にも成れない私。産まれる事が出来なかった為に、生きる事も死ぬ事も出来ない兄。
私はきっとこれからも曖昧で不安定なまま。けれど兄はいずれ変わってしまうのだろう。
姑獲鳥《こかくちょう》から姑獲鳥《うぶめ》へ。兄が呼び方を変えているのには気づいていた。知っていて分からないふりをしている。
姑獲鳥が産女《うぶめ》に成るならば、兄は姑獲鳥に攫われたのではなく姑獲鳥の子に成るのだろうか。
その時が来たら、私のお兄ちゃんではなくなってしまうのか。
「銀、どうした?何かあったか?」
空を見上げたままの私に心配げに声をかける兄に、何もないと首を振って答える。
変わらないものはない。それは分かっている。
それでももう少しだけ。
せめて兄が自分を兄だと呼んでいる間だけは。
この曖昧な兄妹の関係に、夢を見ていたいと願った。
20240615 『あいまいな空』
「貴様は一体何をしているんだ」
背後から聞こえた懐かしい声に振り返る。
珍しい。常世に住まう彼が現世まで出てくるとは。
「花を愛でている」
「阿呆が。藤が他の花《紫陽花》を愛でてどうする」
眉間の皺を濃くし溜息を吐く夜に、心外だと肩を竦めてみせる。
「別にいいじゃないか。藤の花《私》はもう咲き終わってしまったのだから」
咲き誇る藤《私》を愛でてもらいたいのは当然であるが、今は芒種も過ぎている。常世と違い、とっくに藤の花《私達》は咲き終わっているのだ。枝垂れる葉を愛でても良いが、華やかさを求めるには矢張り花が必要になる。
「華やかなのはいい事だろう?人の子の心を癒してくれる」
青。紫。薄桃。
各々好きに咲いた装飾花に触れる。
少しずつ挿し木をし手入れをしてきたものが、こうしてようやく見られるようになったのだ。手をかけた甲斐があったというもの。
宮司や巫女等も喜んでいたというのに。
「貴様には藤としての誇りはないのか」
呆れたような溜息。音一つ立てずこちらに歩み寄り、同じように花に触れた。
「これから皆焼け落ちるだろうに。無駄な事をするものだ」
その眼は村の外。薄く煙の立ち上る遠くを見て。
納得する。彼がわざわざここに来た理由を。
そしてそれが無駄足になる事に、申し訳なくなった。
「魂の回収か…悪いけど、無駄足になってしまったね」
素直にそう伝えれば、遠くを見ていた眼が訝しげにこちらを見る。
「何故だ?ここの人間に争い勝つ術も力もないだろうに」
「何故って…藤《私》がいるからに決まっている」
至極当然の事。害あるものがこの地を侵すなど、出来るはずがない。
それが化生、邪魅であれ、外の人間であれ同じ事。
「珍しいな。あれだけ面倒事を嫌っていただろうに」
「面倒ではないだろう?敵か、味方か。守るものか、排除するものか…実に単純だ」
社に視線を向け、笑みを浮かべる。絶えず聞こえる宮司の祝詞に耳を傾ける。
守るものは何か。退けるものは何か。
雨にではなく、藤《私》に対して奏上された祝詞を通して望まれる。
実に分かりやすい。
「さて。そろそろこちらも動くとしようか。すぐ終わらせるけれど、夜はもう戻るかい?」
「何を言っている。これから成すべき事があるのに戻る訳がないだろう。阿呆が」
呆れたように告げられる。
藤《私》だけでは守れぬとでも思っているのか。少しだけ気分を害して眉根を寄せれば、どこか馬鹿にしたように嗤われた。
「貴様は本当に頭が弱いな。魂魄とは敵も味方と関係ないだろう」
正論に何も言葉を返せず。
気恥ずかしさから、半ば逃げるように無言で駆け出した。
「さっさと終わらせてこい。戦、天下など、都の人間どもの都合にこの地を巻き込ませるな」
「分かっている!敵は全て刈り取るから。少し待ってて!」
振り向かず言葉を返し、速度を上げる。
どこぞの国の武士らが、この村に足を踏み入れるより早く。
敵陣に降り立ち、そのまま大蛇に成った蔓を解き放つ。
さあ、早く終わらせなければ。
20240614 『紫陽花』
喧嘩をした。
きっかけは本当に些細な事だった。約束の時間に間に合わなかった。ほんの数分だけ。ただそれだけ。
それでも幼馴染にとっては、その数分間がとても恐ろしい事だったようで。
「もういい!ひさめなんか、き、きら……すきじゃないっ!」
涙を湛えた琥珀色の瞳で睨みながら、言い捨て走り去っていった幼馴染を思う。
嫌い、とは言われなかった。言いかけて、結局曖昧な言葉に変換された。
好き、は簡単に言葉にできるのに。
普段の幼馴染を思い出す。
嬉しい時。上機嫌な時。何気のない日常の一コマに。
「ありがとう」と「好き」をよく口にしていた。感謝と好意は同列だった。
嫌い、はたとえ嘘でも言葉に出来ないんだ。
今までは意識していなかった「好き」の重さ。例えるならば挨拶のようなものだと、あまり気にもとめていなかった。
けれど「好き」とは反対の「嫌い」は決して言葉に出来ないのならば、それはがらりと色を変える。「好き」はきっとホンモノ、だ。その時々の何かに対してではなく、自分という個人に対しての。親愛の意味を含んだ言葉。
気づいてしまった。
思考が停止する。途端に顔に熱が集まり赤くなる。
気づいてしまった事実を、まだ受け入れきれない。それほどまでに衝撃的だったから。
けれども今優先すべきは、走り去ってしまった幼馴染を追いかける事。泣き虫で寂しがりやな彼女を一人にはしておけるわけがない。
頭を軽く振り意識を切り替えて、幼馴染の背を追う為駆け出した。
喧嘩をした。
きっかけは本当に些細な事だった。約束の時間に間に合わなかった。ほんの数分だけ。ただそれだけ。
それでもたった数分の一人は、不安で、寂しくて、怖かった。
膝を抱え、ため息を一つ。
嫌われてしまっただろうか。好きではないなんて、心にもない事を言ってしまったから。
「嫌い」の言葉は、言えなかった。それだけ幼馴染が「好き」だから。
たとえ嘘でも、思っていなくても言葉にするのは怖かった。
「しおんっ!」
聞こえた幼馴染の声に、はっとして顔を上げる。
息を切らせながらこちらに走ってくる姿を認識して、涙が溢れ出した。
「しおん。ごめん。ごめんね」
何故謝るのだろう。幼馴染は悪くないのに。
たった数分間を待てなかったのが悪いのに。酷い事を言ってしまったのに。
「ちがっ…ごめっ、なさい。ひさめ。ごめんなさいっ!」
涙が止まらない。
「すき、じゃな…うそ、いって。うそっ、なの、に。いった、の」
「うん。大丈夫、大丈夫だから」
優しく頭を撫でてくれる。
いつだってそうだ。幼馴染はいつでも優しい。優しくて、強くて、かっこいい。自慢の幼馴染。
「ほんと、は、すき。だいすき、だからっ。ごめん、なさい!ひさめっ、すき。きらいっ、ならないでっ!」
「しおんっ。落ち着こう。嫌わないから。ねっ?とにかく、まず、落ち着こう?」
どこか焦っているような、幼馴染の珍しい様子を気に留めず。
嫌われたくないと必死で彼にしがみつき、ただ泣いていた。
20240613 『好き嫌い』