昔。遠い昔。
真白い狐に恋をした。
退屈で面白みのかけらもない、将来の夢をいつも聞いてくれていた。決められた未来に逆らう不毛な行為を、否定しないでいてくれた。
そんな優しい狐に恋をしていた。
それが、始まりだった。
目を開ける。
廃れた神社の社。いつもと変わらない、始まりの景色。
「やあ。大丈夫?」
社の前に座り、にこにこと笑って手を振る少女。
あの日の自分を模したその姿に、堪えていた涙が溢れた。
「うわっ、だいぶオツカレだね」
「もう、嫌、ですっ!あの狐。怖いっ」
「あぁ、うん。それは仕方ない。アレだし」
少女の膝に縋りつき、泣きながら愚痴を溢す。
「前はっ!あんなに、胡散臭く、なかったのに!やだっ、もう!あと何回、生まれ変わったら、満足して、くれるのっ!」
「それは、まぁ…お察しって、ヤツ?約束しちゃったからね。諦めるしかないよね」
優しく頭を撫でながらも、少女の紡ぐ言葉は酷く残酷だ。
変わらない現実に、始まりの自分を恨めしく思いながらひたすらに泣き続けた。
俗にいう、前世の記憶を持っている事に気づいたのはいつだったか。
ぼんやりとした記憶の中に、いつでもあの狐がいた事に気づいたのが始まりだったように思う。
あの狐。
一番古い記憶の中の狐は、真白い毛並みをしていつも優しく話を聞いてくれていた。
憑物筋の家系に生まれ、けれどそれに反発して将来の夢を語る子供の相手はさぞや退屈だっただろうに。嫌な顔一つせず、話を否定せずに聞いてくれる唯一の存在が、あの時の自分にとって何よりの救いだった。
だから、
『大きくなっても、いっしょにいましょうね』
約束してしまったのだ。
人でないモノとの約束が、どんな意味を持つのか分かっていながらも。
「約束はねぇ…どうしようもないからねぇ。しかも、約束果たす前に沈められちゃったからねぇ」
どうしようもない、と少女は繰り返す。
沈められたと言うが、その後の事をよく覚えてはいない。
気づけば生まれ変わり、それから何度も生き死にを繰り返して。その繰り返しの生の中、いつの間にか人の形を取るようになった狐は常に側にいた。特に何かを求める事もなく、始まりの時のように話を聞き、相槌を打つ。
決して離れる事のないその執念が、笑みを形作るその瞳の冷たさが、ただただ恐ろしかった。
「縁切りしたい。狐に怯えなくていい、人生を送りたい」
「切っても…また繋ぐだろうからね。何代か後に、酷い事になってもいいなら、切れる子、連れてくるけど?」
「…遠慮します」
いつの生だったか。
影に揺れる二つの尾について訊ねた事があった。
その時の嬉しそうな、愉しそうな笑みと、戻った狐の丹色の姿は、出来れば二度と見たくはない。
「それがいいよ?人生最短記録を更新したくないもんね」
「余計な事は言わない。大丈夫。ちゃんと覚えてる…同じ事は、繰り返さない」
「その為に残しているからねぇ…っと、こんなもんかな?」
撫でていた手が離れ、顔を上げる。
はっきりと覚えている記憶。曖昧に霞んだ記憶。
それらを確認し、立ち上がると深呼吸を一つ。手を伸ばし、握り、開く。足を上げ、下ろす。小さくも細くもない、筋張った男の手足。
そうして自分の今の姿を正しく認識して、意識を切り替えた。
「いつもありがとうございます。この事はどうか内密に。特に、あの狐には内緒でお願いします」
「分かってるって。夢《ココ》は誰にも覗き見られる心配はないよ。大丈夫大丈夫…じゃあ、いつものように抜き取った記憶《コレ》、もらうね」
手にした紺色の飴を口に入れ、にこにこと少女は笑う。
「相変わらずしょっぱいねぇ…あ、現実《あっち》に戻ったら、藤ちゃんによろしくね?」
「分かりました。ちゃんと伝えておきますね」
手を振る少女に頷いて、目を閉じる。
段々と薄れる意識の中で、どうか明日は平穏にと。
いつものように意味のない祈りを、誰にでもなく呟いた。
20240606 『誰にも言えない秘密』
テーブルと椅子、小さめのクローゼットにベッドがひとつ。
そして壁一面に作り付けられた書架と、それを隙間なく埋めるたくさんの本。
薄暗く狭いこの部屋が、白の少女の世界のすべてだった。
「何か、恥ずかしい…お客様、呼ぶの初めて、だから」
書架に収まりきれず床に積み上がった本を見て、慌てる様子に苦笑する。
「俺の部屋もこんな感じだから、大丈夫」
ぽんぽんと軽く頭を撫で、徐に積み上がった本を一冊手に取った。何処か遠い国の風景を収めたものらしいそれの表紙に触れながら、書架に収まる本の背表紙を視線でたどる。
小説。図鑑。空や風景の写真集。
昼は外に出られない少女の憧れが、そこにあった。
「おばあちゃんがね、よく、買ってくれるの。それから、この上のは、昔の、ここにいた人の」
彼女の背では届かない高さにある本を指差し、そろそろ整理をするつもりだと笑う。
古びたそれらの背表紙のほとんどは難しい文字が並び、どんな内容なのかはわからない。辛うじて読める「薬草」「伝承」の文字から、中身がとても難しいものだと考えられるだけだ。
「シロが生まれる前にも、使ってた人がいたんだ」
「ん。昔からね、私のような子が生まれる事、時々あるって」
その時に使われていたのだと。
自分と同じ、夜にしか生きられなかったであろうかつての誰かを思ってか、浮かべる笑みが僅かに陰る。
それを見て、酷く胸が苦しくなった。
「ねえ」
本を戻し、彼女と視線を合わせる。
「今度、晴れたら星を見に行こうか」
息を飲み、戸惑うように揺れる赤朽葉色の瞳。
笑って小指を差し出せば、おずおずと同じように小指を差し出した。
「約束?」
「そ、約束」
小指を絡め、約束する。
自分にはきっと分からない。
夜しか生きられない苦しみ。朝を待つ事のできない悲しみ。
まるで座敷牢のような狭い部屋《せかい》に、繋がれて生きる事の恐怖を。
だからせめて、夜を憎んでしまわないように。
ほんの僅かな、自分にできる事を。
約束にふわりと咲う《わらう》少女に、そう願った。
20240605 『狭い部屋』
空を駆ける。何よりも疾く、何処までも遠く。
地を這う歪な呼び声が聞こえなくなるまで、只管に。
「やめろ。応えるな」
腕に抱いた小さな温もりが、呼び声に向け腕を伸ばす。声にならない掠れた吐息が、誰かの名を口にする。
「応えるなッ!銀花」
それを許せず、抱く腕の力を強め更に高く翔んだ。
何故、と幾度となく繰り返す。
望みに応える妖の衝動を抑えきれないのは、人の血が混じるからか。だからこうしてすべてに応え、己の身すら差し出すのか。
「銀花。頼むから、もう応えるな」
呼んでも返らぬ声に悲嘆する。
声。左腕。左眼。
失ったものはあまりにも大きすぎた。
「…っ…」
残った右手が頬を撫ぜ、唇が此《コレ》の名を形作る。
声はない。吐息だけが零れ落ちる。
『東風《こち》。大好き』
いつかのあどけなく笑う愛し子の姿を垣間見て、意味もなく苛立ちを覚えた。
「ッやめろ。呼べもしないのに呼ぶな!」
ごめん、と唇が形作る。その悲しげな微笑みに益々苛立ちが募り、頭を胸に押し付けた。
「何でッ!何でこんな…此を好きだと溢したその声を。そんな簡単に差し出したァ!」
分かっている。これは苛立ちではなく嫉妬だ。
好意を告げる声も。求めて伸ばされる腕も。柔らかく笑む瞳も。
嘗てはすべてが此に向けられたものだった。
それを容易く差し出す愛し子が。そして何より奪い去って尚更に求めるあの歪に壊れた化生が酷く憎らしく羨ましかった。
だがそれらを羨む資格がない事も、本当は分かっていた。
愛し子から向けられる恋慕の情を、受け入れる事も拒む事も出来ずに姿を消したのは、紛れもなく此自身なのだと。
「これ以上アレに差し出すな。声を聞くな。姿を見るな…心を傾けるな」
願う言葉は呪詛にも似て。
未練がましい行為に自嘲しながら、地に降りる。
ここから先は鬼の縄張。アレがこれ以上入り込む事はない。
愛し子を下ろし、背をそっと押す。
鬼の夫婦に会うつもりはなかった。会えば酷い言葉しか吐けないだろうから。
何か伝えようと口を開く愛し子を遮るように、風を起こし翔び上がる。
今更ながらの後悔に、ただ声もなく泣いた。
「…何を勝手に話してるんですかィ」
「この仔が悲恋をご所望だからねぇ」
にやりと笑い、膝の上に乗せた綺羅星の頭を撫でる。
思わず眉間に皺を寄せれば、膝の上の綺羅星は困ったように視線を彷徨わせた。
「いや。私、今日は望んでない、けど」
「あァ、綺羅星は気にしないで。悪いのはぜェんぶ旦那だからねェ」
「酷い言われようだこと」
酷いと言いながらも、笑みは崩さない炎に溜息を吐きそうになり既で堪える。これ以上綺羅星を困らせるつもりはなかった。
「この風はねぇ。恋を自覚した瞬間に失恋したと思い込んで性格が捻くれたせいで、こんなになったのよ。面白いでしょう?」
「あ、えっと…ご愁傷様です?」
「旦那。綺羅星を虐めないでくれますかィ」
「この仔を虐めているつもりはないわ。風を揶揄っているのよ」
耐えきれずに溜息を吐く。
これ以上の長居は古傷を抉るだけだ。
声をかけるべきではなかったと、後悔しながら踵を返し背を向けた。
「あ、の…えっと、その人は、今も…その…」
躊躇いがちな綺羅星の声に、足が止まる。
あの日を最後に姿を消した愛し子を思う。
親である鬼の夫婦すら居場所を知らないのだから、つまりはそういう事なのだろう。
「あの子?今も逃げ続けているわよ。風がそう願ったからね」
「…は?」
「生きてるんだ。よかった」
ほっとした様子の綺羅星をぼんやりと眺めながら、今の言葉を思い返す。
炎は、今、何と言ったか。
「風の願いに応えるには、逃げるのが最適だと判断したようね。いつ迎えに行くのかと思えば…気づいてなかったの?」
「…今、あの子は、何処に」
「それくらい自分で探しなさいな」
その言葉が最後まで紡がれるより早く。
風に乗り空高く翔び上がる。
手がかり一つなかろうと構わない。
終わりのない鬼事を終わらせる為、只管に空を駆け抜けた。
20240604 『失恋』
「おにさま」
瞳の金を煌めかせ、腕を伸ばす。
出会った頃より変わらぬ、幼子の強請り方。
一つ息を吐き、逆らう事なくその腕に身を任せ。抱き寄せられた腕の温もりに目を閉じる。
「おにさま、大好きです」
「本当に物好きな童だ。妖と理解した上で、斯様な敬愛を謳うとは」
「妖も人も関係ないです。僕は貴女が好きになったのだから」
嘗ての幼子は時の流れと共に成長し、今や己の背を超え立派な男子《おのこ》となった。それでもどこまでも真っ直ぐな言葉は、己を求めるその腕は何一つ変わらず。
その変わらぬやり取りに、いつしか絆され受け入れていた己に苦笑した。
「まったく…童はこれ以上私に何を望む?」
「貴女の側にいられるだけで十分です…十分、でした」
消え入りそうな、微かな声。
目を開けその表情を窺い見れば、迷うように耐えるように金が揺れている。
相も変わらず己が内を晒す事を恐れる様に、仕方がないと手を伸ばした。
「今更だ。言え」
「でも…」
頬に触れ、視線を合わせ告げる。
それでも尚惑う視線が逸れぬように、顔を近づけ揺れる金を覗き込んだ。
「今まで私に多くを求めてきたというのに、最後の一つは望めぬか?」
「っ、だって…だって、」
泣きそうに譫言を繰り返す。
宥めるように頬を優しく撫ぜれば、その手を取られ。期待と諦めを内包した笑みを浮かべ、口を開いた。
「おにさまの…貴女の名前が知りたいです。僕は貴女とずっと一緒に生きていたい」
思わず、息を呑む。
名を知る事。それがどんな意味を持つのか、お互い知らぬはずがなかった。
「…末恐ろしいな。私の何が良いのやら」
「たくさんありますよ。優しい所。きれいな所。僕の話を聞いてくれる所。頭を撫でてくれる手の温もり。穏やかな声。微笑んだ時の優しい瞳。それから、」
「っもういい。分かった」
止めねば永遠と続くだろう、一切の嘘偽りのない言葉の羅列。気恥ずかしさはあるが、それを厭う思いがない事に自嘲する。
どうやら引き返せない所まで、堕ちてしまっているようだった。
「おにさま。名前、教えてほしいです。そして僕のお嫁さんになってください」
どうやらどこまでも素直になると決めたらしい。
先ほどとは違い、強請るように煌めく金に呆れたように息を吐き空を見上げる。
桜舞う塒の外。空は丁度良く曇天であった。
空を指差し、一言告げる。
「あれが童の求めるものだ」
「空?え、何?」
「これ以上の答えはないだろう?」
「っ、いじわる!」
名を自ら告げる覚悟はない。
ただこのかつての幼子が、いつか知る時が来たのならば。添い遂げる覚悟くらいは持ってやろうと。
悩むその姿に、一人笑った。
20240603 『正直』
雨の音。
さらさらと。しとしとと。鼓膜を揺する。
「あぁ、こんな所にいたのね」
聞き馴染んだ声。
視線を向ければ、見知った彼女の姿。
雨の中、傘も差さず。それでも決して濡れる事のない。
人に似た、けれど人ではない彼女の姿。
「まったく、あの馬鹿は無理ばかりさせるんだから」
腕を引かれ、抱き止められる。そのまま顎を掬われ、唇をなぞり。僅かに空いた口腔に何かを差し入れられて。
「ーーーっ!」
その何かのあまりの苦さに、虚ろいでいた意識が現に戻った。
思わず吐き出そうと口を開きかけるが、それより早く彼女の手が口を塞ぐ。
涙で滲む視界の中、必死で藻掻くが手は離れず。仕方なしに何かを嚥下すれば、満足したように手が離れ優しく頭を撫でられた。
「いい子。少しは楽になったかしら」
「何、あれ…」
「気付け薬。よく効いたでしょう?」
気付け薬。
何故、と問おうとしてふと気付く。
傘も差さず、ずぶ濡れで外にいる事。いつからここにいるのか覚えていない事。昨日の事。その前の事。
ここ最近の記憶が、酷く曖昧だった。
「これに懲りたら、全てに応えようとしない事ね。次は戻って来られなくなるわよ」
「まって、何が…え?」
「覚えてないならいいの…あいつも少し余裕がなかったからね」
「あいつ…彼、が、何…?」
何処か寂しげにも見える笑みを浮かべ呟いた言葉に、ますます分からなくなる。
この記憶の欠落は彼が関係しているのか。今ここに彼がいないのはそれが理由なのか。
問いかけようと口を開き、結局は何も問う事が出来ず。
代わりに手を伸ばして、彼女の頭をそっと撫でた。
「…っ」
「えっと…いい子、いい子…?」
「何よ。まったく…あんたは、本当に」
呆れたような、それでいて泣きそうな声音。
頭を撫でていた手を取られ、そのまま引かれて抱き締められた。
「そういう所、何とかしなさいよ。今回はわたし達が悪いんだから、無闇に甘やかそうとしないの」
「でも理由はある」
「そうよ。だって今更諦めるなんて嫌だもの!代償は払ったつもりだったわ。あの馬鹿も分かっていたのに事を大きくして!しかもあんたに無茶させてるんだから!」
よくは分からないが、記憶にはない所で何か彼に応えてしまったらしい。
取り敢えず彼女を落ち着かせる為、腕を背にまわし優しく撫でる。逆に抱き締める腕の力が強くなってしまったが、背を撫でる手を止めるつもりはなかった。
「うん。ごめんね?」
「取り敢えずで謝るのやめなさい。悪いのはあの馬鹿だから…まあ、馬鹿をしたせいで今こき使われているのはいい気味だと思うけどね」
「彼、こき使われてるの?」
機嫌が幾分か直ったらしい彼女は、にやりと笑い空を指差す。
空は相変わらずの雨。腐らせるのではなく、潤すような優しく静かな雨。
「恵みの雨。今年は豊作になるわよ」
見上げた空の向こう。遥か遠くに黒い龍の姿が霞見えた気がした。
20240602 『梅雨』