sairo

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空を駆ける。何よりも疾く、何処までも遠く。
地を這う歪な呼び声が聞こえなくなるまで、只管に。

「やめろ。応えるな」

腕に抱いた小さな温もりが、呼び声に向け腕を伸ばす。声にならない掠れた吐息が、誰かの名を口にする。

「応えるなッ!銀花」

それを許せず、抱く腕の力を強め更に高く翔んだ。


何故、と幾度となく繰り返す。
望みに応える妖の衝動を抑えきれないのは、人の血が混じるからか。だからこうしてすべてに応え、己の身すら差し出すのか。

「銀花。頼むから、もう応えるな」

呼んでも返らぬ声に悲嘆する。
声。左腕。左眼。
失ったものはあまりにも大きすぎた。

「…っ…」

残った右手が頬を撫ぜ、唇が此《コレ》の名を形作る。
声はない。吐息だけが零れ落ちる。

『東風《こち》。大好き』

いつかのあどけなく笑う愛し子の姿を垣間見て、意味もなく苛立ちを覚えた。

「ッやめろ。呼べもしないのに呼ぶな!」

ごめん、と唇が形作る。その悲しげな微笑みに益々苛立ちが募り、頭を胸に押し付けた。

「何でッ!何でこんな…此を好きだと溢したその声を。そんな簡単に差し出したァ!」

分かっている。これは苛立ちではなく嫉妬だ。
好意を告げる声も。求めて伸ばされる腕も。柔らかく笑む瞳も。
嘗てはすべてが此に向けられたものだった。
それを容易く差し出す愛し子が。そして何より奪い去って尚更に求めるあの歪に壊れた化生が酷く憎らしく羨ましかった。
だがそれらを羨む資格がない事も、本当は分かっていた。
愛し子から向けられる恋慕の情を、受け入れる事も拒む事も出来ずに姿を消したのは、紛れもなく此自身なのだと。

「これ以上アレに差し出すな。声を聞くな。姿を見るな…心を傾けるな」

願う言葉は呪詛にも似て。
未練がましい行為に自嘲しながら、地に降りる。

ここから先は鬼の縄張。アレがこれ以上入り込む事はない。
愛し子を下ろし、背をそっと押す。
鬼の夫婦に会うつもりはなかった。会えば酷い言葉しか吐けないだろうから。

何か伝えようと口を開く愛し子を遮るように、風を起こし翔び上がる。
今更ながらの後悔に、ただ声もなく泣いた。




「…何を勝手に話してるんですかィ」
「この仔が悲恋をご所望だからねぇ」

にやりと笑い、膝の上に乗せた綺羅星の頭を撫でる。
思わず眉間に皺を寄せれば、膝の上の綺羅星は困ったように視線を彷徨わせた。

「いや。私、今日は望んでない、けど」
「あァ、綺羅星は気にしないで。悪いのはぜェんぶ旦那だからねェ」
「酷い言われようだこと」

酷いと言いながらも、笑みは崩さない炎に溜息を吐きそうになり既で堪える。これ以上綺羅星を困らせるつもりはなかった。

「この風はねぇ。恋を自覚した瞬間に失恋したと思い込んで性格が捻くれたせいで、こんなになったのよ。面白いでしょう?」
「あ、えっと…ご愁傷様です?」
「旦那。綺羅星を虐めないでくれますかィ」
「この仔を虐めているつもりはないわ。風を揶揄っているのよ」

耐えきれずに溜息を吐く。
これ以上の長居は古傷を抉るだけだ。
声をかけるべきではなかったと、後悔しながら踵を返し背を向けた。

「あ、の…えっと、その人は、今も…その…」

躊躇いがちな綺羅星の声に、足が止まる。

あの日を最後に姿を消した愛し子を思う。
親である鬼の夫婦すら居場所を知らないのだから、つまりはそういう事なのだろう。

「あの子?今も逃げ続けているわよ。風がそう願ったからね」
「…は?」
「生きてるんだ。よかった」

ほっとした様子の綺羅星をぼんやりと眺めながら、今の言葉を思い返す。
炎は、今、何と言ったか。

「風の願いに応えるには、逃げるのが最適だと判断したようね。いつ迎えに行くのかと思えば…気づいてなかったの?」
「…今、あの子は、何処に」
「それくらい自分で探しなさいな」

その言葉が最後まで紡がれるより早く。
風に乗り空高く翔び上がる。
手がかり一つなかろうと構わない。
終わりのない鬼事を終わらせる為、只管に空を駆け抜けた。




20240604 『失恋』

6/4/2024, 3:07:59 PM