「私ね。大きくなったら……になりたいの」
大きくなったら。
それが少女の口癖だった。
冒険家、花嫁、医師、研究者、小説家。
日によってなりたいものは様々だったが、楽しげに夢を語る少女はいつも輝いているように見えた。
「大きくなっても、いっしょにいましょうね」
幼心で交わした約束を思い出す。
あれはいつの頃だったか。いつもの廃れた神社で話半分に聞いていた時に、油揚げ《好物》と共に言われた言葉。退屈凌ぎにはなるかと、深く考えずにその望みに応えた。
ただそれだけ。これから先も同じような日々が過ぎていくのだと信じていたから。
けれど、
その日を最後に少女は神社へ訪れる事はなく。
最期に見た少女は昏い水の底に、一人きりで沈んでいた。
足を滑らせたのか、沈められたのかは分からない。
引き上げた少女の体は酷く冷たく、水にふやけて表情すら分からない。
何故、と誰にでもなく問う。
なりたいものがあったのではなかったのか。
また明日と笑っていたのではないか。
ずっと一緒にいたいと望み、それに応えたのを忘れたのか。
許さない、と思った。寂しい、と溢した。
小指を喰む。人間が約束を交わす場所を。
どんな形であれ、約束は果たしてもらうつもりだった。最初に望んだのは少女の方だ。それに応えて裂けた尾の責任を取って貰わなければ。
今は常世で眠っているであろう少女が、再び現世に産まれ落ちた時に逢いに行こう。側でその生を見守り、なりたいと望んだものになっていくその様を見届けよう。
その生が終わりを迎え、次の生が来たとしても同様に。何度でも。
その時を想い、裂けた尾が揺れた。
愉しげに、ゆらゆらと。
「というわけでなのです」
「……で?」
相変わらず小さな手桶で水を撒く藤は、話を終えると律儀に手を止めこちらを向いた。
隠そうともしない不機嫌な様子に笑みが浮かぶ。
「いつも変態だの、気持ち悪いだのと言われていましたので。理由をお話しすれば、ワタクシの純粋なこの気持ちを分かって頂けるかと」
「純粋…これが?」
「はい。なりたいものになる前に儚くなってしまったあの子の新たな旅立ちを見守りたいという、純粋で真っ白な気持ちではないですか」
「………」
無言。
数歩距離を取られ、水撒きを再開される。
「無視しないでくださいな」
「五月蝿い。永遠と終わらない旅をこんな変態にさせられる子が可哀想。解放してあげれば」
酷い言われようである。
こちらとしては望みに応えているだけだというのに。
けれど何だかんだと言いながらも相手をする藤の優しさに気分を損ねる事はない。
「酷いですねぇ。あと、やはりそれは効率が悪いですって」
こちらに背を向ける藤の手桶を奪えば、強く睨みつける紫紺の瞳。
「辰砂」
強く呼ばれる名。ぞくりと背が震えた。
「邪魔をするなら、帰れ」
強い光を宿した紫紺。静かで透き通る響きの声音。
たまらなくなり、抱きついた。
「なっ!まっ…!」
「やっぱり、夫婦になりましょう?大事にしますから。あの子の次ぐらいに」
「だからっ、断るって…!」
「だって効率がいいじゃあないですか。すぐ終わりますよ?大好きな人間達が危険に晒されなくなるんですよ?」
「うっ……いや、やっぱり駄目だ。絶対に嫌だ」
一瞬だけぐらついた藤に、くすりと笑う。
この人間と共に生き、愛した藤はきっと気付かないのだろう。
人間の側でその生を見守り続けている藤もまた、己と変わらない事に。
短い生の旅路を見守り、終わりを見届ける。違うのはその対象が一人か数多かという事のみ。
それに気付いた時、一体どんな表情《かお》をするのか。
その日を楽しみに待ちながら、嫌がる藤に頬擦りをする。
数千の刻を生きる、優しく哀れなこの藤の花は今日も気付かない。
20240531 『終わりなき旅』
荒い息。赤い顔。時折溢れる微かな呻き声。苦しげな咳。
やってしまった。
唇を噛み締め、手拭いを変えようと手を伸ばす。先程変えたばかりのタオルは、額の熱ですでに温くなってしまっていた。
「ごめん」
後悔ばかりが押し寄せる。
風邪を引いたのだと、幼馴染の母親は言った。昨夜から熱が下がらないのだと。
自分のせいだ。昨日逢いに行ってしまったから。
せめてもの罪滅ぼしに看病を願い出たが、昨日の事を知らない彼女の母親には気にする事はないと笑って断られた。それでも最後にはどこか嬉しそうに笑われながら許可をもらい、こうして幼馴染の側にいる事を許されている。
「ごめん」
桶に張った水に手拭いを浸し、固く絞る。額にそっと乗せれば、その冷たさに幾分か表情が和らいだ気がした。
「ごめんね」
「…ゃだ」
「しおん?」
微かな声。
いつの間に目が覚めたのか、熱に浮かされた眼差しでこちらを見つめる幼馴染に胸が苦しくなる。
「むりしないで。まだ寝てないと」
「だめ…ひさ、め。ご、めん…めっ、よ」
苦しげな呼吸の合間に紡がれる言葉。
「ごめ、ん、やだぁ」
「ん、でも俺のせいだから」
「や、なの。ごめん、いや…ひさめ、いっ、しょ、いいのっ…ずっと、いっしょ」
ごめんは嫌。ずっと一緒がいい。
熱の為に纏まらない思考で、それでも必死で伝えようと手を伸ばされて。思わずその手を取れば、安心したように微笑まれた。
「分かった。もう言わないから。ずっと一緒にいるから」
「ほん、と?…ふふっ、ひさめ、すき」
嬉しそうに、幸せそうに囁いて、目を閉じる。
「うれし…いっしょ。ずっと。ひさめ。すき。だいすき」
「しおんっ、寝よ?もう、おやすみしよ?」
「ひさめ、は?…すき?」
顔が熱い。きっと今の自分の顔は幼馴染よりも赤いのではと思えるほど。
嬉しさと、それに勝る恥ずかしさに叫びたくなる衝動を堪えながら、呼吸を整え息を吐く。
微睡む幼馴染の耳元に唇を寄せ、囁いた。
「俺も、好き。しおんが大好き」
その言葉に返す声はない。
すうすうと規則正しい寝息が聞こえ、安堵に詰めていた息を漏らす。
まだ顔が熱い。誤魔化すように握ったままの手を額に当てる。
果たして、今日を覚えているのだろうか。
どうか忘れてほしい。でも覚えていてほしい。
相反する思いに苦笑して、そのまま目を閉じ横になる。
手は離さずに、握ったままで。
笑みを浮かべて穏やかに眠る幼馴染の隣で、同じように暫しの眠りについた。
20240530 『「ごめんね」』
緋色に出会ったのは、蝉時雨の降る暑い日の事だった。
「まぁた、変なのが入り込んできたわねぇ」
最初に感じたのは、とても綺麗な人だという事。
鮮やかな緋色の着物を着て、気怠げに煙管をふかす。まるで物語の中から現れたような、とても綺麗な人。
言葉も出ず惚ける私を見て、何が可笑しいのかくすくすと笑う。
「なぁに?変な顔をして。可笑しな坊や」
不意に笑みが消える。
強い光を湛えた鈍色の瞳が、見定めるかのようにこちらを射抜き、そして先程よりも愉しげに弧を描いた。
「だいぶ擦り切れた格好をしているから童男《おぐな》かと思えば。まさか童女《わらわめ》とはねぇ」
擦り切れた格好。
その言葉に自分の今の姿を見下ろしてみる。
よれてだぼついた半袖。擦り切れ穴の空いた短パン。日に焼けた手や足の擦り傷、切り傷。
目の前の綺麗な人を前にして、急に羞恥心が込み上げてくる。
「ぁ…えと、その…ごめんなさい」
「なによ急に。謝ったりなんかして。あなた、悪いコトでもしたのかしら?」
「その…あの、か、勝手に、入って、きた、から…あと、あの、兄さんの、お下がり…き、着て、た、から」
詰まりながら吐き出した謝罪に、どうしようもなく泣きたくなった。兄のお下がりを嫌がる気持ちはないはずなのに、どうしたらいいのか分からない。
見知らぬ場所に迷い込んだ不安と、羞恥心と、劣等感と。
溢れてくる感情に動けず俯く私を見て呆れたのか、綺麗な人は一つ溜息を吐いたようだった。
「まったくもぅ。一旦落ち着きなさいな。それ以上考えた所で、無意味に時間が過ぎるだけよ」
「ごめんなさい」
「それもやめなさい。意図の不明な謝罪ほど無価値なものはないわ…ほら、おいで」
囁く言葉に顔を上げれば、ゆるゆると招く手が視界に入る。
それに誘われるようにその人へと近づけば、抱き上げられ膝の上に乗せられた。
「えっ、あ…」
「本当に馬鹿な仔…まぁ、いいわ。ちょうど退屈していたのよ。勝手に入り込んだ代償に付き合ってもらうわ」
くすり、と微笑んで目を合わせられる。間近で見る鈍色がきらきらと煌めいて、息を呑んだ。
「あなたのようなじゃじゃ馬娘にぴったりな物語をあげましょう。あなたの時間を代償に」
これが、私と緋色の妖の奇妙な関係の始まりだった。
「なにを惚けているのかしらねぇ、このじゃじゃ馬娘は」
頬をつねられ、我に帰る。
「まったく、過去を想うのは夢の中くらいにしておきなさい。時間の無駄だから」
相変わらず緋色は今日も気怠げだ。それでいてこちらを見透かす言葉は何処までも鋭いのだから恐ろしい。
ふと、自分の姿を見下ろして見る。あの時と同じ、半袖と短パン。違うのは、擦り切れた兄のお下がりではない、淡い色合いのリボンがあしらわれた女の子の服である事。
「ねえ、今の私なら、初めて会った時に女の子だって分かってもらえるかな」
「また意味のない事を…まぁ、その格好ならばまず間違えないと思うわよ。格好もそうだけど、肉付きも良くなってきたしねぇ」
愉しげに笑い、頬をまたつねられる。
その手を振り解きながら、そういえばあの頃は随分と痩せていたものだとぼんやりと思った。
「そろそろ、いつものお話を聞かせてよ」
「あなたねぇ…」
呆れたように息を吐かれる。それに対してにこりと笑って見せれば、それ以上何も言われる事はなかった。
「しょうがない。さぁ、今日は何の話が聞きたいのかしら?」
いつもの言葉。
退屈凌ぎに紡がれる物語。
今日もまた遠い世界を夢見て、物語の続きを願った。
20240529 『半袖』
「めんどくさい」
手桶に汲んだ水を撒きながらぼやく。
水に濡れた地が元の色を取り戻していくのを見遣り、そして周囲を見て溜息が漏れた。
辺りを染める黒。どろどろと濁り澱んだ気は村全体を覆い、この行為の終わりを見えなくさせている。
「おや?アナタ様の方が『木』でしたか」
不意に聞こえた声。聞き覚えのある胡散臭いそれに、思わず眉根が寄る。
面倒なのが来てしまった。
関わり合いにはなりたくないが、とはいえ聞こえぬふりも出来るはずもなく。仕方なしに手を止め振り向いた。
「げっ…」
「久方ぶりにお会いしましたもので『花』と間違えてしまいました」
「悪趣味」
胡散臭い笑みを浮かべる宮司が手にしたソレを見て、重苦しい溜息を吐く。
「知人の最期をそのままにはしておけなかったもので。一部だけでも弔おうと思いまして、こうして持ち運んでいたのですが…アナタ様がご無事で何よりです」
心配めいた言葉を吐きながらも、その表情はまだ笑みを浮かべたまま。
面倒ごとに鬱々とした気分になりながらも、手渡されたソレを地面に落とし水を撒く。あちこちにこびりついた黒が溶け、その形すらも溶けていく様を見ながら、早く帰ってほしいと切に願った。
「一部でも問題はありませんか?やはり今からでも残りを持ってきましょうか」
「問題ない」
溶けていくソレは段々に元の、藤の一房に戻り。もう一度水を撒けば、生長する草木の如く広がり姿を変え、己と同じ顔をした童の姿となった。
こちらに一例し去っていく姿を見送って、未だここに留まる宮司に早く帰れとばかりに睨め付ける。
「で?用件は」
「暇だったものですから」
「帰れ!」
思わず叫ぶ。
「今本当に忙しいから!変態似非宮司の相手をしている暇ないの!」
「酷い言われようです。第一、何故アナタ様がこのような手間をかけているのです?雨で流して貰えばよろしいのでは」
それが出来るのならば、疾うにそうしている。
雨の龍はもう此方側には干渉出来ない。村のこの惨状を作り上げた過程の一要因として罰を受けたからだ。
罰ならば仕方がない事ではあるが、そのせいで昼夜問わず文字通り身を削りながら常世の瘴気を流していくのは、正直腑に落ちない所はある。
「あぁ、そういえばあの罪人は龍の血族でしたか。それも罪人以外は既に刈り取られてしまっていたとか」
「分かったならさっさと帰って。終わらないから」
「それならば、いっそ諦めてしまったら如何です?」
軽率に吐き出された言葉に、本日何回目かの溜息を吐く。
早く帰ってもらいたい。宮司と話すと頭が痛くなってくる。
「それは、私にこの地獄に晒されて生きていけ、と?」
「狭間にも一本ぐらいは生えているでしょう?彼方は鬼の方の献身もあり、穏やかではありませんか。此方を地獄とするならば、それこそ天国と呼べるくらいには」
「馬鹿か、お前」
何を勘違いしているのか。此処で根を張る藤の木《私達》は何処にも行けはしないというのに。
それにこのまま常世の瘴気が残り続ければ、この地を訪れる人の子に障りがあるかもしれない。それだけは避けなければならなかった。
手桶を投げつけたくなる衝動を息を吐いて抑えながら、そういえばと先日の事を思い出す。
「…そういえば先日、お前のお気に入りが此処へ来てたね。あの時は藤《私》が側に在ったから障りがないようにしたけど、次はどうなるか」
「あの子ならしっかり言いつけておきましたから、もう此処に来ることはないでしょう」
「どうかな?あの子だいぶ藤の花《私達》を気に入っているようだったし。気になってまた来てしまうかも?」
もし次来たとしても、障りがないようにするだけではあるが。
すっかり静かになってしまった宮司を見遣り、もういいかと踵を返す。これ以上時間を無意味に消化するつもりはなかった。
「待ってください」
腕を掴まれ、たたらを踏む。
振り返れば満面の笑みを浮かべた宮司の様子が目に入り、振り返った事を後悔した。
何か、嫌な予感がする。
「やはり水を撒くよりも雨を降らす方が効率がいいと思います。雨を降らせましょう」
「…どうやって?」
「誠に不本意ではありますが、可愛いあの子のためならば致し方ありません。ワタクシと夫婦になってくださいな」
「断るっ!」
絶対に嫌である。
雨が降る手段と言われようとも。それだけは。絶対に。
たかが数百年しか生きていない童と夫婦になるなど、想像するだけで寒気がする。切にやめてもらいたい。
あぁ、本当にこの子狐は救いようのないほどの馬鹿である。
20240528 『天国と地獄』
「クロノは。何か、叶えてほしい願いとか、ある?」
「…は?」
思わず、彼女の額に手を当てる。
熱はない。
「っバカ!」
いつもと変わらないその様子に、少しだけ安堵する。
「シロが急に変な事を言うから。つい」
はたき落とされた手を伸ばし、機嫌を損ねてしまった彼女の頭を撫でるが、それすらも振り払われて背を向けられた。
繋いでいたはずの手さえも離れてしまう。
「もう、知らない!」
これは完全に臍を曲げてしまったようだ。
さて、どうするか。
悩みはするも、何も思い浮かばず。仕方なしに背中を合わせて座り込む。
「急にどうした?誰かになんか言われた?」
「別に…」
ぽつり、と小さく返される声。
やはり普段とは何かが違う。
何かに影響を受けたのか。それとも、ないとは思うがこちらを気にかけているのか。
「俺が好きでシロの我儘を聞いてるんだ。それを負担に感じた事なんてないよ」
「っ!ワガママ、って。言い方!」
「じゃあ、好奇心が人の形をしてる、とか?」
「ばかっ!」
間違った事は言っていない。
繋いでいる手がいつの間にか引かれ始め、あちこちに連れ回されるのはいつもの事だ。
それでもその答えは気に入らなかったのだろう。合わせていた背中の温もりが離れ、代わりに背中を叩かれる。痛みを感じない、その優しさに思わず笑みが漏れた。
「こら、笑うなっ!バカ、人が、せっかく、っ!」
「だから、気にしてないって」
「私が!気にする!」
思いがけない言葉に、思わず息を呑む。
後ろを振り返らず、手を引く少女が。目に付くもの全てに興味を惹かれ、きらきら輝くその瞳が。繋いだ手の先を見る事などないと思っていた。
「嬉しかったの!外を見れて。いろんな事、知れて。名前、呼んでくれて。だから!何か返すって、決めたのっ!」
紡がれる言葉に、上がりそうになる口角を必死で抑えながら。
振り返り、背を叩いている手を優しく掴む。そのままさっきまでしていたように繋ぎ直せば、幾分か調子を戻した赤朽葉色の瞳が驚いたように瞬いた。
「ツキシロ」
名前を呼ぶ。
「…なあに?」
戸惑いながらも返る言葉に、静かに微笑んで。
「明日も、その次も、こうして手を繋ぎたい。それが俺の願い」
月の名を冠する少女が、空や月に色を溶かしてしまわないように。
大地に繋ぎ止めていられるように願う。
「それだけ?」
「あとは、そうだな…一緒に朝日を見るのを諦めないでほしいな」
それは太陽に嫌われた少女には叶わない願い。
それでも最初から無理だと、諦めてほしくはなかった。
「俺、これからたくさん勉強して、シロが青空の下でも笑える方法を見つけるから。どんなに時間がかかっても諦めないからさ。だから、シロも諦めないで」
「なに、それ…ずるい」
視線を逸らされる。
けれど、手は繋いだまま。
「それが俺の願い。叶えてくれるんだろ?」
月の訪れを乞い願って、白む夜空のように。
白の少女《ツキシロ》に向けて、願った。
20240527 『月に願いを』