「クロノは。何か、叶えてほしい願いとか、ある?」
「…は?」
思わず、彼女の額に手を当てる。
熱はない。
「っバカ!」
いつもと変わらないその様子に、少しだけ安堵する。
「シロが急に変な事を言うから。つい」
はたき落とされた手を伸ばし、機嫌を損ねてしまった彼女の頭を撫でるが、それすらも振り払われて背を向けられた。
繋いでいたはずの手さえも離れてしまう。
「もう、知らない!」
これは完全に臍を曲げてしまったようだ。
さて、どうするか。
悩みはするも、何も思い浮かばず。仕方なしに背中を合わせて座り込む。
「急にどうした?誰かになんか言われた?」
「別に…」
ぽつり、と小さく返される声。
やはり普段とは何かが違う。
何かに影響を受けたのか。それとも、ないとは思うがこちらを気にかけているのか。
「俺が好きでシロの我儘を聞いてるんだ。それを負担に感じた事なんてないよ」
「っ!ワガママ、って。言い方!」
「じゃあ、好奇心が人の形をしてる、とか?」
「ばかっ!」
間違った事は言っていない。
繋いでいる手がいつの間にか引かれ始め、あちこちに連れ回されるのはいつもの事だ。
それでもその答えは気に入らなかったのだろう。合わせていた背中の温もりが離れ、代わりに背中を叩かれる。痛みを感じない、その優しさに思わず笑みが漏れた。
「こら、笑うなっ!バカ、人が、せっかく、っ!」
「だから、気にしてないって」
「私が!気にする!」
思いがけない言葉に、思わず息を呑む。
後ろを振り返らず、手を引く少女が。目に付くもの全てに興味を惹かれ、きらきら輝くその瞳が。繋いだ手の先を見る事などないと思っていた。
「嬉しかったの!外を見れて。いろんな事、知れて。名前、呼んでくれて。だから!何か返すって、決めたのっ!」
紡がれる言葉に、上がりそうになる口角を必死で抑えながら。
振り返り、背を叩いている手を優しく掴む。そのままさっきまでしていたように繋ぎ直せば、幾分か調子を戻した赤朽葉色の瞳が驚いたように瞬いた。
「ツキシロ」
名前を呼ぶ。
「…なあに?」
戸惑いながらも返る言葉に、静かに微笑んで。
「明日も、その次も、こうして手を繋ぎたい。それが俺の願い」
月の名を冠する少女が、空や月に色を溶かしてしまわないように。
大地に繋ぎ止めていられるように願う。
「それだけ?」
「あとは、そうだな…一緒に朝日を見るのを諦めないでほしいな」
それは太陽に嫌われた少女には叶わない願い。
それでも最初から無理だと、諦めてほしくはなかった。
「俺、これからたくさん勉強して、シロが青空の下でも笑える方法を見つけるから。どんなに時間がかかっても諦めないからさ。だから、シロも諦めないで」
「なに、それ…ずるい」
視線を逸らされる。
けれど、手は繋いだまま。
「それが俺の願い。叶えてくれるんだろ?」
月の訪れを乞い願って、白む夜空のように。
白の少女《ツキシロ》に向けて、願った。
20240527 『月に願いを』
数日、雨が降り続いている。
激しさはない。静かな、けれど決して降り止む事のない雨に、大人達は皆険しい顔をして何かを話し続けていた。
傘を差し、参道を歩く。
誰もいない。傘を打つ雨音が鼓膜を揺する。
普段ならば心地良ささえ感じていたはずの雨音が、今日は何故か胸を騒つかせていた。
一礼して鳥居をくぐる。
社前に佇む彼の姿を認め、息を呑む。知らず彼へと向かう足が速くなった。
一人きり。彼女は、いない。
「あぁ、来たんだ」
穏やかで落ち着いた声音。けれどもその声の端々に鋭く冷たい気配を感じて、僅かに躊躇する。
そんな私の様子を見て、彼は小さく笑ったようだった。
「今日は一人だから、逢いには行かなかった。ごめんね」
何で。一体何が。
大人達の話は本当の事なのか。
言葉に出せない感情が、決して聞けない疑問が、ぐるぐると頭の中に浮かんでは消える。
「さて、どうしようか。迎え入れるには早すぎるけれど、折角来てくれたのだから」
「な、に…?」
「おいで」
差し伸べられた手。
誘われるようにして手を重ねると、そのまま手を引かれ抱き上げられた。
「っ?」
取り落としてしまった傘が、ふわりと地に落ち転がっていく。しかしそれを気にする余裕はなく、社の裏へと歩き出した彼にしがみついて、落ちないようにするので精一杯だった。
「あそこ。見える?」
社の裏のさらに奥。禁足地である山の入り口を指差し、彼は問う。
視線を向ければそこには細く古びた道が、山奥へと続いているのが木々の間から見る事が出来た。
「道?」
「あの参道を辿って、奥宮の鳥居をくぐれば境界を越えられる」
「…境界」
境界。神様の住む世界。
話の意図が分からず、ただ彼の言葉を繰り返す。
「あいつは今眠っている。人間に焼かれた傷を癒す為に」
「っ!」
「人間達から聞いていたね。だからこうして逢いに来た」
何の感情も乗らない声音が、逆に彼の怒りを表しているようで。
どうすればよいのか、何を言えばいいのか分からない。
大人達の話は本当だった。
宮司の息子が、雨神様に傷を負わせたと。
そのせいで、宮司の一族も巫女も姿を消した。
だから、
雨は降り続く。二度と止む事はない。
全てを腐らせ、村を沈めて行くのだと。
「逢いたい?」
彼は問う。
いつもと変わらない。彼女と同じように望みを問い、与える。
「逢いたいと望むのならば連れて行く」
いつもと同じ声音。
優しく背を撫でられ、迷うように彼と目を合わせた。
逢いたい。彼女の様子が知りたい。
けれども、人間である私が逢ってもいいのだろうか。彼女も逢いたいと思ってくれているのだろうか。
まだ、望まれているだろうか。
「あのこがあいたいと望んでくれるなら」
口から溢れたのは自分の想いではなく、彼女に判断を委ねた最低な言葉。
けれど、彼にとっては違う意図で受け取られてしまったらしい。
僅かに見張られた瞳が、次にはふわりと微笑みに形取られ。
そっと、地面に降ろされた。
「いい子」
「え?」
「待ってあげる。すべてが整うまで、あと少しくらいは」
頭を撫で、髪紐に触れる。
それは以前、彼女からもらったもの。
「ちゃんと身につけてくれているね。これなら大丈夫だ」
嬉しそうに微笑んで、頭を撫でていた手を離す。そして、懐から何かを取り差し出しされた。
「これは?」
「金平糖」
硝子の小瓶に入った、色とりどりの星のようなそれを渡され、首を傾げる。
彼の言葉と行動の意図は、やはり分からないまま。
「日に一つだけ食べて。そして雨が止むように望むといい」
「え?」
「今のうちから雨の扱いに慣れておいた方が、後々楽になるだろうから」
「扱いに慣れる?なに?」
尋ねても、彼は微笑むだけ。
「そろそろ戻った方がいい。送るよ」
再び抱き上げられて、慌てて小瓶を懐にしまう。
有無を言わせないその様子に、文句よりも諦めが勝る。
こんなやり取りにはもう慣れてしまった。
「しばらくは逢いに来られないから。家でいい子にしていて。特に、ここには来てはいけないよ」
「…なんで?」
「障り《さわり》があるから」
彼の笑みにふと、大人達の話を思い出す。
宮司の息子が、雨神様に傷を負わせたと。
そのせいで、宮司の一族も巫女も姿を消した。
目を閉じて、彼の肩口に凭れる。
聞いてはいけない線引きくらいは、心得ているつもりだった。
20240526 『降り止まない雨』
拝啓 あの頃の私
突然ですが、明日私は結婚します。
あなたがまだ知らない、普通の人と。
夢を見るのはやめました。逃げる事もしなくなりました。
今の私は、愛したその地から遠く離れた街で。
自分の足で立ち、現実を生きています。
鏡の中の自分に向けて微笑みかける。
まだ少し表情が硬い。一生の思い出に残るような、そんな素敵な式にしたいと思うほど、緊張で上手く笑顔が作れなくなってしまう。
こんな時はどうすれば良いか。目を閉じて、幼い頃の記憶を手繰り寄せる。
何かに躓いた時に思い浮かべるのは、いつだって美しい緋色の事だ。常に気怠げで時には辛辣に事実を突きつけ、けれども決して見離さず助言をくれた緋色の妖。退屈凌ぎだと笑い、語ってくれた物語達を今でも覚えている。
緋色の言葉が語られた物語が、そして何より緋色を通じた出逢いの数々が、何度も躓き挫けそうになる自分に手を差し伸べ、導いてくれた。
ふと、昔教えられたおまじないを思い出す。
逢えないものに想いを届ける、それ。子供騙しと笑いながらも、心を落ち着かせるのにはぴったりだと教えてくれた。
立ち上がり、窓へと向かう。そして窓辺に置かれたガーベラの花弁を一枚千切り、窓を開けた。
花弁に口付け、想いを託して。幼い自分に向けて。
あの頃の、夢見る子供だった私へ。
どうか別れの時が来ても、その出逢いを悔やまないで下さい。
現《うつつ》に戻った後の日々を救ってくれたのは、彼らと過ごした時間でした。
臆病な私に寄り添ってたくさんの事を教え、そして最後には背中を押してくれました。
それでも別れを惜しむのならば。独りを恐れてしまうというならば。
その時はどうか、一つだけ望んで下さい。
苦しさも、悲しさも、寂しさもすべて。それがあれば、耐える事ができるから。
『どうか最期の時には褒めてほしい。頑張ったねと頭を撫でて、たくさん褒めてください』
その約束一つで、これからも私は生きていける。
20240525 『あの頃の私へ』
「あら、珍しい。隠居宮司がこんな辺境にまで来るなんて」
「しばらく社に訪れる者などおりませんからね。祭りもまだ先の事ですし」
相変わらず、失礼なモノだ。
豪華絢爛な打掛を羽織り、煙管をふかす姿は退屈さを隠そうとすらしない。
とはいえ、こちらも突然の訪問の負い目くらいはある。胸中で悪態をつきながらも表には出さずに、笑みを貼り付け歩み寄った。
「噂を耳に致しまして。村の者の間でさえ、その噂を話すものですから。これは詳しく聞かねば、と」
「噂、ねぇ。何かしら?」
白々しい。本当に食えないモノである。
「何でも、雨の龍が娘を“隠した”、と」
隠した事に正直、驚きはない。
かつては贄を対価に、望まれ応えてきたはずの存在だ。贄の絶えた現在《いま》、対価として退屈凌ぎに人間を隠す事は今までにも何度かあった。
尤も隠した人間は、すべて常世の瘴気に蝕まれ壊れてしまっていたが。
まあ、問題はそこではない。
「それと風の噂に聞きましたが、今回はどうやら毛色が違うようでございますね。時間をかけて常世の瘴気に慣れさせ、名を与えて“眷属”にしてしまったとか」
「物好きねぇ」
否定はされなかった。つまりはそういう事である。
「珍しい事もあったものです。あの龍が何かに執着を見せるなど」
「そうでもないわ。今回は物事が上手くいっただけのことよ」
「と、言いますと?」
問い掛ければ煙管を燻らせながら、はぁ、と息を吐かれる。
本当に失礼なモノだ。
「執着というよりは、ただ“欲しい”と龍が望んだだけで、それは今までにも何回かあったわ。望まれた人間は応えられなかったけれど。でも今回の人間は龍の望みに応えることができた。ただそれだけよ」
「それは、何とも特異な人間がいたものでございますね」
「元より望むよりも応える方が得意なのよねぇ、あの娘は。とはいえ龍に応えずとも、隠される結果は変わらなかったでしょうけれど」
どこか遠くを見て再び息を吐くその様子は、呆れや哀れみを含んでいるように見える。
確かに気分一つで人間を隠す龍には呆れもするし、隠された人間には同情もする。眷属になる為には相当の苦痛が伴うのだから。
「出会わなければ、人として命を終える事が出来たでしょうに。可哀想な事をするものです」
「それ、出会いも仕組まれていたわよ。何せ娘が産まれ落ちた頃より目をつけられていたからねぇ」
「それはそれは。本当にお可哀想な事です」
結果が変わらないとは、そういうことか。その人間は生まれた時より運がなかったと見える。どう足掻いたとしても、龍からは逃れられないのだから。
「可哀想だなんて、あなたにだけは言われたくないと思うわよ」
じとり、と睨め付けられる。酷いモノだ。
「何故です?ワタクシは人間を隠しても、況してや眷属などしたりはしておりませんよ」
「一つの魂に執着しておいて、よく言えるわねぇ。ここにも常世に行くついでで寄っただけでしょうに」
「おや?バレていましたか」
噂が気になったのも、嘘ではないのだけれども。
「人間としての生を損ねていない分、ワタクシの方がマシだと思うのですがねぇ」
「人間に神と祀られている妖に見初められているのは変わらないわよ。決して逃げられないもの」
三度目の溜息。
まあ、言われてみればそう変わらないのかもしれないが。
「さて、そろそろお暇させて頂きます。今日は退屈凌ぎに付き合って下さり、ありがとうございました」
礼を言えど、もはや興味も失せたのかこちらを見遣る事もない。
それを気にする必要もないかと、それ以上何も言わずに背を向けた。
退屈凌ぎにはなった。後は本来の目的地に行くだけだ。
今は実にもならない魂を想い、笑みが浮かぶ。
次に相見える時を夢想して、裂けた尾がゆらゆらと揺れた。
20240524 『逃れられない』
膝を抱えて蹲る。
今日は一人。この秘密基地の中で一人きり。
風邪をひいたのだと聞いた。
熱が出て、寝込んでしまっているのだと。
だから、このまま待っていても誰もこない。
さて、これから何をしようか。
一人でも出来る事がいい。いつもよりも遠くへ冒険にでも出ようか。それとも、風邪に効く薬草でも探しに行こうか。
いっそ、鬼灯様に会いに行こうか。
ぐるぐると今日の予定を考えながら、それでも体は動かない。
「…うそつき」
仕方がない事。
分かっている。分かってはいるのだけれど。
「やくそく、したのに」
左手の小指を見つめ、唇を噛む。
昨日した約束を思い出す。この場所で、また明日と指切りをした。さようならの前に交わされる、おまじないのような約束。
膝に顔を埋めて目を閉じる。
今日はもう、ここにいよう。この場所で、日が暮れるまで眠る事にしよう。
そうすれば、寂しさを誤魔化せるから。
だから、
「しおん」
待ち焦がれた人の、声。
鼓膜を揺する、優しくて大好きな人の。決してここにいるはずのない。
驚いて顔を上げると、目の前には困ったように笑う待ち人の姿。
いつもと違い、寝巻きの姿。汗だくで、赤い顔で、荒く息をしていて。
気づいてしまえば、込み上げてくる涙を止める事など出来なかった。
「っ、なん、で…!」
「抜け出して、きた。しおん、泣いてる、って、思って。ごめん」
「ばかぁっ!ひさっ、めは、びょうにん、なのにっ。ねて、ないとっ、なのにぃっ!」
「ん。ごめん。だから、帰ろ?」
差し出される右手。その手もまた、熱く。
けれども、手を引く強さも優しさも、いつもと何一つ変わらずに。
「ごめっ、なさぃ。ごめんなさいっ。だからっ、ひさめ、しな、ないでっ。おいてかないでぇっ!」
「死なない。大丈夫。しおん、いい子。泣かないで」
しゃくり上げながら、彼の手を離さないよう必死で握り返していた。
「しおん」
分かれ道の手前。
さようならの前の、約束を交わす小指を差し出して。
「今日は、ごめん。ちゃんと、治すから。だから、また明日」
「っ!うん!また、あした。やくそく」
互いに絡めた小指。交わされた約束に、泣きながらも笑う。
また明日。
まるで魔法のように、未来を約束するこの言葉が、今はただ嬉しかった。
20240523 『また明日』