一度でも大切にされた経験があれば、それを抱えて生きていけるんだ。
もっともっとと欲しがる気持ちを押さえて。
口を押さえて、吐き気をやり過ごす。
私は壁を背に座り込んで呼吸を整えていた。
「そんなに、惨めでしたか」
気落ちした男の声だった。象牙色と今も言うのかは分からないが、彼は男性にしては肌色の薄い彫りのある顔立ちをしている。
彼とは不思議な距離感だった。
手を伸ばせば届くけど触らない。
「そう、だな。自分があまりに情けなくて。慣れてなくて、狼狽えてすまない…」
「はは!なんだ、僕が手を出したのがいけなかったのかと」
明るい声が聞こえた。
「貴方は自分のことを大切にしなさ過ぎだ。別にいいじゃないですか、一度や二度」
「何を言っている」
朦朧とする意識のなかで必死に耐えた。この男はとんでもない色男。
「男と女なんてそんなもんだと父がよく言ってました」
決して今まで触れてこなかった、筋張った手が伸びてくる。
「何があろうが貴方を守る。記憶さえも塗り替えてみせますよ。2度目いっときますか」
うそだろ…と、思う間もなく、壁との間に閉じ込められた。
君と出会って
息が苦しそうだった。
「…何か食べましたか」
彼女は胸のあたりの衣服をぎゅっと握りながら、目線だけが返ってくる。あ、と男は返答が来る前に気が付いた。
「ああ、質問を間違えました。変なものを食べさせられてないか…です」
少しして、彼女の顎が上がる。
「飲ませられたかも…でも吐いたからもう何もないよ」
なんてこと。吐いてもまだ残っているということが、どれほど危険か…。
とりあえず怒りは置いておいて、息が苦しそうな彼女の背にそっと掌を置く。
「くそ、あいつら…」
と、彼女は呼吸の合間に恨み言を言うが…とても弱々しい。
「深く息を吸って」僕に合わせてと、伝える。どうしてこの人がこんなに苦しまなくてはならないのか。
脂汗が滲む中、彼女のすがるような目線は痛くてたまらなかった。
少しして、落ち着いてきたのを見計らい、隣に座る。そっと胸に抱き寄せた。
「や、やめ…」
抵抗する力がない。細い腕は酸素が足りないのか冷たくなり小刻みに震えている。彼女は息がまともに吸えないほど恐ろしい目に遭ったのだ。
「何もしませんよ」
「もうしない!」
一昨日のことを言っているのか。叩かれたような衝撃だった。
「惨めになるから嫌だ」
「貴方を惨めになんてしません」
「やめろ…」
優しくするのをやめてと泣いているかのようだった。
「何もしません。僕の心臓の音聞こえますか。4拍ごとに、ゆっくり呼吸。できますか」
子猫のような抵抗を取っ払い、もう一度、男の胸に、彼女を抱き寄せた。本当に痩せてて悲しくなってくる。
「な、なに…」
「聞こえますか、合わせてゆっくり呼吸を」
その瞬間、部屋の空気は水を打ったように静まり返った。
遠くの風の音。公園の湖の音。森の音。
全てが聞こえてくるようで、彼女の能力に恐れ入る。
彼女のまだ落ち着かない呼吸の裏に、世界に二人だけのような空間が滲む。
誰だって、欲しいと思うわけだ。
「ありがと」
普段の落ち着きが戻ってきた。涼やかな彼女の声が好きだった。
「さっき、変なことを言った…すまない」
「さて、何のことやら」
すっとぼけてから、彼女と目を合わす。少しばかり赤くて、見るなと照れ隠しのように俯く。白い首筋が見えて一昨日の声を思い出してしまった。細い肩の向こうに女が香り少し困る自分がいる。
耳を澄ますと
昨日見た後ろ姿は、まるで汚れきった野良猫。誰にも慈しまれなかった哀れな身体だった。
彼女は傷だらけになりながら、治療もままならずまた出掛けていく。
力尽くで止めることもできた。
部屋の外で泣き出したのが分かって、無力感に苛まれる。
自分では受け止める器にもならないのか。
また深夜に帰ってきて、彼女はやたら疲弊した様子だった。
「おきて、たの」
当然です。そんなに僕は頼れませんか。と言えば気を遣わせてしまうのが分かっていた。
軽く水を飲ませてから、頃合いを見て話しかける。
「髪濡れていますよ」
雨なんて今日は降っていない。
ハンドタオルを出して、座ってと指示をすると、彼女は素直に腰を下ろした。
本当に自分には警戒しないんですね。
座った位置では、貴方を腕で簡単に拘束できる。男に背中を見せるなんて言語道断。
ミントの香りの髪を拭いていく。色が抜けていった髪はほとんど銀髪に近い。
軽く想像してみる。腕を伸ばして彼女を引き寄せて組み敷いたら…。小柄な彼女は簡単に床に転がせる。力付くではなく、ゆっくりと優しく溶かしていけば。余す所なく白い肌に刻むよう触れたら。
突然彼女が立ち上がった。
「もういいよ、ありがとう」
こちらの意図に気付いたんだろうか。本当に繊細な…感の良さ。何か口早に言い訳めいた事を並べ立てて「もう寝るね!」とリビングを出ていく。
でも彼女の呼吸がさっきからどんどん早くなっていた。指先も震えて、胸元を押さえている。
これは、まずいんじゃないだろうか。
2人だけの秘密
雨の午後に、また彼女は全身ずぶ濡れで帰ってきた。
この人はまた傘を持たずに…
「お帰りなさい」
こちらが声を掛けるがまともに目線を合わせない。彼女は何か荷物を持っていた。
女性向けの服だと分かり、買い物でもしてきたのかと手を伸ばすと、渡せないと避けられる。
「これはいいんだ」
暫くしてバスルームから嗚咽が聞こえてくる。問いただすのは簡単だけど、彼女はまた何を抱えてきたんだろう。本来は気持ちに敏感な人。この職に就いてからというもの、今までの生死感は変わってしまった。
優しさだけで きっと
失うのが怖い。
深夜に急に呼び出しが来る。
私は誰かをまた失いそうで飛び起きた。
たまたま取れた2人部屋で急いで、でも細心の注意をしながら身支度をしていたら、大きな腕が伸びてきた。
「こんな夜中にどこへ?」
寝ていると思った…。部屋着の隙間から見える筋肉のついた男性の腕を見ながら答える。
「離すんだ…」
「命令ですか」
命令…。命令したら、置いて行けるのか?
自問していたら、羽織っていた外套ごと、太い腕が回ってきた。
息ができない。
カラフル