何かが頬に当たった。
泥沼に落ちた意識を必死に引き起こす。
まだ、気を失ったらいけないのにどうしても身体は重くて、おなかも重い…。
目を開けても真っ暗だった。
足が燃えるように熱いのに、神経が直接氷に触れているように痛い。
「ここ…」
息も苦しい。
ザリッと、岩肌が崩れる音と感触で急に意識が戻ってくる。
「ばか…なんで今、目を覚ますんだよ」
聞いたことのある幼馴染の声だった。
相変わらずの憎まれ口で、なのに両腕を突っ張って私を守ろうとしていた。瓦礫の間で。
「ヴィル…!?」
目が慣れてきて、見覚えのある赤毛からは汗がポタポタと零れていた。
「くっ…」
盛り上がった肩に、脂汗。とんでもない重量から守ろうとしているのだ。
私は崩れてきた建物に生き埋めになったのだ。この離宮が中から破壊されていく光景を思い出した。
それからの記憶がない。
「私が居なかったら避けれたでしょ」
「ったりめーだ。お前鈍臭いから…くずぐずしてっから…来てやったんだろーが」
最後の方は、言葉に力がない。
なんで私を見捨てなかったの…得意の足の速さで逃れたくせに。涙が零れて、瓦礫に無情に落ちていく。
「ごめんね、ごめんねヴィル…」
「何が!意味わかんねー、泣くなよ!」
キレながらも肩で息をする彼。もう限界なんだ…。
「お前の泣き顔はかわいくねーし、一番いやなんだよ!」
いじめてくる時にいつも言う言葉。
「ごめん…」
私は、血と汗のぬるついた彼の頬に触れた。
雫
「なんで怖がらないんだよ!!」
激昂した友人に肩を掴まれた。男となった大きな手に、確かに恐怖を抱いた。
だけど、こんなに淋しげな目は見たことがない。
彼はいたずら好きで、ムードメーカーで、感が良くて、ずっとそれでも皆の中心にいながら孤独だった人。
「俺は、お前を攫ってきたんだぞ!」
何をされるかわかってるのかと。
血の池に染まる自分を想像した。でも、不思議と怖くない。
彼にとっては何もかも手に入れた女と思われているのかもしれないね。悲しくて、でも息をする度に力が抜けていくの。
何もいらない
妻は毎日、父親の話を息子に聞かせたらしいんだ。
「あなたにそっくりの茶色の髪。優しくて、困ってる人をすぐ助けに行ける人」
料理の下ごしらえを終え、二つある椅子の片方に腰掛け、まだあんよもできない息子に話しかけている。
まだ、小さな彼は離乳食がはじまったばかり。母親はミルクで煮たパン粥を小さな口に入れていく。
「おいちーね」
そして抱き上げた息子にせっせと、あるかないかの英雄譚を聞かせる。
「たーた」
「そう!偉いわ」
彼女は母性溢れる顔をする。
畑に家事に村の仕事に家畜の世話。彼女は毎日忙しそうだ。いったいいつ寝ているんだろう。
そして彼女は小さい小屋を見渡した。
そこに父親の僕はいない…?
そう気付いた瞬間。ぞわりと飛び起きた。
外を見張っていた仲間達が振り向く。
胸に沸き立つ熱い想いを、恥ずかしげもなく言うなら…望郷の想い。執念。
そんなところだ。
もしも未来がみれるなら
敬愛すべき主を失った。
飛竜は次々と落とされ、味方の地上兵は罠にかかり朝方全て捕らえられた。魔道士は術を使うため有無を言わさず顔を破壊される。
動けない主に槍が刺さり、ついには英雄が首を叩き落とす。掲げて雄叫びを上げる人々。
見ていた私は叫んだ。この世界よ滅べとばかりに。
次元が割れる。
呼んでもいないのに命に背いて側兵が飛んできた。別の役目を負っていた1人以外全員現れた。
「お前たちやめろ!!」
いいんです。と、彼らは笑った。
それに、激怒されたんだ…。この世界と、私の世界の神に。
時間軸は揺れ、ひどく頭に靄がかかる。
裁判が掛かる。証言など発言する機会もなく調べだけ進む。証人や弁護人も居ない。
末端の最下級の兵士だから、意味もない…。
不問にするという希有な男が現れる。
「罪人とは」
それを弁護する。
どうか放っておいて。
仲間も失い、世界を手放し、主も首をさらされた。もう何もかも奪われた。このまま静かに死にに行きたいのに、どうして。
「彼女は生きたまま断頭台の湖に落ちました」
「罪を償う旅路は始まったばかりです。永遠に生きる最末端の兵士にこそ最適な罪ではないですか」
お前だったのか。レイン…。
夢色の世界
どれほど地獄に落ちればいいのだろう。
カノンはため息のように呟いた。
「ああ、綺麗だ」
畑は息を吹き返し、作りたての小川は水底の砂利が透き通る。山は新緑に喜び、新たな命は一斉に芽吹き、村は大きくなっていた。
水車小屋は静かに回り家畜小屋や肥料の匂いさえも懐かしい。
1つの季節が巡り、村に命がまた1つ生まれ落ちた。
村の女達に手伝われ、まだ幼い少女は一人の男の子を出産した。
年齢、体格、初産。圧倒的に足りない医療。
こんな状況下で、彼女が生きているのは奇跡に近い。
ただ長時間の陣痛に疲弊しきって、いつ産後熱に掛かるか…。もし何かの感染症に掛かれば命はない。彼女のそばでは元気に泣く薄い茶髪の男児が泣いている。
側にいたい。
側にいられない。
遠い故郷の様子を水晶で見せていてくれた女性の仲間が言った。
「行ってあげたらいかがかしら」
「無理だよ…」
「意気地なしですのね」
戦場を離れるわけには行かないから。なんて言い訳だ。拒絶されるのが怖い。
やっとして、水晶玉が言葉を届けた。妻の声だった。
「カルス」
聞き間違いかと思って、カノンは目を見張る。
「お父さんと名前を一緒に決めたかったけど、仕方ないね。あなたはカルス。この村を救ってくれたすごいお父さんの名前を1字貰おうね」
疲れ果てているはずの妻が、細い手で我が子を抱きたいと手を伸ばしている。
カノンの頬に涙がはたはたと落ちていく。
「これは、帰らなきゃとんでもない雷が落ちますね」
ふふ、と水晶玉を操る女性が言う。
新しい父親は口元を押さえて泣き崩れた。
絶対に絶対に故郷に帰らなきゃいけない…。
桜散る