気付いていたのは自分だけだった。
咄嗟にという言葉を自分が過去から数えて何度使ったか分からないが、少なくとも考えるより先に体が動いたのだ。
巨大な蜘蛛の針が地中から伸びて彼女を突き刺す瞬間、目の前の獣兵から意識を変えた。刀を投げ落とし、彼女の名前を呼んで体当たりをする。
耐え難い痛みが脇腹を貫く。
アドレナリンが出ているうちは痛覚は鈍ると聞いていたがそんなことはない。かなり痛い。
「和樹!」
焦った彼女の声。自分は地面に突いていた手を握りしめる。
熱いというより冷たく神経をえぐる痛みだ。
「ふっく…」
痛みを逃すように息を漏らすたび身体から何かが急速に失われていく。
「ばか」
抱きしめる形になった彼女の薄い腹が震えていた。
蜘蛛は他の白兵が潰していた。横目で見て安心したがまだ油断はできない。
今度は目標を失った獣兵が血だらけでこっちに向かってくるのだ。相当キてる。あれだけ痛めつければ当然か。
「止め刺せよ」
「すいませ…」
もうすでに彼女は冷静だ。自分に押し潰されていた身体を抜き出ると、すぐさま低く飛びながらに2番手の獣兵に襲いかかり仕留めている。どす黒い血が上がる。
回復術師が来てくれたのが音で分かる。顔を向けることさえ出来ないが。彼女は落ちた自分など目もくれず次から次へと善戦していく。
判断力は流石です。いいなぁ。強い。あの人の太刀筋に惚れ惚れとする。
「蜘蛛からわざと受ける気でしたね、許しませんよ…」
戻ってきた彼女に呟くと、血のりだらけの険しい顔が一瞬、意外そうに目のまん丸な幼い顔になった。
「許さないか」
「そうですよ…」
「あまり喋るな」
そう言われたらもう黙るしかない。惜しい。彼女はもう戦士の顔に逆戻りだ。色素の薄い髪が顔に張り付き唇がやたら目立つ。
高い咆哮が空気を変えるように広がった。
耳の奥がツンと痛くなり、手足の先まで冷えて震える。和樹は短刀を握り込んで身体を硬くする。使い込んだ師の刀身はギシッと鳴りながら掌に馴染んだ。
両隣の重騎士が地面を唸らせ前進したのが見えた。直後、前方から熱風が吹き荒れる。
2人の重騎士が大きな盾で全体を守ったのだ。それでも漏れ出した熱は肌を焦がす。
「熱っっ」
後ろから少年の声が聞こえてくる。
敵の攻撃を正面の陣形で正確に迎え撃てる。和樹は指揮官の強さを噛みしめた。
「行くぞ」
「うん」
自分より10も下の少年が脇をすり抜け飛んでいった。
「ミホ重い」
「カズト、女子に対して失礼だな君は!」
私は彼の自転車の後ろに乗せてもらっておいて叫んだ。
「いやマジで重いって。代われ」
「下り坂になったらね」
「くそが」
とか言いながら、2人分のカバンをかごに入れて、半立ちこぎでゆるい坂をこいでいく。
春から私達、別の高校なんだよ。分かってるの君。
背中もいつの間にかデカくなって、腕の筋肉が盛り上がっててドキドキする。なんだかんだ文句言いながら乗せてくれるんだよね。
ちょっと胸が切ない。でっかくなりやがってこの、なんて。お母さんの心境かなーと思い込むことにした。
小雨の降り出した夕方だった。
昔ながらの民宿で、客は自分ひとり。
女将がメインのメバルの煮付けと小鉢を持ってきて、サービスだとレトロなビール瓶を年季の入った机に置いた。
年季の入った…とはいくらかぼかして表現している。経営状態はあまりいいとは言えそうにない。
傾いた看板。効きの悪いクーラー。換気扇の音が食堂にまで聞こえてくる。
「珍しいっすね」
自分はありがたく頂いた。冷やされたグラスがキンと心地いい。年に何度か釣りのために足を運ぶがこんなサービスは初めてだった。
寂れかけた小島の民宿は自分からみたら風流だが、今は皆、自粛だとか海外だとかで足がどんどん遠のいているらしい。
(潮時かね)
仕事の合間を縫って通うのを気に入ってはいるのだが。
今日は朝からレンタルしたボートで沖に出たが坊主だった。(船舶免許は小型の二級を大学時代にノリで取った)
女将はよく陽に焼けた顔でがははと笑う。
「まぁ長くおいでるとかんがなぁ」
おそらくそんなようなことを言われた。
ほろ酔いで布団に入り、虫の声が一層にぎやかになってきた深夜だった。
夜風にカーテンがふわりと舞う。
「遅くに申し訳ありません。あの時助けて頂いたイソガニでございます」
鈴蘭の水色の着物を着た美人が枕元で正座をしていた。
柔らかな体に触れる。
胸がうずくほどきめが細かくてさらりとした触り心地だった。
細い身体が飛びついてくる。
白い花のような香りがして、その後に甘い。
信じられないほどに心が乱されて、ひどく乱暴に抱き返した。子猫のような悲鳴に似た声が上がったけれど、黙らせるように口を封じる。唇の柔らかさを堪能した。彼女の香りが一層強くなる。待ち震えていたのか、薄い舌先を探り呼吸ごと吸い上げた。
すぐに苦しげに抗議しだして軽く殴ってくるけど、彼女の弱いところを撫でさすると、腕の中で溶けるように大人しくなっていった。