明日、もし晴れたら。
これが真夏ではなく、風があって程良く涼しい季節であったなら、喜んで外に出るだろう。
クーラーの効いた部屋から見上げる夏空は気持ちよさそうな青色をしているが、実際に出てみれば日差しは厳しく、肌が灼けつくことは間違いない。
アスファルトに反射される熱気と、むわっとする湿気からは逃れられない。じんわりと汗ばんでは、肌や服にベタついて不快指数も上がる。
なんでもないような季節なら、明日も晴れたら嬉しいと思うだろう。けれど、酷暑日となるなら晴れてほしくはない。せめて曇りが多く出ていればまだいいのに…と思ってしまう。
もしかしたら、地球は長い長い年月をかけて、これから滅亡に向かっていくのかもしれない。地球温暖化によって、こうして少しずつ少しずつ進んでいってるのかもしれない。
人類を始め、あらゆる生物がこうして厳しい暑さに強く進化していくのか、それとも最後は自然淘汰されてしまうのか。それは地球も分からないだろう。
全ては、神のみぞ知るところである。
誰もいない家に、1人で思うままに過ごすことが何よりも大好きだ。
誰にも気遣うことなくリラックスできるし、時間も何しようとも縛られない。
それがキッチンやリビングであれば何でもできるし、自分の部屋ならいくら寝転がっていても自由だ。
初めて一人暮らしをした時は、最高の環境で一番ホッとできる居場所がここにある-と安心したものだ。
けれど、誰かしら1人でも増えると、それは私だけの空間ではなくなる。同じ部屋にいて、それぞれが自由に過ごしたって構わない。しかし、それがずっと続くととても窮屈に感じられてしまう。
私は1人の時間、そしてそれは必ず誰もいない空間を必要としている。そういう性分なのだから仕方ない。
家族が眠りにつく頃、ほんの短い時間だが私はひっそりとリビングで一人の時間を楽しんでいる。
一日のうち、1人の時間は必ず確保しておきたい。
それがあることによって、心の余裕が持てるようになり、周りの人にも優しくすることもできる。
それは私にとっても、精神的なメリットが得られると思っている。
だから、1人でいたい。
自由な時間と空間さえあれば、それだけでも幸せ。
純粋で澄んだその瞳の中に、わたしがいる。
初めて顔合わせた時の喜びは一生忘れないし、出会えたことも私にとっても大切な思い出。
甥姪たちからは「どうして、耳が聞こえないの?」
そんな疑問がわくようになった頃には、何度も何度もそうして聞かれた。
昔から会ってる子には「ねぇねぇ、子どもはいないの?」と聞かれた時は、その子の母親と目を合わせては苦笑した。
「この子がそんなこと言うの初めてで、私もビックリしたわ…」
もし、この場に私の子どもがいたなら、きっと遊び相手になってくれただろう。
どの子も、目を合わせるたびに、私の大好きな気持ちが相手に伝わっているといいな。
あなたは愛されている。みんなにも愛されている。
「自分は愛されている」ということに揺るがない、その澄んだ瞳が私は大好きだ。
私の大好きな子ども達の人生が、これから先も幸多く充実としたものでありますように。
あわよくば、澄んだその瞳もいつまでも忘れないでいて欲しいと願う。
色々な事を体験し、たくさんのことを吸収して、そしてどのような人間に育つのか。
これからが楽しみだ。
私にとってのお祭りとは、花より団子、すなわち屋台である。
屋台で出された食べ物の思い出が数年分、色々とあるのだが、総じて良い思い出だったかというと実はそうでもなかった。
元来食べるのが遅い私には、かき氷はハマらなかった。ただ冷たくて、味もそんなになく、最後は水っぽくなり、どこが美味しいのか分からない。
しかし家族や友人達は真っ先にかき氷を欲し、一口ずつ食べては頭がキーーンと痛むことすら楽しんでる節さえあった。
初めて自分のお金で買えた唐揚げは、人にぶつかって落としてしまった。…無性に悲しくなって、そのままゴミ箱へ持っていった。
また、幼心ながらに(人とは好みが違うな)とその時初めて感じた。例えばりんご飴よりはいちご飴だったし、焼きそばよりはたこ焼きの方が好きだった。
人混みも昔は平気だったのだが、だんだんと億劫に感じるようになってからは、お祭りにも随分長いこと行っていない。
ただ、もしお祭りに行くなら、自分と同じ好みを持つ人の方が楽しく過ごせるのではないかと思う。
なんだかんだと愚痴る形になってしまったが、最後はポジティブに締めたい。
というわけで、誰かベビーカステラをお土産に買ってきてくださいな。良いお祭りを!
神様が舞い降りてきて、こう言った。
スピリチュアルなものは好きだ。
特に、前世だったり、お空の上のことだったり、そういったものの不思議なことに惹かれる。
神社には行くし、お寺もお参りしたことはあるけれど、宗教としては全く信仰心は持たない。
強いて言うならば、八百万の神様が日常の中でそこらじゅうに在る。
そういう、全てのものには神は宿るといったものの方がまだ信じられる気がする。
さて、神様が舞い降りてきて、こう言った。
いくらスピリチュアル好きな身であっても、霊感もそれらしき能力は何も持たない。しかし、私には夢を通してメッセージ貰ってるような気がするのだ。
ある日の夢では、顔の見えない女性から、これまた顔だけがぼやけて見えないけれど、赤ちゃんを手渡されて抱っこしていた。
直感的に、この子は“友達の赤ちゃん”だと思った。
また、別の日には前回の夢とは違うけれど、こちらに背を向けたまま、テーブルに手をつき立ち上がろうとしてる小さな子がいた。
この子も、私の子ではなく、“友達の赤ちゃん”だと夢の中ではそう認識していた。
それからしばらくして 、二人の友人から それぞれご懐妊の吉報を受けた。
どちらが、どちらの夢の子なのかは分からない。
でも、夢の中で出てきたということは、
(必ず、元気に産まれてくる。)根拠のない自信さえあった。
印象深く残る夢のほど、時々こうしてメッセージをくださることがある気がしてならない。
それぞれの子どもに会えた時にはもう2才になっていたのだが、出会うととびきりの笑顔を見せてくれた。
それだけでもう充分である。
神様、私からもお返事させていただきます。
無事に産まれてきてくれてありがとう。